学生のときに、この本を読み、その内容をすべて忘れていて、いったい何が書いてあったのかを知りたくてたまらず、今回読んだわけだ。だから、それこそ、その内容を書いておかなくちゃならないのだけど、4日もたったところで、もうすっかり忘れそうになっている。
なんだか、すでにあやふやだけど、とりあえずは、今のうちに書いておかなくちゃと思う。
薫君は高3のとき、学生運動のせいで、東大の入試がなくなり、大学生になれなかったという状況らしい。そして、その次の年から、都立高校は学校群制度というのがあって、名門日比谷高校に優秀な学生だけが集まるという状況ではなくなるという時期だった。そう言えば、学校群制度なんていうのが昔あって、東京の人は自分の行きたい高校に行けず、勝手に割り振られてしまうらしいと思った記憶がある。その学校群制度は、今現在はなくなり、日比谷はやっぱり都内一のエリート高校である。でも、きっと昔の校風は変わったんだろうな。今の学生はそれはもう割りきっているというか、冷めているというか、悟っているというか、昔の学生とは違う感じだ。それは、世代の違いだ。
昔の高校生は、勉強だけをしているのではなく、やたらに生徒会活動とか熱心にやってたり、わけのわからないものに情熱を傾けたりしていながら、なぜか勉強もちゃんとやっているという人間像があった。私が高校に入ったばかりのころ、高3の先輩にはその残像があったように思う。もちろん私は日比谷高校なんかじゃないけど、なんかわかるような気がする。それにしても、勉強だけではなく、何でもできる人間ってのは、見方を変えると、イヤミでもある。それが実はポーズだったにしても、実際にやっている事に変わりはない。余裕なんだな。
そんな日比谷高校から、東大に何百人と進んでいき、いろいろな有益な活動や勉強が活発になされるはずのところ、学生運動で進みようがないんだ。他の大学に行き先を変えた者も、なんとなくやる気をなくしてしまい、むしろ料理の職人なんかになったほうがよかろうと思ったりしてしまうのだ。近所の主婦オバサンは、意味もわからないのに、学生運動の動向や進学先などをわかったように口走り、うっとうしいばかりである。
学生運動とは何なのか?本当にそれに一生をかける事ができるのか。人間というものは、過去の自分と、未来の自分を切り離して生きることなどできるのか?自分の行動に責任を持てるのか?と薫君は疑問に包まれる。
今まで、鬱積していた気持ちが爆発してきたのは、友人の小林がやってきて色々しゃべっていったときだ。我が事のように薫君の心に響いたからだ。小林と薫は、まるで「風の歌を聴け」のねずみと僕みたいなものだ。(村上春樹が庄司薫に影響されていたことになるか。)
小林と薫は実質、同じ人間と考えてよさそうだ。
ここで、小説を書くのも、何をするのも、世の中の中心にまっすぐに立っているのではない人たちの時代になって来てしまったようなことが書いてある。東大の法学部とかそういういかにも「まとも」なものに対しての価値観は人気がない。普通であること、普通にまともであること、普通に優秀であること、あたりまえであること、はどうなってしまうのだろうか。
ここで、左足の親指の爪をはがして傷ついている薫君の痛みは、心の痛みでもあること、それだけの重傷を負っていることがわかってきた。
もう大学に行くことなんかやめるし、どうなってもいいんだというふうな気分で歩いているうち、小さな女の子に足を踏まれ、もはや致命傷のような激痛に襲われてしまうが、その女の子は、自分のしたことを謝り薫君を心配してくれるというまともな優しい心の子だった。
そして、その小さな女の子がこれから買おうとしているのはグリム童話の「赤頭巾ちゃん」であり、薫君は一緒に本屋に行って、その子のために良さそうな本を探してあげる。同じ赤頭巾ちゃんにもいろいろな訳があって、妙に教訓めいたものや救いのないものや、夢のないものがあるということを薫君は知っているので、本を1冊ずつ開いて確認し、女の子にふさわしい内容の物を選ぶ。
こんなところが、さすがは、1人の日比谷高校生であり、教養があり、気配りがあり、紳士的であり、人に親切にすることから外れることができない男の子だ。持って生まれた気質というか、育った環境というか、要するに良心に支配された正統的なおぼっちゃまだろう。
しかし、結局のところ、人はどこで落ち着くことができるか、何を心のよりどころにして生きていけるのかというと、身近な人を守ることなのではないか。そんなごくあたりまえな思いやりや信頼関係が大切なことなのではないか。
薫君は幼馴染の由美を守るだろうし、どんな困難なときにも、そういう人がいるかぎりは、頑張って歩んで行けるに違いない。
