Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

敗者に裁かれる特攻隊崩れ

2011-04-15 | マスメディア批評
とても酷い状態だ。水蒸気爆発の破局などなくても、当初のドイツでのシュミレーションを越えてしまっている。もはや日本人でなくても誰も積極的に現実を直視出来なくなった。来週開かれるキエフでの学会では、政治的な圧力の下チェルノブイリを凌ぐ史上最悪の福島が議論されるに違いない。

水質調査のヨウ素131やセシウム134濃度や割合からすると、常識的に考えて穴が大きくなり連鎖反応が起こっていることを如実に示している。格納容器毎の水冷機能が話題となっているようだが、そのような状態でポムプが廻せるのかどうか一度身近にいる特殊ポムプの専門家に聞いてみよう。フィルターどころの話ではない。

一号機だけでなくて、二号機も同じような状態である。三号機も同じような状態であるのが明白になるのは時間の問題だろう。一体あの温度の値はどうなのかと思わせる。殆ど後だしジャンケンのようなパラメータ解析で後付けにしかなっていない。四号機でも殆ど使用停止直後の燃料棒のようで危険度は途轍もなく高いことが証明された。一から四までどれも同じようにどうしようもないのだ。条件さえよければ、四号機の使用済み燃料を取り出してしまおうとしたようだが、これで途轍もなく難しい作業となった。そもそも壊れた燃料が水に冷えて固まっているならば、給水して以降生成されていない筈のヨウ素131の濃度が上がる訳がない。少し考えれば誰でも判る。抜け抜けと好い加減なことを誰が言ったか覚えておくが良い。国民裁判か国際人権裁判の場ではただでは済まないだろう。

しかし同時に嘘はつかない筈の役人の様子が変って来ているようにも感じている。恐らく、合衆国や国際機関の後押しで原発全廃をどうしても引き止めたい大きな力が生じているようだ。日本国会の大連立への燻り騒ぎなどはその証明で、日本の行政官僚システムはそれ自体の死守への本能と同時に合衆国主導のその体制を固めつつある。特に讀賣新聞を筆頭にその他のマスメディアの論調に目を見晴らす必要があるだろう。東京裁判を云々論じるのと同じで、裁くのは勝者であり、だから今原発を巡る世界大戦の熱線が飛びかっている。国民の健康や生命、財産などは二の次なのだ。福島県の大半とそれに準ずる関東・東北の一部は今後とも永く住めなくなるだろう。大移住計画は進行しているのか?

そもそも地下の水を抜くことなどは出来ないのは明らかで、上の水が溶解して固まり反応し掛けている燃料と同時に広がる穴から落ちてきて、地下を更に強く汚染された水が満たすことになる。それを冷して元へ戻すにも限度があるのは当然で、そんなことが容易に出来るようなら心配は要らない。

時間稼ぎをして崩壊熱を落とすことで収束へと向おうとしたのだろうが、温度が上昇するようなことになり殆ど永遠に収束を向かえる事はないだろう。その間に人間が近づけなくなる可能性の方が強く、ソヴィエトが遣ったような少々の人命が失われても ― 神風特攻による千人近くの犠牲者を出す覚悟が必要だったかも知れない ― 最初に強行するだけの決断が必要だった。もはや米軍も誰も手出しを出来ない、百年経たなくてもこのままでは世界中が汚染されてしまう ― これも後出しになるが、初動において東電など無視して自衛隊に突入させて近辺にガスを放ち、「手動」で燃料棒を抜いてしまう必要があった、その時点で軍事命令で少々の死傷者が出ても本望だったろう、今の自衛隊では本当の神風を命令できる幹部もいない、腰抜けである。
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なぜ今頃の感の疑心暗鬼

2011-04-13 | 雑感
昨日のレヴェル7への昇格は世界に驚きを与えた。なぜ今頃?と言うものだ。一部には現在の被害程度ならいずれまた6に戻すだろうとの意見もある。急に日本政府の発言が変わってきたことにはいくつかの理由があるのだろう。政権と行政の中での権力闘争もかかわっているような気がするのは考えすぎか?そうした一貫しない姿勢は、普天間問題に仙閣列島事件にも顕著で、官僚組織を掌握できない民主党政権の政治の特長にすらなっている。今回の場合もなぜ最初の時点から菅首相が最高決断をしなかったか不可思議なのだ。

それ以上に急にIAEAが楽観的な見解をも流すようになったのがそもそも軍事的な核利用と拡散に反対しながら ― まさにこれはワシントンの意向に沿う、産業的な利用を推し進めている機関であるからだ。なぜそこの理事に日本人がなっているかを考えればよく分かる。

それよりも何よりも危惧されるのがやはり破局に近づいている状況証拠があるのではないかという疑心暗鬼である。四号機の半減期が八日のヨウ素131の検出量も気になり、水温も上昇していて予断を許さない情況となっている ― 水の量も確認した筈だがなぜ発表にならなかったのか?穴でも開いているのか?また一号機の温度や圧力や穴が気になるという、果てしないもぐら叩き状態と、益々悪くなる状況が伝えられている。

クリントン女史が東京を訪れると言うが、人命尊重を基本に思い切った作戦を連休中に秘密裏に要求するのではないだろうか?

