郵便不正に関する事件は検事の逮捕にまで発展しました。強い権力を持ち、正義の味方である筈の検察が証拠改ざんというとんでもない不正義を行っていたことがバレたわけで、これ以上の大恥はないでしょう。前田検事に続き逮捕された大坪前部長と佐賀前副部長のお二人は最高検と相争うという「仲間割れ」状況であり、まさに恥の上塗りの感があります。
この内輪もめの内容はいろいろいと報道されていますが、双方の言い分に食い違いがあり、本当のところはわかりません。ただ何人かが嘘をついていることは確かです。検事は他人の嘘を暴くのが仕事だと思っていたのですが、自らも嘘をおつきになることがわかりました。
また証拠改ざんという衝撃の大きい事件であるために、上司お二人の逮捕は最高検が国民の怒りを鎮めるためにささげた生贄という意味があるような気がします。その点、お二人にはたいへん不運なことです。
余談はこれくらいにして本題に入ります。検察は村木厚子氏の関与がなかったことを知りながら罪人に仕立て上げようとしたことが強く疑われています。これは市民の生命を守る警官が実は殺人者であったり、信じていた神父が実は悪魔の手先であったようなようなものです。
この事件では上村氏など複数の関係者の供述調書に村木氏の関与を示す記述があったとされています。これらはその後の証言で否定されましたが、それにしても関係者から予定されたストーリーに沿う供述を取る能力の高さに改めて驚きます。11日の新聞には大阪地裁の公判で別の検事が脅迫的な取調べをしていた疑いが浮上とありましたが、なるほどと深く納得した次第です。
反面、依頼したとされた石井議員の依頼日時の裏を取っていなかったことや、捜査報告書には偽証明書作成の日付が正しく6月1日と検察側の構図と矛盾したことが書かれ、それに初めて気づいたのが村木氏本人であったことが明らかにされました。
この事件で明確になったのは証拠改ざんやその犯人隠避だけではありません。無理やり供述調書を作る場合の検察の素晴らしい能力と、緻密な論理で事件を解き明かす場合の低い能力の両方を天下に知らしめました。これらも負けず劣らず深刻な問題です。そして事件のポイントとなった偽証明書作成の日付に初めて気づいたのが、検察側でも弁護側でもなく、素人である村木氏本人であったことも重要な意味を持ちます。
もし被告人が村木氏のように自ら矛盾を発見できる有能な人でなかったなら、結果は有罪となっていたかも知れません。これは司法全般への信頼が揺るぎかねない問題を含んでいます。エリートといわれる特捜部が手がけ、世間の注目を浴びた事件でさえこの程度のいい加減さならば、関係者以外には知られることのない多くの事件ではさらにいい加減ではないか、と疑われるのが自然の成行きです。日本の司法は精密司法であると法曹関係者は自慢していましたが、どこが精密なのでしょうか。
司法制度改革によって裁判員制度、法曹人口の大増員などが実現しました。司法という壮大な建築物は民主化という飾りを施され、見かけだけはよくなりました。しかしいつの間にか土台が腐っていたことが明らかになりました。一部だけが腐っているのか、あるいはさらに広い範囲が腐りかけているのか、わかりませんが。
例えばの話ですが、裁判員でなく素人の「検察員」を検察に送り込めば少なくとも取調べの可視化をしなくても脅迫的な取調べを防げます。素人の裁判員でも複雑な事件の全容を十分理解し適正な判決を下すという難しい作業ができるとされているわけですから、素人は検事の仕事ができないとは言えないでしょう。
司法改革はさほど大きな欠陥があったわけでもない裁判制度を改変し、裁判に素人の裁判員を参加させました。しかしそれは大きな見当違いであって、本当に改革が必要であったのは検察ではなかったのでしょうか。
この内輪もめの内容はいろいろいと報道されていますが、双方の言い分に食い違いがあり、本当のところはわかりません。ただ何人かが嘘をついていることは確かです。検事は他人の嘘を暴くのが仕事だと思っていたのですが、自らも嘘をおつきになることがわかりました。
また証拠改ざんという衝撃の大きい事件であるために、上司お二人の逮捕は最高検が国民の怒りを鎮めるためにささげた生贄という意味があるような気がします。その点、お二人にはたいへん不運なことです。
余談はこれくらいにして本題に入ります。検察は村木厚子氏の関与がなかったことを知りながら罪人に仕立て上げようとしたことが強く疑われています。これは市民の生命を守る警官が実は殺人者であったり、信じていた神父が実は悪魔の手先であったようなようなものです。
この事件では上村氏など複数の関係者の供述調書に村木氏の関与を示す記述があったとされています。これらはその後の証言で否定されましたが、それにしても関係者から予定されたストーリーに沿う供述を取る能力の高さに改めて驚きます。11日の新聞には大阪地裁の公判で別の検事が脅迫的な取調べをしていた疑いが浮上とありましたが、なるほどと深く納得した次第です。
反面、依頼したとされた石井議員の依頼日時の裏を取っていなかったことや、捜査報告書には偽証明書作成の日付が正しく6月1日と検察側の構図と矛盾したことが書かれ、それに初めて気づいたのが村木氏本人であったことが明らかにされました。
この事件で明確になったのは証拠改ざんやその犯人隠避だけではありません。無理やり供述調書を作る場合の検察の素晴らしい能力と、緻密な論理で事件を解き明かす場合の低い能力の両方を天下に知らしめました。これらも負けず劣らず深刻な問題です。そして事件のポイントとなった偽証明書作成の日付に初めて気づいたのが、検察側でも弁護側でもなく、素人である村木氏本人であったことも重要な意味を持ちます。
もし被告人が村木氏のように自ら矛盾を発見できる有能な人でなかったなら、結果は有罪となっていたかも知れません。これは司法全般への信頼が揺るぎかねない問題を含んでいます。エリートといわれる特捜部が手がけ、世間の注目を浴びた事件でさえこの程度のいい加減さならば、関係者以外には知られることのない多くの事件ではさらにいい加減ではないか、と疑われるのが自然の成行きです。日本の司法は精密司法であると法曹関係者は自慢していましたが、どこが精密なのでしょうか。
司法制度改革によって裁判員制度、法曹人口の大増員などが実現しました。司法という壮大な建築物は民主化という飾りを施され、見かけだけはよくなりました。しかしいつの間にか土台が腐っていたことが明らかになりました。一部だけが腐っているのか、あるいはさらに広い範囲が腐りかけているのか、わかりませんが。
例えばの話ですが、裁判員でなく素人の「検察員」を検察に送り込めば少なくとも取調べの可視化をしなくても脅迫的な取調べを防げます。素人の裁判員でも複雑な事件の全容を十分理解し適正な判決を下すという難しい作業ができるとされているわけですから、素人は検事の仕事ができないとは言えないでしょう。
司法改革はさほど大きな欠陥があったわけでもない裁判制度を改変し、裁判に素人の裁判員を参加させました。しかしそれは大きな見当違いであって、本当に改革が必要であったのは検察ではなかったのでしょうか。