今になって、私は先生のいじめにあっていたのかなあと思うことがある。
そう思うようになったのは、40代になってからの、本当につい最近だ。
あまりにも先生を信頼しすぎていたために、自分が先生から意図的にそういう仕打ちを受けていたなんていうことは考えてみたこともなかった。
それは、小学校の3年のときのことだが、今まで単に辛い思い出だと思っていたことは、学芸会の劇に自分が出る役がなかったばかりか、裏方のひとつの役割さえも与えられなかったという思い出である。
私には家が近所の友人が3人がいて、いつも仲良し4人組で行動していた。その年、学芸会では「にんじん」をすることになった。まず、主役の「にんじん」の役は教員の子供で優等生であるAちゃんに先生によって決められた。私の仲良しの1人のS子はいじめっ子役をしたいと立候補してそれにきまった。その後、いろいろ役を決める中で、先生が私の仲良し2人にお嬢様役をしなさいと言って、2人はお嬢様役になり、浴衣を着て出演することになった。私は驚いた。今までは、仲良しで申し合わせていっしょにするのが普通だったから、突然2人だけを先生が選んでしまうなんてことは考えていなかったのだ。
キャストは次々に決まっていき、ついに最後、幕の開け閉めをする役だけが残っていた。私は必死になって幕引き希望に手を上げた。しかし、多数決で他の男の子の方に決まってしまった。というわけで、私は何一つ役割を与えられなかったから、学芸会までの毎日、たった一人で下校することになった。
私の他にそういう人がいたかどうかはわからないが、みんなが残ってたのしく劇の練習や準備をする中、一人だけ帰るのは寂しくてしかたなかった。その気もちを友人のS子に話すと、自分はいじめっ子役を希望したからなれた。○ちゃんは希望しなかったんだからしょうがないよと言われた。確かにそうではあった。
もうひとつのいやな思い出。
この先生には子供が2人いるということだったが、ちょうど大学受験の年頃だった。その先生の息子たちは地元から離れたエリート高に通わせたとのことで、授業中先生は受験のことばかり話していた。当時ちょうど学生運動が激しい時代で、大学は学業どころではなくなり、東大が入学試験を見送ったから、浪人していた息子は東大には行けなくなったなどという話を授業を中断して延々としていた。まあ、その話はそれでも興味深く聞いていた。
そんなある日、私は授業中トイレに行きたくなったのであるが、先生の話は休み時間になっても延々と続いて、次の時間になっても終わる気配はなかった。以前にもそんなことはよくあったので、周囲の友人と示し合わせて先生に申し出て、ぞろぞろとトイレに行ったこともあった。しかし、その日は周囲に親しい友人がいなかったので、行動を共にする人はいなかった。私はもう我慢しきれないと思い、意を決して1人で教壇まで出て行って、黒板に書き込んでいる先生に、トイレに行ってもいいですか?と聞いた。しかし、先生はまったく聞こえないようでそのまま話したり書いたりしていたから、先生は夢中で話していて私が何か言っても気がつかないと思いあきらめて席に戻った。
話はさらに延々と続いた後、先生は受験の話をやめて、算数の授業にもどり、みんなを立たせた。1番前が0.1だったら、その後ろの人は0.2である。その後ろはいくつになるのかなどと、立った生徒を目盛り代りにして自分がいくつに相当するのかを言わせたりした。立ったらますますトイレを我慢するのはきつくなり、私は耳まで真っ赤になってトイレを我慢した。そしてようやくその時間がおわりトイレに駆け込んだ。実際教室の中で少しちびっていたが、下に流れないくらいの量で必死に止めていたので、おしっこをもらしたのは誰にも知られずにすんだ。間一髪だった。
