1954年
高校野球では関東勢がいつも全国大会で振るわないのが定評であった特に南関東代表などは特にそうであった。それが昭和廿六年度全国大会では熊谷高校が服部投手の健闘により準優勝を成しとげ、服部投手自らは大垣北の和田、平安の清水、芦屋の植村とともにこの大会で四大投手にピックアップされたのは少なからず関東勢のために気迫をはいてくれたものでその功績はまことに賞賛されてよいこの四人が今年和田は名古屋へ、清水、植村は毎日へ、服部は大洋へと揃ってプロ入りしている。服部投手は埼玉県北埼玉郡北河原村に生まれ、同村中学校から熊谷高校に進み廿六年には二年生にて主戦投手となり、甲子園の代表となった。甲子園でも決勝戦まで進出、特に準決勝には和歌山商高を4-0とシャット・アウトで抑え、ノーヒット・ノーランの立派な記録を残してる。決勝戦の平安高で遂に7-4のスコアで敗退したが、これは彼が最初から連続出場しているため疲労を懸念して、決勝戦における試合前のウォームアップをセーブし過ぎたので立上りを叩かれたのが大きな原因でこのため平安に一、二回に各三点の計六点を奪われている。しかしながら疲れたとはいえ斯くまで頑張った熊谷高チームと服部投手の好投は特筆すべきものである。順調な歩みを続けて来た服部投手にここに二つの不慮の災害が訪れたのは気の毒千万であった。それは甲子園から帰って間もなく九月九州熊本市水前寺球場で行われた東口氏追悼大会で試合前の練習中打球が彼の生命とする右腕に当たり、遂にそれが回復せず秋は登板不能となったことと、つづいての不幸は翌廿七年突然急性腎臓炎に見舞われこの年の全国大会予選にも出場出来ず終わってしまったことである。彼はその後専ら病気回復につとめようやく秋十月頃再びマウンドを踏めるようになり球威も増してカーブに威力が出たほど少しの衰えもなかった。彼の球は重い球でことにシュートがなかなかよい。制球力にも富み外角低目の直球などきめている。カーブも最近進歩して来ている。だが彼に足の遅いことと投球フォームの悪いことが欠点とされる。打撃フォームの悪いのは彼の選球のよさがこれをカバーしてその強引な打法がしばしば功を奏している。例えば廿六年度の全国大会に苦戦の対大垣戦には延長十一回に彼の強引な一撃は二塁脇テキサスとなりこれがきっかけで勝利の原因をなしている。プレートの度胸も良くピンチにも動揺せず冷静そのものである。本編に執筆していた伊達正男氏が甲子園であの八月の暑い大会に服部は少しも汗をかいていなかったといっていたがこれも表面に現れぬ有利な点である。五尺七寸余りの十八貫近い体格は未だ十八歳の彼の若さと将来の野球好きを相まって必ず将来を楽しませるものがあると期待する。
高校野球では関東勢がいつも全国大会で振るわないのが定評であった特に南関東代表などは特にそうであった。それが昭和廿六年度全国大会では熊谷高校が服部投手の健闘により準優勝を成しとげ、服部投手自らは大垣北の和田、平安の清水、芦屋の植村とともにこの大会で四大投手にピックアップされたのは少なからず関東勢のために気迫をはいてくれたものでその功績はまことに賞賛されてよいこの四人が今年和田は名古屋へ、清水、植村は毎日へ、服部は大洋へと揃ってプロ入りしている。服部投手は埼玉県北埼玉郡北河原村に生まれ、同村中学校から熊谷高校に進み廿六年には二年生にて主戦投手となり、甲子園の代表となった。甲子園でも決勝戦まで進出、特に準決勝には和歌山商高を4-0とシャット・アウトで抑え、ノーヒット・ノーランの立派な記録を残してる。決勝戦の平安高で遂に7-4のスコアで敗退したが、これは彼が最初から連続出場しているため疲労を懸念して、決勝戦における試合前のウォームアップをセーブし過ぎたので立上りを叩かれたのが大きな原因でこのため平安に一、二回に各三点の計六点を奪われている。しかしながら疲れたとはいえ斯くまで頑張った熊谷高チームと服部投手の好投は特筆すべきものである。順調な歩みを続けて来た服部投手にここに二つの不慮の災害が訪れたのは気の毒千万であった。それは甲子園から帰って間もなく九月九州熊本市水前寺球場で行われた東口氏追悼大会で試合前の練習中打球が彼の生命とする右腕に当たり、遂にそれが回復せず秋は登板不能となったことと、つづいての不幸は翌廿七年突然急性腎臓炎に見舞われこの年の全国大会予選にも出場出来ず終わってしまったことである。彼はその後専ら病気回復につとめようやく秋十月頃再びマウンドを踏めるようになり球威も増してカーブに威力が出たほど少しの衰えもなかった。彼の球は重い球でことにシュートがなかなかよい。制球力にも富み外角低目の直球などきめている。カーブも最近進歩して来ている。だが彼に足の遅いことと投球フォームの悪いことが欠点とされる。打撃フォームの悪いのは彼の選球のよさがこれをカバーしてその強引な打法がしばしば功を奏している。例えば廿六年度の全国大会に苦戦の対大垣戦には延長十一回に彼の強引な一撃は二塁脇テキサスとなりこれがきっかけで勝利の原因をなしている。プレートの度胸も良くピンチにも動揺せず冷静そのものである。本編に執筆していた伊達正男氏が甲子園であの八月の暑い大会に服部は少しも汗をかいていなかったといっていたがこれも表面に現れぬ有利な点である。五尺七寸余りの十八貫近い体格は未だ十八歳の彼の若さと将来の野球好きを相まって必ず将来を楽しませるものがあると期待する。