山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

うつ病

2005-09-04 10:35:13 | 未分類過去
私はうつ病になりかけたことがある。結局のところ競争社会に負けたんだと思う。今は戦う必要のないところに身をおいて安全地帯に暮らしている。だから療養生活のようにも感じている。
時々、何かふとしたことで、心の傷が再現されることがある。それで、うつ病に関する他の方のブログを検索して見ることも多い。

私の場合、ウツの原因は仕事であった。根本的には最初に2年間勤めた日本語学校でのある出来事に始まり、その次もまた日本語学校の別種の出来事で受けた精神的ダメージであった。その後別の会社に7ヶ月働いたが、やはり日本語を教えたくてまた再就職した。そうしたら1年で契約がおわり、かなり気持ちが萎えた。その後は兼業していたスーパーの仕事のほうに力を入れ、収入を増やすためにもシフトの人手が足りない部分に進んで入って働いていた。しかしある日突然先輩同僚から仕事が遅いと罵声を浴びせられ、ついにウツがピークに達した。そのときに言われたことばの中に「あなた一人のためにみんなが迷惑している。みんな面と向ってあなたには言わないけど陰では言っているのよ」というのがあった。他の同僚たちはいつもと同じだったのにもかかわらず孤立感に耐えられなかった。そのことがあってから1週間はどうにか通い続けたがどうにも不可能になって、ついに神経科に行き、診察を受けた。医師は時間をかけて話を聞いてくれ、原因は家庭ではなく仕事場であると判断し、しばらく自宅療養することが必要との診断書を書いてくれた。それを持っていってスーパーの仕事を辞めさせてもらった。

私は、最初スーパーの同僚が原因でノイローゼ状態になったと思っていたのだが、実は事の発端は最初の日本語学校に始まっていることに気がついた。それ以来、いやなことがおこるたびに私の精神は自分でも知らずにひずみを大きくしてきたらしい。最初の日本語学校で一人の学生の問題をめぐって経営者側と担任の私とは見解の違いがあった。そして私が自分の意志で起こした行動が逆鱗に触れた。そのことで「顔も見たくない」と言われた。学校に損失を与える結果になったことを詫びたが許されることなく、結局自分で辞めるしかなかった。確かに私は辞めなければならないくらい学校に対して悪いことをしたのかもしれなかった。
その後、なにか自分に非難めいたことが起こるたびに自分には罪があるという気持ちが増幅していった。

次の日本語学校は、最初の学校とは学生の様子がぜんぜん違っていた、反抗的な学生や無気力な学生の割合が多かった。そんな学生たちは日本の生活に不満を爆発させる寸前状態だった。それをきびしく管理するのがその学校の方針であるが、私にはそれができなかった。そして、学生を統率できないぼんくら教師であるというレッテルがどんどん貼られていって、4ヶ月で辞めることとなった。
最後の学校は非常にいい学校だった。学生の質も勤務の待遇も最高だった。今思えば、私にはもったいない学校で、そこに勤められたことのほうが不思議だったのかもしれない。

日本語学校に続いてスーパーを辞め、すべての職を失ったものの、私は完全につぶれてしまうことはなかった。すでに日本語学校に勤める気力はなくなっていたが、他に挑戦する意欲はあった。本当のうつ病というわけではなかった。

昨年の10月は夫からみてもおかしかったそうで、病院に行ってよかったと言っている。夫も職場では精神的虐待のような目にあった経験があり、精神病になりそうな状態というのはよくわかっているから、夫も心療内科に行きたいということがあるくらいであった。

職場ではまず人間関係をうまくすること、その中で上手に能力を発揮することが必要であり、それがうまくいかないと人からの攻撃が来る。何かが平衡を失うと別のところにも影響していく。上司との意見の相違で上司に嫌われると、いい授業もできなくなる。悪循環が始まる。何とか仕事だけはこなそうと思うと家事ができなくなる。慢性的に頭の働きが麻痺していく。あきらかに生活全体の処理能力がなくなっていく。徹夜をして明け方わずかに眠ろうとすると心臓が重苦しい。起きようとすると心臓が一瞬つまるような気がする。徹夜を続けていたらいつか心不全になるのではないかと思ったことがあった。そんな状況は二つ目の日本語学校のときから起きていた。今になってみれば日本語学校の契約が更新できなくてよかったのかもしれない。

最後の日本語学校に勤めていたころは、帰宅するとばったり疲れてそのまま眠ることが多かった。なぜか前日はなかなか授業の準備にかかることができず、時間をもてあまして夜が更けていく。夜半になんとか準備をして、このままでは寝る時間が皆無になるぞというような時刻に床に就く。1時間ほど仮眠を取り、朝出勤して午前の授業を終え、3時ころ帰ってくる。
そんなときにかぎってよく、ある団体の知人たちが3~4人つれだって訪問してきた。それはいつもその団体の集会への誘いにきまっていた。そういう人は私の勤務日や時間帯までちゃんと控えてあり、帰ってくる時間を見計らってくるのかもしれなかった。時には3歳くらいのこどもをつれていることもあり、私が自宅にいないはずはないとみて、子供に「○○さ~ん、いますか~、○○さ~ん!○○さ~ん!」と玄関前で何度も呼ばせた。それはさらに私にとって苦痛だった。やっと家にたどり着いて布団に横になれたというところを、起きあがって、子どもにやさしい笑顔を見せる余裕などはなく、大人だけならまだしも、子供がいることでさらに玄関に出ていくのが憂鬱になってしまう。その人たちは、私がその団体の集会に参加したくないので、居留守をしていると思っているようだ。それで、こんなかわいい子供が呼べばいくらなんでも純粋なこどもの気持ちを踏みにじるようなことはしないだろうと思って、子供と一緒に私を待っているようだったが、それでも反応しない私に憤慨していたにちがいなかった。

私はそのまま昏々と眠りについて、夕飯時まで寝ている。家族は私の昼寝はいつも見慣れていてなんとも思わない。起きると元気を回復し、いつもの調子にもどっている。

それでも、そのころはやはり頭が病気だったようだ。家事はため放題だったし、料理もどんどん手ぬきなっていた。夕飯を作っている途中で、きたないシンクの中に下ごしらえの食材をまるごとこぼしてしまい、ああ、もう作るのやめたとか、焼いている魚がうまくひっくり返せないでいらいらしてもうやめたなどというようなこともたびたびあった。
集中力と根気、頭の整理があきらかに欠如していた。そんな時夫は、じゃあピザとろうとかカップヌードルでいいとか最初から作らないで食べに行けばよかったなとか言う人で、こんな私の行動をせめることはなかった。

今、家事が人並みにできるようになったのは、やはり日本語教師をやめて、療養生活をしているから、精神が回復してきたのに違いない。
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