米国では丸腰の黒人を射殺したり、首を絞めて死亡させた警察官が不起訴になるケースが相次ぎ、各地で騒動が発生しています。起訴するかどうかは市民で構成される大陪審が判断するそうです(裁判で有罪無罪を決めるのは小陪審)。
不起訴ということは裁判で黒白を決める必要もないと判断されたわけです。とすれば無罪の明白な理由があるはずですが、不起訴の理由は非公表なのでわからない仕組みになっています。
ここで、問題とされるのは大陪審を構成する人種割合で、白人が多数を占めれば黒人に不利な判断がなされるのではないかという懸念は以前からありました。教育訓練を受けていない一般市民は感情や偏見に影響されやすいのではないかという懸念です。一般市民の判断は職業検察官に比べ、信頼に足るのでしょうか。
米国の裁判は12名による陪審員制(小陪審)が採られていますが、被告には陪審員制の裁判と職業裁判官による裁判を選択する権利が与えられています。第30回司法制度改革審議会配布資料には以下の記述があります。
『アメリカ,イギリスにおいても,陪審裁判が行われている事件は極めて限定されている。アメリカにおいては,民事について,連邦地方裁判所において陪審裁判により終局した事件の全終局事件に占める割合は1.7%,刑事について,陪審裁判により終局した事件の全終局事件に占める割合は5.2%である』
英国では民事、刑事ともに1%未満であり、英米ともほとんどの被告が職業裁判官による裁判を選んでいる現状で、陪審員制が信頼されているとはとても言えません。
ところがわが国ではこの英米の陪審員制をお手本として、裁判員制度が導入されました。司法に民主主義を導入するため、あるいは職業裁判官より素人の判断が正しいという理由がつけられました。英米では信頼を失っている制度をなぜかわざわざ導入したというわけです(一部改変して)。
司法制度改革を主導した人達には民主主義に対する信仰のようなものがあったと思います。主権者である一般市民が被告を裁くことが民主主義であり、その判断が正しい筈だという信念があったようです。「(裁判員制度によって)得られた判決というのは、私は決して軽くもないし重くもない、それが至当な判決である」との但木敬一元検事総長の断定的かつ極端な発言は信仰心から生まれたものでしょう。少なくとも科学の領域のものではありません。
民主主義では主権者は国民です。しかしだからといって安全保障や外交、財政などの重要な問題を寄せ集めの市民の判断に委ねることは行われていません。それとも裁判ごときは素人の判断で十分というのが本心なのでしょうか。
有識者会議というものがあります。重要な問題があるとき、知識を持つ人を集めて最善の判断をするためのものです。この言い方に従えば、市民を集めた陪審は無識者会議ということになります。
他にも司法制度改革では司法試験合格者を毎年3000人と決めましたが、合格者の質の低下、弁護士の失業が問題になり、現在は2000人前後に留まり、さらに減らす必要も議論されています。乱立した法科大学院など教育制度の問題も深刻です。極端な増員が様々な問題を引き起こすことは容易に予測できましたが、彼らにだけは予測できませんでした。おそらく信仰・盲信のために現実が見えなかったのでしょう。信仰とはそういうものですが、信仰のない我々には大変迷惑な話です。
このような大失敗に対し、誰も責任を取らず、批判されることすらないとはまことに寛容な世の中です。食品に虫が混入する方がはるかに大事件のようです。
不起訴ということは裁判で黒白を決める必要もないと判断されたわけです。とすれば無罪の明白な理由があるはずですが、不起訴の理由は非公表なのでわからない仕組みになっています。
ここで、問題とされるのは大陪審を構成する人種割合で、白人が多数を占めれば黒人に不利な判断がなされるのではないかという懸念は以前からありました。教育訓練を受けていない一般市民は感情や偏見に影響されやすいのではないかという懸念です。一般市民の判断は職業検察官に比べ、信頼に足るのでしょうか。
米国の裁判は12名による陪審員制(小陪審)が採られていますが、被告には陪審員制の裁判と職業裁判官による裁判を選択する権利が与えられています。第30回司法制度改革審議会配布資料には以下の記述があります。
『アメリカ,イギリスにおいても,陪審裁判が行われている事件は極めて限定されている。アメリカにおいては,民事について,連邦地方裁判所において陪審裁判により終局した事件の全終局事件に占める割合は1.7%,刑事について,陪審裁判により終局した事件の全終局事件に占める割合は5.2%である』
英国では民事、刑事ともに1%未満であり、英米ともほとんどの被告が職業裁判官による裁判を選んでいる現状で、陪審員制が信頼されているとはとても言えません。
ところがわが国ではこの英米の陪審員制をお手本として、裁判員制度が導入されました。司法に民主主義を導入するため、あるいは職業裁判官より素人の判断が正しいという理由がつけられました。英米では信頼を失っている制度をなぜかわざわざ導入したというわけです(一部改変して)。
司法制度改革を主導した人達には民主主義に対する信仰のようなものがあったと思います。主権者である一般市民が被告を裁くことが民主主義であり、その判断が正しい筈だという信念があったようです。「(裁判員制度によって)得られた判決というのは、私は決して軽くもないし重くもない、それが至当な判決である」との但木敬一元検事総長の断定的かつ極端な発言は信仰心から生まれたものでしょう。少なくとも科学の領域のものではありません。
民主主義では主権者は国民です。しかしだからといって安全保障や外交、財政などの重要な問題を寄せ集めの市民の判断に委ねることは行われていません。それとも裁判ごときは素人の判断で十分というのが本心なのでしょうか。
有識者会議というものがあります。重要な問題があるとき、知識を持つ人を集めて最善の判断をするためのものです。この言い方に従えば、市民を集めた陪審は無識者会議ということになります。
他にも司法制度改革では司法試験合格者を毎年3000人と決めましたが、合格者の質の低下、弁護士の失業が問題になり、現在は2000人前後に留まり、さらに減らす必要も議論されています。乱立した法科大学院など教育制度の問題も深刻です。極端な増員が様々な問題を引き起こすことは容易に予測できましたが、彼らにだけは予測できませんでした。おそらく信仰・盲信のために現実が見えなかったのでしょう。信仰とはそういうものですが、信仰のない我々には大変迷惑な話です。
このような大失敗に対し、誰も責任を取らず、批判されることすらないとはまことに寛容な世の中です。食品に虫が混入する方がはるかに大事件のようです。