(承前)高揚感の中で目覚めた。このままでは血圧が上がっていけない。早速パン屋に出かけ、峠まで走って下りてきた。準備体操をして走り出すと、悲愴交響曲のファゴットが鳴り響く。何時も馴染みのダニエル・ダミアーノの素晴らしい響きである。そして先日指摘した力任せのヴィオラ陣の力を抜いた運弓の音の深みが広がる。謂わば硬いワインではなく、こなれた熟成したワインの深みである。正直、ここまで抜けてしまうと、これはどうなるだろうかと思ったのだった。そしてアレグロノントロッポへのリテヌートからの主題の提示がとてもうまく運び、そのあとの聞いたことのない盛り上がりが、第二主題へと流れていく、美しさが際立つ。そしてクラリネットの郷愁を呼ぶ歌声からアタック厳しく展開部へ、そして警句的な金管の鋭いパルス ― 第五交響曲のボン公演でのそれを思い出した。テムポ運びもしなやかにそしてコラール。
同行の仕事仲間のヴァイオリニストがその合奏ぶりにいたく感心していた二楽章の五拍子のヴァルツァーが響き出す。当日のオリエンティールングで取り上げられた、サロンの笑い声の第二動機部を殆んど人の声のように奏する弦楽合奏。これ程実体感のある擬音をリヒャルト・シュトラウスは書けているだろうか?そしてトリオ主題の動機連結。
カーヴを超えて走り続けるが、なぜかどうしても三楽章のマーチの主題が出てこない。視覚的に楽譜を頭の中で捲ろうとするのだが、なぜかヴァルツァーの一二三、一二の一二から再び第一楽章の展開部へと巻き戻ししてしまうのである。先日までは走り出すと流れてきたあのマーチはどこに行った。八分の十二拍子がマーチになることもタランテラでの細かな音型もある程度頭に浮かぶ、それでも無理してでも歩調を整えないとあのマーチが出てこない。そして一楽章の主題に、その一二の刻みから漸くマーチ主題に入れた。何と鋭い刻みだろう。そしてクライマックスへと、会場の聴衆の心拍数を上げ、血圧を上げさせる ― あのボンでの公演を再び彷彿させる追い込みだ。最後には、ペトレンコ指揮「悲愴交響曲」としての二度目の正直が三度目になるか、つまり拍手が鳴るのか鳴らないかが気になって更に心臓がどきどきしてきたのだった。そして二回目に成功した時のように両腕を広げたまま心臓の鼓動に耳を澄まさせる ― 会場では嗚咽のような溜息が漏れ聞こえる。
その心臓の鼓動の響きに、そのままから振り下ろされる指揮棒で、まるで心の真空地帯に吸い込まれるように第一主題が紡がれるのである、そして第二主題へと慰めへと、しかしまだまだ鼓動は収まらない。生きているのだ。当然のことながら、葬送のトロンボーンが鳴ろうともそれを私たちは耳にしている実態がある。だから死のピチカートで終わるとは限らない。この交響曲は、そうしたキリル・ペトレンコに言わせれば、典型的な白鳥の歌ということになる。
峠から下りには、四楽章の主題が流れて胸をうった。心臓の鼓動が中々収まらないが、無理して急ぐ必要はない。嘗て、吉田秀和が「魔笛」の音楽を称して悲しいのか何かわからないが涙が流れると書いたが ― ああ、彼の小林の道頓堀のモーツァルトの焼き直しだ ―、まさしく当日のオリエンティーリングにあったようにこの曲は19世紀におけるネオロココ趣味のそれもフランス文化の影響を受けた美学に立脚した創作であり、敢えて言えばこの終楽章のラメントーソもそうした美学に裏打ちされている。要するに19世紀の自然主義的なブルックナーなどの交響曲とは世界が違うということになる。峠から下りて来て34分35秒、勿論全曲短縮版であった、そして心の汗で全身がびっしょりになっていた。これをカタリシスというのが正しいのか、それとも。(続く)
参照:
あれやこれやと昂る気分 2017-04-09 | 雑感
漸く時差ボケから解放される 2017-04-08 | 暦
同行の仕事仲間のヴァイオリニストがその合奏ぶりにいたく感心していた二楽章の五拍子のヴァルツァーが響き出す。当日のオリエンティールングで取り上げられた、サロンの笑い声の第二動機部を殆んど人の声のように奏する弦楽合奏。これ程実体感のある擬音をリヒャルト・シュトラウスは書けているだろうか?そしてトリオ主題の動機連結。
カーヴを超えて走り続けるが、なぜかどうしても三楽章のマーチの主題が出てこない。視覚的に楽譜を頭の中で捲ろうとするのだが、なぜかヴァルツァーの一二三、一二の一二から再び第一楽章の展開部へと巻き戻ししてしまうのである。先日までは走り出すと流れてきたあのマーチはどこに行った。八分の十二拍子がマーチになることもタランテラでの細かな音型もある程度頭に浮かぶ、それでも無理してでも歩調を整えないとあのマーチが出てこない。そして一楽章の主題に、その一二の刻みから漸くマーチ主題に入れた。何と鋭い刻みだろう。そしてクライマックスへと、会場の聴衆の心拍数を上げ、血圧を上げさせる ― あのボンでの公演を再び彷彿させる追い込みだ。最後には、ペトレンコ指揮「悲愴交響曲」としての二度目の正直が三度目になるか、つまり拍手が鳴るのか鳴らないかが気になって更に心臓がどきどきしてきたのだった。そして二回目に成功した時のように両腕を広げたまま心臓の鼓動に耳を澄まさせる ― 会場では嗚咽のような溜息が漏れ聞こえる。
その心臓の鼓動の響きに、そのままから振り下ろされる指揮棒で、まるで心の真空地帯に吸い込まれるように第一主題が紡がれるのである、そして第二主題へと慰めへと、しかしまだまだ鼓動は収まらない。生きているのだ。当然のことながら、葬送のトロンボーンが鳴ろうともそれを私たちは耳にしている実態がある。だから死のピチカートで終わるとは限らない。この交響曲は、そうしたキリル・ペトレンコに言わせれば、典型的な白鳥の歌ということになる。
峠から下りには、四楽章の主題が流れて胸をうった。心臓の鼓動が中々収まらないが、無理して急ぐ必要はない。嘗て、吉田秀和が「魔笛」の音楽を称して悲しいのか何かわからないが涙が流れると書いたが ― ああ、彼の小林の道頓堀のモーツァルトの焼き直しだ ―、まさしく当日のオリエンティーリングにあったようにこの曲は19世紀におけるネオロココ趣味のそれもフランス文化の影響を受けた美学に立脚した創作であり、敢えて言えばこの終楽章のラメントーソもそうした美学に裏打ちされている。要するに19世紀の自然主義的なブルックナーなどの交響曲とは世界が違うということになる。峠から下りて来て34分35秒、勿論全曲短縮版であった、そして心の汗で全身がびっしょりになっていた。これをカタリシスというのが正しいのか、それとも。(続く)
参照:
あれやこれやと昂る気分 2017-04-09 | 雑感
漸く時差ボケから解放される 2017-04-08 | 暦