関東のスーパーで出荷禁止の野菜が出回っていたのは、やはりいい加減な規制水準の緩和などを訴えている政治家がいるからで、基準が緩和されると言うことは日本の生活水準や品質管理を落とすと言うことに他ならないので、自ら産業と経済基盤を崩壊させていくのとなんらかわらない。如何に汚染や汚染地域を切り離して、水準を守ることも重要であり、その為には人命・人権の尊重を大儀に思い切り強引な政治決断が迫られる。

正直な話、使い済み燃料の発火などは第一報では伝えられておらず、全く話題になっていなかった。しかしその量や特に四号機の崩壊熱量からすれば予想以上の汚染の元となっている。ドイツの専門家の中で日本限定と捉えられていたその世界への影響が上方修正されなければいけないような情況には改めて驚愕するしかない。

福島第一原発での耐震の確認などは、全く役所らしい処置で、次の余震で炉がひっくり返って、大量の水が決壊しても既に指導はしていたと言い訳が出来るのだ。彼らは決して裁判で不利になるような不手際は行わない。時限をつけてもつけなくても、それで抜かりないのである。



参照:
法的根拠のない「自粛」を行政や行政の長が「要請」するおかしさ。 (ザ大衆食つまみぐい)
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福島なんて取るに足りない事故

2011-04-12 | アウトドーア・環境
「温熱化の危機に比べれば原発なんてどうっていうことはない」と宣言して、「ドイツの過剰反応」を厳しく批判するのは合衆国で最も有名な自然環境保護運動家スチュワート・ブランドである。氏のウォールアースカタログは、1968年からそのヒッピー時代を契機に公表されて三十年間改訂され続けている。そこには、人類に不可欠な物としてシンセサイザーやPCなどがリストアップされている。

そのインタヴュー内容にはそれほど感心する事はなかったので詳しくはここでは触れないが、要するにオバマ政権が採用するグリーン政策なのである。つまりこれから環境問題が取り上げられるときに、これは大きな政治的な議論の衝突点となる。オバマ政権が二期目に突入するとは誰も思っていないが、ここが世界を二分する分水嶺となるかも知れない。だから重要なのだ。

その考え方には、人口政策、都市計画、遺伝子工学による食料品政策、核エネルギー政策の四つの大きな柱が建てられる。最後から二つ目はEUの統一理念として、最後のものはドイツや北欧におけるそれとしてその激しい抵抗が知られている。

温暖化問題は氏に言わせると今後長い人類の歴史において最重要項目であり、原発の死の灰の処理などは大した問題ではないと言うのだ。穴を掘って埋めてしまえばそれで終わりだと言う。また、原発の危険性などは取るに足らぬ事象であり、ハリスバークやチェルノブイリの事故を鑑みるほどもない程安全だと宣言している。「福島などは古い施設が如何に問題かを世に知らしめただけで、新しい原子炉ではこうしたことが起こらないかを、設計者や使用者が詳しく説明しなければいけない事故」となる。

その温暖化の科学的な真相は定かではないとしても、こうした意見に耳を傾けて議論とすることが重要なのである。特に日本の人はこうした意見を考察することで、今回の未曾有の事故を未だにチェルノブイリと比較して過小評価する官僚達のその脳味噌の中味を想像することが出来る。大電気会社をスポンサーにする大マスメディアが敢えて芸能ニュース様に鬘着用の真否を暴露しようとするのは、日本人の低能な能力を他に逸らそうとするだけではなくて、その思考態度の差異をヴェールに包もうとしているだけに違いない。恐らく背後にはそうした世界感を同一とする資本や第四の権力が控えている。

これは日本人の甘え構造にも通じる自分やとなりの親仁とTVの前で世界中に毎日露出する官僚が同じ社会に住んでいると思いこむ同族意識を利用した教化政策であるのだ。合衆国にとっては、広島・長崎は致し方ない処置であり続け、今後予想される甚大な福島禍も計算出来るものでしか無いのである。だからワシントンは菅政権に強い圧力を掛けているに違いない。これが日本政府の過小評価の真相だろう。

そして今回の日本政府と日本人を観察して、間違いなく共産圏で育ったりした者は、その全体主義的なやり方が酷似していると一様に驚きの声をあげる。日本は西側の民主主義的な社会だと思っていたと。議論の成立しない、ジャーナリズムの存在しない社会、自主独立精神の育まれない社会、同一の仮面を被っているだけの社会、それが日本である。

菅政権が何処に顔を向けて発言しているか、有名評論家と言われる連中の資金源、そうしたものを伝えるマスメディアを見つめることで、自分が「生かされている」もしくは自らを「死へと追いやる」環境に覚醒することの切っ掛けとなるだろうか?



参照:
Ihr Deutschen steht allein da, Stewart Brand, FAZ vom 9.4.2011
原発廃止後のエネルギー貯蓄 2011-04-10 | テクニック
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計画通りにならない核分裂

2011-04-11 | 雑感
本日SWR2ラジオで聞いたニュースは数時間前に福島の避難地域が拡大されたと言うものだった。計画避難と呼ばれていて、首都圏の非常事態宣言の予行演習である計画停電や計画運休停止と同じ発想の命名である。一月以内の避難命令と言うが「覚悟をしておけ」と翻訳すべきだろう。

数時間前には強い余震で45分ほど冷却が出来なかったことが、第一報としてSWR2ラジオで伝えられた。

同心円状の避難地区は突発の爆破の場合の避難時間が考察されているものだろうが、SPEEDIのシュミレーションからまた現在までの累積の放射線被曝量から計算されてその風向きの可能性が強いとも判断されたのだろう。そして今の世代では二度と戻れない無人地域となるのだろう。都心にホットスポットが出来れば同じことである。そもそも皇居は今でも無人に近いが。