今になって思えば、生徒が前に出てきて何かいっているのを気がつかない教師がいるわけがない。意図的にしていたとしか思えない。
先生はある日、このクラスでA高校に行けるのは誰それ、B高校に行けるのはだれそれ、などと偏差値の高い学校順に名前を言い連ね始めた。私は自分をそれほど馬鹿ではないと思っていたので、早いうちに自分の名前が出てくると思っていたが、いつまでたっても出てこなかった。そしてついにはかなり偏差値の低い高校名とどう間違っても私よりずっと成績の悪い子の名前が出てきた。しかし、ついに先生の口から私の名前が出てくることはなかった。私は先生がたまたま私の名前を言い忘れたんだろうと思った。
それから、こんなこともあった。夏休みの宿題に私はいろいろな種類の植物の葉を集め、その葉の裏に絵の具をつけて紙におしつけ、葉脈の図鑑のようなものを作った。これはクラスのみんなから、すごいね、きれいだね、という評判だった。父か母の提案にしたがって作ったもので、簡単なわりにきれいにできたから、作ってよかったなと思い、私もとても気に入っていた。作品が戻ってきたらゆっくり親にも見せたいと思っていた。
ところが、2学期が終わるころになっても先生は一向にそれを返してくれなかった。実は、教卓の近くに置かれたダンボール箱の中に無造作に入れられていて、それはあけっぱなしになっていたから、毎日それを目にはしていたのだが、先生が返してくれるわけでもなく、持ち帰れというわけでもないので、どうにもできなかった。そこには何人かの作品が入っていたと思うが、他の人がどうしたかはわからない。時がたち、いつしかそれはなくなっていた。
先生は、私たちが4人でいるとき、休みの日にうちに遊びにおいでなどと言って場所を教えてくれた。先生はそんなときわけ隔てなくやさしかったので、私は私ひとりが嫌われていたなどということはぜんぜん思ったこともなかった。でも、今、思うと、やはり先生は私をきらっていたのだと思う。もしくは、自分を主張しないこどもを懲らしめたかったのだと思う。存在しないものとして扱っていたというのが適切かもしれない。
私が自分からはきはきとものを言う子供であったなら、上に書いたことはすべて解決できたことだった。私が自分を主張しなかったから悪いのだ。
先生は、「主張をしないとこうなるんだ。だから主張しなさい」と教えるつもりだったのだろうか。でも、完全に信頼しきっている子供は、自分から先生に物事を催促してはいけないと思っているし、先生が意図してそういうことをしているなどとは考えることもできないのである。また、私が、あまりにも鈍感すぎたのかもしれない。
この先生は、よくパチンコをしていたらしく、家に遊びに行ったとき、テレビの下にパチンコでとったであろうチョコレートなどのお菓子がしまってあって、だしてくれた。私の田舎では教員でパチンコをする人は少なくないようであった。たとえば高校時代の教員にもパチンコ好きな人がいたものだ。
そして、先生の家は意外に粗末な借家だった。自分も今、粗末な家に住んでいるから、家で人間を判断するのは良くないと思うが、教員の収入から考えれば、一般的な家屋に住めると思う。いったい何に使ってしまっていたのだろうか?パチンコだろうか?子供の教育だろうか?奥さんが専業主婦だったからだろうか?
