デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 





YouTubeのチャンネルのトップ表示動画を過去のものにした。しばらくこのままにしておきたい。
というのはバンドのメンバーのご家族に、ここ最近、結婚というめでたいニュースがあったからである。
そんなわけで、メンバーも弊チャンネルに目を通すことがあるので、ささやかながらそれにふさわしい曲をデフォルトにさせてもらった。改めて、ご結婚おめとう。

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ミケランジェロ「あがないの主イエス・キリスト」(1521)

こちらこちらのつづき。
サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会は芸術作品らたくさんみられ、ルネサンスに貢献した偉大な画家や教皇たちが埋葬されているだけの教会ではない。ガリレオ・ガリレイが「地動説」を自ら放棄した教会であったりと、歴史的にも重要な出来事の舞台となった密度の濃い教会である。


ガイドブックによれば、ゴッツォリ作の「聖母子」とのこと


聖カテリーナの墓に加え、もう一つ見ておきたい墓があった。ルネサンス前期の画家フラ・アンジェリコの墓である。


フラ・アンジェリコの墓




フラ・アンジェリコといえば、このタイプの「受胎告知」がよく知られている。ミネルヴァ教会に埋葬されていることで示されているとおり、彼もドミニコ会の修道士である。フラ・アンジェリコの描く絵は敬虔さとやさしさに満ちていて、見ているととても温かい気持ちになってくる。









ほか、レオ10世の墓、クレメンス7世の墓、ウルバヌス7世の墓、マリア・ラッジの墓も目にしたが、他にも行きたいところがあったので拝観は短めであった。帰国後、ネットにてミネルヴァ教会を訪ねた方のサイトをいくつか拝見し、短めの拝観であったものを補ったが、改めて芸術作品と歴史が凝縮された教会だと思った。

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コンパクトデジタルカメラでがんばってみた。



















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祭壇は聖カテリーナの墓でもある

前回の「つづき」といえばつづきである。

アンドレイ・タルコフスキー監督が撮ったイタリアを舞台にした映画『ノスタルジア』(1983)に、ドメニコという登場人物がいる。映画の中でドメニコは、篤い信仰ゆえ7年間家族を家に閉じ込めて世界の終末を待つのだが、そのドメニコが宣託を受けそれを与えたとされているのが、シエナの聖カテリーナである。彼女は、現在、イタリア全土の守護聖人とされている。(ちなみに、まぎらわしいようだがアレクサンドリアの聖カテリーナとは異なる)
『ノスタルジア』の重要なシーンにローマも使われていることを知り、またシエナの聖カテリーナの墓もローマにあると知ってからは、ぜひその舞台や墓を訪れてみたくなった。きっと監督にしてみても、シエナの聖カテリーナへの思いはそれなりに強かったと思うのだ。(私個人の憶測の域を出ないが、)監督の1979年のローマ滞在中、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会の聖カテリーナの墓を訪れていた可能性は充分にあることだし。
映画の登場人物はドメニコ、シエナの聖カテリーナが属していたのがカトリック教会のドミニコ会、ミネルヴァ教会はドミニコ会の重要な教会堂、なんたる「つながり」かと、現地では気づかなかったが、これを書いている今なら、その「偶然」にちょっと微笑んでしまう。

それにしても、私にとって『ノスタルジア』からの影響は、未だに大きいのだと墓を訪れてみて改めて思ったのだった。タルコフスキー映画に出会ったのは、ドストエフスキー作品やプルーストの『失われた時を求めて』を、乱読するまま集中的に読んでいた時期だった。記憶の反復や、意識の断片をつなぎ合わせるといった効果を、静謐な映像美でもって金の箱に詰めるが如く描写・表現してしまう、これまで見たことのない映画であった。映画の手法や、作品に出てくるドメニコの自己犠牲の精神や監督の理想の探求の背景に、プルーストの作品や、ドストエフスキーの『白痴』、ガルシンの『赤い花』などの主人公、キリスト教の聖人たちの影響があることは、監督のことや映画について調べていくうちに分かるような気がしてきたし、同時に映画のロケ地に行ってみたいと思うようになった。