水蒸気爆発による大気中への強い放射能の拡散は避けられ無くなったと考えるのが常識的かも知れない。その場合にも前回の一連の水素爆発と比べてそれほど大きく噴き上げるような自体にはならないだろうが、水蒸気量の多さが圧倒的に異なると想像される。それに比べれば今までの排出量は平常の水蒸気塔のその量と比較出来るほどだろう。十分に噴き上げるだけの水量は準備されている。

熱量は十分にあっても一気に中高層へとは吹き上がらないだろうから、雨雲を形成するような自体になるのではないか?大雨警報レーダー写真では厚い雲が原発の上に掛かっていたのは当然であろう。そして吹き上がる水蒸気には揮発性のみならず可也重めのプルトニウムなども混ざるだろう。

さて風下へとは、風に乗って遣ってくるので通常ならば精々時速五十キロぐらいだろうか、つまり一時間で五十キロ、二時間で百キロ達する。一部は二千メートルほど上空から四時間で二百キロ彼方に達して雨となって一斉に落ちるか、徐々に落ちて行くことになるのだろう。徐々に落ちれば濃度弱まっても汚染範囲は広がる。

実際の場合を想定すると人口密集地での短時間での避難は不可能で、仙台や北関東平野部での有事の体制は既にシュミレーションされているだろうが、残念ながら避難や室内待機の手筈などは公表されていない。首都圏においても最も可能性が強いのは雨による被曝と内部被曝であろうから、公共交通機関を停めて、外出禁止となる。しかし、そうした方針を予め明らかにすること無くパニックを避ける事が出来るのだろうか?

政府は安全な場所で指示を出す事が出来るかも知れないが、報道などは外部の安全な大阪発信となると、十分な情報の伝達などは可能なのだろうか。半減期などを考えれば一週間以上は外出禁止となる。その場合の食料や水の配送などは準備出来ているのだろうか?そうしたことを危機管理と呼ぶのである。

日本はもう直ぐゴールデンウィークに突入するのだろう。理想的には都心に人が少なくなるそうした時期に思い切った方策を取れれば被害も混乱も少なくなるのだろう。しかし、たとえそれまで炉の方がもって呉れても、その方策すらないのである。



参照:
備えあれば憂いなしとは 2011-04-05 | 歴史・時事
共同体に警報が鳴り響くとき 2011-03-27 | アウトドーア・環境
首都圏に退避勧告が出た時 2011-03-24 | マスメディア批評
輪番停電という外出禁止令演習 2011-03-13 | マスメディア批評
東京への旅行を控えるように 2011-03-12 | マスメディア批評
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原発廃止後のエネルギー貯蓄

2011-04-10 | テクニック
昨日紹介した新聞記事は、三月二十二日のテクニック欄で掲載されたものだった。そこでは、第三世代のウェスティングハウス社の沸騰水型SWR1000や停止後の冷却の必要の無い圧力型AP1000における商品検査は唯の「良し」もしくは「優良」扱いにしかなっていないと言うのである。圧力抜きなどを備えた仏アレヴァとジーメンスによって共同開発された新システムは、大事故を防げないとした前提で「漏れない」に重点を置いて、セラミックのプールの上に格納炉を設置して何メートルもあるコンクリートで包むことで放射能も吸収して外部へと出さないように設計されている。また四重の緊急冷却システムを内外からの影響を受けないように別棟に設置してあり、洗浄システム自体が内圧を押さえる機能を果していて、EPRと呼ばれるこのシステムは2009年からフィンランドでまた北フランスで動いており、更に二つが中国で操業となる予定となっていた。

上の記事から二週間ほど経って、2020年までには原発を全廃する方向へとドイツ連邦共和国も動いている。さて、再生可能エネルギーで電力需要を十分に賄えるかの疑問点とその問題点を今度は科学欄で扱っている。その時の風力エネルギーの割合は、連邦環境省によると共和国内消費全体の15%、2030年までに26%になると言うことである。2050年において全再生可能エネルギーの比率を供給量の80%へと拡大することを予定している。

さて連邦共和国の現状は、再生可能エネルギーの割合は僅か17%であり、その中で最も有力な風力は6%あまりである。しかし、それに比べて今後ともあまり期待出来ないのが太陽熱エネルギーで1%を賄えるかどうかというのである。その他は地熱エネルギーやバイオエネルギーとなる。

日本やスペイン南部、アフリカの沙漠と違って、ドイツでの太陽エネルギーの獲得は年間を通して困難ということで、ここで北海の風力発電計画などと共通した脱原発への技術的な問題点と可能性が考察される。世界の自動車産業や電気メーカーの開発部門が躍起となって取り組んでいるのが季節によって発電され過ぎて、天候によっても左右される電気の蓄電の問題であるのは周知の事象である。当然のことながら、北アフリカからのロスの少ない直流による高圧電力の輸送のネット化の問題もある。それでも連邦共和国内の需要の10%以下しかサハラ砂漠から供給出来ないであろうと試算されている。要するに発電から家庭電化までを網羅する有効な電気利用としてのスマートグリット構想の完成が必要で、これは数年内に完成すると見做されている。しかし、重要となる蓄電については、自動車産業だけを観ていても解かるのだが本格的な実用はまだ始った所である。

