なんとか記念日と云うのがあるとすると、一昨日などはちょっとしたそれかもしれない。至極個人的なものをそう呼ぶのである。その日、ネットで注文して手にした書籍は、片や三十年近く関心を持っていたタイトルであり中身であり、片やここ一年ほど気になっていたタイトルである。後者に関しては次の機会に述べる。
前者のタイトルは、トーマス・マン著「魔の山」である。永くその本を入手することなく、立ち読み程度にしておいたには理由がある。これだけ世界中で読まれている本になると、何処でどうしてこのタイトルに出会ったかの覚えは無い。ただ子供時分に応接間の壁面を塞いでいる分厚いビロードのカーテンの裏に潜り込んで、ガラス張りの引き戸の裏の書庫の中へと入り込み、其処で物色した世界文学全集のなかからその大きな本を取り出した記憶がある。
その後、自分の手元において、どれぐらいまで読み通しただろう。印象に残っているのは、サナトリウムの場面であり、空咳の曇った響きや陰気な印象である。おそらくそのときに完読出来なかった原因は、それらの場面の鬱陶しさと登場人物セッテムブリーニの抽象言語がちりばめられた長い台詞ではないかと記憶する。そして読み手が求めるドラマと情感に欠けていたからに違いない。
山の中のサナトリウムの風景や空気を、山岳地帯への憧憬からどうにか読み取ろうとしていたことも事実なのだが、今改めて考えてみると室内の風景とその外部環境とが一向に結びつかなかったように思われる。その雰囲気などは、実際に見学が出来る小説の舞台となったその場所へ行くと云うだけでは分からない。なぜならば、読み手の様々な記憶や体験の寄せ集めが、その空気感の疑似体験であるからだ。
それは、作者トーマス・マンの創作動機と云うか過程でのまさにモンタージュ技法を使ったばらばらの要素を寄せ集める創作活動に依拠している。こうした素材の集積は、形式を与えられて、初めて意味を持ちはじめる。
この小説の会話部分では、特にそうした意味を持って、その環境の磁場や電場に影響された風紋のようなものが出来上がっている。嘗て、こうした部分を読んだときに、見えなかったのがこの風紋のような流れであった。そして、嘗てはそのタイトルから、山岳地帯につきものの重力場である高低ポテンシャルエネルギーしか窺い知れなかったのである。
その当時は、それが言語によるつまり翻訳による解釈を通さなければいけない不都合だとは感づいてはいたのだが、具体的にその「場」の光景を知る由も無かった。多少なりともドイツ語を学習するようになると、こういった大作にも興味を持つ。しかし、同じ作家の作品でもなかなか手に取るのを控えていた作品である。
粗三ヶ月前に、夏の雪に関する引用を読んで、全体の中での位置付けなどが予想出来た気持ちの良さもあり、一挙に全体の見通しが開けて形式上のポイントも見えた気がしたのでどうしても確かめたい気になった。
そして、その該当の一節の含まれる第四章一部「已むを得ないお買物」を約千ページの中から見当を付けてぱらぱらと頁を捲りその四行を見つけると、またそれ以上に全体像が開けるのである。こうした作業こそが、小説や物語の速読のコツでもあるのは、漸く数年前に初めて日本語の小説でコツを会得した経験から判るのである。
その章の物語の運びも、主人公ハンス・カストロプと従兄弟ヨアヒムとのディアローグへと進み、セッテムブリーニとの絡みになるあたりは構成が明晰で大変に理解し易い。また、問題の長い台詞は翻訳の解釈を経ずに「口減らず」の様に流れるものであって、ユーモアと機知に富んでいる。決して解析しながら退屈するものでは無い。
あの冗長でありながら軽みのある台詞のテンポの良さが狂言回しのようになっていて、ゲーテの「ファウスト」などの大見得を切る長い台詞とは違い、その内容に拘らず上擦って滑る饒舌と青年に生まれる言葉の対照がこの大作の魅力となっている。まさに嘗て翻訳されたものが退屈で手ごわいと思われた部分こそが、エンターティメントとなって且つ風刺にすらなっているのに気がつく。その点では、翻訳された文章よりも映画化された演出の方が正しく再現出来ている可能性が強い。
空気感や光、音以外にも五感に訴えるものが予想以上に多い様子で、第六感に訴える場の中で、先ずはその辺りに注意してみたい。文章のテンポ感からして、流れる台詞に対して、そうした行の方が遥かにここで云う已むを得ない「場」を形成しているように思われる。
前者のタイトルは、トーマス・マン著「魔の山」である。永くその本を入手することなく、立ち読み程度にしておいたには理由がある。これだけ世界中で読まれている本になると、何処でどうしてこのタイトルに出会ったかの覚えは無い。ただ子供時分に応接間の壁面を塞いでいる分厚いビロードのカーテンの裏に潜り込んで、ガラス張りの引き戸の裏の書庫の中へと入り込み、其処で物色した世界文学全集のなかからその大きな本を取り出した記憶がある。
