「途方に暮れて、人生論」(保坂和志)を読んでいたら、「老いることに抗わない」というエッセイがあった。
年をとると、子どものような暗記力や計算力がなくなり、パズルを解いたり、実生活と関係のない物事を単純に暗記することができなくなってくる。いや、そういうことに大量の時間を費やせばまだできなくはないのかもしれないが、だいたいそんなことをしたからといって何の役に立つわけでもないから、大部分の人間はそんなことに取り組みはしない。もっと別のことを考える。一部分の人間が頭の体操であるとか、脳の老化防止として、そういうことに熱心に取り組んだりしているが、いくら老化防止でも、そのためだけに多大な時間を使うのはもったいない。もっと別の意義のあることをしたほうがいい。
とざっとまあ、こんな感じのことが書いてあった。
たしかにそうである。
今、私はこんな年になって、化学だの物理だのを放送大学で勉強していて、それは、仕事のために仕方がないからやっているのだが、全く頭に入らない。
どう考えても、若い頃、自分はこんなにバカではなかったと思うのだが、どうにも面倒くさいし、たまに気が向いて取り組んだとしても、数日するとざるのように何も残っていないのだ。
それで、この前ふと気がついたのは、だいたい中学・高校のころは、どんだけその勉強に時間を費やしていたかということだ。ちょっと考えてみても、毎日授業があって、数学なんかでも、理解したあとで必ず練習問題などをいくつも解かされていたはずだ。英語なんかも毎時間単語テストなどをやっていた。それに比べたら、今では、せいぜい週に1回くらい教科書を開き、ざっと内容を読んで理解する程度である。わかったとおもったところで、練習問題なんかをいくつもといてアタマにすり込むということはない。だから、定着するはずがないわけだ。
それで、普通の理系の大学ならば、文系と違って遊ぶ暇なく勉強に取り組まなければ卒業できないと言われている。毎日学校に通い、実験などし、どっぷりとそういう環境に入り込んで勉強にとりくんでいるはずである。それを、通信でやろうとすれば、勉強に関わる毎日の密度から考えて、卒業までに何倍もの月日が必要なのはあたりまえである。というか、おそらく普通の大学生の10分の1も勉強していないと思うので、4×10だったら40年もかかるということになってしまうわけだ。しかも時間をかければいいというものではなく、忘れる量のほうが多いということになるだろう。
どうにもこうにも、効率の悪いことに取り組んでいるとしか言いようがない。
今、ちょうど学費を納めなければならず、6万円近くのお金を自分の口座から下ろしてきたところだが、夫いわく、金を捨ててるだけで意味がないから、もうやめたらどうか、とのことだった。確かに、単位を取得する割合が低すぎるだろう。
放送大学は、中年をすぎてやるなら、生活や福祉などに根ざしたものがいいかもしれない。
やはり、理系はきついなあと思う。
しかし、私の場合、やはり仕事に関連するので、多少でもそういうものに接していることは必要かと思っている、ただし、できなくて当然と思うことにした。
ところで、このエッセイの中に、夏目漱石が享年49歳で亡くなっているということが書いてあった。へえ~~~~~。
そういえば、そうだったか。若くしてなくなったのだなあ。
そして、自分ももうそんな年に近づいてきて、近い将来、夏目漱石より年上になってしまうわけだ。
夏目漱石は偉大な人だと思っていた。人間のことを深く考えて、人生の達人のようにさえ感じていた。しかし、漱石はやはり悩んで考えはしたが、自分自身が人生を快適に過ごした人ではなかった。つまり、人生の達人とは生き方がうまい人ではなく、むしろ下手なゆえにいろいろ苦悩したり、他人以上に人間とは何かを考えたりする人だということだろう。
夏目漱石はやはりどうしたって偉大だ。80歳まで生きた人でも、漱石を未熟だなどとは思わないだろう。しかし、自分は本当に漱石よりも長く生きて行くんだなあ、と思う。
生きてきた長さから考えて、今後自分は漱石よりももっと大人になってしまうんだから、もっと大人らしくしっかりと物事を考えて生きていかなくちゃいけない。
いつまでも、漱石先生教えてください、みたいな姿勢ではいけないわけだ。
保坂和志氏のエッセイはいろんなことに気付かせてくれるので、面白い。
