『あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです』
話題になったのでご存知のことと思うが、これは今年度の東京大学学部入学式の祝辞の一部であり、発言者は上野千鶴子東大名誉教授である。前半は女性差別に対する攻撃的な話で、後半はこの話である。ここでは東大に合格したのは「あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだった」と断定している。つまり努力や頑張りの成果、そして意味を全否定している。強調したいのはわかるが、ここまで断言してよいものだろうか。
これがテレビタレントの発言ならよい。しかし学者ならもう少し言葉を正確に使うべきだと思う。東大合格者の中には環境に大きく支えられ者もいるだろう。しかしそうであっても努力なしというわけではない。しかし逆に環境に恵まれず、涙ぐましい努力の結果、合格した者もいると思う。多数の合格者を一律に扱うのは誤りである。韓国嫌いの人が韓国人すべてを一つの類型と見るのと同じ誤りである。また合格の理由を環境だけに求め、努力を全く認めないという考えも学者としてはおかしい。環境と努力は両方とも重要な要素である。多数の集団を一律なものとして扱う、また多数の要素のひとつだけに着目し他を無視する、これらは学者のそれではなく、扇動者の思考方法であろう。人文科学は自然科学ほど厳密ではないが、それでも許容範囲を超えている。一般的に言えば、教養のなさを示すものと言ってよい。
上野千鶴子氏は昔「スカートの下の劇場」などの過激な本で有名になった方で、好戦的なフェミニストである。「男のネクタイはペニスの象徴である」と大真面目に主張されたのを覚えている。当時はそういう見方が流行していたとはいえ、今思えば噴き出してしまう。どんな根拠があったのだろう。もっとも否定することも難しいが。
一方、ゴーン氏の事件によって、否認事件における長期拘留という人質司法が問題になっているが、宗像紀夫元東京地検特捜部長は長期勾留による自白について「捜査する側が求めていることは一切ない。証拠隠滅されては困る。検察がやっているというよりも裁判所が判断する」と述べた。つまり検察側が自白を求めるために拘留することは一切ない、と断言しているのである。検察官全員が一律に潔癖で正しい人であるとは信じがたい。白もいれば黒も、グレーもいるのである。宗像氏はそれを知らないはずがないので、彼は嘘をついているか、それとも国語表現の方法を知らないのだろう。
また裁判員裁判導入に関して、但木敬一元検事総長の次の発言も気になる。
『(裁判官と裁判員の協働)作業の結果、得られた判決というのは、私は決して軽くもないし重くもない、それが至当な判決である・・・』 これは裁判に国民が参加することを民主主義の実現であると評価したうえでの発言である。しかし無作為で選ばれた6人の素人の判断がなぜ「至当な判決」なのか、理解できない。恐らくこれは民主主義=至当なものという考えが背景にあるのだと思われるが、それが即、至当な判決になるというのはおかしい。論理の飛躍がある。民主主義は至当とは言えないし、なぜ6人が「至当な判決」を出せるのか、根拠がない。まともな判決のためには様々な要素が必要なはずである。これが検事総長の発言だけに、こんな考えの人が検察のトップなのかと驚く。
何が言いたいのかというと、思考方法の問題である。多様な集団をひとつの概念で一律に規定したり、多くの要素のうち特定のものを選び他を無視するような考え方は誤った結論を招く大きな理由となる。上に例を示した3名はいずれも高い教育を受け、社会的にも影響力のある人物であるが、思考方法に誤りがあると思う。多様を多様として、複雑を複雑として扱う、また複数の要素を寄与度に応じて評価する、と言ったことは思考方法のイロハである(ただし私は学校で習った記憶がない)。これが欠如することは教養がないことと同じであろう。教養は知識だけではない。
これは教育の問題であるかもしれないが、選抜の問題でもある。教育には思考方法について教える課程があるのだろうか。入学試験には思考方法を判別する問題があるのだろうか。また大学教授を、あるいは検事を選抜するときにこのような思考方法の適否がチェックされていないのではないのだろうか。世の中には多くの議論の対立がある。対立の原因が立場の違いや価値観の違いの場合、対立の解消は簡単ではない。しかし中には思考方法が不適切であるための対立というのがある。意味のない対立である。まともな思考方法(論理能力)が広まれば対立のいくらかはなくなるかもしれない。
