次女がどうしてそんなにも長女を嫌うのか問い正したことがあるが、具体的な理由はでてこなかった。ただ、とにかく嫌いなタイプだということである。
そういえば、私は姉と仲がいいが、姉が、もし他人ならば絶対に付き合いたくないし、友達にはなりたくないタイプなのである。だから、次女の気持ちがうっすらとはわかる。しかし、姉は同じ親から生まれ同じ家庭に育った世界にたったひとりの人間なので、そういう意味で理解し合えるから、やはり私にとってかけがえのない人だと思っている。
私の姉は裕福であるということを一番重要視する人間である。人を見るときに、その人が貧乏くさいか貧乏くさくないかという観点でしか見ない。そこが私にとっては一番姉のきらいな部分である。姉は世間でボロアパートにすんでいる人間などをことごとく軽視する性格であるから、もし私が血のつながりのある人間でなかったら、まったくかかわりをもとうともしないし、けっして友人づきあいなどはしないはずである。ただ、私が実の妹であるということだけで、例外として心を許して付き合っているにすぎない。
姉は自宅でピアノ教師をしていたために、30年前の独身のときから月収が30万くらいあり、結婚するときには貯金も何百万もあった。そして、本人以上に収入のある相手と結婚し、その相手が順調に出世していったから、今は2軒の家を所有し、数百万円の車も所有している。子供2人は高校から私立に行かせ、姉の娘は十万もする服を着て歩いている。とりあえずは、姉の夢はかなったと言えよう。
ところが、そのような生活をしている姉でありながら、随分貧乏くさいなあと思うことがよくある。たとえば、イタリアンレストランなどで単品料理をいくつか取ってみんなで自由に取り分けて食べる場合など、うちの場合は家族が食べたそうなものを、値段などは考えずに適当にどんどん注文して行く。足りなければすぐに追加する。あまったらあまったで、残してくる。であるから、まったく神経を使うことがない。
ところが、姉の場合は、注文するときにすごく迷う。これは誰が好きだけどこれは誰が嫌いだからどっちにしようかとか、こっちのほうが量が多くて安いとか、セットにすれば30円やすいから、この飲み物はやめてこっちにすればいいのでは、などと考え続ける。料理が出てくると、思ったより量が少なかったわね、こっちを頼めばよかったかしら、もったいないから○○ちゃん食べちゃってよ、これは頼まなきゃよかったわね、などと食事中ずっとそんなことばかり話しているのだ。こんな食事の仕方をしていて楽しいのかなあと思う。
この性格は実家の母に似ている。母は昔の人なので、お百姓さんが作ったお米を一粒も粗末にしてはいけないという考えであるから、その年代の人としては理解できる。
数ヶ月前、うちの家族と姉と実家の母で昼食を食べに行った。そのとき、各自がいろいろな定食をとったのだが、その定食にはどれも刺身の盛り合わせや煮物・酢の物・味噌汁などがついていた。母は鮭わっぱ定食をたのみ、姉は伊勢海老定食を頼んだのであるが、姉は「このご飯は多すぎる。どうしようか、もったいないわね、だれか食べない?」と言い出した。母も「こんなにお刺身がついてたのねえ、私はマグロは好きじゃないわ」などと言い出した。ならば、残せばいいだろうと思うのであるが、2人がしたことは、「じゃあご飯を半分ずつ食べましょう」と言って、姉の白いご飯をわけて食べ始め、母は「これならおかずはお刺身だけで十分だわ」と言って、食べたくないというマグロの刺身などをおかずにして食べ、メインの鮭わっぱには手を付けない。食事が終わりころになると、店員さんに何か入れ物ありますか?と聞いて、これは夕飯にすればいいと言って、母は店の人から容器をもらい手をつけなかったわっぱめしを入れている。店員さんいわく、「ああ、よっかった、お口に合わないから召し上がらないのかと思ってました」。
うちのこどもは不思議でならない。おばあちゃんは鮭わっぱが食べたくてあの定食をたのんだのに、どうして文句をいいながら嫌いなマグロとおばさんのご飯をたべてるんだろう。食べたいものをおいしいうちに食べればいいのに・・・。
私もまったくそう思う。しかし、母のそういう性分はなおらないし、姉もそれを当然のように思っている。
姉は現在、自分がお金持ちになり、住居も服装も貧乏くさくないということを安心の糧としているようなところがある。
それは、実は、彼女が子供のころ貧乏でいやな思いをしたからに他ならないのであって、実際に貧乏人の思考回路が根深く残って離れないわけだ。
うちは両親とも貧乏人の子沢山農家の生まれであって、父は会社勤めをしていたが、新婚夫婦には何もなく、小さなぼろアパートにすんでいた。かなり無理をして家を建てたのは私が小学校にあがる前である。姉は小5まで古い小さい借家に住んでいて、小学校の担任の家庭訪問のときなどかなり惨めな思いをしたらしい。「えっ、うちはここなの?」などという言葉が担任の口からでたそうだ。
