山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

地震に備える意識の違い

2012-06-26 23:35:27 | 日記
先日、故郷に行って昔の友人たちと話をしたときに、なんとなく東京の人と意識が違うなと思った。海の近くなので、津波に対する不安はあるみたいだけど、「帰宅難民」なんていう危険性はあんまり考えないようだ。
考えてみれば、東日本大震災の時の揺れは、東京と静岡ではずいぶんと違ったようである。
東京の人同士が久しぶりに会ったりすると、あの地震の時はどうだった、どうやって帰った、という話しになることが多いが、そういう話は出ない。スーパーで商品がなくなったりもしなかったのか、地震に備えて非常食を用意しておくとか、遠距離を歩いて帰ることとかもあんまり考えていないようだ。

私は、歩数計を常備しているが、これも単に健康のためというだけではない。どのくらい歩くと、どのくらい疲れるとか、足が痛くなるなどという目安を日ごろからつけておくことができるとともに、足腰を鍛えておくことにつながる。最近私の周辺の人々も「いざというときに長距離を歩く」ということを想定して生活している。
地震の時は4時間くらいかけて歩いて帰宅した人もいた。途中までバスで行き、そこから知らない道を歩いて帰り、遠回りだった人もいたようだ。そんなこともあり、普段から、いろいろな経路で歩いてみたりしている人も多い。電車の線路に沿って歩いて行くとわかりやすいけど、非常に遠回りだったりするそうで、直線距離だったら、その半分もかからないこともあるそうだ。そのためには、実際に歩いてみて、経路を調査しておく必要があるのだ。1つではなく、いくつかのルートを経験しておくのだそうだ。

私の場合は、自宅と勤務先が近いので、歩いて帰宅するのは簡単だが、万が一、都心に出かけているときに交通が止まったら大変なことになる。新宿くらいだったら歩いて帰る道もわかりそうだが、もっと都心になったらわからないかもしれない。

それから、自宅から故郷の家に向かっていく一般道を、自動車を運転して走ったりしているのだが、これも歩いて帰る道を認識しておこうという意識が無くはないし、距離的な感覚も感じることができる。大地震などが起こって、東京が壊滅状態になったら、246号とかを歩いて静岡県に向かうことができる。何日かけても逃げて行こうと思っているのだ。
車で走るとこのくらいかかるから、歩いたらどんだけかかるかという、なんとなくの見当もつく。いや、それはもう容易なことではない。大変なことだろうと思うばかりだ。

もし、交通がマヒして、道路も分断されてしまったら、高速道路はクルマも走らないから、そこを歩いて進むことができるのかもしれないが、高架なので、崩れ落ちたりしてしまうかもしれないなどと思う。また、休憩する場所も長距離に渡ってないだろうから、災害などの時に、高速道路を歩くのは向かないだろう。そんなわけで、一般道を進んで行く。

今後は、非常持ち出し用の荷物を持って歩くとどうなるか、なども体験する必要があるかもしれない。

追記:

そういえば、地方の町で働いている人と、大都会で働いている人とは、そもそも違いがあることに気がついた。つまり、東京の都心に勤める人たちは、道路を使ってそこまで行き来する方法を全く知らないまま、いつも電車や地下鉄に任せているのだ。たぶん、そのこと自体がかなりおかしいことなのかもしれない。地方の町だったら、自分の家と勤務先を結ぶ道路を知らないで暮らすということはないだろう。
それに、私の故郷のような地方では、日ごろからクルマで通勤しているのが普通だから、道路が壊れない限りは地震の後もクルマで移動するに違いない。東京ではクルマを持っている人がそもそも少ないし、クルマで通勤もしていない。だから、いざクルマしか使えない状況になったときにも、それを利用できるひとは限られてしまう。そして、地震の後はクルマの走行が禁止されてしまうようなので、やはり自分の足で歩くことを考える以外にはないのだ。地方の人はそういうことは考える必要のない環境にいるのだから、それに備える必要もないわけだ。
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近況

2012-06-26 02:48:06 | 日記
ああ、疲れた~。いきなり週始めから疲れていて、さっきまで爆睡しておりました。
これでは、先が思いやられる。
本当は、先週の金曜に休みを取ろうと思ったのだけど、先週は健康診断で仕事時間が削られたこともあり、休む余裕がなかった。
しかし、今日出勤すると、仕事が何にもなくて、こんなことなら休めたのにと思ったけど、月曜はデータを入力して回覧板を回す仕事があるから、滅多なことでは休めないのだ。かといって、先週の金曜に休んだのでは、金曜までに終わらせる仕事があったから、どっちにしても休めないのだった。

それにしても、仕事がないのは困ったことなので、何か作業はないかと全員にメールを送ってみたところ、仕事を頼んでくれる人が次々にいて、むしろ忙しいくらいになってよかった。なんでも宣伝活動が必要だ。

先週末は、故郷の友人たちに会ってきたのだけど、みんなそれぞれに頑張っていて、なんか自分の置かれている環境がいかに生温いものであるかを感じた。
私の仕事は、正社員の補助的な仕事ということで、気楽で短時間なので、それなりに給料も超安いのは当然である。
親しい友人の1人は、ずっと正規雇用できて今は管理職だし、もう1人は経営者である。どっちも女。年収は私とは比べ物にならないはずだ。そのうちの経営者のほうが、ほとんど1人でしゃべっていて、それを聞く立場だった。
そのときは、もう圧倒されるばかりで、よく頑張ってるなと感心したけど、後になって考えると、あれってやっぱり「経営者」側の目だなと思った。