話題になったのでご存知のことと思うが、これは今年度の東京大学学部入学式の祝辞の一部であり、発言者は上野千鶴子東大名誉教授である。前半は女性差別に対する攻撃的な話で、後半はこの話である。ここでは東大に合格したのは「あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだった」と断定している。つまり努力や頑張りの成果、そして意味を全否定している。強調したいのはわかるが、ここまで断言してよいものだろうか。
これがテレビタレントの発言ならよい。しかし学者ならもう少し言葉を正確に使うべきだと思う。東大合格者の中には環境に大きく支えられ者もいるだろう。しかしそうであっても努力なしというわけではない。しかし逆に環境に恵まれず、涙ぐましい努力の結果、合格した者もいると思う。多数の合格者を一律に扱うのは誤りである。韓国嫌いの人が韓国人すべてを一つの類型と見るのと同じ誤りである。また合格の理由を環境だけに求め、努力を全く認めないという考えも学者としてはおかしい。環境と努力は両方とも重要な要素である。多数の集団を一律なものとして扱う、また多数の要素のひとつだけに着目し他を無視する、これらは学者のそれではなく、扇動者の思考方法であろう。人文科学は自然科学ほど厳密ではないが、それでも許容範囲を超えている。一般的に言えば、教養のなさを示すものと言ってよい。
上野千鶴子氏は昔「スカートの下の劇場」などの過激な本で有名になった方で、好戦的なフェミニストである。「男のネクタイはペニスの象徴である」と大真面目に主張されたのを覚えている。当時はそういう見方が流行していたとはいえ、今思えば噴き出してしまう。どんな根拠があったのだろう。もっとも否定することも難しいが。
一方、ゴーン氏の事件によって、否認事件における長期拘留という人質司法が問題になっているが、宗像紀夫元東京地検特捜部長は長期勾留による自白について「捜査する側が求めていることは一切ない。証拠隠滅されては困る。検察がやっているというよりも裁判所が判断する」と述べた。つまり検察側が自白を求めるために拘留することは一切ない、と断言しているのである。検察官全員が一律に潔癖で正しい人であるとは信じがたい。白もいれば黒も、グレーもいるのである。宗像氏はそれを知らないはずがないので、彼は嘘をついているか、それとも国語表現の方法を知らないのだろう。
また裁判員裁判導入に関して、但木敬一元検事総長の次の発言も気になる。
『(裁判官と裁判員の協働)作業の結果、得られた判決というのは、私は決して軽くもないし重くもない、それが至当な判決である・・・』 これは裁判に国民が参加することを民主主義の実現であると評価したうえでの発言である。しかし無作為で選ばれた6人の素人の判断がなぜ「至当な判決」なのか、理解できない。恐らくこれは民主主義=至当なものという考えが背景にあるのだと思われるが、それが即、至当な判決になるというのはおかしい。論理の飛躍がある。民主主義は至当とは言えないし、なぜ6人が「至当な判決」を出せるのか、根拠がない。まともな判決のためには様々な要素が必要なはずである。これが検事総長の発言だけに、こんな考えの人が検察のトップなのかと驚く。
何が言いたいのかというと、思考方法の問題である。多様な集団をひとつの概念で一律に規定したり、多くの要素のうち特定のものを選び他を無視するような考え方は誤った結論を招く大きな理由となる。上に例を示した3名はいずれも高い教育を受け、社会的にも影響力のある人物であるが、思考方法に誤りがあると思う。多様を多様として、複雑を複雑として扱う、また複数の要素を寄与度に応じて評価する、と言ったことは思考方法のイロハである(ただし私は学校で習った記憶がない)。これが欠如することは教養がないことと同じであろう。教養は知識だけではない。
これは教育の問題であるかもしれないが、選抜の問題でもある。教育には思考方法について教える課程があるのだろうか。入学試験には思考方法を判別する問題があるのだろうか。また大学教授を、あるいは検事を選抜するときにこのような思考方法の適否がチェックされていないのではないのだろうか。世の中には多くの議論の対立がある。対立の原因が立場の違いや価値観の違いの場合、対立の解消は簡単ではない。しかし中には思考方法が不適切であるための対立というのがある。意味のない対立である。まともな思考方法(論理能力)が広まれば対立のいくらかはなくなるかもしれない。