姉は小さいときから音楽が好きで、本人は自分には音楽の才能があると確信していたようである。しかし、家にはオルガンしかなかった。やっとピアノをローンで買ったのが、姉が中学のときだ。そのような弊害によって思うように才能を伸ばすこともできなかったし、周囲からの先入観による差別を受けて子供時代をすごしてきたため、もっと恵まれた家庭に育っていれば・・・という思いを姉はずっともちつづけているようだ。
私は小学校に入ったときは新築の家があり、低学年でピアノがあったので、あまり惨めな思いをしたという記憶がない。ただ、ローンを抱えていたので、うちにはお金の余裕がないのだという気持ちは常にあった。しかし、姉ほど辛い思いをしたわけではないので、お金持ちっぽくなったり、財を築きたいという考えは強くないのだと思う。姉には異様なブルジョア志向があるが、それがあればあるほど劣等感の裏返しのように思えてならない。
それで、姉は他人に対してはお金がありそうな振る舞いをして、貧乏人を軽視し、自分には関係がない世界の人たちだという態度をあらわにする。しかし、それは自分がそうであったということと裏表になっているのだ。
私たち姉妹はやはりいろいろな面でせこい。手持ちのお金があっても、このことには使えないなどと出し渋るため、そのことで、様々な行動にブレーキがかかったり、いやな思いをする。
たとえば、姉は友人を車で送ってあげると実はガソリン代が馬鹿にならないのだと思ったり、私は子供の吹奏楽の演奏会のビデオが3000円もするのは高いのではと思って注文してやらなかったり、そんな家計にかかわらないような出費をどうして出し渋ってしまうのかと思うが、やはり貧乏な思考回路がしみついているからだろう。
親や家庭から引き継いできたものを同じくしているという変えようのない関係と、その中で対抗したり反発しあったりする気持ちが入り混じって、兄弟姉妹に対しては一種異様な感情がある。
親から愛情をどれだけどのようにかけられたか、今後、親にどれだけのことをしていけるか、子供としての役割をどのように分担していくのかなど、今後も姉とはかかわりを持ちながらいきていく。
姉はいつも理解者であって、また競争相手でもある。
そして、私の娘2人も同様にして、同じ家庭の中で親の思考回路や価値観の影響を受け、同感し合い、反発しあい、対抗して生きていくのであろうかと思う。
そういえば、私は姉と仲がいいが、姉が、もし他人ならば絶対に付き合いたくないし、友達にはなりたくないタイプなのである。だから、次女の気持ちがうっすらとはわかる。しかし、姉は同じ親から生まれ同じ家庭に育った世界にたったひとりの人間なので、そういう意味で理解し合えるから、やはり私にとってかけがえのない人だと思っている。
私の姉は裕福であるということを一番重要視する人間である。人を見るときに、その人が貧乏くさいか貧乏くさくないかという観点でしか見ない。そこが私にとっては一番姉のきらいな部分である。姉は世間でボロアパートにすんでいる人間などをことごとく軽視する性格であるから、もし私が血のつながりのある人間でなかったら、まったくかかわりをもとうともしないし、けっして友人づきあいなどはしないはずである。ただ、私が実の妹であるということだけで、例外として心を許して付き合っているにすぎない。
姉は自宅でピアノ教師をしていたために、30年前の独身のときから月収が30万くらいあり、結婚するときには貯金も何百万もあった。そして、本人以上に収入のある相手と結婚し、その相手が順調に出世していったから、今は2軒の家を所有し、数百万円の車も所有している。子供2人は高校から私立に行かせ、姉の娘は十万もする服を着て歩いている。とりあえずは、姉の夢はかなったと言えよう。
ところが、そのような生活をしている姉でありながら、随分貧乏くさいなあと思うことがよくある。たとえば、イタリアンレストランなどで単品料理をいくつか取ってみんなで自由に取り分けて食べる場合など、うちの場合は家族が食べたそうなものを、値段などは考えずに適当にどんどん注文して行く。足りなければすぐに追加する。あまったらあまったで、残してくる。であるから、まったく神経を使うことがない。
ところが、姉の場合は、注文するときにすごく迷う。これは誰が好きだけどこれは誰が嫌いだからどっちにしようかとか、こっちのほうが量が多くて安いとか、セットにすれば30円やすいから、この飲み物はやめてこっちにすればいいのでは、などと考え続ける。料理が出てくると、思ったより量が少なかったわね、こっちを頼めばよかったかしら、もったいないから○○ちゃん食べちゃってよ、これは頼まなきゃよかったわね、などと食事中ずっとそんなことばかり話しているのだ。こんな食事の仕方をしていて楽しいのかなあと思う。