実は、うちの父もパチンコが趣味で仕事のあとにパチンコ屋に行くことがあった。そして父はけっこうパチンコがうまかった。小さい町のことだから、パチンコ屋で教師と父兄が顔をあわせることもあるかもしれない。父からは先生にあったなどということは聞いたことがないが、まさか、私や父の知らないところで、パチンコのうらみとかがあったんじゃなかろうかなどと思ったりもする。
この先生は父より年上だったから健在ならばもう90歳くらいになっているだろう。子供のころは何年か後まで年賀状など出していて、先生を信頼しきっていた。先生の年賀状は毎年、「平素のご厚情を感謝し~」などという大人向けの印刷されたものだったが、返事をもらうとうれしかった。だが、今ごろになってあの1年間の事実が見えてきたような気がする。あの先生には会いたいとも思わない。
そう思うようになったのは、40代になってからの、本当につい最近だ。
あまりにも先生を信頼しすぎていたために、自分が先生から意図的にそういう仕打ちを受けていたなんていうことは考えてみたこともなかった。
それは、小学校の3年のときのことだが、今まで単に辛い思い出だと思っていたことは、学芸会の劇に自分が出る役がなかったばかりか、裏方のひとつの役割さえも与えられなかったという思い出である。
私には家が近所の友人が3人がいて、いつも仲良し4人組で行動していた。その年、学芸会では「にんじん」をすることになった。まず、主役の「にんじん」の役は教員の子供で優等生であるAちゃんに先生によって決められた。私の仲良しの1人のS子はいじめっ子役をしたいと立候補してそれにきまった。その後、いろいろ役を決める中で、先生が私の仲良し2人にお嬢様役をしなさいと言って、2人はお嬢様役になり、浴衣を着て出演することになった。私は驚いた。今までは、仲良しで申し合わせていっしょにするのが普通だったから、突然2人だけを先生が選んでしまうなんてことは考えていなかったのだ。
キャストは次々に決まっていき、ついに最後、幕の開け閉めをする役だけが残っていた。私は必死になって幕引き希望に手を上げた。しかし、多数決で他の男の子の方に決まってしまった。というわけで、私は何一つ役割を与えられなかったから、学芸会までの毎日、たった一人で下校することになった。
私の他にそういう人がいたかどうかはわからないが、みんなが残ってたのしく劇の練習や準備をする中、一人だけ帰るのは寂しくてしかたなかった。その気もちを友人のS子に話すと、自分はいじめっ子役を希望したからなれた。○ちゃんは希望しなかったんだからしょうがないよと言われた。確かにそうではあった。
もうひとつのいやな思い出。
この先生には子供が2人いるということだったが、ちょうど大学受験の年頃だった。その先生の息子たちは地元から離れたエリート高に通わせたとのことで、授業中先生は受験のことばかり話していた。当時ちょうど学生運動が激しい時代で、大学は学業どころではなくなり、東大が入学試験を見送ったから、浪人していた息子は東大には行けなくなったなどという話を授業を中断して延々としていた。まあ、その話はそれでも興味深く聞いていた。
そんなある日、私は授業中トイレに行きたくなったのであるが、先生の話は休み時間になっても延々と続いて、次の時間になっても終わる気配はなかった。以前にもそんなことはよくあったので、周囲の友人と示し合わせて先生に申し出て、ぞろぞろとトイレに行ったこともあった。しかし、その日は周囲に親しい友人がいなかったので、行動を共にする人はいなかった。私はもう我慢しきれないと思い、意を決して1人で教壇まで出て行って、黒板に書き込んでいる先生に、トイレに行ってもいいですか?と聞いた。しかし、先生はまったく聞こえないようでそのまま話したり書いたりしていたから、先生は夢中で話していて私が何か言っても気がつかないと思いあきらめて席に戻った。
話はさらに延々と続いた後、先生は受験の話をやめて、算数の授業にもどり、みんなを立たせた。1番前が0.1だったら、その後ろの人は0.2である。その後ろはいくつになるのかなどと、立った生徒を目盛り代りにして自分がいくつに相当するのかを言わせたりした。立ったらますますトイレを我慢するのはきつくなり、私は耳まで真っ赤になってトイレを我慢した。そしてようやくその時間がおわりトイレに駆け込んだ。実際教室の中で少しちびっていたが、下に流れないくらいの量で必死に止めていたので、おしっこをもらしたのは誰にも知られずにすんだ。間一髪だった。
