自分が教わった先生で、自分を良いほうに変えてくれたと思うのは小学校6年のときのK先生である。先生が掲げた目標は「積み上げ」だった。そして、家庭学習ノートという100円ノートを各自用意させて、そこに自分がしたい勉強をして提出させた。30年前の100円の大学ノートというのは分厚い。1冊はなかなか終わるものではない。先生はそれをクラスの列ごとに日替わりで回収して中身をチェックし、その日のうちにコメントを書いて返してくれた。今になって思えば、目を通すだけでもすごい手間だったと思う。
私は勉強をする習慣がなかったので読書ばかりしていて、最初のころは本の名前と読書時間を記入するばかりだった。「読書もいいけど、たまには勉強しなさいよ」などと先生に書かれた。時には「本当に勉強しない人なんだね。でもテストができるのは不思議だなあ」「今度のテストはちょっとできなかったぞ。君ともあろう人がどうしたの?」「やっぱり、勉強すればできるじゃない」「算数ばかりやってないで、他の科目もやろうね」などと書いてくれた。当時は塾なんかに行っている人も少なく、そのうち勉強の習慣がついてきた。
K先生がよくさせたことは、問題を出してできる人に手をあげさせるのではなく、できた者から順に先生のところに持っていくという方法だった。私はそれまで一度も手を上げて発表するような子供ではなかった。ところが、その方法で初めてわかったことは、一番最初に持って行くのが私であるということがかなり多いということだった。
その年、私に起こった意外な出来事は、学級委員決めのクラスの投票で、私が副委員に選ばれたことだった。私の小学校は田舎の小さな学校で、40人たらずの1クラスが1年から6年まで変わりなく続いた。そして、学級委員をする顔ぶれはいつも決まっていた。それがその年の後半は、今まであまりめだったことのないものばかりが学級委員に選ばれた。
私は人前に立ってものをしゃべったことがなかったので、恐ろしくて、学級会のときに司会をさせられても「他に意見はありませんか?」という一言も言おうかどうしようかとドキドキしてしまい、ついに教壇の前に立ったまま一言も発することなく終わったりした。年賀状には友達数人から「もっと活発になって!」というコメントがつけられたりした。4年生以上で構成される代表委員会に出るのも恐ろしく、年下のベテラン委員の前でおどおどしていた。そういう経験をして初めて自分が今までのままではおとなしすぎて役目を果たせていないということを実感した。
卒業前の朝礼のときに全校の在校生に話す代表となり、そのときはマイクなどもなく校庭で、声が小さくて何も聞こえなかったとみんなに言われてしまった。学芸会のときは終わりのことばを代表してしゃべったが、途中で言葉を忘れ、ポケットから紙を出して見たりしてしまった。卒業式には記念品の内容を述べる役をした。そんな時、私はきっと適任ではなく、まわりのものはどうしてあんなおとなしい場慣れしない子にさせるのかと不服だったのではないかと思う。その先生になって他にも今まで目立たなかった子に役目が当てられるようになった。
勉強は好きではないがスポーツが好きな生徒も、そのころK先生と一緒にサッカーを盛んにして、すごく生き生きとしていた。
学芸会は「浦島太郎」をやったが、みんなで力をあわせて作り上げた記憶がある。クラスの卒業文集はクラス全員でガリ版を刷って作った。「自分について(自画像つき)」「将来の夢」「修学旅行」、その他の作文・寄せ書きなどから構成されている。表紙は図工の得意な子が修学旅行で行った羽田空港の飛行機の様子を版画で作り、文集の題は「飛躍」であった。この年はクラス全体が活性化した年で、6年間一緒だったものたちの集大成のような1年だった。学校行事とは関係なく卒業前に先生と先生の奥さんといっしょに遠足に行った。卒業式当日はすべてが終わっても全員がそのまま帰るのを惜しみ、校庭で陣取りかなんかして遊んだのを覚えている。そんなにまとまったクラスにしてくれたのもK先生の方針があったからだと思う。
私のようなものが、与えられた役をうまくこなせなかったのは、非常に迷惑なことだったと思う。周囲や場を犠牲にするような危険をおかしてまでも、先生がその役をさせたのは、やはり、おとなしすぎる人間をなんとか改造しようと思われたのであろう。もっと自信をもちなさいとよく家庭学習ノートで励まされた。
その先生がいなかったら、今の自分はない。私はすごく伸びやかな性格になった。
高校生のころ、先生にばったり会って進路はどうするかと聞かれた。まだ決めていないというと、教師になれと言われたが、いやだと答えてしまった。人にものを教えるなんて好きじゃないと思った。6年の時、浦島太郎の役をしたT君は、ウルトラマンのような顔でけっしてハンサムではなかったが、性格のバランスが取れていて、みんなから人気があった。そのT君は教員になった。おそらくK先生の影響だと思う。
K先生は今は、中学校の校長先生になっているそうだ。T君は小学校の教員をしていて、同級生の子供の担任をしたりしているそうで、保護者面談で会ったなどと聞くと笑ってしまう。K先生は当時25歳という若さだったので、T君が教員になってからはK先生と同僚時代があったという。T君はインターネットで名前を検索すると担任しているクラスがT君の指導の下におもしろい活動をしてメディアに取り上げられたりしていて、よく活躍しているなあと感心する。
私もT君のようにK先生に会ったときに恥ずかしくない活動をしていたい。日本語教師になったときは、我ながら自分らしい仕事についたと思った。教えることの楽しさや醍醐味を中年になって知った。でも、続けられなかった。残念だけど、やっぱり器じゃなかった。