その中でも最も重要視されているのが水素の利用であり水の電気分解、もしくは二酸化炭素からメタノールなどもしくは炭化水素類を、また窒素からアンモニを生成することにある。水素は環境に影響を与えず、炭化水素として輸送に優れているだけでなく、燃料としてまた発電への二次的な原料としてもしくは化学産業での原料として使えるので多様性とその価値は極めて高いと考えられる。

しかし長期に渡る研究にも拘らず未だに目標とする60%の水の電気分解率と至っていないことで、実際には20から25%に留まっていると言う。電気分解のために水の過酸化には触媒が必要とされて、不必要な精製品を生じないその理想とされる触媒は特に大量生産を考えると高価で貴重な鉱物などは使えないと、マックスプランクの化学的変換の為の研究所に移行するミュールハイムのシュレーゲル所長は語る。

そのような状況を総括すると数え切れないほどの風車と広大な地域での太陽熱発電やポンピングによる水力発電施設(揚水発電)やネットワークだけでなく、数多くの蓄電施設は近代的な化学工場のような大きさが必要となるということである。電気を何時までも環境に与えないように使うにはそれしかないと言うのである。



参照:
Zwischenlager für Wind- und Sonnenstrom, Manfred Lindinger, FAZ vom 6.4.2011,
Automatisch sicher, Georg Küffner, FAZ vom 22.3.2011
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原発の水蒸気塔の見える町

2011-04-09 | アウトドーア・環境
今日のフィリップスブルクの原発は平常に見える。しかし、よく見ると手前に見える馴染みの水蒸気塔からはなにも出ていないことに気がついた。福島のお蔭で即刻停止となった一号機のものである。その後ろに見えるのは二号機で、圧力水型のそれの方がひっそりと第二次冷却水の湯気を上げている。

一号機は停止していても沸騰水型で102トンに及ぶウラン燃料と死の灰が崩壊熱を持っているので冷却装置が停止すれば福島とそれ程かわらない状況になるのは今や周知の事実なのである。

こうした比較的古いドイツの原子力発電炉も同じようにMOX燃料を使っていても日本の福島の古いものよりは安全とされている。その根拠の一つは、格納容器が福島の小さなものと比べて比較的大きく設計されているので福島のように格納容器が壊れることはないというのである。更に事故の場合にはフィルターを掛けて積極的に内圧を下げることが出来る装置が完備されているらしい。

つまり、今回のように燃料棒のジルコニウムが水素を発生させて水素爆発が起こるようなことはなくて、その水素を水に変えるような装置が義務付けられている。その装置を福島第一にも推奨していたのだが東電が採用を却下し続けていたのだった。

新しい第四世代の原子炉施設が導入されて、冷却水が必要ないシステムが導入されているからといっても、また津波も地震もないからといって、ドイツやフランスのシステムが安全だと思うのは、遠く離れて人事と思っている東京都民の馬鹿さと同じなのである。

その証拠に、メルケル首相も挙げていないような危険要素は幾つもあって、BLOG「クラシックおっかけ日記」に只の一例としてそれが示唆されている。



参照:
デジャブからカタストロフへ 2005-02-19 | アウトドーア・環境
核反応炉、操業停止 2005-05-27 | アウトドーア・環境
風車と冷却塔のある風景 2006-04-14 | アウトドーア・環境
現実的エネルギー政策 2006-10-18 | アウトドーア・環境
北から張り出してくる寒気 2008-02-15 | 暦
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予測可能な環境の修辞法

2011-04-08 | マスメディア批評
先日岩場で確保していた時の話の続きである。「日本は原発安全神話などがあって、地震や津波の訓練は出来ているが、全く原発事故には対応出来ていなかったから」と言うと、「ドイツでもそんなことはしたことがないから同じだよ」と諦め顔に親仁は答えた。

ここでも先日、災害危機対策の避難決定などは地元の共同体が執り行う事案だという、日本のそれとの比較を朝のラジオ番組で取り上げていたことを紹介した。キール在住の危機管理の専門家がSWR第二で説明していた内容である。必ずしも日本のそれが間違っているとはしてなかった。この件に関して様々な考え方があるのは周知の事実であるが、日本政府のそれの評価については今更改めて繰り返す必要もない。

それではなにに重点を置いて優先させて考えるかと些か戦略的な考察をしたが、やはりそれだけでは足りないことに気がつく。たとえば、「デマ情報にご注意下さい」などと銘打って如何にも正しいことを書いているような似非ジャーナリズムが存在する。それらの見分け方が、まさにその「もの足りなさ」に隠されているものなのだ。

つまり、どのような視線でその文章が書かれているかを読み取ればそれで十分なのである。内容などは分からなくても良いのである。そもそも科学的な事象が文字で表わされる所で、あまり科学的に厳密とは言えないのである。それならばそうしたものを読取る力が無い者は自らの力で判断出来ないのだろうか?そのようなことはないのである。文章化されている修辞法をしっかりと読み解けば良いだけなのである。

高度な修辞法ゆえに高度な芸術となっているバッハやベートーヴェンの音楽を愛でるようなお利巧さんの日本人が、あの枝野官房長官の会見を聞いていて黙っているのがおかしい。本来はジャーナリズムを含む文化的活動は、修辞法の精華以外の何でもないのである。しかしその修辞法もなかなか手の込んだ難しいものから誰でも直ぐに解かるようなものまで含まれるのだ。

