プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

野崎泰一

2016-08-29 23:48:02 | 日記
1952年

広島の先発野崎はナックルとカーブを多投して好調の滑り出しをみせたが二回二死後から加藤進に三塁を強襲され、山崎の三ゴロもイレギュラー安打となる不運に見舞われて、次打者国枝の左翼線二塁打で二点を先取されてしまった。広島は三回なかばから好調の太田垣を送って反撃の機をうかがい四回岩本、大沢四球に浴し意表を衝く重盗に成功、無死二、三塁と絶好のチャンスを迎えたが後続打者が凡退し逆に名古屋は五回原田、児玉の安打で軽く一点を加え試合を楽にした。その後広島も太田垣の安打と四球で迎えたチャンスを武智の二飛でダブられたが、九回大沢の四球を足場に門前の右前安打で無死一、三塁で攻めたてれば大事をとった名古屋の杉下、野口のバッテリーを繰り出しピンチを脱せんとした、しかし長持の代打藤原はよく遊越しに快打し一点を還し、なおも塚本の犠打で一死二、三塁に持ち込んだが、広岡の代打野田と、太田垣が凡退し無念の涙をのんだ。
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林義一

2016-08-29 20:40:28 | 日記
1952年

宇野光雄、杉浦清、児玉利一、加藤春雄、南村不可止、柚木進、大島信雄・・・それに林義一といった選手はまわり道をしないで卒業時にプロ入りさせたかった・・・という話がよく出るほど磨き込んだ技術を身につけている。林は徳島商業の一年生でマウンドに立っているから、明大、全徳島、大映などを通算すると廿年近い投手経歴である、しかも徳商といい、明大といい、全徳島といいいずれも全盛時代、その中心選手であり主要投手であったのだからまさに輝く球歴といわねばならない。昭和廿四年の秋に大映に入り十一月七日初陣として南海に対戦、5-4で勝っている、廿五年は18勝11敗、防御率2・40で第二位、廿六年は12勝11敗、防御率2・54で第六位、二年にして早くも大映の主戦投手、さらにパ・リーグ代表投手の一人になりおわせたのも深い経験と技術の光りではある、が、その最大の原因は熱心な研究と正しい生活であると思う。学校、ノンプロ野球時代は上手投を多投していたのにプロ入りしてから、横手と下手から投げる投法に変えたのは、棒球では少しくらい球速があっても打たれる、一球一球変化する球で凡打させるのがその狙いであろう、ウォーミング・アップは「球がのびる」までを目標にしているから多い時もあり、少ない時もあるが、ベンチからのリリーフでは十球から十五球くらいで登板している。試合中に数多く投げる得意球はスライダー、これが高く低くコーナーに決まったり流れたりしている、そしてカーブやシュートを挟んでおいて、ここぞという時に外角ぎりぎりいっぱいにとおる速球を投げている。林を技巧派の第一人者に推す人が多いが、その技巧を生かしているのは、いまだに速球を持っているからである、その速球を活用し七、八分の速度に落とした変化球の次に速いカーブ、逃げる速直球といったコンビネーションでウィニング・ショットの効果を大きくしているのは賢明な投法であると思う。フォームが変わったため、どうしてもステップが広くなり左側に開くようになったから、一塁側に飛ぶバントや、左側に来るゴロの処理は見事であるが足もとに来る強いゴロや三塁側のバントなどに対する守備が弱い。スライダー、シュート、カーブ、ファイア・クロッスに入る外角球などすべて横に流れたりそれたりする球が多いので、目下まっすぐに落ちる球を研究しているらしい。それとともに前足がつっぱらないようフォームの改善にも心がけているのが注目される、この二つが徐々に効果を挙げるとさらに多彩なピッチングになるが、現在でも六種の球を横と下からの二つの投法で内、外角の高低へ投げ込んでいるから細かく計算すると四十八種の球を操作しているのである。しかも矢つぎ早に、なんのためらいもなく、バックの守備を信じて、ビシビシと投げ込んでいるのが林投法の身上であり、凡打させるコツになっているようだ。