しかし、人生は一生「積み上げ」だ。私が小学校を卒業するときに書いた寄せ書きは「良い人生を」である。本当は「価値ある人生」と書こうとしたら、すでに同じようなことを友人が書いていて、その言葉に変えた。
K先生に本当にありがとうと言いたい。
私は勉強をする習慣がなかったので読書ばかりしていて、最初のころは本の名前と読書時間を記入するばかりだった。「読書もいいけど、たまには勉強しなさいよ」などと先生に書かれた。時には「本当に勉強しない人なんだね。でもテストができるのは不思議だなあ」「今度のテストはちょっとできなかったぞ。君ともあろう人がどうしたの?」「やっぱり、勉強すればできるじゃない」「算数ばかりやってないで、他の科目もやろうね」などと書いてくれた。当時は塾なんかに行っている人も少なく、そのうち勉強の習慣がついてきた。
K先生がよくさせたことは、問題を出してできる人に手をあげさせるのではなく、できた者から順に先生のところに持っていくという方法だった。私はそれまで一度も手を上げて発表するような子供ではなかった。ところが、その方法で初めてわかったことは、一番最初に持って行くのが私であるということがかなり多いということだった。
その年、私に起こった意外な出来事は、学級委員決めのクラスの投票で、私が副委員に選ばれたことだった。私の小学校は田舎の小さな学校で、40人たらずの1クラスが1年から6年まで変わりなく続いた。そして、学級委員をする顔ぶれはいつも決まっていた。それがその年の後半は、今まであまりめだったことのないものばかりが学級委員に選ばれた。
私は人前に立ってものをしゃべったことがなかったので、恐ろしくて、学級会のときに司会をさせられても「他に意見はありませんか?」という一言も言おうかどうしようかとドキドキしてしまい、ついに教壇の前に立ったまま一言も発することなく終わったりした。年賀状には友達数人から「もっと活発になって!」というコメントがつけられたりした。4年生以上で構成される代表委員会に出るのも恐ろしく、年下のベテラン委員の前でおどおどしていた。そういう経験をして初めて自分が今までのままではおとなしすぎて役目を果たせていないということを実感した。
卒業前の朝礼のときに全校の在校生に話す代表となり、そのときはマイクなどもなく校庭で、声が小さくて何も聞こえなかったとみんなに言われてしまった。学芸会のときは終わりのことばを代表してしゃべったが、途中で言葉を忘れ、ポケットから紙を出して見たりしてしまった。卒業式には記念品の内容を述べる役をした。そんな時、私はきっと適任ではなく、まわりのものはどうしてあんなおとなしい場慣れしない子にさせるのかと不服だったのではないかと思う。その先生になって他にも今まで目立たなかった子に役目が当てられるようになった。
勉強は好きではないがスポーツが好きな生徒も、そのころK先生と一緒にサッカーを盛んにして、すごく生き生きとしていた。
学芸会は「浦島太郎」をやったが、みんなで力をあわせて作り上げた記憶がある。クラスの卒業文集はクラス全員でガリ版を刷って作った。「自分について(自画像つき)」「将来の夢」「修学旅行」、その他の作文・寄せ書きなどから構成されている。表紙は図工の得意な子が修学旅行で行った羽田空港の飛行機の様子を版画で作り、文集の題は「飛躍」であった。この年はクラス全体が活性化した年で、6年間一緒だったものたちの集大成のような1年だった。学校行事とは関係なく卒業前に先生と先生の奥さんといっしょに遠足に行った。卒業式当日はすべてが終わっても全員がそのまま帰るのを惜しみ、校庭で陣取りかなんかして遊んだのを覚えている。そんなにまとまったクラスにしてくれたのもK先生の方針があったからだと思う。
私のようなものが、与えられた役をうまくこなせなかったのは、非常に迷惑なことだったと思う。周囲や場を犠牲にするような危険をおかしてまでも、先生がその役をさせたのは、やはり、おとなしすぎる人間をなんとか改造しようと思われたのであろう。もっと自信をもちなさいとよく家庭学習ノートで励まされた。
その先生がいなかったら、今の自分はない。私はすごく伸びやかな性格になった。
高校生のころ、先生にばったり会って進路はどうするかと聞かれた。まだ決めていないというと、教師になれと言われたが、いやだと答えてしまった。人にものを教えるなんて好きじゃないと思った。6年の時、浦島太郎の役をしたT君は、ウルトラマンのような顔でけっしてハンサムではなかったが、性格のバランスが取れていて、みんなから人気があった。そのT君は教員になった。おそらくK先生の影響だと思う。
K先生は今は、中学校の校長先生になっているそうだ。T君は小学校の教員をしていて、同級生の子供の担任をしたりしているそうで、保護者面談で会ったなどと聞くと笑ってしまう。K先生は当時25歳という若さだったので、T君が教員になってからはK先生と同僚時代があったという。T君はインターネットで名前を検索すると担任しているクラスがT君の指導の下におもしろい活動をしてメディアに取り上げられたりしていて、よく活躍しているなあと感心する。
私もT君のようにK先生に会ったときに恥ずかしくない活動をしていたい。日本語教師になったときは、我ながら自分らしい仕事についたと思った。教えることの楽しさや醍醐味を中年になって知った。でも、続けられなかった。残念だけど、やっぱり器じゃなかった。
しかし、人生は一生「積み上げ」だ。私が小学校を卒業するときに書いた寄せ書きは「良い人生を」である。本当は「価値ある人生」と書こうとしたら、すでに同じようなことを友人が書いていて、その言葉に変えた。
K先生に本当にありがとうと言いたい。