そして似非ジャーナリズムが用いる修辞法は、官公庁が発信する嘘のない情報とは異なり、情報が欠落しているにも拘らず断定的に表現するもので、如何にもブルーヴァードジャーナリズムと呼ばれる大衆を対象としたものなのである。それは、安全側にも破局側にも振れる事になり、余計に読者を混乱させるばかりではなく、正しい情報を審査させ難くしている。

今回の福島の場合最も重要なのは、破局によるパニックを避ける事であり、出来る限り被曝者を減らすことで、それには異論はないだろうが、やはりそれから先に修辞法があると言うことだろう。どのような論調にしても肝要なのは実際に起こっているもしくは起こりつつある事象に注目して、筆者がもしくは恐怖に覚えながらも日常生活を送る読者の居る環境に読者を覚醒させ環境を認識させることであり ― 寧ろ、この行為は後述するように最も科学的な観察眼が要求される ―、それはそもそも特定のイデオロギーとは相容れないものなのである。

それにしても、今回の福島事故のドイツにおける反応を、また日本のネット等のそれを具に観察すると、68年以降の運動や反核運動などが全く市民生活の中に浸透しておらず、その中心である団塊の世代は辛うじて現役であるに拘らず十分その知識などが発揮されていない。世代交代に関しては、原発開発第一世代の本当に優秀な人材は現役には居らず全て引退しているのだが、前述したような団塊世代は丁度左右のイデオロギーの津波に襲われていて今や使い物にならないことも明白となった。丁度菅首相の世代だろうか。

つい先日も繰り広げられていた環境運動家の核再生燃料の輸送妨害行為なども一般市民には十分にはその意義が伝わっていなかったことを知るにつけ、非常にそうした運動の無力さを思い知らされる。平常時には自らの事としてそうした事象を認識する能力は限られているという事なのである。しかし、こうした破局が起こる、起ころうとする時に、それにはじめてかのように覚醒した時には既に不可逆な現象は進んでいて、時遅しなのである。

福島の事故の終結は到底見えないが、些細な動きでも細かく観察することで、次に起こる確からしい事象は確率論的に考察出来て、予測は可能なのである。その確からしさとは、まさにその観察者を含めた環境の変化の認識ということに他ならない。
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天皇陛下!万歳!万万歳!

2011-04-06 | 雑感
「無条件降伏」を明らかにして、日本国民の健康と生命を護るのは天皇陛下しかいない。これ以上被害を広げないために、これ以上犠牲者を増やさないために、戦犯としての処刑も恐れず玉音放送を強行した父君のように、これを日本国民は期待するしかないのであろう。

首相官邸は霞ヶ関の行政機構と共に、明治以来日本の国土を、国民を踏み躙って来た歴史をここに更に新たな一歩を推し進めようとしている。もはや首都機能は崩壊している。国民の健康も生命も護れないような国は形骸である。そしてその構成員は憲法に違反した首領として厳しく罰せられなければいけない。日本国民は彼らを決して許してはならない。国際社会はその人命を軽視した危機管理を厳しく糾弾する。

天皇陛下の被災者への訪問は、先の玉音放送以来二度目となるお言葉に続いて、世界中に報道された。日本国民は、もはや天皇陛下のお気持ちにしか拠り所はないであろう。病身の天皇陛下が跪かれ、被災者を見舞われる姿は世界に強い印象を与えた。

それに反して、首相官邸は厚い官僚組織の壁に阻まれて、大統領のような権力がないばかりに、最初からボタンを掛け違った。今や、世界だけでなく、日本国民も彼らを信じてはいない。官僚主義の特権を貪ってきた、財力があり、能力がある者は、日本が滅びても構わない。しかし、一般の庶民はそうはいかない。庶民は護るものもない、庶民を護る者もいない。

天皇陛下も日本が滅びてしまうと、唯の襤褸の家宝を保持した、極東の小国の古い元貴族の家系の一人でしかなくなる。天皇陛下を一刻も早く安全な京都にお返ししなさい。貴方方に残された仕事はそれ以外にありません。時は迫っている。

プルトニウム、十万歳、百万歳、千万歳、万万歳。
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倫理委員会初会合の召集

2011-04-05 | 文化一般
メルケル首相の呼びかけでエネルギー倫理委員会の初会合が開かれた。政財界文化宗教などの代表者が議論する。福島の事故を受けての今後を考察するためである。それまではドイツ連邦共和国の全電力の22%を原子力が担っていたが、事故を受けてその中の8%が老朽化した施設として停止冷却されている。その不足分を埋め合わせるためにフランスやチェコの原子力を輸入することなども当然のことながら倫理の問題である。

これを日本に措きかえれば、なぜ東京電力が東北で原子力発電所を運営しているかの問いかけとかわらない。今後、首都圏内や房総半島や湘南海岸などへの原発の移転が行なわれない限り、原子力発電を即時停止すべきだろう。少なくとも連邦共和国では至る所に原子力発電所が点在して、フランスでもブルゴーニュを除くセーヌ川沿いを含む共和国内の何処にでも原子力発電所が存在する。先ずはこうした倫理が確認されなければいけない。

昨晩は独公共放送局のニュース番組では、福島で被曝作業を無理強いされた消防署員などが大きく取り上げられたようである。現代の神風特攻隊、玉砕の姿が暴かれていたようである。まさに一皮向けば日本社会は中共のそれとあまりかわらない。倫理が問われている。

菅政権が出す自由退避勧告とは、如何にも自由主義的な判断を尊重しているかのように見せ掛けていながら実は「駄目な者は早く失せろ」と言うことではないだろうか?それとも、日本人は皆十分に裕福で自由な合衆国に避難した一流ユダヤ人に匹敵すると言うのだろうか?

