Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

無料前座演奏会の光景

2019-08-28 | 

ゲヴァントハウス管弦楽団演奏会前に前座無料コンサートに並んだ。昨年はラトル指揮のグルッペンの初練習を公開したこのシリーズは練習風景の公開であることが多い、今回はロマンティックと名付けてあったので本当はフルシャが指揮するシューマンが公開される予定だったのだろう。しかし最も合わせなければいけなかったエマニュエル・パユとのモーツァルトでザルツブルクから駆けつけたパユが時間のあるうちに合わせて予定が変わったということだろう。詳しい説明はなかったが、無料であり、それどころか通すということで誰も文句は言わない。私も予期していなかったので前から三列目に座った価値があった。

兎に角、一時間ほど並ばなければいけない。自由席で必ずしもおいしい席から埋まって行くのでは無いが、締切られると元も子もないので早目に並ぶ。一時間余裕を見込んでいたのだが、もう既に列は長かった。終わりにつくと、日陰が無くなっていたので、婆さんがこちらへ入れと日陰を勧めてくれた。そこからいろいろな話を聞いた。地元の言葉だったが、構造主義の音楽が好きで、バッハから二十世紀前半までとなる。脱構造となるとついて行けないとなる。有料のは地元の室内楽団の聞いたという。年齢は団塊の上ぐらいだからやはりそうだろうと思った。だからMeTooガッティやサロネンなどのプログラミングが如何に時代遅れな感覚であるかが分かる話しだった。

それで、最初は作業のオヤジが二人指揮台のところで打ち合わせしているなと思った。 背中は指揮者と直に分かったが、楽譜に顔をつけているおっさんは誰かと思うと、顔をこちらに向けるとパユだった。無料の演奏会なのでスイスの英雄の一人であっても皆がすぐに気がついたようではない。そこで司会のシュテール女史と打ち合わせしていたように、紹介されると子供用のクッション席から起き上がるという演出をしていた。そもそもそのクッションがなかったら私はかぶりつきに座っていただろう。流石になにか違うなと思ったので遠慮した。

なによりも興味深かったのは目と鼻の先でのパユの音と息遣いを見聞きしたことである。個人的にこの演奏家が多くのベルリナーフィルハーモニカーとソリスト両方で売っている演奏家とは違うと思ったのは生録のリサイタルの放送を車内で聞いたときからである、どのような管楽器も息遣いが命だが、同時に様々な教雑音も発する。位置重リード、二枚リードなど様々な技術的な問題があって、中々解決できない奏者も多い。その点からもやはりこのフルートは立派だなと思っていた。

そしてモーツァルトの協奏曲での強弱やアクセントの付け方など明白なリズム感の中で全てが決められていくのを身近で聞いているとやはり大したものだと感心した。その本人が話しの中で、愛用フルートについても語っていて14Kの金が一番合わせやすいと語っていた。つまり、ここではマーラー室内管弦楽団の木のフルートとも合わせるということで、モーツァルトが依頼主のアマチュアーの要請にも答えなければいけなかった苦心を語ってもいた。そしてシルヴァーでもなんでもいいが結局は吹く人によると至極当然なことを語っていた。

確か先輩のオーレル・ニコレは銀だったなと思ったが、確かにニコレも録音などでもその名人ぶりは知られているが、このパユほどに自由自在の表現の幅はなかったような記憶がある。その意味からも、パユの演奏を近くで見ていると音楽へとその有り余る技術が注ぎ込まれている感があってとても気持ちが良かった。フレージングの山やアーティキュレーション上の明白な聞かせ方もツボにはまっていて憎い。ここぞの音を一発で決めてこちらを向いて、どうだと視線を向けられると参りましたという気持ちにしかならない。

さて打ち合わせの当事者の指揮者フルシャは初めて生で聞くが放送等での印象はどれも良くなかった。確かにやろうとしていることは小編成であり身近で観ているのでよく分かったが、駄目だなと思った。そもそもパユとの打ち合わせでは、ソロからの要望に対して、声は全く聞こえなかったが、それは難しいな言う様な態度にしか見えなかった。日本で評判の良かった未知の指揮者である程度の者だったのはヤルヴィぐらいか。日本で成功している指揮者は、伝統的に劇場指揮者とそのクラスの指揮者が殆んどである。



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