林投手 中沢さんは「技巧派投手にはめずらしい速球を武器としているところが強味」といわれているが、その速球は下手また横手から高目ベルトのコースに入る球にノビがあって効果をあげているんです。シーズン初めにストライクゾーンが低くなって、この球がボールにされていまい、一時球速が落ちるというジレンマに陥りましたが、オールスター戦後からまたストライクにとってくれるようになってホッとしたところです。落ちる球を研究中とありますがこれはシュートボールをアウトコースへ落とすことです、インシュートはすでに時代遅れですよまかりまちがえばホームランされる危険性がありますからね。そこへ行くとアウトコースへ落ちるシュートはまず打たれる心配はありません、これあコントロールよく自在に投げられるよう研究中です。前足をつっぱるフォームはもう長年やっていることでなかなかなおりません、いまのところは腰だけを捻って投げているのですが、後ろ足に力を加えて蹴るようにして投げれば、もう少し球速が増すのではないでしょうか、チェンジ・オブ・ベースは一応自信があります、まず注文通りに凡打させる自信はありますよ、ほかのピッチャーの採点も見ていますが中沢さんは甘すぎるぼくがB一つとはかえってはずかしいですね。
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佐川守一

2016-08-29 19:54:05 | 日記
1955年

今年西鉄入りした二十人近いルーキーの中で佐川は西鉄待望のサウスポーだけに、球団の期待もまたひとしおだろう。香川県観音寺一高(旧三豊中)で二年生のときから現中日の大矢根投手とともにマウンドをふんでいる。大矢根がエースで佐川が第二投手。バッティングを生かして一塁を守ることが多かったが、三年生のときの予選ではむしろ佐川の方が好調だった。当時観音寺一高は空谷(中日)がいた愛媛の松山商に対抗する香川県のナンバー・ワンとして優勝候補の呼び声が高かった。その予選では破れたが、佐川は県下のベスト・メンバーに選ばれた。その後母校の先輩掛飛氏(早大OB、現いすゞコーチ)の紹介で東芝を希望したが、都合で入社出来ず、倉敷レーヨン岡山工場に就職した。一昨年暮空谷、大矢根をスカウトに来た富坂中日二軍監督が後になって佐川のことをきき「そんないい投手がいたのか」と残念がったという倉敷レーヨンではすぐエースとなり、入社してから二か月目京都市長杯争奪の全国選抜野球大会での手腕が認められた。この大会で倉敷レーヨンは佐川の健投で準々決勝まで勝ち残っている。一回戦は川崎重工業を三安打に抑え、自らもタイムリー・ヒットを放って3-1。第二戦は(京都クラブ)リリーフの責を果して9-4で快勝している。さらに都市対抗予選では一回戦に中国地区の常勝岡山鉄道局を牛耳って一躍中央球界にその名をとどろかした。岡鉄を破った投手というニュースに国鉄の楠見コーチがスカウトするため急ぎ倉敷に飛んだという話があるくらいである。秋の産別大会には化学繊維部門代表となった全倉敷レーヨン(西条、岡山、倉敷の三工場の合併チーム)に選抜されて出場対日本鋼管戦に先発している。三回までみごとなピッチングを見せながら四回二塁失からくずれ四点を奪われてKOされたがこれは若い彼が動揺したときに二人目に代えなかったベンチの失敗で、三回までのピッチングには彼の非凡さを認めた。フォームは実にきれいだ。身体は柔軟性に富み、ギコチない人の方が多いサウスポーには珍しいくらいだ。左投手独特の内角低目にくい込む速球に威力があり、カーブの切れもよい。カーブのブレーキが鋭いことも彼の特色の一つだこれでアウトシュートをもう一歩研究すればストレートの効果を倍加するし、ピッチングそのものも一段と向上することだろう。キャンプでフォーク・ボールの練習をして爪を痛め石本コーチに「お前のような投手が小細工をするやつがいるが、スピードだけに雄文だ」と叱られたいう。石本コーチが認めているように正攻派としての素質十分、シュートを中心とした球の配合を覚えることと、ウェイトを増やすこと、この二点に注意して練習すれば三原監督が望んでいるような第一線級のサウスポーになれることだろう。

プロ入りの動機 家庭の事情もあったが、野球一本で進みたかったのでプロ入りしたコントロールの修得が第一です。サウスポーにありがちなノーコントロールが私の欠点です。一にも二にもコントロールをつけることにつとめます。フォームは腰の安定。それにステップの位置です。制球力がついてからスピードやチェンジ・オブ・ベースに入ってもおそくないと思います。

目標とする選手 北原さん(西鉄)サウスポーにしてはコントロールがあることと、それに腰のバネがよく安定しているところを目標にして勉強したい。それに負けられないのは高校(観音寺一高)の球友大矢根投手(中日)です。

趣味 読書(歴史もの)

身長・体重・投打・年齢・背番号 五尺七寸十八貫三百、左投左打、十九歳、背番19

現住所 香川県観音寺市出作町106。
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