首都圏にパニックが起こったとしての関東大震災のときのように朝鮮人の虐殺などの野蛮な行為はないと信じている。しかし、被災地における庶民の助け合いの気持ちはあくまでも小市民的なそれでしかない。日本最大の世界有数の寡占大電気会社の使い捨て労働者のそれは第三帝国時代のダイムラー社のユダヤ人強制労働とどれほど違うのだろう?そして日本国の官僚主義は玉砕を公務員にそして市民に強いる。こうした社会に何が期待できるのか?

太平洋への放射性物質の垂れ流しも倫理が問われる。それ以上に、ヨードのみならずセシウム汚染された小魚が見つかった件に関して、今朝の車中のラジオは「日本人の重要な蛋白源である魚の供給がなくなるのではないか?」と人の好いドイツ人アナウンサーが質問していた。それに対してSWRの特派員は東京から、「日本の魚場は各地にあるので西日本などから漁獲できる」と答えていた。しかし、その件をFAZ新聞のインタヴューに答えてグリンピースの化学の専門家は些か異なる返答をしている。実は怖いのはプルトニウムであって、既に周知のことであるが、アルファー線を出すそれは魚に蓄積していても外部からは全く判らないというのである。日本の皆さんは、あのNHKの問われてもいないのに放射線の透過を説明する解説員が見せるフリップを思い起こせばよい。要するに外へは飛び出さないが、内部被爆すれば確実に癌が発生するのである。大気中の飛散に関してはその形状や質量が大きく関わるが、同じ水中でそれも移動する生物などが遠くに運ぶそれは事情が大きく異なるのは常識的に分かるだろう。

さらに植物連鎖は、小さなものから大きなものへと連鎖していくので少なくとも一月ほど経ないとその影響は知れないといわれる。福島沖は暖流と寒流が交わる絶好の漁場だったようだ。其処から一方はハワイ方面へと、もう一方はアラスカ、ベーリング海へと流れていく。放射能は大海に薄れていくのは間違いないのだが、そこを漁場とするロシアや中国で加工されるそれらの将来にも影を投げかけるかもしれないと指摘される。当然の事ながら関東以北の太平洋岸の沿岸漁業はこれで壊滅だろう。日本の食材などは日本国外では日本食店以外では使われなく、奇しくも人も舟も全て流されてしまったのだからそれ程経済的な影響はないのかもしれない。

補償を恐れるばかりに良い加減な姿勢をとり続ける霞ヶ関。倫理のない社会、その官僚主義を石棺に葬ってしまうにはどうすればよいのか?
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備えあれば憂いなしとは

2011-04-05 | 歴史・時事
またまた日本は世界の笑い種を提供する。地盤の緩んだ裂け目に樹脂を流すのは良いとしても古新聞紙を刻んで混ぜるとは近所の水道屋でもやらない。まるで原発の敷地の中を出来の悪い庭師が蹲の水漏りの修繕に右往左往しているようであり、ミスター・ビーンの仕事振りにも勝るとも劣らない。

しかしそれだけでは済むまい、環境汚染の犯人として、人道に反する行政として、いづれ「戦犯」として裁かれることは間違いない。国民裁判になるか、国際裁判になるかは日本民族次第であろう。

改めて警告しておこう。そこまでの大気汚染とはなっておらず、小康状態で時間稼ぎをしている今だからこそ、少なくとも百キロ圏の住民の緊急時の避難の指導、二百キロ圏での心掛けを徹底しておくべきである。日曜日に飯屋で見た嘗ての左右対決時の残り香を燻らす扇動的なジャーナリズムの独シュピーゲル誌では、単純に260KMの円を描いていたが、実際に半減期が三十年と長いセシウム137の集積が強い地域が、丁度現在ドイツの気象台のそれでこげ茶に相当する地域であり、炉心から二百キロを超えているのに相当しているのである。それはチェルノブイリから二百キロほど離れた所で、十年後の価として炉心近辺と全く同じ平方キロ当たり40キューリーつまり平方メートルあたり1.48メガベクレルの汚染が広がっていることにも遠隔地の飛び地での汚染が広がることを証明している。丁度今回放出された低濃度の汚水の十倍ほどの放射能度である。そんなものが体内に入り骨に蓄積するとなるととても危険な数字である。実際、八百キロほど離れたポーランドなどでも当時子供たちはヨードを服用させられたのであった。

しかしこうした数値の健康被害に対する認識は大いに異なっていて、基準値を遥かに超える食料を口にしてもなんとも気にならない人も世界には居るらしい。そうした味噌糞同じ人間が、食物をして健康に良いとか悪いとか言うのがさらさらおかしい。

さて、こうした酷い状況が訪れるのは、現在大量の水で飛散が抑えられているだけでなく、緩衝材として放射線量を抑えているようだが、その底が抜けたときに訪れるだろう。またマグニチュード八に迫るような余震が千葉沖などで起きたときには、さらに手もつけられなくなる。そうした備えをしておくのが肝心なのである。

