山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

脳の老化

2008-09-11 22:50:44 | 日記
「途方に暮れて、人生論」(保坂和志)を読んでいたら、「老いることに抗わない」というエッセイがあった。
年をとると、子どものような暗記力や計算力がなくなり、パズルを解いたり、実生活と関係のない物事を単純に暗記することができなくなってくる。いや、そういうことに大量の時間を費やせばまだできなくはないのかもしれないが、だいたいそんなことをしたからといって何の役に立つわけでもないから、大部分の人間はそんなことに取り組みはしない。もっと別のことを考える。一部分の人間が頭の体操であるとか、脳の老化防止として、そういうことに熱心に取り組んだりしているが、いくら老化防止でも、そのためだけに多大な時間を使うのはもったいない。もっと別の意義のあることをしたほうがいい。
とざっとまあ、こんな感じのことが書いてあった。

たしかにそうである。
今、私はこんな年になって、化学だの物理だのを放送大学で勉強していて、それは、仕事のために仕方がないからやっているのだが、全く頭に入らない。
どう考えても、若い頃、自分はこんなにバカではなかったと思うのだが、どうにも面倒くさいし、たまに気が向いて取り組んだとしても、数日するとざるのように何も残っていないのだ。
それで、この前ふと気がついたのは、だいたい中学・高校のころは、どんだけその勉強に時間を費やしていたかということだ。ちょっと考えてみても、毎日授業があって、数学なんかでも、理解したあとで必ず練習問題などをいくつも解かされていたはずだ。英語なんかも毎時間単語テストなどをやっていた。それに比べたら、今では、せいぜい週に1回くらい教科書を開き、ざっと内容を読んで理解する程度である。わかったとおもったところで、練習問題なんかをいくつもといてアタマにすり込むということはない。だから、定着するはずがないわけだ。
それで、普通の理系の大学ならば、文系と違って遊ぶ暇なく勉強に取り組まなければ卒業できないと言われている。毎日学校に通い、実験などし、どっぷりとそういう環境に入り込んで勉強にとりくんでいるはずである。それを、通信でやろうとすれば、勉強に関わる毎日の密度から考えて、卒業までに何倍もの月日が必要なのはあたりまえである。というか、おそらく普通の大学生の10分の1も勉強していないと思うので、4×10だったら40年もかかるということになってしまうわけだ。しかも時間をかければいいというものではなく、忘れる量のほうが多いということになるだろう。

どうにもこうにも、効率の悪いことに取り組んでいるとしか言いようがない。
今、ちょうど学費を納めなければならず、6万円近くのお金を自分の口座から下ろしてきたところだが、夫いわく、金を捨ててるだけで意味がないから、もうやめたらどうか、とのことだった。確かに、単位を取得する割合が低すぎるだろう。
放送大学は、中年をすぎてやるなら、生活や福祉などに根ざしたものがいいかもしれない。
やはり、理系はきついなあと思う。
しかし、私の場合、やはり仕事に関連するので、多少でもそういうものに接していることは必要かと思っている、ただし、できなくて当然と思うことにした。

ところで、このエッセイの中に、夏目漱石が享年49歳で亡くなっているということが書いてあった。へえ~~~~~。
そういえば、そうだったか。若くしてなくなったのだなあ。
そして、自分ももうそんな年に近づいてきて、近い将来、夏目漱石より年上になってしまうわけだ。
夏目漱石は偉大な人だと思っていた。人間のことを深く考えて、人生の達人のようにさえ感じていた。しかし、漱石はやはり悩んで考えはしたが、自分自身が人生を快適に過ごした人ではなかった。つまり、人生の達人とは生き方がうまい人ではなく、むしろ下手なゆえにいろいろ苦悩したり、他人以上に人間とは何かを考えたりする人だということだろう。

夏目漱石はやはりどうしたって偉大だ。80歳まで生きた人でも、漱石を未熟だなどとは思わないだろう。しかし、自分は本当に漱石よりも長く生きて行くんだなあ、と思う。
生きてきた長さから考えて、今後自分は漱石よりももっと大人になってしまうんだから、もっと大人らしくしっかりと物事を考えて生きていかなくちゃいけない。
いつまでも、漱石先生教えてください、みたいな姿勢ではいけないわけだ。

保坂和志氏のエッセイはいろんなことに気付かせてくれるので、面白い。
これからは、脳の老化に対抗するのではなく、脳の老化にうまく適応した物事にも取り組んでいこう。


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毎日を楽しく暮らそう

2008-09-11 00:38:16 | 日記
どうしても、何か目標をもって、それに向かわなくてはいけないというような潜在意識がある。
だから、目標を失うと、自分の人生はこれではいけないのだと思ってしまう。
どうして、そういう観念に縛られているのかよくわからない。
よくよく考えてみると、富よりも名声を求めていると思う。
もし、富を求めているのならば、お金さえあればいいのであって、それで贅沢をして楽しめば満足のはずだ。
ということは、今現在、そんな「富」はないものの、食べるのに困るわけではないのだから、できる範囲で贅沢をしたり楽しんだりして、ある程度の満足が得られるはずである。
だが、持っているお金で衣類や装飾品を買ったり、豪華な食事をしたり、娯楽をして楽しんだりするということには、あんまり関心がない。そういうことをしても、面白いとか毎日が楽しいとか思えないのだ。
やはり、それよりも、資格試験にひとつ合格したなどということのほうが嬉しい。会社で給料が上がるのは嬉しいことだが、それは生活が楽になるからというよりも、自分自身の価値が上がったように感じるからだろう。

でも、そんなものを求めて生きているのは、ほんとうはひどく馬鹿なことかもしれない。
むしろ、何か楽しい時間を持つことが人間の幸せであるべきはずだ。
まるで、何か目標があるかのように、馬車馬のごとく走る生活は、本当は無味乾燥なのだ。忙しいから食事もいいかげんなものしか作らないし、毎日上の空ですごしているのだ。

もっと身近なことを考えようよ。明日何を食べようか?おいしいものを作ろう、とか、家族でどこかに出かけようとか、そういう小さなことを一つ一つ実行するのを目標にしたほうがいい。
毎日、何か遠い目標に向って突進するのではなく、眼の前のことを充実させることを目的としたらどうだろう。
遠くをみつめて、まるですばらしいものに向かって突進しているかのように見えても、毎日を考えると何もしていない。後になって振り返ると、子どものことも夫のこともまるで見ていなかったなと思うに違いない。ろくな食事も作らないうちに、娘は嫁いじゃったなんてことになってしまうだろう。

小さな楽しみをいっぱい実行すること。
それが大切なことだって、世の中のみんなはもうとうに知っていて、実行しているのかもしれないけど、とにかく、私は今頃になってそのことに気がつき始めたんだ。
でも、習慣はなかなか消えるもんじゃないけどね。

とりあえず、今夜は明日の朝ごはんのおかず、きんぴらごぼうを作りました。



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