山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

冬の花火(村上龍)

2007-08-05 23:27:37 | 読書
ちょうど、夏の花火の季節ですが、村上龍の「冬の花火」という短編小説を読みました。
この本は、B5版の小学校の国語の教科書のような形状をしています。
その形状がめずらしいので、思わず図書館で手にとりました。
表紙に、“美しい時間 冬の花火 村上龍”と縦書きの小さな字で書いてあります。
「KKべストセラーズ」という会社の発行です。
読んだ後、いったいこの二つの題名はなんだろうかと思ったのですが、本全体は「美しい時間」という題名で、小説の題名が「冬の花火」というらしい。
2006年の冬に発行されたもので、結構新しいです。

この作品を読んでみて、小説家というのは一種の職人なんだと思いました。
たとえば「“美しい時間”というテーマで作品をひとつお願いします」となると「それでは“冬の花火”という作品を書き下ろしましょう」ということで短編がひとつできる。
それは、シェフに「幸せな気分になるようなコース料理をひとつおねがいします」というと、シェフがそれ相応の料理を作ってくれて、お客を満喫させるというものです。
芸術家とは昔から職人であり、しかもその時代の様式を踏んでいる。
つまり、平成時代に生まれるべくして生まれる文体や内容である。たとえば「格差」を描いている。上流の優雅なたしなみを描き、下流の苦しみを描いている。そういう人生の中で、何が大切かを描いている。

「白身魚を使った料理にしよう」とシェフが思うように、「高級なステッキのことを入れた小説にしよう」と村上氏は考える。時には、牛肉料理を作ってと注文があるかもしれない。
そのように、小説の題材を他者が決めることもあるかもしれない。職人はそういうことに自由に応えられるし、自分が好きな素材を使うこともできる。

当然ながら、様々な部分にも、自分が好きな各種の素材や調理法が使える。前菜に使ってもいいし、デザートに使ってもいい。焼いてもいいし蒸してもいい。「カンブリア紀」のことが好きだからそれを入れようとも思える。得意な味付けや最近凝っている材料を繰り返し使ってもいい。
この部分はトマトを使いたいから、昨日の料理にも入れたが、今日の料理にも入れよう、ということもできる。病院で治療費が払えなかった女性のエピソードをエッセイに入れたり短編小説に入れたりする。読者は、ああやっぱりこの著者の作品だなと、それを楽しむ。ああ、やっぱりこのシェフの料理の味付けだわと納得するようなものだ。

短編というのは、毎日シェフが作る料理のようなもので、それは軽く出来上がる。自分の作りたい料理を提供することもあれば、注文に答えることもできる。
そのときそのとき違う料理だが、その料理はやはりそのシェフならではの料理である。

一方、ある種の長編小説というのは、大建築物のようなものかもしれない。一生かけて一つの立派な教会建築を作ったりするようなこともあるだろう。自分の信仰のすべてをかけたり、生命の叫びを表現するかもしれない。

この作品についての私の主観的概要
裕福な人には裕福なりの楽しみやたしなみがあって、それもいいものだ。たとえば「私」は高級な外国製のステッキを売り、金融のプロの「大垣さん」はそれを使う人間であり、そういうものの魅力を知る人間である。一方格差社会の中ではメガネや入れ歯にも思うものを買えず、人生を満喫することもできない人も多い。また、ものの値段にばかり気をとられるような、本当の価値のわからないような無知で無感覚な雑誌記者のような人間もいる。
裕福なものにも貧しいものにも共通してあるものは「老い」であり、ステッキも「老い」に関係した物品である。
村上氏は女性は自立するべきものと考えているが、ここに登場する裕福な大垣氏は愛人サオリを囲っている状況について、サオリの環境に社会性が足りないことを悩んでいる。そして、自分の人生に足りなかったものを後悔し、サオリをこの世に残して自殺し、過去に亡くなった妻の下へと旅立つ。サオリにとって自分が必要な男だとは考えていなかったということだろう。むしろ自分がいなければサオリは自立することができる。
大垣は「わたし」に奥さんと冬の花火をみるようにという遺書を遺していた。そしてその勧めどおりに私は妻と冬の花火を見た。
大垣に足りなかったものとは、大切な人(妻)とともに寒い夜にきらめく一瞬の花火をみる時間だった、とのことだ。