気象台の予想などが話題となっているようだが、それらはあくまでも目安であり、大量の水蒸気から強い放射線物質が一気に立ち上るようなときに、その風向きなどの予想が避難の重要な指針となる。よって、住民にオンタイムでこうした情報を自らのものとさせておくことが冷静な判断を促すことになるのだ。

やはり、日本の官僚主義は前近代の遺物でしかない。隠蔽とタブーの社会、そうした国が先端技術やメディアなどを先導していける訳がないのである。前栽の水漏りを直す庭師が世界の注目を集める所以である。



参照:
読売新聞の4月4日の記事:放射性物質の拡散記事を載せています。 (風信子(ひやしんす)の☆本の紹介&エッセー☆俳句)
日本人よ、恥じを知れ! 2011-03-25 | マスメディア批評
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収容所送りとなる人たち

2011-04-04 | 雑感
この間の思いがけなかったことを記録しておこう。ここにも登場している人たちのことなので、侮辱罪で告訴されてもいけないので気をつけて書く。

一人は、父親が宣教師の日系アメリカ人で、自らも強制収容所にいた人なのである。その人が、こちらは未曾有のカタストロフに興奮していると、それに負けずに語ったことである。「東電の作業員は遺書を書いているらしい」と感動しているのである。そのときはなぜそんな感動をするのか分からなかったが、今日本国外にいるような日本人の様子をみていて合点が行った。

彼のことは当然新教徒であるという意識があったから気がつかなかったのだが、やはり彼らは日本人なのだと、途轍もなく「神風行為に感動する」のだと。いつも思っていたように、アーメンソーメン冷やソーメンなどといっている偉そうな口を利く連中の多くは神道のそれも国家神道の連中なんだと分かるのだ。結局、信仰と民族的な感覚は異なるようで、其処に何があるのかとても興味をもっている。

少なくとも、遠縁の日系人にはそうしたものは少ないどころか、身近にもヒットラーユーゲントに熱くなる者までいても、そうした人間はいなかった。要するに神風行為と言うものが犬死以外の何ものでもないことはまともな教養を持っていた者には分かっていたのである。誰も、喜んで死にたいものはいない、誰も、喜んで被爆したいものはいない。

福島第一の作業員が計測器を持たされていなかったことを嘆いているインタヴューがラジオで流され、地震後に再びはじめて数が揃ったことが伝えられた。

一人は、昨朝の車中のラジオでやっていた修交150周年に纏わる催し物を着々と執り行うと言う東ベルリンの思考停止のドイツ女性のことである。その女性についてはここでもベルリンの彼女らのアジトでどやしたことを書いたので、繰り返さない。まさに東独のあの連中と日本の連中の感覚は馬鹿みたいに似ているのだ。つまり、東独でも日本でも行間を読んでひっそりと内に篭ることが要求されるのである。

まともな教養のある者は、この機に及んで、現在の、終戦の日本の悲惨を形作っている古いプロシアの官僚主義の責任をけっして軽々しく扱うことなどは出来まい。

昨日は外での岩登りシーズンをそれも南プファルツの雑食砂岩地帯で始めた。あれだけ室内でやっていたにも拘らず、八時間近く熱心に登っていると足に来た。しかし冬場の慣れのお蔭で、大きな屋根はなかったが垂壁やちょっとした庇にも十分挑めれる様になった。当日の朝届いたリュックサックと確保器などを試して、お目当ての機械式楔フレンズの設置練習をみっちり行った。

この地方の奇岩は全てハーケンは抜かれていて、足場を作るのに必要なボルトが打ち込まれているだけである。場所によっては岩頭の頂上にしかそれが設置されていない。つまり、必要な分だけを設置していかないと、ザイルを結んでいても滑落すれば地面まで落ちてしまう。そうしたルートに自分で楔を挟んでいく練習である。不安と言う人もいるが、昔のハーケンと比べれば必ずしも不安ではない。むしろ、自然にやさしいテクニカルな感じはとても気持ちが良い。今シーズンは毎週のように練習に行く予定である。怪我さえなければ、可也の経験を積むことが出来そうだ。

リュックサックを試すために担いで確保していると、後ろから迫ってきていたおっさんが、原発のことを話して来た。彼は「発電機を早く運び込んでいたらどうだったのだろう?」と疑問を感じていた。その時はじっくりと考えられなかったが、改めて考えるとブラックアウトのあと数時間以内で高熱となり燃料棒が解けて下に落下していたので、初動でしかポムプを動かせなかった筈である。その後はディーゼルの予備電流で動かせてもまともに水が入らなかったのは周知の事実である。
コメント (2)
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前近代に生きる日本の自己欺瞞

2011-04-03 | 文化一般
一昨晩のニュースは日本政府は国民を落ち着かせようとしていると、ブルーのユニフォームから背広に代わった大臣達の様子を伝えていた。原発事故発生後日本人が全く見えていない日本が見える報道をしている。そこで、なにも知日家のイアン・ブルーマのように日本人の使う「仕方ない」を挙げて日本を描くまでもなく、これは社会学的な考察の対象となる事象であろう。

