3年近く前になりますが、ある一文に強い印象を受けました。文春05年7月号の巻頭に載った「ALS ある患者の声」と題する、元モルガン信託銀行社長鳥羽脩氏の文章です。鳥羽氏はその前年、ALSとの告知を受けました。
ALSとは筋萎縮性側索硬化症とも呼ばれる難病で、全身の運動神経が次々と侵され、多くは発症から3~5年で呼吸筋が侵され致死的な呼吸障害を起こす。そのとき気管切開・人口呼吸器装着による延命措置を実施すれば余命は何年も延びる、と説明したうえで、鳥羽氏は次のように述べます。
「私はALSの告知を受け、いろいろ考えた挙句、延命措置を断る決断をしている。この延命措置の是非については、私は誰とも絶対に議論しないと決めている。ALSに直面する患者の状況は千差万別で、それによって、この問題の対処の仕方はみな違う。要するに、延命措置によって生き延びた時の生活の質を、自然死選択と対比して、且つ、自分の年齢、これまでの人生の達成感、死生観などに照らして、どう考えるかの問題だ。二者択一の問題だが、それはあくまで個人的な問題で、一般論として、どちらが正しいということはできない。(中略)この選択は患者本人だけが決断できるということ、(中略)他人が勧めたり、誘導したり、いわんや強要することが許される問題では絶対にない」
鳥羽氏は日本で唯一の患者支援団体に入会されたわけですが、そこで延命措置を選択しないことがわかると、会員から「あきらめてはダメですよ!」「生きてさえいたらきっと良い事があります」という言葉を一斉に浴びせられたといいます。
また「患者の闘病記や医師の体験記など、ほとんどすべてが『命の尊さは何ものにも替え難い』式の生命倫理観に基づいて、延命措置を指示する立場で書かれている」と記されます。
鳥羽氏は、日本で人口呼吸器装着による延命を選択するALS患者は20~30%と推定され、これは欧米の2%程度に対して突出しているとし、日本で唯一の支援団体が延命措置推進一辺倒で患者に接しているのは問題だと指摘します。米国ALS協会は延命措置には中立で、個人の選択する権利を擁護する立場を貫いているそうです。
確実に訪れる死を覚悟した上での、鳥羽氏の冷静な言葉は説得力があり、当事者ならではの重みを感じます。「命の尊さは何ものにも替え難い」式の主張はヒューマニズム溢れるものに見えますが、そこには個々の事情に配慮しない一律さ、単純さが潜んでいるように思います。
延命措置の選択が欧米の10倍ほどもある日本の特異な現状を理解する上で、鳥羽氏の言葉は示唆に富むものです。欧米の2%が良いということでは決してありませんが、日本では個人が決定すべき領域の問題に対して、善意による口出しが多すぎるのではないかという気がします。
鳥羽氏が指摘された問題の背景には日本独特の事情があるように思います。それは原則や理念に対する過度の「信仰」と異論に不寛容な風潮であり、すぐに一色に染まるメディアの体質がそれらを加速します。「命の尊さは何ものにも替え難い」という考えに僅かでも触れる言動は厳しく非難されます。
今はそれほどではないようですが、少し前までは、死を目前にして苦しむ患者にも延命措置をして「頑張れ!」とやるのが普通であったと言われています。命を最大限尊重した行為と引換えに患者は余分な苦痛の時間を味わうことになりました。現在でも心肺蘇生措置の拒否(DNR)の同意をとっていなければ、見込みのない末期患者に対しても最後に気管挿管と心臓マッサージなどをするそうです。
命の尊重は大事な原則ですが、その原則を無条件に最優先する考えには疑問を感じます。少なくとも自分の命に関してはもっと自由に考え、決定できる環境があってよいと思います。
原則はあくまで原則に留めるべきで、現実の複雑な世界すべてに原則を適用できるという考えはわかりやすいですが、さまざまな弊害を生みだすことを理解すべきでしょう。原則や理念に対する過信・盲信があるとさらに問題が深刻になります。集団主義や付和雷同気質とも重なりますが、逃れられない国民の特性なのでしょうか。
ALSとは筋萎縮性側索硬化症とも呼ばれる難病で、全身の運動神経が次々と侵され、多くは発症から3~5年で呼吸筋が侵され致死的な呼吸障害を起こす。そのとき気管切開・人口呼吸器装着による延命措置を実施すれば余命は何年も延びる、と説明したうえで、鳥羽氏は次のように述べます。
「私はALSの告知を受け、いろいろ考えた挙句、延命措置を断る決断をしている。この延命措置の是非については、私は誰とも絶対に議論しないと決めている。ALSに直面する患者の状況は千差万別で、それによって、この問題の対処の仕方はみな違う。要するに、延命措置によって生き延びた時の生活の質を、自然死選択と対比して、且つ、自分の年齢、これまでの人生の達成感、死生観などに照らして、どう考えるかの問題だ。二者択一の問題だが、それはあくまで個人的な問題で、一般論として、どちらが正しいということはできない。(中略)この選択は患者本人だけが決断できるということ、(中略)他人が勧めたり、誘導したり、いわんや強要することが許される問題では絶対にない」
