パリを襲ったテロリスト達は「神は偉大なり」と叫んで銃を乱射したといいます。残虐非道な行動の背景には政治的な意図などもあったのでしょうが、彼らの神が大きい役割を果たしていたことは間違いないでしょう。アイヒマンのように、組織的に行われる残虐行為は個人の性格に帰するものでなく、宗教や過激思想によるものと考えるのが自然です。改めて現代の「神」の恐ろしさを感じます。
無辜の人間を殺害することには、彼らにも抵抗があるでしょう。それを封じるためにいろいろな理由をつけています。神の聖戦であるとか、フランスに対する復讐であるとか。しかし我々の感覚からすれば、どの理由にしても罪のない一般市民に対する攻撃を正当化することはできません。殺され傷つくのは偶然現場にいた国民です。
民主主義国家の主権者は国民であるので、報復に国民を殺害するという理屈も考えられますが、空爆反対者や子供まで無差別に攻撃する理由にはなりません。彼らはフランスを抽象的なひとつの概念として捉え、一人ひとりの国民の集合とは考えないのでしょう。彼らの属している社会や組織でも個人より全体が優先されるのだと思われます。神を中心とした極端な全体主義というわけです。だからこそ自爆行為も普通のこととなるのでしょう。
在日韓国人らに対し「帰れ、殺す」などの過激なヘイトスピーチをする連中も同様に、韓国人や北朝鮮人を抽象的な概念として理解していると考えられます。国と国が対立するとき、相手国に対する敵対的な感情はその概念を土台にして生じます。相手国にはいろいろな人がいるが、多くは普通の人である、などと考えれば敵対感情は起こり難くなります。こうした見方を育てるのも教育の目標でしょう。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して・・・」とは日本国憲法の前文にある言葉です。しかしテロや国家による拉致は現実であり、我々はそのような世界に住んでいます。残念なことですが、話の通じない諸国民、話合いによる解決が不可能な諸国民は厳存するわけで「諸国民の公正と信義に信頼して」というわけにはまいりません。
余談になりますが「諸国民の公正と信義に信頼して」は誤りで「諸国民の公正と信義を信頼して」が正しい、と石原慎太郎氏は指摘しています。例えば「米国に信頼する」とは言わず「米国を信頼する」と言います。助詞の使い方が間違っているという単純なことが長い間、見過ごされてきたのは憲法の表記が間違っている筈がないという思い込みがあったからでしょう。憲法をバカにしている石原氏だからこそ発見できたのであって、憲法を金科玉条のように崇めている人には発見しがたいことです。
ついでながら、15日の天声人語は詩人シンボルスカの言葉を引きながら「憎しみ」について「どこまでも増殖し、連鎖するという意味であろう」と書いています。つまりIS・テロリストとフランスが対立して憎しみが増殖した結果のテロという意味に取れます。IS・テロリストとフランスを対等に扱っては問題の本質を見誤りかねません。凶悪犯と警察を対等に扱うのと同じです。またテロリスト達を擁護する意味にもとれます。まあこれが朝日流だといわれれば「ごもっとも」とは思いますが。
無辜の人間を殺害することには、彼らにも抵抗があるでしょう。それを封じるためにいろいろな理由をつけています。神の聖戦であるとか、フランスに対する復讐であるとか。しかし我々の感覚からすれば、どの理由にしても罪のない一般市民に対する攻撃を正当化することはできません。殺され傷つくのは偶然現場にいた国民です。
民主主義国家の主権者は国民であるので、報復に国民を殺害するという理屈も考えられますが、空爆反対者や子供まで無差別に攻撃する理由にはなりません。彼らはフランスを抽象的なひとつの概念として捉え、一人ひとりの国民の集合とは考えないのでしょう。彼らの属している社会や組織でも個人より全体が優先されるのだと思われます。神を中心とした極端な全体主義というわけです。だからこそ自爆行為も普通のこととなるのでしょう。
在日韓国人らに対し「帰れ、殺す」などの過激なヘイトスピーチをする連中も同様に、韓国人や北朝鮮人を抽象的な概念として理解していると考えられます。国と国が対立するとき、相手国に対する敵対的な感情はその概念を土台にして生じます。相手国にはいろいろな人がいるが、多くは普通の人である、などと考えれば敵対感情は起こり難くなります。こうした見方を育てるのも教育の目標でしょう。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して・・・」とは日本国憲法の前文にある言葉です。しかしテロや国家による拉致は現実であり、我々はそのような世界に住んでいます。残念なことですが、話の通じない諸国民、話合いによる解決が不可能な諸国民は厳存するわけで「諸国民の公正と信義に信頼して」というわけにはまいりません。
余談になりますが「諸国民の公正と信義に信頼して」は誤りで「諸国民の公正と信義を信頼して」が正しい、と石原慎太郎氏は指摘しています。例えば「米国に信頼する」とは言わず「米国を信頼する」と言います。助詞の使い方が間違っているという単純なことが長い間、見過ごされてきたのは憲法の表記が間違っている筈がないという思い込みがあったからでしょう。憲法をバカにしている石原氏だからこそ発見できたのであって、憲法を金科玉条のように崇めている人には発見しがたいことです。
ついでながら、15日の天声人語は詩人シンボルスカの言葉を引きながら「憎しみ」について「どこまでも増殖し、連鎖するという意味であろう」と書いています。つまりIS・テロリストとフランスが対立して憎しみが増殖した結果のテロという意味に取れます。IS・テロリストとフランスを対等に扱っては問題の本質を見誤りかねません。凶悪犯と警察を対等に扱うのと同じです。またテロリスト達を擁護する意味にもとれます。まあこれが朝日流だといわれれば「ごもっとも」とは思いますが。