経営者は、現場を監督する中間管理職のやり方がなっていないので、平社員がちゃんと仕事をしないと思っている。例えば、現場では勝手に仕事の方法を変えているが、そこに経営者が抜き打ちでやってきて、決められた方法で作業をしろと忠告する。勝手にやり方を変えて楽をしているだけなのか、それとも本当に変えないとやっていけないのか、そのあたりは客観的に判断のしようがないだろう。現場の人たちは経営者は実際に肉体労働をしていないので、実情がわからないのだと影で不服をもらしたりするが、経営者である友人には、理想の社員像というものがあり、社員がそれから外れた行為をすることは許せないようだ。

経営者には、現場がわからないというのは、私は常日頃つくづく感じることなのであるが、時には現場よりも客観的に見る事が出来る場合もある。また、直属上司に問題がある場合は、それを飛び越えて経営者に訴えると物事が好転することもある場合もある。なかなか難しいことだ。

もう1つは、経営者というのは、「社員を働かせてやっている」「給料を払ってやっている」という意識が強いようだと感じた。自分が作った会社だから当然かもしれないが、会社というのは、社員1人1人が働いていることによって成り立っているのであるから、「雇ってやってるから、給料がもらえるんでしょ」というよりも、「社員が毎日汗水流して働いているから、顧客から請け負った仕事もこなすことができ、収益を得て会社が継続している」と思えないのだろうか?
故郷のほうでは、仕事があまりないので、正規の仕事だけでは食べていけず、その他に、休日などを利用して短時間の労働をし、副収入を得ている人が多いらしい。そうなると、何でもいいから働かせてくださいということになるようだ。友人の会社は仕事があるので、そういう人を多く雇っているようだ。地域全体としては、仕事よりも労働者が余っているということで、結局、経営者が強気になる。

これは、都会でもそうだけど、「気に入らなければやめなさい、あなたの代わりはいくらでもいるんだから」という意識である。

経営者である友人の悩みや主張には、うなずきながら聞いていたけれど、下っぱ労働者の私としては、なんとも、複雑な気分だ。

それから、業界の違いってのもあるんだけど、友人たちは、施設サービスや人間を相手にした仕事をしているので、話は非常に具体的でわかりやすいが、こちらは技術や情報を取り扱っているので、まるで分野が違う。こっちの仕事の説明をするのはえらく大変なことなので、結局は何も話せない。
そうなると、まるで毎日何もしていないバカのように思えてしまうわけだ。そして、こちらが無知で何も知らない人のようになってしまい、自分自身もそんな気分になって帰ってきたが、いったい本当にそうなのだろうか?と考えた。
いや、それは違うだろう。結局、しゃべり続けた人は、偉そうに自分の自慢や苦労話をする人だったんじゃないかな?そして、自分をさらけ出しただけで、自分自身は人からは何も聞かない人なんだから、その人にとってはなんらプラスにはならなかった。いや、当人は自分自身を再認識したのかもしれない。

私は、そこで、労働者としての意見を述べればよかったのか、他の業界の話をすればよかたのか?まあ、そんな面倒臭いことはする気にもなれないけど、なんとなく割り切れない気持ちが残っているのだ。

自分は自分なりに頑張っているのか、それとも頑張りが足りないのかもわからないし、自分は愚かなのか愚かでないのかもわからない。そもそも、人と比べて自分はまともなのかまともでないのか、優れているのか劣っているのか、なんてことを考える事自体が間違っていることなのかもしれない。
社会への貢献度が年収に比例し、それが人間の価値を決めるとすれば、私は自分の頑張りが足りないから、社会にも貢献していないし、その結果として、年収も微々たるものであることになるのかな。
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故郷の本屋

2012-06-26 01:25:23 | 読書
週末は、また所用があって、静岡県に行ってきました。今年は、5月6月は2回ずつ頻繁に実家に帰っていますが、今回は母には関係のない用事だったので、あんまり度重なると、母としてはちょっと迷惑そうでもあります。7月は行かないので、次はお盆かな?

帰省する電車の中で、「赤頭巾ちゃん気をつけて」を読み終えました。
それについては、改めて書くとして、あとは「白鳥~」を持ち歩いてもいたため、それを読み始めました。なるほど、みんな薫君と由美が登場しているのか。

さて、それで、帰り際に故郷の街中をぶらついてきました。
もう、全く浦島太郎でした。すごく変わっていました。

その中で、高校時代によく入っていた本屋にも入ってみました。その店はあまり大きくはなく、店内は、記憶以上に物も人も閑散としているように感じました。

文庫本は、出版社に関係なく作家別にアイウエオ順で、現代のものと過去のものが棚の裏表に分けて配置されており、何を基準に新しいものと古いものを仕分けしているのかよくわかりません。ためしに庄司薫の本を探してみると、この本の場合は、志賀直哉等と同じ棚で、古いほうに入っていました。

しかし、驚いたことに、赤・白・黒・青とちゃんと4冊そろっているのです。さすがは、この街に一軒しかない本屋だけのことはあるもんだ、と関心しました。この街の人は、すべてをこの本屋の本支店だけでまかなっているのですから。そういえば、どんな人が経営しているのか?今では、代も代わったのでしょうね。

せっかくなので、「僕の大好きな青髭」を買ってきました。どんなカバーをつけてもらえるか楽しみでした。昔とおなじなのでしょうか?初めて見たようなデザインでしたが、覚えていないだけかもしれません。東京にはないデザインで、やっぱり記念になってよかったです。


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