FAZは、こうした一連の事象を二つの記事に纏めている。一つは経済面で「日本の自己欺瞞」として、もう一つは「いざ、緊急通報」と題した文化記事である。

前者では、一時は世界のお手本とされた極東アジアの日本株式会社が、二十年間に渡っての体たらくの原因を、今回の一向に見通しが効かないでお手上げ状態の日本の危機管理と考えている。要するに、日本は1868年と1945年に二度の解放をしたが、その実は上辺だけの近代化であって、「和魂洋才」の言葉に表わされる好い加減なものであったと、日本の官僚主義を強く批判している。開かれた議論、市民社会、自主性が無く、日本のビジネスマンがハンドブック片手に ― MBAの肩書きを片手に - 世渡りをしているのと同じで、教科書がないところではその無能さを曝け出すと言うことである ― 奇しくも今ドイツと修交百五十周年に、その当時から古くなっていたプロシアの国家制度を踏襲したそのままに、「(出る釘は打たれる式の)日本は未だに、西欧の尺度からすれば前近代にある」と記者は明言する。

そして、そうした自己欺瞞を、福島が片付いたところで、日本人自身が向き合わずにはいられないだろうとしている ― さてどうだろうか?玉砕で敗れた日本人も全く生まれ変わったかのように振舞い、その実は只単にその狭められた視角の向きを変えただけではないのか?。

その例としてトヨタの世界戦略なども具体的に挙げられるが、企業活動における紛争時のとんずらや臆病さ、時間の掛かる決断など、まさに官僚主義のお手本として世界に君臨した日本のプロフィールを映し出す。そしてそこが、この危機に瀕した日本の取る態度が世界的に大きな批判対象となるところなのである。実際に、また別の記事においては六月の時点で一向に先が見えないようならば、ワシントンもそれを世界的な決定機関として積極的に機能させたいIAEAの判定として、決断が下されるだろうという。そうした日本の態度が顕著である限り、日本は今や被害者でなくて、もはや環境汚染を広げる加害者なのである。

もう一つの記事は、幾つかネットに散見する日本国外に住む日本を外からみる日本人の懐疑に回答を与えているかも知れない。つまり、ドイツの一流の学者などが討論しても、どうしても感情的にしか映らないその情景への懐疑である。その懐疑は、外からみると言う特殊な条件において、「日本の姿を疑心暗鬼で眺める」その心理を裏返しに反映しているのでもある。事実、昨晩のSWR2のいつもの夕方の討論会番組では各々の分野でのまともな学者であるにかかわらず即物的な観測よりも観照的な感情の発露でしかなかった。こうした例はイデオロギーを討論したり、ヨハネの福音を語り合うときでさえもなかなか起こらないのである。なぜだろうか?

この「福島の前に技術が私たちに約束したもの」の副題を付したその記事は、如何に学問やそれを土台とする社会が危ういものであるかを語っている。それは同新聞の先日の科学欄の統計学的な見地からの今回の事故への考察にも呼応していて、今でも大原発事故の起こる確率は飛行機の墜落事故の十分の一しかないと言うのである ― しかし、こうして起こってしまえばそれで安心する人はいないという「実証的な見地」が考慮される。もちろん「確率論的」に言えば、頻繁に起こっている小さな事故に既に予想は出来ていた筈だとするのは私見である。

しかしここで述べられていることは、まるで子供のように技術をおもちゃにして、何が起こっているか判らずにその無能さを曝け出しているのは、なにも才能の足りない似非学者や技術者ではなくて、そうした社会であると言うのだ。つまり、こうした不可逆な現象が起こるまでは「確率的」に絶対起こらないと言う主張が、一瞬にして否定されるような状況で初めてその体系の限界があからさまになるということでもあろう。その通り、特にドイツの「専門家の議論」を要求される知識人は、そうした体系の中ではじめて正論を吐くことが出来、冷静に対応出来るのだが、一度疑心暗鬼になるとうろたえてしまう。それは、真実を追いかけようとしている生真面目な学究精神を反映してはいるのだが、残念ながら「微量の放射能の医学的な影響」やその扱いなどは学術的に認識するには限界があるのだ。だから「ここで安全と宣言することは、原子力発電が安全と宣伝するのと全く同義」である。

それは丁度一月前ほどに取り上げた遺伝子工学の農作物の影響と同じで、人類がそうした技術や環境に慣れるには十分な認知の時間が必要なので、前述のラジオ番組でも捉えられていたが「極一般的な不安」と言うのがこうした事故における最大の問題なのである。そこを十分に理解して配慮することが最も大切なことなのだが、それを指して「無知蒙昧な教育のない庶民の根拠のない不安」などと世界に向けて放送するNHKは逸早く解散した方が良い。また、容易に学術的な安全宣言をするような官僚組織を叩き潰し、そうした官僚は粛清されるべきなのである。

既に成された、あとは正しい方向へと「常識」を以って導かれなければいけない。そのためにも教養や教育と呼ばれるものが重要であるのだ。そして、災害用のロボットなどの導入を十年以上も拒否し続け、一方で路上生活者などを「使い捨て労働者」と呼んで危険な仕事をさせていた東電をして、教養はそうした人道的なものに結びついたものであり、教育は放射性物質を樹脂で固めたりと時間稼ぎをするような技術的にお手上げとならないようなものでなければならないと明言している。



参照:
Japans Selbstbetrug, Casten Germis(Tokio),
Wählen Sie jetzt 112, Jürgen Kaube, FAZ vom 1.4.2011
ドイツ国の日本国民に対する同情と日本問題 (作雨作晴)
終わり無き近代主義 2005-09-03 | マスメディア批評
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