私が苦手なものは、小さいときは、赤ちゃん・生野菜・買い物・体育(かけっこ・マラソン)・人前で話すこと。
中学のときは、器械体操の自由演技を作ること。マットや平均台などの体操が好きで体操部に所属し、技術的にはけっこうできるほうだったが、自由演技を作ることがなかなかできなくて、結局選手にはなれなかった。挫折だ。
その後、ダンスや踊りというものはどうも苦手である。短大のとき、サタデーナイトフィーバーがはやっていて、演劇部でそれを踊ることになったのだが、何度練習しても私はタイミングが遅れるらしい。それで、さんざん苦言を言われた挙句、踊らなくていいと除外されてしまった。その後もその演劇部ではミュージカルを主としていたため、個人で創作ダンスを披露しろなどと言われ、とても無理だと思ってやめてしまった。私は高校時代も演劇をやっていたが、私が好きなのは新劇で、文学座や劇団民芸・俳優座などであった。しかし短大の演劇部は、劇団四季や東京キッドブラザーズであり、また、部員はみんなタバコをスパスパ吸っていて、よくディスコに行って踊りまくるような人たちだった。
それから、私が苦手なのは、英語。
高校1年くらいまではなんとか大丈夫だったが、勉強嫌いで、特に暗記が嫌いな私は、まず単語が覚えきれなくなり、どんどん消化しきれなくなった。
そのころ「あんちょこ」と言われる教科書ガイドがあったのだが、くそまじめな私は自分の力で訳したりしなければいけないと思っていたために、一つ一つの単語の意味を辞書を引いて予習する方法しか思いつかなかった。しかし、それはすごい時間がかかり、もともと勉強嫌いな私は予習していかないことも多かった。さらに暗記が苦手だったために、新出語どころか、古い単語や熟語までもを覚えていない状態になっていった。すると、新しい課に入ったときに、新出語のみならず、古い語句までも新たに調べなければならないという状況になった。これではどんなに時間をかけても無理だった。塾にでも行っていればまだよかったのかもしれないが、英語はついに落ちこぼれになってしまった。
2年か3年のとき、ある英語のリーダーの先生は、私に当てても答えられないことがわかっているので、前の席から順にあてていっても、私のところになると突然別の列に変えて当てたり、私を抜かしたりして、私に当てるのを避けるようになった。これはかなりきつかった。
私は次第に英語の授業をさぼるようになっていった。授業出席数が最低限足りるようにはしたものの、1時間目にあれば遅れていく、午後にあれば早退してしまうということをしていた。
大学受験は英語がないというわけにはいかない。だが模試などすると、国語・古文はかなり偏差値が高いのに、英語が一桁に近いような点数なのである。私が得意なのは、国語と数学と理科だった。英語と社会は暗記だからだめである。国語だけできても文系にはいけない。数学と理科が得意だったら理系のようだが、理系に進もうとはおもわなかったし、やはりどっちにしても英語ができなければだめである。
ちなみに、音楽と美術はよくできたが、そっちの道に進む気はない。
日本史はなんとか頑張って暗記したので、まあまあの学力となったが、もはや英語は致命的だった。
私は演劇をしたかった。演技をするのは向かないと思っていたが、劇団で劇を作りたいと思ったり、大学では演劇を理論的に学んで、演劇評論家のようなものになりたいと思っていた。しかし、うちは姉が短大だから、私も短大でなければいけないし、姉が推薦入学で受験料をかけていなかったので、私もそう何校も試験を受けることができなかった。
だから、第一希望と滑り止めと偏差値が10くらい違う学校を二つだけ受けることにした。そして、結局は滑り止めしか受からなかった。そこは本当は推薦でもよかったのだが、どうしても第一希望の受かる可能性の低い学校を受けてみたかった。第一志望の学校は短大と4年制のほうも受けた。だが、受かったところで4年制に行くことに親は反対だった。
結局、短大も4年制も両方とも落ちて、親の思い通りとなった。
今となっては、もっと中間の偏差値のところも受ければよかったかなと思う。
なぜならば、今、私の出身短大の私の出た学部は存在しない。私たちが卒業したあとの時代になって、多くの大学はどこも学部をふやしたり、拡張したりして、地方に一部を移転させることの多い時代があったが、私の出身校も、東京から近郊都市に移転した。しかし、そこは辺鄙な場所であり、東京ほど学生を集める魅力がなくなってしまったのである。その後はその近郊都市近辺から通う学生ばかりになり、まして、東京の人間がそこまで通うということはなく、近年の短大に対する人気の低下も加わって志望者が減っていった。
私の出身校は文芸・マスコミ・国文というコースがあり、なかなかユニークな内容で、偏差値は低いものの当時は競争率が10倍を超えていたのであるが、近年は定員割れとなったらしい。
その学校は、私が受験したとき、英語の試験がなく、国語と古文と作文が試験科目だった。
内容は気に入っていてもやはり偏差値というものは重要であると思う。
もし、浪人ができたなら、英語を一生懸命勉強して、いい大学に行きたかったし、もし過去に戻ってやり直せるものならば、私はピアノを習わないで英語塾に行かせてもらい、英語を頑張って受験を成功させたいと思う。
私が受験して行きたかった大学には文芸学部に劇芸コースというのがあって、そこに入りたいと思ったのであるが、私は高校のときに演劇ばかりしていて、受験勉強をしなかったので合格することはできなかった。同じ学校からそこの文芸学部に合格した同級生は部活などしないで、毎日まじめに勉強をしているような生徒だった。本当にその大学に入って勉強したかったのかなあと思う。世のなか皮肉である。
しかし、入りたい学校に入れば、将来が開けていたかと言えばどうだかわからない。まあ、学歴コンプレックスは免れていたかもしれない。