この「冬の花火」という作品は、村上龍というシェフが作った品格のあるおいしいコース料理を食べさせてもらったようなもので、とても満喫した気分になれた小説でした。
コメント

よってたかって

2007-08-05 13:11:28 | 未分類過去
日本人というのは非常に真面目で「あるべき常識」が大好きです。
そして、ある常識から考えて間違っているとか未熟だとか思える人がいると判断すると、よってたかって非難します。
朝青龍についてもそうですけど、安倍さんなんかについても、「みんなが辞めるべきだと言っているのに、1人で続投しようと考えてがんばっている、おかしい。この人もこういってる、この人もやめるべきだといっている、ほらあのひとも、このひともこのように言っている、選挙で民主党が支持されたのにおかしいんじゃないか」と放送する。
安倍さんが続けてもいいんじゃない?と思う人もいるはずなのだが、90パーセント以上は反対意見の人のVTRを流す。「青木さんと森元総理とだれそれが密室で話し合って辞めるように言ったのに、安倍さんは聞き入れなかった」とまた何度も何度も大騒ぎする。それは事実とはすこし違うらしいが、そういう話が流れたということを放送しまくる。「そんな大物のいうことも聞かないんです」ということだ。
放送の仕方はどう考えても「客観的」ではないと思う。

朝青龍の疲労骨折の診断書を書いたのは誰なの?
しかし、そのことは全く触れない。朝青龍が自分で文書を偽造したんですか?そうじゃないでしょう。その医者は処分されないんでしょうか?ならば、まったくのウソを書いたわけではないんでしょう。
多少調子が悪くても、元気そうにサッカーをしたのかもしれない。

私は一度パート先で「気ちがい」になりそうになったことがある。
そのときは、無断欠席にしたいと思ったが、そんなことは社会人として許されないから、我慢して働いたが、精神科に行って診断書を書いてもらった。
その診断書の内容は「うつ病で休養が必要」というものだが、先生の話では「うつ的状況にあることも、広い意味ではうつ病のうち」ということだった。そして、その職場をやめたとたんに私はうつ病ではなくなったわけであるが、問題なくやめるためには「診断書」が必要だった。病気でもないものが急に辞めるとそれは私のわがままであり、そういうことを許した店長の責任になるが、急病の場合は本社にもまかり通り、店長の責任にはならない。厳密に言えばただしくないやり方かもしれないが、古いパート集団に問題があるということでもなく、私が勝手に病気になったということで、問題なくやめることができる。
それを本当のうつ病になるまで耐えなくちゃいけないとなると、自分で自分を守れない。
たとえば有給休暇がとりたいと思っていてもなかなか休めない状況のときに、田舎の親の体調がすぐれず・・・などと言って休暇をとることもあるだろう。それを、「私はどうしても遊びにいきたいんですよ!」などと本当のことで押し通したらまかりとおらない。しかし、実際にはそのひとはサボり心ではなく、心身ともに限界にきていることも多い。

職場なんかで、いじめにいじめを重ねた人たちが、「あのバイトの子、やめちゃったわね」などときょとんとしていることがある。バイトの若い子がおばさんたちのしうちにたえられず、苦痛で遅刻をしたり病欠で休みが多くなったりすると、それをネタにもっともっといじめるわけだ。「てめえらがいじめるから辞めるにきまっているだろ!」と思うが、「まだまだ数ヶ月はいじめがいがあると思っていたのに意外とはやく辞めたわね」のような気の抜けた雰囲気だ。バイトの子は店に顔も見せず郵送で作業着を送り返してきたりする。
そんなにも心が傷ついていたのだ。
そしてターゲットを別のパートに向ける。そろそろ体調が悪くなって休むんじゃないの?という感じになってくる。その手にはのらない。一度も欠席をすることなく、しっかり働いてぱっとやめてやる。
病気で辞めたんですって、元気そうに見えたのにね、ってなことになる。
てめえらが病気にさせたんだろ?

