世の中にはある問題に対し、まったく正反対の議論のあることが珍しくない。ゆとり教育では賛成派が押し切った形になったが、その失敗が明らかになるのまでに20年ほどの年月を要し、その間に教育を受けた世代の学力低下という深刻な結果を招いた。少し話が大きくなるが、ソ連で行われた共産主義政党による政治実験は数十年後に終了したが、巨大な悲劇をもたらした。これらは不適切な方の意見を選択した結果である。対立する二つの意見が何故、またどのようにして生まれるのか、興味ある問題である。今回取り上げるのは、大きい問題ではないが、いじめ問題である。それは意見が対立する場合の一般的な要素を含んでいると思われる。
「いじめ防止対策推進法」に基づき文部科学省が決定したいじめの防止等のための基本的な方針は、学校は児童生徒に対して、傍観者とならず、いじめを止めさせるための行動をとる重要性を理解させる、ことであるそうだ。簡単に言うと、子供に傍観者となるな、ということである。これに対して憲法学者の木村草太氏は子供は傍観者となれ、と主張する。文科省と逆の議論であるが、どうしてこんなことになるのか、彼の理屈を見ることとしたい。
『いじめ防止対策 権限に応じ大人の責任 子どもに「傍観するな」は見当違い』
これは沖縄タイムスに連載された記事である。木村草太の憲法の新手(110)というシリーズらしく、110番目の記事である。沖縄タイムスに記事を書くということから木村草太氏の思想傾向はお分かりだろうが、朝日にも書き、NHKにも度々出演されて、影響力もある方なのでこの問題を考えてみたい。以下、木村氏の主張の要約である。
『確かに、傍観者がゼロになれば、いじめはなくなるかもしれない。しかし、いじめ解消を子どもの責任にするのはあまりに危険だ。子どもには、学校で何の権限もない。「傍観者になるな」との指導は、責任感ある子どもたちを追い詰めるだけだろう。
責任は、それを果たすだけの能力と権限がある者に課す。これが法の大原則だ。
何の権限も与えられていない子どもに求めてよいのは、「加害者になってはいけない」ということまでだろう。
他方、いじめ防止の能力と権限を持った大人は、決して「傍観者」になってはいけない。大人には、それぞれが持つ能力・権限に応じて、果たすべき役割がある。
(1)強制力のない指導で解消するいじめへの対応は、担任や校長の責任だ。
(2)強制措置が必要ないじめは、教育委員会の責任で解消するしかない。校長・担任は、必要に応じて、いじめ状況を教育委員会に報告し、権限行使を促すべきだ。
(*加害者に対する強制的な出席停止処分は、教育委員会の権限とある)
(3)犯罪行為への対応は、警察に委ね、加害者の更生も、児童相談所等の専門機関の関与の下で行うべきだ。
まず、一見すると論理的な整合性があるように見える。責任は、それを果たすだけの能力と権限がある者に課すとあるが、これは確かに原則である。この原則に基づいて彼はいじめへの対処法を示す。これはしかし原則であって、すべてに適用可能ということにはならない。まず、子どもに傍観者になるなということが必ずしも責任を負わせることにはならない。いじめの加害者に対し、それはよくないよと任意で意思表示をするだけでも効果はあるだろうし、それが責任を負わせることになるとは思えない。いじめの中にはクラスの子供たちだけで解決できる程度のものも多くあると思う。それは教育にも役立つだろう。
木村氏はいじめを3つに分ける。担任や校長の責任である指導で解決するいじめ、強制措置の権限をもつ教育委員会の責任で対処するいじめ、警察が対処する犯罪行為になるいじめ、である。確かに明快である。しかしこんなに明確に分けられるものかと思う。そして最も多数を占める軽いいじめを担任や校長の責任で解決しようとすれば、忙しい担任や校長の能力を超えてしまうのではないか。
傍観者になるな、という考えはこの多数であるが比較的軽いいじめに対処するのに有効な方法だと思われる。我々が街中で列の割り込みなどのマナー違反を見つけた時、木村氏はあなた方には何の権限もないのだから傍観者でいなさい、というのだろうか。マナー違反を注意する行為は僅かな危険を伴うが、称賛されるべきことだと思う。皆が保身を優先し傍観者で知らぬ顔よりはよほどいい。マナー違反への注意を奨励しても、責任を負わせることにはならないと考えるのが常識である。傍観者になるな=責任を負わせる、にはならない。一見、論理的に見えるが現実には誤りであると言ってよい。
この議論に特徴的なことはいくつかある。いじめの分類が実態を反映していない。教員のキャパシティーなど現状に対する理解が足りない。いじめの内、2つの分類を強制的な処分で解決しようとしているが、これは教育の問題であり、すべて罰で解決できるほど単純な問題ではない。木村氏の考えからは罰などの処分で対応しようとする強権的な匂いすら感じられる。
木村氏の論理自体に問題はない。しかしいじめ、責任、能力、権限、といった概念が単純化され、概念と現実との乖離がみられる。様々な概念があるが、どれも現実を正確に反映するわけではない。そもそも概念が正確であると考えることが誤りである。数学や物理学で扱う、厳密に定義された概念とは違うのである。木村氏のいじめの分類で見たように分類でさえ簡単にはできない。
現実をよく理解せず、単純化した概念を用いて論理を進めるととんでもない結論が出ることがある。二つの意見が対立する場合、一方が現実を正確に把握していないことが対立の理由になることは珍しくない。木村氏が頭で描くいじめとは恐らくメディアで報じられるような悪質ないじめなのであろう。現実のいじめはもっと幅広いものであると思う。彼はこの出発点で誤り、文科省とは逆の結論を出した。このような例は机上の空論ともいう。木村氏は実によい見本を提供されたものと思う。感謝しよう!