「赤頭巾ちゃん気をつけて」という題名は、赤頭巾ちゃんの本を選ぶ場面があったからだというのも、全く覚えていなかったが、この絵本を女の子のために選んでいる場面では、なんだか感動して胸がいっぱいになってしまった。
なんだか、すでにあやふやだけど、とりあえずは、今のうちに書いておかなくちゃと思う。
薫君は高3のとき、学生運動のせいで、東大の入試がなくなり、大学生になれなかったという状況らしい。そして、その次の年から、都立高校は学校群制度というのがあって、名門日比谷高校に優秀な学生だけが集まるという状況ではなくなるという時期だった。そう言えば、学校群制度なんていうのが昔あって、東京の人は自分の行きたい高校に行けず、勝手に割り振られてしまうらしいと思った記憶がある。その学校群制度は、今現在はなくなり、日比谷はやっぱり都内一のエリート高校である。でも、きっと昔の校風は変わったんだろうな。今の学生はそれはもう割りきっているというか、冷めているというか、悟っているというか、昔の学生とは違う感じだ。それは、世代の違いだ。
昔の高校生は、勉強だけをしているのではなく、やたらに生徒会活動とか熱心にやってたり、わけのわからないものに情熱を傾けたりしていながら、なぜか勉強もちゃんとやっているという人間像があった。私が高校に入ったばかりのころ、高3の先輩にはその残像があったように思う。もちろん私は日比谷高校なんかじゃないけど、なんかわかるような気がする。それにしても、勉強だけではなく、何でもできる人間ってのは、見方を変えると、イヤミでもある。それが実はポーズだったにしても、実際にやっている事に変わりはない。余裕なんだな。
そんな日比谷高校から、東大に何百人と進んでいき、いろいろな有益な活動や勉強が活発になされるはずのところ、学生運動で進みようがないんだ。他の大学に行き先を変えた者も、なんとなくやる気をなくしてしまい、むしろ料理の職人なんかになったほうがよかろうと思ったりしてしまうのだ。近所の主婦オバサンは、意味もわからないのに、学生運動の動向や進学先などをわかったように口走り、うっとうしいばかりである。
学生運動とは何なのか?本当にそれに一生をかける事ができるのか。人間というものは、過去の自分と、未来の自分を切り離して生きることなどできるのか?自分の行動に責任を持てるのか?と薫君は疑問に包まれる。
今まで、鬱積していた気持ちが爆発してきたのは、友人の小林がやってきて色々しゃべっていったときだ。我が事のように薫君の心に響いたからだ。小林と薫は、まるで「風の歌を聴け」のねずみと僕みたいなものだ。(村上春樹が庄司薫に影響されていたことになるか。)
小林と薫は実質、同じ人間と考えてよさそうだ。
ここで、小説を書くのも、何をするのも、世の中の中心にまっすぐに立っているのではない人たちの時代になって来てしまったようなことが書いてある。東大の法学部とかそういういかにも「まとも」なものに対しての価値観は人気がない。普通であること、普通にまともであること、普通に優秀であること、あたりまえであること、はどうなってしまうのだろうか。
ここで、左足の親指の爪をはがして傷ついている薫君の痛みは、心の痛みでもあること、それだけの重傷を負っていることがわかってきた。
もう大学に行くことなんかやめるし、どうなってもいいんだというふうな気分で歩いているうち、小さな女の子に足を踏まれ、もはや致命傷のような激痛に襲われてしまうが、その女の子は、自分のしたことを謝り薫君を心配してくれるというまともな優しい心の子だった。
そして、その小さな女の子がこれから買おうとしているのはグリム童話の「赤頭巾ちゃん」であり、薫君は一緒に本屋に行って、その子のために良さそうな本を探してあげる。同じ赤頭巾ちゃんにもいろいろな訳があって、妙に教訓めいたものや救いのないものや、夢のないものがあるということを薫君は知っているので、本を1冊ずつ開いて確認し、女の子にふさわしい内容の物を選ぶ。
こんなところが、さすがは、1人の日比谷高校生であり、教養があり、気配りがあり、紳士的であり、人に親切にすることから外れることができない男の子だ。持って生まれた気質というか、育った環境というか、要するに良心に支配された正統的なおぼっちゃまだろう。
しかし、結局のところ、人はどこで落ち着くことができるか、何を心のよりどころにして生きていけるのかというと、身近な人を守ることなのではないか。そんなごくあたりまえな思いやりや信頼関係が大切なことなのではないか。
薫君は幼馴染の由美を守るだろうし、どんな困難なときにも、そういう人がいるかぎりは、頑張って歩んで行けるに違いない。
「赤頭巾ちゃん気をつけて」という題名は、赤頭巾ちゃんの本を選ぶ場面があったからだというのも、全く覚えていなかったが、この絵本を女の子のために選んでいる場面では、なんだか感動して胸がいっぱいになってしまった。