その後、自分の手元において、どれぐらいまで読み通しただろう。印象に残っているのは、サナトリウムの場面であり、空咳の曇った響きや陰気な印象である。おそらくそのときに完読出来なかった原因は、それらの場面の鬱陶しさと登場人物セッテムブリーニの抽象言語がちりばめられた長い台詞ではないかと記憶する。そして読み手が求めるドラマと情感に欠けていたからに違いない。
山の中のサナトリウムの風景や空気を、山岳地帯への憧憬からどうにか読み取ろうとしていたことも事実なのだが、今改めて考えてみると室内の風景とその外部環境とが一向に結びつかなかったように思われる。その雰囲気などは、実際に見学が出来る小説の舞台となったその場所へ行くと云うだけでは分からない。なぜならば、読み手の様々な記憶や体験の寄せ集めが、その空気感の疑似体験であるからだ。
それは、作者トーマス・マンの創作動機と云うか過程でのまさにモンタージュ技法を使ったばらばらの要素を寄せ集める創作活動に依拠している。こうした素材の集積は、形式を与えられて、初めて意味を持ちはじめる。
この小説の会話部分では、特にそうした意味を持って、その環境の磁場や電場に影響された風紋のようなものが出来上がっている。嘗て、こうした部分を読んだときに、見えなかったのがこの風紋のような流れであった。そして、嘗てはそのタイトルから、山岳地帯につきものの重力場である高低ポテンシャルエネルギーしか窺い知れなかったのである。
その当時は、それが言語によるつまり翻訳による解釈を通さなければいけない不都合だとは感づいてはいたのだが、具体的にその「場」の光景を知る由も無かった。多少なりともドイツ語を学習するようになると、こういった大作にも興味を持つ。しかし、同じ作家の作品でもなかなか手に取るのを控えていた作品である。
粗三ヶ月前に、夏の雪に関する引用を読んで、全体の中での位置付けなどが予想出来た気持ちの良さもあり、一挙に全体の見通しが開けて形式上のポイントも見えた気がしたのでどうしても確かめたい気になった。
そして、その該当の一節の含まれる第四章一部「已むを得ないお買物」を約千ページの中から見当を付けてぱらぱらと頁を捲りその四行を見つけると、またそれ以上に全体像が開けるのである。こうした作業こそが、小説や物語の速読のコツでもあるのは、漸く数年前に初めて日本語の小説でコツを会得した経験から判るのである。
その章の物語の運びも、主人公ハンス・カストロプと従兄弟ヨアヒムとのディアローグへと進み、セッテムブリーニとの絡みになるあたりは構成が明晰で大変に理解し易い。また、問題の長い台詞は翻訳の解釈を経ずに「口減らず」の様に流れるものであって、ユーモアと機知に富んでいる。決して解析しながら退屈するものでは無い。
あの冗長でありながら軽みのある台詞のテンポの良さが狂言回しのようになっていて、ゲーテの「ファウスト」などの大見得を切る長い台詞とは違い、その内容に拘らず上擦って滑る饒舌と青年に生まれる言葉の対照がこの大作の魅力となっている。まさに嘗て翻訳されたものが退屈で手ごわいと思われた部分こそが、エンターティメントとなって且つ風刺にすらなっているのに気がつく。その点では、翻訳された文章よりも映画化された演出の方が正しく再現出来ている可能性が強い。
空気感や光、音以外にも五感に訴えるものが予想以上に多い様子で、第六感に訴える場の中で、先ずはその辺りに注意してみたい。文章のテンポ感からして、流れる台詞に対して、そうした行の方が遥かにここで云う已むを得ない「場」を形成しているように思われる。
その前に、「子供時分に応接間の壁面を塞いでいる分厚いビロードのカーテンの裏に潜り込んで、ガラス張りの引き戸の裏の書庫の中へと入り込み、其処で物色した世界文学全集のなかからその大きな本を取り出した記憶」というのは、小生とは違う環境を思ってしまう。
そういえば、小生も子供の頃、仏間(!)だった部屋や客間などに父の書棚があって、誰もいないときになぜかこっそりガラス戸を開いてびっしり詰まった本の中から気になる本を引っ張り出して見た(読まない、読めなかった)記憶がある。
「魔の山」は、数年前(翻訳で)二度目となる挑戦をしたけど、内容は高度というより、ひたすら読んで面白い、まさにエンターテイメント的に読めていたような気がします。
「雪」の山中に彷徨する章など逸品でした。
そろそろ小生も(作品を読むという意味での)文学の時期が近づいているのを感じます。
検索にかけてみると、お一人の方が、やはり子供の頃に読んで(完読?)いて、読書癖の無かった私には出来なかったので感心しました。もしや、その当時翻訳を完読していたら、視点が全く違ったものとなっていただろうと想像します。反対に、完読出来なかったトラウマみたいなものがあったのも感じます。
その違いは例えばマンガ本を読めるか読めないかと同じで、慣れもあるのでしょうが、そこまで行かずに投げ出してしまう例も多いです。特にこの長編は、BLOGでもそうした話題が多いです。
「雪」の章も今ざっと捲っていますが、面白い事が見つかりそうで、また記事にします。