かつて、狸や狐に化かされた話がよくありました。騙(だま)された者の愚かしさも笑い話として楽しまれたものです。また現金輸送車が白バイ警官に化けた犯人に爆弾が仕掛けられていると騙され、3億円を積んだ車をまんまと乗り逃げされた3億円事件ではあまりにも見事な「騙し」に拍手を送りたくなりました。
一方、ユーモアや鮮やかさとは無縁で、悪質なずる賢さだけが取り柄の「騙し」もあります。東電OL殺人事件で、ネパール国籍の人間を無期懲役にした検察による「騙し」の手口がそれです。
先日、再審請求が認められ、再審を待たずして釈放されることになりましたが、事件当時、被害者の体内に残された体液のDNA鑑定を実施しなかったことや、別の遺留物に関する被告人に有利な鑑定書を隠していたことがバレて、検察の汚い手口が明らかになりました。もっとも不都合な証拠を隠すというアンフェアな習性は検察の伝統であり、以前から心ある人々によって指摘されてきました。
有罪に持ち込むのに不都合な事実を隠すことは裁判所を騙す行為であり、嘘をつくことと同じです。恣意的に選別された情報からはまともな判決は得らないでしょう。これをさらに前向きに、積極的にやったのが証拠を勝手に改変した村木事件なのでしょう。改変の証拠を見つけられ、自ら墓穴を掘ったいうわけです。
不都合な事実を隠すことと、証拠を捏造することはどちらも裁判所を騙すという点で同じです。異なるのは前者はバレた時「気がつかなった」という言い逃れが可能で、後者は「犯意」が明確になることだけです。両者の違いは手段の優劣であり、罪の深さに大きな違いはありません。したがって利口な人間は安全な前者を採用します。
不都合な事実を故意に隠す、つまり広義の嘘つきは検察だけでなく多くの分野で行われています。できるだけ使わないように心がけていますが私も相手によっては使うことがありますし、マスコミはもちろん、本や学術論文でもその主張にとって都合の悪いことはしばしば隠蔽されます。もし故意の隠蔽が見つかれば、その本や論文の著者の誠実さが疑われ、信用度を計る目安になります。
しかし検察がこのような嘘をつくことは大きい問題です。それが人の生死にもかかわる問題であるだけではありません。社会正義を守るという立場ゆえに強い権力を与えられの者が嘘をつくことは、警官が強盗をする、教師が婦女暴行を働く、あるいは神父が子供に性的虐待をする(かつてアメリカで大流行しました)などと同じようなものです。
証言においても一部を隠すことが偽証罪に問われることはまずありません。知らなかった、忘れていたといえばそれ以上追求することは困難であるからです。しかし故意に隠すことは嘘と同じ重さの意味があります。
私が不思議に思うのはこの検察による故意の証拠隠しに対する非難があまりにも弱いことです。一部を隠すという消極的な嘘とはいえ、人を騙すという目的では同じである以上、倫理的な立場からの厳しい非難があってもよいと思います。とりわけ検察のように組織として行なわれるものに対しては。
厳しい非難を執拗に繰り返せば消極的な嘘であっても嘘には違いないという認識ができ、安易に使われにくくなるでしょう。賞味期限や産地偽装などたいした問題とされていなかったものが執拗なバッシングによって重要な問題とされたように。賞味期限のようなどうでもいい問題で大騒ぎするヒマがあるのなら、嘘つき検察を取り上げてほしいものです。
再審決定のすぐ後、検察は異議を申し立てたそうですが、往生際の悪いことです。恥の上塗りになることでしょう。彼らが「恥を知る」人間であればの話ですが。
朝日が原発反対という主張のために都合の悪い事実を隠して報道したことは前回の記事で述べました。マスコミが検察の証拠隠しに寛容なのは、自分たちも常に同じことをやっていて、強く非難できないためではないかと想像する次第であります。
一方、ユーモアや鮮やかさとは無縁で、悪質なずる賢さだけが取り柄の「騙し」もあります。東電OL殺人事件で、ネパール国籍の人間を無期懲役にした検察による「騙し」の手口がそれです。
先日、再審請求が認められ、再審を待たずして釈放されることになりましたが、事件当時、被害者の体内に残された体液のDNA鑑定を実施しなかったことや、別の遺留物に関する被告人に有利な鑑定書を隠していたことがバレて、検察の汚い手口が明らかになりました。もっとも不都合な証拠を隠すというアンフェアな習性は検察の伝統であり、以前から心ある人々によって指摘されてきました。
有罪に持ち込むのに不都合な事実を隠すことは裁判所を騙す行為であり、嘘をつくことと同じです。恣意的に選別された情報からはまともな判決は得らないでしょう。これをさらに前向きに、積極的にやったのが証拠を勝手に改変した村木事件なのでしょう。改変の証拠を見つけられ、自ら墓穴を掘ったいうわけです。
不都合な事実を隠すことと、証拠を捏造することはどちらも裁判所を騙すという点で同じです。異なるのは前者はバレた時「気がつかなった」という言い逃れが可能で、後者は「犯意」が明確になることだけです。両者の違いは手段の優劣であり、罪の深さに大きな違いはありません。したがって利口な人間は安全な前者を採用します。
不都合な事実を故意に隠す、つまり広義の嘘つきは検察だけでなく多くの分野で行われています。できるだけ使わないように心がけていますが私も相手によっては使うことがありますし、マスコミはもちろん、本や学術論文でもその主張にとって都合の悪いことはしばしば隠蔽されます。もし故意の隠蔽が見つかれば、その本や論文の著者の誠実さが疑われ、信用度を計る目安になります。
しかし検察がこのような嘘をつくことは大きい問題です。それが人の生死にもかかわる問題であるだけではありません。社会正義を守るという立場ゆえに強い権力を与えられの者が嘘をつくことは、警官が強盗をする、教師が婦女暴行を働く、あるいは神父が子供に性的虐待をする(かつてアメリカで大流行しました)などと同じようなものです。
証言においても一部を隠すことが偽証罪に問われることはまずありません。知らなかった、忘れていたといえばそれ以上追求することは困難であるからです。しかし故意に隠すことは嘘と同じ重さの意味があります。
私が不思議に思うのはこの検察による故意の証拠隠しに対する非難があまりにも弱いことです。一部を隠すという消極的な嘘とはいえ、人を騙すという目的では同じである以上、倫理的な立場からの厳しい非難があってもよいと思います。とりわけ検察のように組織として行なわれるものに対しては。
厳しい非難を執拗に繰り返せば消極的な嘘であっても嘘には違いないという認識ができ、安易に使われにくくなるでしょう。賞味期限や産地偽装などたいした問題とされていなかったものが執拗なバッシングによって重要な問題とされたように。賞味期限のようなどうでもいい問題で大騒ぎするヒマがあるのなら、嘘つき検察を取り上げてほしいものです。
再審決定のすぐ後、検察は異議を申し立てたそうですが、往生際の悪いことです。恥の上塗りになることでしょう。彼らが「恥を知る」人間であればの話ですが。
朝日が原発反対という主張のために都合の悪い事実を隠して報道したことは前回の記事で述べました。マスコミが検察の証拠隠しに寛容なのは、自分たちも常に同じことをやっていて、強く非難できないためではないかと想像する次第であります。