ロケ地として使用されたカンピドーリオ広場にも足を運んだ。





















写真は順に、コンセルヴァトーリ宮の柱、市庁舎への階段、アラコエリ教会の別入口への階段、マルクス・アウレリウス帝の騎馬像、カンピドーリオ広場への坂の階段である。
映画のシーンと私の写真などとが同じように写るはずはないのを分かりつつ、興奮のまま広場の姿をカメラと目に焼き付けようとしたのを覚えている。映画のなかで、ドメニコの愛犬ゾイが絶叫するコンセルヴァトーリ宮の柱や傍の階段では、一休みする観光客がなかなかその場を離れず、正直ちょっとイライラしたものだ。でも、コンセルヴァトーリ宮全体を撮らず、一心に柱のある部分だけを凝視しカメラを動かさずじっと立っている私の姿は、怪しいというか変な奴だったに違いないだろう。
カンピドーリオ広場にしばらく立ち尽くしてから、市庁舎下の遺跡群をじっくり見た。水飲み場の水を飲み、再び広場に戻ってから、イル・ジェズ教会に行くため、丘からヴェネツィア広場へ向かおうとした。そのとき、どこかの国の団体ツアーの女性ガイドの口から「タルコフスキー、ノスタルジア」という言葉が発せられたのを聞き取れた。あぁ、あの映画のことをツアーでの解説に盛り込むガイドも存在しているのだなぁと嬉しくなった。解説の中に監督のその後のこと(※参照)が語られていてほしいなどと、ただのいち映画ファンのおこがましい願いを抱きつつ、団体の傍を通り過ぎ、坂の階段を下りた。夕方になろうとしていた。

※(ソ連内での作品制作にいたるまでの障害に疲れ果てた監督は、『ノスタルジア』のあと、そのまま西側にとどまり、二度とロシアの地を踏むことはなかった。次作『サクリファイス』を発表した1986年の12月28日、監督は肺がんのためパリで客死、葬儀はパリのロシア正教会で行われ、遺体はパリ郊外の亡命ロシア人墓地に埋葬された。)

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サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会

現在のローマで見ることのできる建造物には、古代の遺跡の上に建てられたものも少なくない。
今も残るパンテオンの周辺にはポンペイウス劇場、ポンペイウス回廊、アルジェンティーナ聖域、アグリッパ浴場、サエプタ・ユリア、ハドリアヌス神殿、ドミティアヌス競技場、他さまざまな施設があった。
このなかに、サエプタ・ユリアというのがあるが、これはパンテオンのすぐ東どなりにあった、(ユリアという名のとおり)ユリウス家の名を冠している中庭を含む広大な列柱回廊のことである。カエサルが計画しアウグストゥス帝が完成させたのだが、これは投票などを行う選挙会場で長さ300メートル、幅120メートルもあった。
サエプタ・ユリアには、ミネルウァの神殿があった。ミネルウァは詩・医学・知恵・商業・製織・工芸・魔術・戦いを司るローマ神話の女神であり、ミネルウァ神殿はサエプタ・ユリアの中庭に建てられていた。
サエプタ・ユリアのミネルウァ神殿跡の上には現在サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会が建っている。キリスト教の教会なのにミネルヴァの名が残されているのは、もちろんミネルウァにちなんでいる。


青色の天井が目を引く

何か古代ローマの遺跡っぽいものが教会内部に用いられていないかどうか少し期待したが、中は三廊式の立派なゴシック式教会そのものであった。
しかし教会の天井を見上げるとともに、あぁ、ここはここでキリスト教会にあるべきものがきちんとあって、教会の雰囲気だけでなくキリスト教の信仰の歴史的な源というか大いなる精髄を目にすることのできる貴重な場所なんだな、と教会については不勉強ながらも感じ取ることができた。


ペルジーノ作「主イエス・キリスト」




アントニアッツォ・ロマーノ「受胎告知」


カメラの撮影機能のどの色合いで撮るか非常に迷った


カラファの礼拝堂のフィリッピーノ・リッピによるフレスコ画


「聖トマス・アクィナスの勝利」








上に紹介した礼拝堂の壁画・絵画については、ガイドブックやウィキペディア、他のミネルヴァ教会を紹介した良質なサイトに詳しいので私からは触れない。
ただ、どのように表現したらいいのか、この教会はしばらくじっと居たくなるところだったことは否めない。礼拝堂の絵や彫刻、聖人が描かれ金色の星が散りばめられた青色の天井が、ゴシック式教会の独特の薄暗さの中では心を落ちつかせる雰囲気をかもし出していて、訪れる人々も注意されるまでも無く自ら静かに見学しようとする姿勢になるかのようであった。
投票などを行なう選挙会場であったサエプタ・ユリアは、私が勝手に想像するところ、きっとワイワイガヤガヤとそれなりに騒がしく、ミネルウァ神殿にもその声が聞こえてきていた、とするならば、現在の教会はそれとは真逆?であるといえるのだろうか。尤もこれは帰国後に得た印象で、現地ではこの教会でぜひ見ておきたかったお墓の前で佇んで、それに思いを馳せていた時間の方が長かった気がする。

