山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

畳水練(たたみすいれん)

2014-08-11 22:06:17 | 日記
一昨日の毎日新聞のクロスワードに、ふと「畳水練」という言葉があったのを思い出しました。
なんで、思い出したかというと、今朝、NHKの連続ドラマ「花子とアン」を見ていたら、歩の祖父と父親が畳の上で泳ぐ真似をしている場面があったからでした。

クロスワードのヒントは「和室で役に立たない泳ぎの練習」というものでした。
ドラマでは、雨が降って海水浴に行けないので、畳の上で泳ぐ振りをしてみせたので、泳ぎの練習をしたわけではありませんが、「畳水錬」とは、まさしく畳の上でそういうふうにするんだというのを目の当たりにして、笑ってしまいました。

この言葉の意味は、「畳の上で水泳の練習をする意から、理屈や方法を知っているばかりで実地の訓練が欠けているため、実際には役にたたないこと」だそうです。

初めて知った言葉でした。


ところで、話は変わりますが

「花子とアン」は、よく見ています。
花子役の吉高由里子は結構好きな女優です。蓮子役の仲間由紀恵は演技力があるなあと思って見てました。

このドラマで、印象に残っているのは、「最上なものは過去にあるのではなく、将来にあります」という言葉です。

この頃、心身の衰えを感じる毎日ですが、将来を最上のものとすべく、頑張らなくてはいけないなあと思います。

NHKの朝ドラを見るようになったのは、他の局のテレビ番組が面白くないこともありますが、花子の故郷の言葉が私の故郷の言葉によく似ているので親近感があります。
英語は苦手ですが、出版関係も好きな分野です。

畳水練とは関係ないほうにずれてしまいましたが、これからも「毎日新聞クロスワード」と「NHK朝の連続ドラマ」を楽しみたいと思います。(無理やり関連付けて終了)

コメント

ほったて小屋の美容師

2014-08-11 10:51:40 | エッセイ
今、群ようこの「またたび読書録」という文庫本を読んでいる。これはエッセイ集である。
最初の作品は「小さな空き地の不思議な家族」というもので、西原恵理子の「ぼくんち」を読んで、それに関連して思い出した過去の出来事が書かれていた。
それが、小さな空き地に住む不思議な家族の記憶で、小さな子供2人とその父母の生活の様子だ。ドラム缶のふろに入ったり、女の子の着ている服を洗濯すると、それが干されている間は裸で乾くのを待っているなどというエピソードが書かれていた。貧しいけど、堂々と楽しく暮らしている家族の話だった。
そんなのを読んでいたら、私も急に子どものころのことを思い出した。

私が小学生のころ、家の近所の空き地に、ある日、テントのような、ほっ立て小屋が作られ、そこに中年の夫婦が住むようになった。
そのあたりは新興住宅地であり、新しく建つ家は、みなきれいな家だったし、いくら古い家でも、まさかテントということはなかったので、驚いた。
その家の屋根は布のようなものだったし、きちんとした壁や扉のようなものもなかったと記憶している。
子どもの目から見ても、それは一見して乞食の住みかのようだった。現在のようにブルーシートなどはない時代だったが、今でいえば、河原や公園の空き地に作られたホームレスの住まいのようなものである。

群ようこの「小さな空き地の不思議な家族」では、その家族に対して大人たちは触れようとはせず、なんとなく子どもとの話題を避けていたという。

ところが、私が子供のときの、そのテント住まいの夫婦に対して、私の親は好意的だったし、すぐそばでもないのに近所づきあいのようなことをし始めた。

その夫婦の奥さんのほうは「美容師」だとのことであり、そのうちそこに店を建てて営業するのだそうだと親から聞いた。
子ども心にも、あんなテントに住むおばさんが、美容院をすると言っても、どうもピンとこなかった。
子どものころ、私の髪の毛は母が自宅で切っていた。母は、手先が器用な人間だった。

数か月経つと、テントのあった土地に、本当に家が建てられた。周囲の家は2階建ての新しい建物だったが、そこに出来たのは、最初から古ぼけた感じの木材で作られ、1階建ての小さな家だった。普通の美容院のような店構えではなく、普通の住宅の玄関の引き戸だった。○○美容院という看板がペンキで書かれていた。

そしてある日、親が行ってみろと言ったからだと思うが、友達と髪の毛を切りに行った。

家の中に入ると、一応広い土間があって美容院のスペースができていた。おばさんは、そこで、髪を切り始めた。右側を切り、左側を切ると、左のほうが短くなったので右側をさらに切った。すると今度は、右側のほうが左側より短くなったので、左側を切った。すると今度は左が短くなり・・・、そして私の髪の毛はどんどん短くなっていき、超ショートの男のような髪型になってしまった。おばさんは、さらに切ってそろえようとしたが、さすがにそれ以上切ることはできないと判断し、不揃いのまま終了した。

友人は、先にカットされている私を見ていたので、最初から「長めに」「あまり切らないでいいです」などと注文して、短時間で終わり、災難を免れた。

以後、看板は出ていたが、お客がいたかどうかは知らない。時代とともに、普通の美容院も建つようになった。

その夫婦はどうやって生計を立てていたのか、そこに引っ越して来るまではどこにいたのか、旦那さんのほうは何をしていたのかもわからない。今思えば、土地だけは買って、借家を出て引っ越してきたのだろう。
夫婦に子どもはなく、今はすでに夫婦とも他界したのか、その建物もなくなっているようだ。

最初に、テントのようなほったて小屋に住んでいたので、今思えばかなり特殊な夫婦だと思うが、不思議に親たちは変なうわさもしないし、悪口も言わず、ごく普通に近隣住民として受け入れていた。

それは、その夫婦の人柄がよかったからなのか、また貧しいということに対して、私の親にも近所の人にも偏見がなかったからなのだと思う。
美容師としての技術がほとんどないにもかかわらず店を開くというのにも驚きだが、「へたくそでダメだこりゃ」と思うだけで、それ以上の批判は誰もしなかった。平和な時代だった。



コメント