中学のときは、器械体操の自由演技を作ること。マットや平均台などの体操が好きで体操部に所属し、技術的にはけっこうできるほうだったが、自由演技を作ることがなかなかできなくて、結局選手にはなれなかった。挫折だ。
その後、ダンスや踊りというものはどうも苦手である。短大のとき、サタデーナイトフィーバーがはやっていて、演劇部でそれを踊ることになったのだが、何度練習しても私はタイミングが遅れるらしい。それで、さんざん苦言を言われた挙句、踊らなくていいと除外されてしまった。その後もその演劇部ではミュージカルを主としていたため、個人で創作ダンスを披露しろなどと言われ、とても無理だと思ってやめてしまった。私は高校時代も演劇をやっていたが、私が好きなのは新劇で、文学座や劇団民芸・俳優座などであった。しかし短大の演劇部は、劇団四季や東京キッドブラザーズであり、また、部員はみんなタバコをスパスパ吸っていて、よくディスコに行って踊りまくるような人たちだった。
それから、私が苦手なのは、英語。
高校1年くらいまではなんとか大丈夫だったが、勉強嫌いで、特に暗記が嫌いな私は、まず単語が覚えきれなくなり、どんどん消化しきれなくなった。
そのころ「あんちょこ」と言われる教科書ガイドがあったのだが、くそまじめな私は自分の力で訳したりしなければいけないと思っていたために、一つ一つの単語の意味を辞書を引いて予習する方法しか思いつかなかった。しかし、それはすごい時間がかかり、もともと勉強嫌いな私は予習していかないことも多かった。さらに暗記が苦手だったために、新出語どころか、古い単語や熟語までもを覚えていない状態になっていった。すると、新しい課に入ったときに、新出語のみならず、古い語句までも新たに調べなければならないという状況になった。これではどんなに時間をかけても無理だった。塾にでも行っていればまだよかったのかもしれないが、英語はついに落ちこぼれになってしまった。
2年か3年のとき、ある英語のリーダーの先生は、私に当てても答えられないことがわかっているので、前の席から順にあてていっても、私のところになると突然別の列に変えて当てたり、私を抜かしたりして、私に当てるのを避けるようになった。これはかなりきつかった。
私は次第に英語の授業をさぼるようになっていった。授業出席数が最低限足りるようにはしたものの、1時間目にあれば遅れていく、午後にあれば早退してしまうということをしていた。
大学受験は英語がないというわけにはいかない。だが模試などすると、国語・古文はかなり偏差値が高いのに、英語が一桁に近いような点数なのである。私が得意なのは、国語と数学と理科だった。英語と社会は暗記だからだめである。国語だけできても文系にはいけない。数学と理科が得意だったら理系のようだが、理系に進もうとはおもわなかったし、やはりどっちにしても英語ができなければだめである。
ちなみに、音楽と美術はよくできたが、そっちの道に進む気はない。
日本史はなんとか頑張って暗記したので、まあまあの学力となったが、もはや英語は致命的だった。
私は演劇をしたかった。演技をするのは向かないと思っていたが、劇団で劇を作りたいと思ったり、大学では演劇を理論的に学んで、演劇評論家のようなものになりたいと思っていた。しかし、うちは姉が短大だから、私も短大でなければいけないし、姉が推薦入学で受験料をかけていなかったので、私もそう何校も試験を受けることができなかった。
だから、第一希望と滑り止めと偏差値が10くらい違う学校を二つだけ受けることにした。そして、結局は滑り止めしか受からなかった。そこは本当は推薦でもよかったのだが、どうしても第一希望の受かる可能性の低い学校を受けてみたかった。第一志望の学校は短大と4年制のほうも受けた。だが、受かったところで4年制に行くことに親は反対だった。
結局、短大も4年制も両方とも落ちて、親の思い通りとなった。
今となっては、もっと中間の偏差値のところも受ければよかったかなと思う。
なぜならば、今、私の出身短大の私の出た学部は存在しない。私たちが卒業したあとの時代になって、多くの大学はどこも学部をふやしたり、拡張したりして、地方に一部を移転させることの多い時代があったが、私の出身校も、東京から近郊都市に移転した。しかし、そこは辺鄙な場所であり、東京ほど学生を集める魅力がなくなってしまったのである。その後はその近郊都市近辺から通う学生ばかりになり、まして、東京の人間がそこまで通うということはなく、近年の短大に対する人気の低下も加わって志望者が減っていった。
私の出身校は文芸・マスコミ・国文というコースがあり、なかなかユニークな内容で、偏差値は低いものの当時は競争率が10倍を超えていたのであるが、近年は定員割れとなったらしい。
その学校は、私が受験したとき、英語の試験がなく、国語と古文と作文が試験科目だった。
内容は気に入っていてもやはり偏差値というものは重要であると思う。
もし、浪人ができたなら、英語を一生懸命勉強して、いい大学に行きたかったし、もし過去に戻ってやり直せるものならば、私はピアノを習わないで英語塾に行かせてもらい、英語を頑張って受験を成功させたいと思う。
私が受験して行きたかった大学には文芸学部に劇芸コースというのがあって、そこに入りたいと思ったのであるが、私は高校のときに演劇ばかりしていて、受験勉強をしなかったので合格することはできなかった。同じ学校からそこの文芸学部に合格した同級生は部活などしないで、毎日まじめに勉強をしているような生徒だった。本当にその大学に入って勉強したかったのかなあと思う。世のなか皮肉である。
しかし、入りたい学校に入れば、将来が開けていたかと言えばどうだかわからない。まあ、学歴コンプレックスは免れていたかもしれない。