山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

24 匿名でマスコミに売る女

2007-08-31 19:39:12 | 読書
村上龍「ダメな女」

“ダメな女の範疇にも入らない女たち”

概要
著者村上はフランスとイタリアへ行ってきた。南仏のアルルはゴッホが晩年を過ごしたところだが、ローマによって作られた街なので、ローマの名残がある。
古い僧院やその回廊を歩くと心が落ち着き、京都や奈良の古い寺か庵にいるような感じでもあった。
アメリカにはこういうところが無い。そのアメリカでは、銃の乱射事件があり、映画ではサイコサスペンスやサイコホラーなどが作られるが、それは多くの人がわけのわからない孤独や不安や恐怖を抱えているからだろう。映画は「大衆」のものであるので、こういう類の映画が多いということは、孤独や不安や恐怖がアメリカ社会に一般化しているということが言える。
アルルでの僧院では、歴史的に連続しているという安定感を持つことができ、自分は1人ではないという感覚がもてた。
歴史と文化のないアメリカはそういう点では病んでいるといえる。
しかし、そのかわりにフェアネス(公平さ)という概念を持っている。正義という概念も持っている。
日本では、今年(1999年)の4月、匿名の女の告白で検事とニュースキャスターがクビになった。彼らがどうなろうとかまわないが、匿名の告白で個人が簡単にダメージを受ける社会というのはあまりにも幼稚だと思う。匿名の告白者はリスクを負わないし、何を言ってもいいのだ。
男たちにセックスを売り、その告白を匿名でマスコミに売る女というのは最低の女だ。ダメな女の範疇にも入らない。汚い女だ。
著者は、モニカ・ルインスキーという女が大嫌いだったが、彼女は実名で大統領と対決したからダメな女でも汚い女でもない。
恥のない汚い女はいくらでも居るが、そういう匿名の女の告白に何の疑いももたない社会にも問題がある。マスコミはスキャンダルだけを追い、他人の不幸を生きがいにする。
このようなことに嘆いてもしかたがない。新しい不快な現象の大半は昔から存在していたことがあらわになっただけのことである。
以上。

匿名の告白によって個人が大きなダメージを受けるというのは、つい最近の話では、参議院議員に当選したばかりの横峯さくらパパの愛人と賭けゴルフのスキャンダルがある。
本人も全く愚かな男で、こんなのが国会議員かと思うとうんざりしてしまうが、この話をマスコミに売った元愛人というのもどういうものだろうか。

まあ、こんなことにいちいちコメントを書くのも馬鹿らしいです。一時は自分もいい思いをしていたのでしょうが、うまくいかなくなると今度は相手の秘密を暴露し、貶めて不幸にするというのは、哀れな女ですね。
きっとうまくいっていたらそんなことはしないでしょう。だから卑劣です。

しかし、事実が発覚したことは、世の中にとってやはりよかったと言えるでしょう。
どんな男なのか実態がわかりましたから。
横峯議員は事実と違う部分があるということで、怒っているようですが、自分に何らかの落ち度がある場合は、それ以上に大げさな話になって、ダメージを与えられても仕方が無いと覚悟しなければならないでしょう。マスコミなんてそんなものです。
こんなことで裁判など起こし、自分のことでごたごたしている人にまともな議員活動などできるものでしょうか。
辞めてもらいたいところです。

いざぎよく反省しろ!
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速さのストレス

2007-08-31 17:43:32 | 読書
このごろ、友人と本の貸し借りをすることがある。貸したり借りたりすれば新刊でもいちいち買わずに読めるので、経済的で便利ではある。
しかし、友人のお勧めの本というのが必ずしも自分に適しているわけではないので、読むのが億劫になってしまう場合もある。
それより恐ろしいのは、ものすごく読むのが速い友人で、次々に貸してくれるし、また、私が購入した本を借りに来ることである。
「この間買ったと言っていたあの本、貸して!」という具合だ。
ところが、私の場合自分で買っておきながら一ヶ月もたっているのにいっこうに読んでない。
「ああ、あれ?まだ読んでない・・・」とのことで断ることになるが、近々読み終える予定も特に無いという具合だ。
こういうときの他人のパワフルさというのは、どうにもついて行けない。
おそらく、貸したらまた直ぐに読み終えて持ってくるだろうから、先にその人に読んでもらったほうが支障がないくらいである。
しかし、やはり自分で買った本は先に自分が読みたい気がする。
だからといって、人が待っているからと急いで読むというのも苦痛だ。
また、友人に本を借りたから、今度は自分のを貸さなくちゃと思うと、中の文章にやたらと線などを引くことができない。それもなかなか不便なものである。
最初は、「貸すから線を引かないようにしよう」と努めていたのだが、なんだか本末転倒のような気がしてきた。自分の気に入った本は好きなように読むのがいいのだ。
「この本は線を引いちゃったから、買ったとは言わないことにしよう」と思うようになってきた。
不便なことに、線を引きたくなるような本というのは、自分でも好きな本であるから、人にも薦めたい本であるが、そういうのに限って貸す状態ではなくなるのだ。

友人の読書の仕方はすごいもので、何でもかんでもすばやく読んでしまう。
しかし、その人は特に読書が趣味であるわけでもないようだ。趣味は別にある。趣味でもないものをそんなに消化できるということは、趣味にはどれだけのエネルギーを費やしているのだろうか。私のようにボーっとしたり昼寝などしていることなく、有意義な毎日を送っているのだろう。
そういうひとは、食べることに喩えて言えば、好き嫌いなく、何でもたくさん食べる食欲旺盛な体質の人のようなものである。
私などは、食欲もなく好き嫌いがあり食べ方も遅いというような人間にたとえられるだろう。

こういうことがあると、子どもの頃のことを思い出すが、私はどうも団体行動や他人と足並みをそろえることが苦手だった。鬼ごっこなんかも嫌いで走って逃げるのがいやで、どこかの物陰にじっと潜んでいたいほうだった。そうすれば逃げなくてもいいのだ。
テスト勉強を友人と一緒にやるのも大嫌いである。一緒に歴史の年代を暗記したり、英単語や英熟語を暗記して、その場で問題を出し合い覚えたかどうかを確かめるというのが大の苦手だ。他人と同じ速さでものを覚えることが苦痛である。おそらくやってできないわけではないと思うが、とにかくそういうのは嫌いだ。多くの友人は、面倒な勉強はその場で人といっしょにやってしまえばはかどるというが、こういうのがいやでならない。

読書もマイペースでのんびりとしていきたい。


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