この性格は実家の母に似ている。母は昔の人なので、お百姓さんが作ったお米を一粒も粗末にしてはいけないという考えであるから、その年代の人としては理解できる。
数ヶ月前、うちの家族と姉と実家の母で昼食を食べに行った。そのとき、各自がいろいろな定食をとったのだが、その定食にはどれも刺身の盛り合わせや煮物・酢の物・味噌汁などがついていた。母は鮭わっぱ定食をたのみ、姉は伊勢海老定食を頼んだのであるが、姉は「このご飯は多すぎる。どうしようか、もったいないわね、だれか食べない?」と言い出した。母も「こんなにお刺身がついてたのねえ、私はマグロは好きじゃないわ」などと言い出した。ならば、残せばいいだろうと思うのであるが、2人がしたことは、「じゃあご飯を半分ずつ食べましょう」と言って、姉の白いご飯をわけて食べ始め、母は「これならおかずはお刺身だけで十分だわ」と言って、食べたくないというマグロの刺身などをおかずにして食べ、メインの鮭わっぱには手を付けない。食事が終わりころになると、店員さんに何か入れ物ありますか?と聞いて、これは夕飯にすればいいと言って、母は店の人から容器をもらい手をつけなかったわっぱめしを入れている。店員さんいわく、「ああ、よっかった、お口に合わないから召し上がらないのかと思ってました」。
うちのこどもは不思議でならない。おばあちゃんは鮭わっぱが食べたくてあの定食をたのんだのに、どうして文句をいいながら嫌いなマグロとおばさんのご飯をたべてるんだろう。食べたいものをおいしいうちに食べればいいのに・・・。
私もまったくそう思う。しかし、母のそういう性分はなおらないし、姉もそれを当然のように思っている。
姉は現在、自分がお金持ちになり、住居も服装も貧乏くさくないということを安心の糧としているようなところがある。
それは、実は、彼女が子供のころ貧乏でいやな思いをしたからに他ならないのであって、実際に貧乏人の思考回路が根深く残って離れないわけだ。
うちは両親とも貧乏人の子沢山農家の生まれであって、父は会社勤めをしていたが、新婚夫婦には何もなく、小さなぼろアパートにすんでいた。かなり無理をして家を建てたのは私が小学校にあがる前である。姉は小5まで古い小さい借家に住んでいて、小学校の担任の家庭訪問のときなどかなり惨めな思いをしたらしい。「えっ、うちはここなの?」などという言葉が担任の口からでたそうだ。
姉は小さいときから音楽が好きで、本人は自分には音楽の才能があると確信していたようである。しかし、家にはオルガンしかなかった。やっとピアノをローンで買ったのが、姉が中学のときだ。そのような弊害によって思うように才能を伸ばすこともできなかったし、周囲からの先入観による差別を受けて子供時代をすごしてきたため、もっと恵まれた家庭に育っていれば・・・という思いを姉はずっともちつづけているようだ。
私は小学校に入ったときは新築の家があり、低学年でピアノがあったので、あまり惨めな思いをしたという記憶がない。ただ、ローンを抱えていたので、うちにはお金の余裕がないのだという気持ちは常にあった。しかし、姉ほど辛い思いをしたわけではないので、お金持ちっぽくなったり、財を築きたいという考えは強くないのだと思う。姉には異様なブルジョア志向があるが、それがあればあるほど劣等感の裏返しのように思えてならない。
それで、姉は他人に対してはお金がありそうな振る舞いをして、貧乏人を軽視し、自分には関係がない世界の人たちだという態度をあらわにする。しかし、それは自分がそうであったということと裏表になっているのだ。
私たち姉妹はやはりいろいろな面でせこい。手持ちのお金があっても、このことには使えないなどと出し渋るため、そのことで、様々な行動にブレーキがかかったり、いやな思いをする。
たとえば、姉は友人を車で送ってあげると実はガソリン代が馬鹿にならないのだと思ったり、私は子供の吹奏楽の演奏会のビデオが3000円もするのは高いのではと思って注文してやらなかったり、そんな家計にかかわらないような出費をどうして出し渋ってしまうのかと思うが、やはり貧乏な思考回路がしみついているからだろう。
親や家庭から引き継いできたものを同じくしているという変えようのない関係と、その中で対抗したり反発しあったりする気持ちが入り混じって、兄弟姉妹に対しては一種異様な感情がある。
親から愛情をどれだけどのようにかけられたか、今後、親にどれだけのことをしていけるか、子供としての役割をどのように分担していくのかなど、今後も姉とはかかわりを持ちながらいきていく。
姉はいつも理解者であって、また競争相手でもある。
そして、私の娘2人も同様にして、同じ家庭の中で親の思考回路や価値観の影響を受け、同感し合い、反発しあい、対抗して生きていくのであろうかと思う。