これからは、脳の老化に対抗するのではなく、脳の老化にうまく適応した物事にも取り組んでいこう。
年をとると、子どものような暗記力や計算力がなくなり、パズルを解いたり、実生活と関係のない物事を単純に暗記することができなくなってくる。いや、そういうことに大量の時間を費やせばまだできなくはないのかもしれないが、だいたいそんなことをしたからといって何の役に立つわけでもないから、大部分の人間はそんなことに取り組みはしない。もっと別のことを考える。一部分の人間が頭の体操であるとか、脳の老化防止として、そういうことに熱心に取り組んだりしているが、いくら老化防止でも、そのためだけに多大な時間を使うのはもったいない。もっと別の意義のあることをしたほうがいい。
とざっとまあ、こんな感じのことが書いてあった。
たしかにそうである。
今、私はこんな年になって、化学だの物理だのを放送大学で勉強していて、それは、仕事のために仕方がないからやっているのだが、全く頭に入らない。
どう考えても、若い頃、自分はこんなにバカではなかったと思うのだが、どうにも面倒くさいし、たまに気が向いて取り組んだとしても、数日するとざるのように何も残っていないのだ。
それで、この前ふと気がついたのは、だいたい中学・高校のころは、どんだけその勉強に時間を費やしていたかということだ。ちょっと考えてみても、毎日授業があって、数学なんかでも、理解したあとで必ず練習問題などをいくつも解かされていたはずだ。英語なんかも毎時間単語テストなどをやっていた。それに比べたら、今では、せいぜい週に1回くらい教科書を開き、ざっと内容を読んで理解する程度である。わかったとおもったところで、練習問題なんかをいくつもといてアタマにすり込むということはない。だから、定着するはずがないわけだ。
それで、普通の理系の大学ならば、文系と違って遊ぶ暇なく勉強に取り組まなければ卒業できないと言われている。毎日学校に通い、実験などし、どっぷりとそういう環境に入り込んで勉強にとりくんでいるはずである。それを、通信でやろうとすれば、勉強に関わる毎日の密度から考えて、卒業までに何倍もの月日が必要なのはあたりまえである。というか、おそらく普通の大学生の10分の1も勉強していないと思うので、4×10だったら40年もかかるということになってしまうわけだ。しかも時間をかければいいというものではなく、忘れる量のほうが多いということになるだろう。
どうにもこうにも、効率の悪いことに取り組んでいるとしか言いようがない。
今、ちょうど学費を納めなければならず、6万円近くのお金を自分の口座から下ろしてきたところだが、夫いわく、金を捨ててるだけで意味がないから、もうやめたらどうか、とのことだった。確かに、単位を取得する割合が低すぎるだろう。
放送大学は、中年をすぎてやるなら、生活や福祉などに根ざしたものがいいかもしれない。
やはり、理系はきついなあと思う。
しかし、私の場合、やはり仕事に関連するので、多少でもそういうものに接していることは必要かと思っている、ただし、できなくて当然と思うことにした。
ところで、このエッセイの中に、夏目漱石が享年49歳で亡くなっているということが書いてあった。へえ~~~~~。
そういえば、そうだったか。若くしてなくなったのだなあ。
そして、自分ももうそんな年に近づいてきて、近い将来、夏目漱石より年上になってしまうわけだ。
夏目漱石は偉大な人だと思っていた。人間のことを深く考えて、人生の達人のようにさえ感じていた。しかし、漱石はやはり悩んで考えはしたが、自分自身が人生を快適に過ごした人ではなかった。つまり、人生の達人とは生き方がうまい人ではなく、むしろ下手なゆえにいろいろ苦悩したり、他人以上に人間とは何かを考えたりする人だということだろう。
夏目漱石はやはりどうしたって偉大だ。80歳まで生きた人でも、漱石を未熟だなどとは思わないだろう。しかし、自分は本当に漱石よりも長く生きて行くんだなあ、と思う。
生きてきた長さから考えて、今後自分は漱石よりももっと大人になってしまうんだから、もっと大人らしくしっかりと物事を考えて生きていかなくちゃいけない。
いつまでも、漱石先生教えてください、みたいな姿勢ではいけないわけだ。
保坂和志氏のエッセイはいろんなことに気付かせてくれるので、面白い。
これからは、脳の老化に対抗するのではなく、脳の老化にうまく適応した物事にも取り組んでいこう。