今になって思えば、生徒が前に出てきて何かいっているのを気がつかない教師がいるわけがない。意図的にしていたとしか思えない。
先生はある日、このクラスでA高校に行けるのは誰それ、B高校に行けるのはだれそれ、などと偏差値の高い学校順に名前を言い連ね始めた。私は自分をそれほど馬鹿ではないと思っていたので、早いうちに自分の名前が出てくると思っていたが、いつまでたっても出てこなかった。そしてついにはかなり偏差値の低い高校名とどう間違っても私よりずっと成績の悪い子の名前が出てきた。しかし、ついに先生の口から私の名前が出てくることはなかった。私は先生がたまたま私の名前を言い忘れたんだろうと思った。
それから、こんなこともあった。夏休みの宿題に私はいろいろな種類の植物の葉を集め、その葉の裏に絵の具をつけて紙におしつけ、葉脈の図鑑のようなものを作った。これはクラスのみんなから、すごいね、きれいだね、という評判だった。父か母の提案にしたがって作ったもので、簡単なわりにきれいにできたから、作ってよかったなと思い、私もとても気に入っていた。作品が戻ってきたらゆっくり親にも見せたいと思っていた。
ところが、2学期が終わるころになっても先生は一向にそれを返してくれなかった。実は、教卓の近くに置かれたダンボール箱の中に無造作に入れられていて、それはあけっぱなしになっていたから、毎日それを目にはしていたのだが、先生が返してくれるわけでもなく、持ち帰れというわけでもないので、どうにもできなかった。そこには何人かの作品が入っていたと思うが、他の人がどうしたかはわからない。時がたち、いつしかそれはなくなっていた。
先生は、私たちが4人でいるとき、休みの日にうちに遊びにおいでなどと言って場所を教えてくれた。先生はそんなときわけ隔てなくやさしかったので、私は私ひとりが嫌われていたなどということはぜんぜん思ったこともなかった。でも、今、思うと、やはり先生は私をきらっていたのだと思う。もしくは、自分を主張しないこどもを懲らしめたかったのだと思う。存在しないものとして扱っていたというのが適切かもしれない。
私が自分からはきはきとものを言う子供であったなら、上に書いたことはすべて解決できたことだった。私が自分を主張しなかったから悪いのだ。
先生は、「主張をしないとこうなるんだ。だから主張しなさい」と教えるつもりだったのだろうか。でも、完全に信頼しきっている子供は、自分から先生に物事を催促してはいけないと思っているし、先生が意図してそういうことをしているなどとは考えることもできないのである。また、私が、あまりにも鈍感すぎたのかもしれない。
この先生は、よくパチンコをしていたらしく、家に遊びに行ったとき、テレビの下にパチンコでとったであろうチョコレートなどのお菓子がしまってあって、だしてくれた。私の田舎では教員でパチンコをする人は少なくないようであった。たとえば高校時代の教員にもパチンコ好きな人がいたものだ。
そして、先生の家は意外に粗末な借家だった。自分も今、粗末な家に住んでいるから、家で人間を判断するのは良くないと思うが、教員の収入から考えれば、一般的な家屋に住めると思う。いったい何に使ってしまっていたのだろうか?パチンコだろうか?子供の教育だろうか?奥さんが専業主婦だったからだろうか?
実は、うちの父もパチンコが趣味で仕事のあとにパチンコ屋に行くことがあった。そして父はけっこうパチンコがうまかった。小さい町のことだから、パチンコ屋で教師と父兄が顔をあわせることもあるかもしれない。父からは先生にあったなどということは聞いたことがないが、まさか、私や父の知らないところで、パチンコのうらみとかがあったんじゃなかろうかなどと思ったりもする。
この先生は父より年上だったから健在ならばもう90歳くらいになっているだろう。子供のころは何年か後まで年賀状など出していて、先生を信頼しきっていた。先生の年賀状は毎年、「平素のご厚情を感謝し~」などという大人向けの印刷されたものだったが、返事をもらうとうれしかった。だが、今ごろになってあの1年間の事実が見えてきたような気がする。あの先生には会いたいとも思わない。