鳥羽氏は日本で唯一の患者支援団体に入会されたわけですが、そこで延命措置を選択しないことがわかると、会員から「あきらめてはダメですよ!」「生きてさえいたらきっと良い事があります」という言葉を一斉に浴びせられたといいます。
また「患者の闘病記や医師の体験記など、ほとんどすべてが『命の尊さは何ものにも替え難い』式の生命倫理観に基づいて、延命措置を指示する立場で書かれている」と記されます。
鳥羽氏は、日本で人口呼吸器装着による延命を選択するALS患者は20~30%と推定され、これは欧米の2%程度に対して突出しているとし、日本で唯一の支援団体が延命措置推進一辺倒で患者に接しているのは問題だと指摘します。米国ALS協会は延命措置には中立で、個人の選択する権利を擁護する立場を貫いているそうです。
確実に訪れる死を覚悟した上での、鳥羽氏の冷静な言葉は説得力があり、当事者ならではの重みを感じます。「命の尊さは何ものにも替え難い」式の主張はヒューマニズム溢れるものに見えますが、そこには個々の事情に配慮しない一律さ、単純さが潜んでいるように思います。
延命措置の選択が欧米の10倍ほどもある日本の特異な現状を理解する上で、鳥羽氏の言葉は示唆に富むものです。欧米の2%が良いということでは決してありませんが、日本では個人が決定すべき領域の問題に対して、善意による口出しが多すぎるのではないかという気がします。
鳥羽氏が指摘された問題の背景には日本独特の事情があるように思います。それは原則や理念に対する過度の「信仰」と異論に不寛容な風潮であり、すぐに一色に染まるメディアの体質がそれらを加速します。「命の尊さは何ものにも替え難い」という考えに僅かでも触れる言動は厳しく非難されます。
今はそれほどではないようですが、少し前までは、死を目前にして苦しむ患者にも延命措置をして「頑張れ!」とやるのが普通であったと言われています。命を最大限尊重した行為と引換えに患者は余分な苦痛の時間を味わうことになりました。現在でも心肺蘇生措置の拒否(DNR)の同意をとっていなければ、見込みのない末期患者に対しても最後に気管挿管と心臓マッサージなどをするそうです。
命の尊重は大事な原則ですが、その原則を無条件に最優先する考えには疑問を感じます。少なくとも自分の命に関してはもっと自由に考え、決定できる環境があってよいと思います。
原則はあくまで原則に留めるべきで、現実の複雑な世界すべてに原則を適用できるという考えはわかりやすいですが、さまざまな弊害を生みだすことを理解すべきでしょう。原則や理念に対する過信・盲信があるとさらに問題が深刻になります。集団主義や付和雷同気質とも重なりますが、逃れられない国民の特性なのでしょうか。
もう十年以上前のことですが、亡くなった祖父の状況に酷似している点が散見されます。
私もまだ幼かったので、状況をよく掴めずに喉もとのチューブの違和感を母親に問いただしたのを覚えております。なぜ祖父にこんなことするのか、苦しそうじゃないか。
「お医者様がそうするように言うから」
これが母の回答でした。
この問題は日本の全体主義の傾向に限らず、日本の権威主義から派生する、個の主張の不在である事が一番の根本的な原因であると思います。目上の者に意見することは好ましくないとし、その場に居合わせた唯一絶対の「お上」が取り決めを行う。そこでは個人の意思よりもその場特有の「場の雰囲気」に支配され、部外者には口出しさせない。こうした日本の社会構造に問題の発端があるように思います。病院における「医師と患者」、学校における「教師と生徒」の関係に代表されるように、このような傾向は至る所で見られ、権威主義が社会の隅々までに浸透しています。本来なら対等でなければならない状況であるべきところに、いつの間にか上下関係が形成されている現実があります。(参考:*)
自分が延命装置を取り付けることになる患者の立場になった場合に、果たして望み通りの治療を受けることができるのか。
日欧の社会構造の違いが大きく、延命装置の選択はできてもそれ以外の点で、患者の意思が反映されることはほとんどないと予想しています。日本で問題に取り組み延命装置の問題は無事に片付いても、根本的な解決には至らず類似の事例に応用が利くとはとても思えないからです。
私は欧州に留学経験があるのですが、日本と違い欧州のほとんどの国(経験上ですが欧州すべてに当てはまる印象があります)では「生と死」の話はタブーです。そのため、安楽死の問題が何故日本で一向に進まないのか理解に苦しみます。おそらく安楽死の問題にも根底にはこうした問題があるからだと思います。
(* http://blog.chiguchigu.com/index.php?blogid=5097&archive=2008-1-14 )
(蛇足ですが、前回の「イージス艦」の件では私自身の不遜で感情的な発言が目立つように思えました。失礼な振る舞いをお詫びします。)
患者の命は患者のものであり、その決定は本人に委ねられるべきである、ということに反対する人はあまりいないと思います。
しかし現状は「命の尊さは何ものにも替え難い」式の風潮が支配しているようです。論理的に決まるのでなく、奇麗事の原則論が力を持つので困ります。短時間のうちに変わりそうにありません。