「いじめ防止対策推進法」に基づき文部科学省が決定したいじめの防止等のための基本的な方針は、学校は児童生徒に対して、傍観者とならず、いじめを止めさせるための行動をとる重要性を理解させる、ことであるそうだ。簡単に言うと、子供に傍観者となるな、ということである。これに対して憲法学者の木村草太氏は子供は傍観者となれ、と主張する。文科省と逆の議論であるが、どうしてこんなことになるのか、彼の理屈を見ることとしたい。
『いじめ防止対策 権限に応じ大人の責任 子どもに「傍観するな」は見当違い』
これは沖縄タイムスに連載された記事である。木村草太の憲法の新手(110)というシリーズらしく、110番目の記事である。沖縄タイムスに記事を書くということから木村草太氏の思想傾向はお分かりだろうが、朝日にも書き、NHKにも度々出演されて、影響力もある方なのでこの問題を考えてみたい。以下、木村氏の主張の要約である。
『確かに、傍観者がゼロになれば、いじめはなくなるかもしれない。しかし、いじめ解消を子どもの責任にするのはあまりに危険だ。子どもには、学校で何の権限もない。「傍観者になるな」との指導は、責任感ある子どもたちを追い詰めるだけだろう。
責任は、それを果たすだけの能力と権限がある者に課す。これが法の大原則だ。
何の権限も与えられていない子どもに求めてよいのは、「加害者になってはいけない」ということまでだろう。
他方、いじめ防止の能力と権限を持った大人は、決して「傍観者」になってはいけない。大人には、それぞれが持つ能力・権限に応じて、果たすべき役割がある。
(1)強制力のない指導で解消するいじめへの対応は、担任や校長の責任だ。
(2)強制措置が必要ないじめは、教育委員会の責任で解消するしかない。校長・担任は、必要に応じて、いじめ状況を教育委員会に報告し、権限行使を促すべきだ。
(*加害者に対する強制的な出席停止処分は、教育委員会の権限とある)
(3)犯罪行為への対応は、警察に委ね、加害者の更生も、児童相談所等の専門機関の関与の下で行うべきだ。
まず、一見すると論理的な整合性があるように見える。責任は、それを果たすだけの能力と権限がある者に課すとあるが、これは確かに原則である。この原則に基づいて彼はいじめへの対処法を示す。これはしかし原則であって、すべてに適用可能ということにはならない。まず、子どもに傍観者になるなということが必ずしも責任を負わせることにはならない。いじめの加害者に対し、それはよくないよと任意で意思表示をするだけでも効果はあるだろうし、それが責任を負わせることになるとは思えない。いじめの中にはクラスの子供たちだけで解決できる程度のものも多くあると思う。それは教育にも役立つだろう。
木村氏はいじめを3つに分ける。担任や校長の責任である指導で解決するいじめ、強制措置の権限をもつ教育委員会の責任で対処するいじめ、警察が対処する犯罪行為になるいじめ、である。確かに明快である。しかしこんなに明確に分けられるものかと思う。そして最も多数を占める軽いいじめを担任や校長の責任で解決しようとすれば、忙しい担任や校長の能力を超えてしまうのではないか。
傍観者になるな、という考えはこの多数であるが比較的軽いいじめに対処するのに有効な方法だと思われる。我々が街中で列の割り込みなどのマナー違反を見つけた時、木村氏はあなた方には何の権限もないのだから傍観者でいなさい、というのだろうか。マナー違反を注意する行為は僅かな危険を伴うが、称賛されるべきことだと思う。皆が保身を優先し傍観者で知らぬ顔よりはよほどいい。マナー違反への注意を奨励しても、責任を負わせることにはならないと考えるのが常識である。傍観者になるな=責任を負わせる、にはならない。一見、論理的に見えるが現実には誤りであると言ってよい。
この議論に特徴的なことはいくつかある。いじめの分類が実態を反映していない。教員のキャパシティーなど現状に対する理解が足りない。いじめの内、2つの分類を強制的な処分で解決しようとしているが、これは教育の問題であり、すべて罰で解決できるほど単純な問題ではない。木村氏の考えからは罰などの処分で対応しようとする強権的な匂いすら感じられる。
木村氏の論理自体に問題はない。しかしいじめ、責任、能力、権限、といった概念が単純化され、概念と現実との乖離がみられる。様々な概念があるが、どれも現実を正確に反映するわけではない。そもそも概念が正確であると考えることが誤りである。数学や物理学で扱う、厳密に定義された概念とは違うのである。木村氏のいじめの分類で見たように分類でさえ簡単にはできない。
現実をよく理解せず、単純化した概念を用いて論理を進めるととんでもない結論が出ることがある。二つの意見が対立する場合、一方が現実を正確に把握していないことが対立の理由になることは珍しくない。木村氏が頭で描くいじめとは恐らくメディアで報じられるような悪質ないじめなのであろう。現実のいじめはもっと幅広いものであると思う。彼はこの出発点で誤り、文科省とは逆の結論を出した。このような例は机上の空論ともいう。木村氏は実によい見本を提供されたものと思う。感謝しよう!