ちょっとしごいたら、なぜか死んじゃいました。
とか
みんなで正当に責めたら意外にもろかったのよ。
あのひと精神病になっちゃったのよ、
あの人自殺しちゃったのよ、
でも、自業自得なのよ
そういう器じゃなかったのよ
弱い人間だったのよ
苦労がたりなかったのよ
つぶれた人のことは忘れましょう

人のやり直しをみとめない
人の成長を待たない
的確でない人は消えていけ
それを扇動しているのはマスコミです。

そういうことで良いのでしょうか、この世の中は。

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相撲

2007-08-05 12:05:36 | 未分類過去
また、相撲のことを書こうと思うのだが、私は相撲について全く興味がない。
だいたい、スポーツというものに興味がないわけなのだが、野球は夫が好きなので一日中放送がありさえすればテレビで野球をつけている。また、サッカーも大きな試合になると夫が見ている。しかし、相撲というのは夫もまるで関心がなく、そのせいで全く相撲放送にチャンネルを合わせるということがない。だから、どういう選手、いや力士がいるのかもわからない。それで、横綱がどういう「品格」なのかもまるでわからないわけである。

朝青龍の問題で、さまざまな番組で相撲の巡業などが写っている。その席料が6千円から数万円だとのことだ。このような高いものを見に行くことは、私にはありえない。
この巡業先の観客が朝青龍が来なかったので非常に残念がっているそうだ。小学生のガキンチョまでがそんなことを言っていた。金持ちの子どもだな~と思う。
放送では、「こんな高いお金を出してみなさん席を買って楽しみにしていたんですよ。こんなに楽しみにしていた日本の子どもの心まで踏みにじって、なんで偽の診断書を提出してモンゴルの子どもなんかとサッカーをしていたんでしょうね」
のような感じだった。
横綱がいなくたって、他の力士でもいいんじゃないの?

朝青龍と対照的に、過去に松葉杖をついてまで相撲ファンのことを思って巡業に参加した「品格ある力士」を紹介したりしていた。
そうか、立派だな、それに比べて朝青龍は・・・、と思わなければいけないのだろうが、ずいぶんとあてつけがましい。これでもかこれでもかと、マスコミの報道は続き、知らずにチケットを買っていた日本の観客の心を裏切ったのだという。
朝青龍は加害者、日本人相撲ファンは被害者という構図を作り出す。
そんなに、巡業を見たかった人の心を尊重しなくてはいけないのか?

私は、日本語を教えていた関係で、外国人に日本文化を教えなければならない立場でもあったので、相撲は見てみたいと思ったことがある。
マス席とかいうものでは、やはり何万円もして、ずっと前から買っておかなくてはならないようだ。夕方早い時間からゆっくり飲んだり食べたりしながら、取り組みを見るのだと体験者から聞いたことがある。お相撲さんはすごくきれいなのだそうだ。そして、湯飲み茶碗のセットとか、みやげ物などもついてくるのだそうだ。そういうゆったりとした楽しみもいいものだと聞いた。まるで、テレビとは違う世界なのだそうだ。

また、外国人にもお金持ちの人が多く、本当の相撲を見に行ったという人がいた。
相撲を見たことのない外国人からは、「どうやって相撲を見に行きますか?先生いっしょに行きましょう」などと言われたこともある。日本人がみんな相撲を見たことがあるなどとは大間違いだ。「相撲は高くて見られませんから」ときっぱりと断った。
以前は、日本人として、日本文化を教えるものとして、自ら体験し外国人に教える使命があるのではと思い、それができない自分を苦しく思っていたが、そういうストレスは持たないことにした。
庶民には関係ない。わっかりませ~ん! しりませ~んっ!!! 終り。
それでいいのだ。そうでなきゃやってられない。
自己嫌悪に陥ってうつ病になってしまう。
歌舞伎も、能狂言も、茶道も、華道も、日本舞踊も、着物のこともわかりませんよ。旅館で働いたことはあるけど客として泊まった事はないよ。
旅館のまかないは、おしんこうとご飯だけだったよ。午前中客室の掃除をしたら夕飯までの間はみんなで一部屋に冷房をかけて昼寝をして体力を養うんだよ。
そういうことならいくらでも教えてあげるよ。

高級な部分は、わかる人に聞いてください!

そして、私は日本語ボランティアもやめた。
結論としては、貧乏人は伝統的日本文化は教えられないということだ。

江戸東京博物館とか両国とかに連れて行くことはできますが、それ以上のことは庶民にはできません。
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