山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

数え切れないトラウマ

2005-09-25 14:51:41 | 未分類過去
私にはものすごくたくさんのトラウマがある。その中のひとつが「モーツアルト」である。

昨日テレビ番組で、モーツアルトの曲は精神に良い影響を及ぼすというのをやっていた。このことは、最近巷で話題になっているらしく、2~3か月前にも、クラシックなど全然わからない夫が急にモーツァルトの曲を室内に流して聞いたりしていて、何事かと思ったところ、モーツアルトの曲は精神に安らぎを与えるから、失業中の人間が聴くとよいのだというのだった。
だいたい、人からそんなことを聞かなければ、けっしてモーツアルトなんか聴かない人間が、それを聞いたとたんに鵜呑みにし、全くそのとおりだと言って、モーツアルトを聴き始めるというのも、どうなのかと思う。

ところで、私は、モーツアルトはあまり好きではない。正確に言えば、あることをきっかっけに好きではなくなった。
それは、高校生のとき、ピアノの先生から「あなたは、モーツアルトを弾くセンスがない」と言われ続けたからだ。

私は、小学校1年のころ初めてピアノを習い始めたが、しばらくするとやめ、今度は3年のころ別の先生についた、それからまたいつしかやめて、また別の先生に中学のころ習い始めた。これらの3人の先生は近所の歩いて行ける場所か自宅訪問で、地元の小学校か中学の音楽の先生だった。それを、高校になったときに、姉が習っていたピアノの先生に変えたのであるが、この先生はピアノの教師専門であり、そこは電車で通わなければならない場所だった。

この先生につくと、基本がなっていないと言われて、ハノンなどで徹底的に基礎練習をさせられ、曲もブルグミュラーぐらいに戻って一通りやり直させられた。小さい子がもっと進んだところをやっているにのに、非常に恥ずかしかった。やっとソナタを弾けるようになったところで、このモーツアルトにぶち当たる。先生が言うには、「お姉さんはモーツアルトをとても素敵に弾きこなせたのに、どうしてあなたは弾けないのかしら。」「同じ姉妹とは思えないわ」「どうしてセンスがないのかしら」「モーツアルトの感性がまったくないようね」等等である。どのように心をこめて弾こうと、先生の納得は得られなかった。
一方、先生は「あなたはハイドンなんかを弾かせると、とても良く弾けるのに、モーツアルトとなると、どうしても弾けないのね。」とのこと。
最初は、別にモーツアルトの曲を嫌いだなどとは思っていなかったのだが、そういうことばかり聴かされていると、モーツアルトを弾くたびに身構えてしまうようになってしまった。そして、確かに私はハイドンやベートーヴェンのほうが好きだった。

ならば、得意なものを上手に弾ければいいじゃないかと思うのであるが、その先生はモーツアルトが好きなのであって、モーツアルトが弾けることにしか価値を見出さないのである。世の中でも天才はモーツアルトであり、ハイドンはたくさんの曲を残したがモーツアルトほど天才ではないといわれている。音楽性とか繊細さというものは、モーツアルトによりいっそう求められるのであろうか。ハイドンは凡人でも弾けるが、モーツアルトは選ばれた者しか弾けないというのであろうか。

高校2年のころ、ピアノの先生から、音楽のほうに進む気があるなら、それなりに教えるけどどうするか、と聞かれ、私は音楽には進まないと答えた。
どうしたって、モーツアルトで姉を越すことはできなかった。また、子供が嫌いだし、人にものを教えるのも好きではないから、ピアノの道に進んでも仕方がないのだ。
そして、私は自分を詩的な人間ではないと思っている。どうしたって、散文的な人間である。感受性で生きる人間ではなく、理屈で生きる人間である。モーツアルトは弾けない人間である。

モーツアルトが好きだという人間に会うと、自分が阻害されるような気がしてしまう。それは、モーツアルトを弾けない人間である私は、モーツアルトを愛してはいけないからである。理解できない人間がそのよさを愛せるはずもないからである。

また、私にモーツアルトを弾く繊細さがないのに、まして夫にそんなものを理解できるわけがないだろうと思う。
しかし、モーツアルトの曲が人間の心にいい効果を及ぼすというのは、どうやら何にもわからない人の耳にでもその曲が届き、脳に伝わりさすれば、自然に良い効果が得られるというわけらしい。
だが、トラウマをもった私にはモーツアルトの曲は逆効果なのであった。
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