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San Carlo alle Quattro Fontane


現在のローマの街並みは、バロック時代の空間造形が基になっているといっていいだろう。ルネサンスの後、教皇シクストゥス5世は、キリスト教の巡礼者が訪れるべき7つのバジリカを見通しの聞く直線道路で結び、広場にランドマークとして古代の記憶と結び付くオベリスクを立てて、明快な順序をもった巡礼路として整備する大事業を成し遂げた。
その構想はバロック時代の建築家たちによって、実現された。主な建築家を挙げると、16世紀にはドメニコ・フォンターナ、17世紀にはカルロ・ライナルディ、カルロ・マデルノ、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、フランチェスコ・ボッロミーニ等、どこかで聞いたことのある名前がずらりと登場する。
現地で多くの人が集まる大きなバロック建築といえば、ヴァティカンにあるサン・ピエトロ寺院、トレビの泉、スペイン広場、ナヴォーナ広場などが挙げられ、どこだってすばらしいバロックの「舞台」であるが、それらはバロックうんぬんというより町の大きな目印の役割を担っているように思う。実際そういったところは、宗教上の聖地や映画の名シーンで使われた場所であることが多く、町の歴史など考えずとも、ローマに来たならとりあえず行っておきたいという意図がはたらいて歩いていけるシンボルといえばいいか。
しかし、ローマには町なかの小路を歩いてみて、ふと足を止めたくなるようなバロック時代の息吹を感じられるような雰囲気の建物も多いのだ。町なかにバロック建築の小さい教会を見つけたりしたら、有名な教会でなくとも外観をじっくり眺め、開いているなら入ってみるのがいい。といってはみたが、この記事で紹介するのはガイドブックにもしっかり載っている有名な小さい教会なのだが(笑)。
それはバルベリーニ広場からクァットロ・フォンターネ通りを上って行けば見つけられる聖堂である。大きなシンボルとは正反対な性格を持つといっていいような、注意していないと気づかずに通り過ぎてしまいそうになるほど町に溶け込んでいるサン・カルリーノ・アッレ・クアットロ・フォンターネ聖堂は、町なかで幻想都市を演出してくれている舞台装置的役割を果たしている美しくすばらしい聖堂であった。



床の模様


聖堂は建築家ボッロミーニのその絶頂期に建てられたが、同時に彼が初めて独立した仕事の作品である。冒頭の画像にあるファザードを見ただけで、バロック芸術コテコテの感じというのは分かるだろう。バロックについて書かれた本にはよく見られる記述だが、バロック時代の建物は、見る人を幻惑させるというか一種の陶酔感を与える特徴があるように思う。バロックの、古典的な規範を守りつつかつ崩してなお、ルネサンス芸術を受け継ぎ、それに力強さと曲線をとりいれた流動的な動きとリズム感を与えた清新な表現が、こういった幻惑や陶酔感を与える秘密なのかもしれない。
しかし、サン・カルリーノの魅力はそれらの特徴に加えて、独創的でかつ計算しつくして建てられているところにある。そういう意味でボッロミーニの奇才ぶりが存分に発揮された傑作といえるだろう。



天井は八角形・六角形・十字架の形が組み合わされ楕円で包まれているように見える

 



回廊(中庭)


聖堂自体は驚くほど小規模だが、中に入ってみると、幻想性と力強さを感じさせる演出効果にただ目を見張り、大きさのことなど忘れさせてくれる。抑えられた色調とマッチしている立体幾何学的な格天井は見上げるだけで吸い込まれそうになるし、調和という言葉がぴったり当てはまる回廊(中庭)の細部には独特なこだわりが見られて、見事というほか無かった。
聖堂には、妙な話だが「幻想都市ローマに迷い込みたい」衝動に駆りたたせるものがある。しかし、華やかなローマのなかではとびっきり目立っている存在ではなく、また場所的に少し離れている。にもかかわらず、開館時間は一日3時間程度と、私が思うに謙遜というかちょっぴり自己主張を抑え気味かもしれない。ローマという町を演出するバロック時代一級の舞台装置は、奥まったような場所にあっても訪れる者の目を奪うが、ほんの一時しか幻想を味わうことを許してくれないのであった。



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