山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

北野武との共通点

2005-09-06 00:03:10 | 未分類過去
昨日、テレビに北野武監督が出ていた。また新しい映画を作ってベネチア国際映画祭に出品したそうだ。「TAKESHIS’」というこの映画は、本人にもわけがわからないものだそうだ。たけしさんにはこれからもどんどん活躍してもらいたい。

北野武と私には共通点が二つある。
ひとつは「おにぎりを食べるときの顔」
北野氏がおにぎりを食べようとして口を大きく開けると、彼の右目は閉じる。
私がおにぎりを食べようとして口を大きく開けると、左目が閉じる。
なぜならば、北野氏はバイクの交通事故で右顔面神経を損傷し、私は末梢性顔面神経麻痺で左顔面神経を損傷し、両人ともその後遺症が残っているからである。
瞬きも良く見ると右目と左目の動きの活発さがちがう。正常なほうは、ぱちぱち瞬きできるが麻痺したほうは鈍い動きをしている。私は北野氏よりも多少症状が軽いかもしれないが、自分の顔は普段は見えないから詳しいところはよくわからない。
とにかく、口の動きによって片目が閉じてしまうから、笑うときは両目を細めるように工夫している。口を閉じたまま笑うよりは口をあけたほうが目の引きつりは少ない。
発音練習などすると、目の周りの筋肉がつっぱって苦痛を感じてくる。パ行は特によくない。以前、コーラスをやっていたが、発声練習に苦痛があるし、コーラス大会の写真の顔が見苦しいからやめた。
だから、おそらく日本語学校の採用の面接くらいではあまり他人に気づかれないが、教室では、顔の不具合が目立つことがあるかもしれない。

以前、ボランティア教室で教えていたときに、一番前の席に座っていた中国人の若い女性が口をぽっか~んとあけて、私の顔に見入っていたことがある。それから、日本語学校の学生と個人面談などしていると、かなりの割合で学生が自分の目の下をこすったりする。話すときに私の左目の下まぶたが細かく痙攣するからではないかと思っている。

顔面神経麻痺で一旦顔半面が完全に動かなくなったのは、私が36歳のとき。そのときも人生のリセットだった。そのころは肉体労働者だった。外を歩き回っていて冷たい風に当たったのが原因で、顔面神経が炎症を起こし麻痺してしまったのかもしれない。
医師の治療を受けながら、人のためになるもう少し知的な仕事がしたいと思った。長らくペインクリニックに通ううちに通院依存症みたいになってしまっていたのだが、あるとき、医師からこれ以上治療しても効果はないと言われた。それで、いつまでも人の世話になっているばかりではだめだと思った。
そのころ、たまたま近所で国際化や外国人問題を扱った講座が開講され、病院の代わりにそれに通うようになった。その後、肉体労働を続けながらそのお金で日本語教師養成講座に通って日本語教師になり、日本語学校に就職した。

今思えば顔面神経麻痺になってよかったのかもしれない。顔が多少不自由になったにもかかわらず、その後、運が開けてきた。人のつながりも老若男女国籍問わず広がった。
北野武氏のことはよく知らないが、事故の後、映画の制作など、また新しい活躍が始まったのではないだろうか。

北野氏とのもうひとつの共通点は、誕生日である。当然、年は違う。しかし、誕生日が同じ人というのは、何の根拠もないけれど、どこか自分と共通点があるのではないかと思って、親しみを感じる。

不思議なことに、私の中学一年のときの初恋の人は私と同じ誕生日だった。また、高校であこがれていた人もまた、同じ誕生日だった。この2人は同級生だから、本当に私と同じ日に生まれている。それは、ひきつけられた後になって知ったことで、その偶然に驚いた。何か、直感的に感じるものがあるのかもしれない。しかし、どっちも片思いでろくに話しをしたこともなく、縁はなかった。

北野氏は偉大な人だ。顔面麻痺と誕生日ごときで親しみをもつなんて失礼かもしれないが、私も頑張って何か才能を発揮したい。

昨年、うつ状態になって神経科に行ったときに、顔面神経麻痺のことも話した。そのとき、今から結婚するわけじゃないし、離婚されるわけでもないし、生活上特に不自由もないし、これはどうって問題ではないねと医師と話した。
顔面神経麻痺の後遺症はうつ病の原因や私の人生のマイナス要因にはなっていない。

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