プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

田原基稔

2016-08-21 17:57:12 | 日記
1950年

最初見た時は手をつけられないように思っていたが、この頃ではその進歩の度合いの早さに驚いている。従っていまここで分析することも、時期尚早の事なきを得ないが、敢えて解剖する。上京した当時は、球の投げ方も分からず、監督を驚かせたということであるが、持って生まれた資質は、三カ月を出てずして芽をふき出してきた。重い腰ではあるが、球に引かれるように投げている姿からはごく自然なバーバリスチックなものが感じられて気持ちがいい。このままではまだウエイトが残るように思うし、腰の回転も十分とはいい得ないが、まずまず上の部である。打者の欠点が開口にあるという考えに従って、整球の方法を教わったらしく、どうも球が高目に行きすぎるようである。このためとかく早目に球を放す癖がつきぐしているのではあるまいか、このピッチングを続けると、カーブにしろ低目のスウィフトにしろ、どうしても球にウエイトが完全にのらなくなり、球速も落ちてしまうものである。またモーションにも鋭さが欠けてくるし、球の切れ具合も悪くなる。従って田原投手はやはり一応オーソドックスなピッチングフォームを完全にマスターするために、軸足から腰にかけての最も基本的なものをネジと心得て、このネジが十分巻かれ、そのためには尻の部分が右から左について回るようにつとめる。一方、上半身の、特に胸部の筋肉の開閉、左腕の後方への引っぱり等を十分考えて球を投げることである。このように試みると体にかくされていた部分で、今まで知らなかったものが随時自分のものとして甦ってくるので、面白いように球にスピードが出て来るしまたカーブ、ドロップにも威力を増してくる。とかく今までの投手にしても、まだ自分の持てるものを十二分に発揮しているとはいえないのであって、一人前の投手とみられる人も少ない。田原投手は未開の分野に勇敢に突進むことである。おそらく新人投手中これ位の大物は珍しい。
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末吉俊信

2016-08-21 17:24:20 | 日記
1952年

今年ほど新人投手の輩出した年はないその数多いプロ一年生の中で最も若練なピッチングを示しているのは、セ・リーグでは大洋の有村パ・リーグでは末吉だと思う。しかし有村は卅九歳の古豪、新人投手に取り扱っては本人から苦情がくるかもしれないが、末吉は廿五歳の新人でありながらその若練さは有村にまさるものがある。特に大もの打者を相手にいささかも固くならず、内角、外角高低さまざまなポイントを大胆なコースで鋭くカーブの操作には、投手経験を持つ人々が思わず「うまいなあ」と声をあげるほどである。小倉中学で二年間、八幡製鉄所で一年、早大が五年間の投手経歴であるから、今年は投手になってから九年目のシーズンである、早大に入った年までの四年間は上手投げのピッチング、その翌年から横手投、斜め投げに変ったのは野球を覚えると共に身長のない軽量投手が上手投だけでは打ち込まれる、身体のバネを活用し変化のある横手投でいった方がいいと気づいたためだと思う。打力はいいし守備も巧い、二塁手に使っても相当の選手だといわれているように、末吉の長所は野球をよく知り、野球のうまいことである、そこですることにそつがない、安心して見ていられるが、威力が足りないし重圧感がない、四回、五回と好投していても、九回まで好調が続くか、体力が持つかといった懸念がついてまわっている。そうした観点から見て、アメリカ式に先発させ、おさえておいて左の豪球投手にリレーするか、あるいはあと四、五回、あるいは三、四回という限度を考え、ピンチにさっと登板させると働きを見せる投手であると思う、それだけに末吉をフルに使いきる監督はピッチャーのコーチが出来る男である。学生時代のように常に登板していれば、その間に自分で調整して行けるが、いつ出されるかどんな場面に登板するか、投手自身に予測のつかないプロ野球では末吉、林(大洋)長谷川(広島)さらに大島(名古屋)荒巻(毎日)などは監督の使い方で出来栄えに変化がある。八月末までの末吉は五勝六敗その五勝は東急と近鉄に各二勝西鉄に一勝となっている、六敗のうち四敗は南海である、これは末吉のピッチングを説明する資料であり、選球のいい選手が揃っている南海には末吉の方から負けているのである。試合に多く投げているのがカーブ、これは内角へ落としたり、高いところから低いところへ流したり、ストライクぎりぎりのボールでつったり色々のコースを使い、ウィニング・ショットにはカーブで外角を攻めている。カーブを多投するにはコースとベースを変えなくてはならない、そこでどうしてもコントロールが乱れがちになる、ここが末吉の苦心するところであり相手の狙うところである、投球に移る時うしろに引いた右手をそのまま止めずに投げる時と一度止めてから手首を返して投げる時と同じモーションでふたとおりの投げ方をしているのが効果をあげている。現在は直球、カーブ、シュート、スライダー、ナックルの五種類を投げているが、もう少しスピードが乗ると変化球の効果が倍加するに違いない。

末吉投手 度胸で投げているといわれているが、そんなことは全然無いですよ、プロに入った当初はやはりあがりましたネ、学生時代には十日に一ぺん位投げればよかったのが、プロではそういうわけにはいかない、恥しくないピッチングをしようと思えばどうしても少しはかたくなりますよ。私が二塁手になるかもしれないといわれたはずい分前の事で、今は全然そんな話もなければ、意志もありません、もっともっと精進して何とか恥ずかしくないピッチャーになりたい。スポーツライターの修業はほとんどやっていません、そのひまもないんです、試合の戦評は随分むずかしいだろうと思いますね、やはり間違いがありますよ、例えば自分はカーブを投げて打たれたのが新聞では直球の失投と書いてあったりするんです、むずかしいライターになどなれそうにありません、ぼくはやっぱりピッチング一本槍で頑張ります。
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島本和夫

2016-08-21 15:27:25 | 日記
1951年

六尺に五分足りないキリン児いまでこそ高校球界にも六尺近い上背の投手が珍しくなくなってきたが、戦後間もない栄養失時代に彼は出現した。こりゃ大物に違いない。待ってましたと彼を甲子園のキリン児にまつりあげたのはせっかちなファンの責任だ。和歌商の島本が京都一商の北本か、こんなゴロ合わせめいた他愛のない風評の中に、彼の実力は市場価値だけを高めていた。いわば英雄待望の心理におどらせたのに過ぎない。その証拠に北本、島本ともに相次いで松竹に入団したものの二年あまり二軍で待機した。北本はこの春ノンプロ田村駒へ、島本は新田新監督の知遇を得て一軍へと袂を別ったが、小西監督が留任していたら今年芽を出せたかどうかだけに「運」というものはわからない。大男だがおとなしすぎる。弱い性格というよプロ選手に不可欠な強じんさがない。千軍万馬つわ者ぞろいの松竹では頭のもたげようのなかったゆえんだ。新田監督は「機械の油さし」と、監督としての自分を自己批判しているが言い得て妙である。選手なり、チームなりを機械視しているところに技術家新田の面目がある。技術的に新田氏が見て有望と思う小林(恒)徳島、小林(章)目時らが、それぞれの持ち味を生かして一せいに働きはじめたのは「油をさされて」機械が動きはじめたのに似ている。島本もその一人「スピードはチーム随一」と新田監督の折紙つきで、オープン戦以来しばしば起用され、まだ一本立ちとまでは行かないがとにかくもう二軍クラスではないことを証明した。コントロールに難もあるし、ことに九回を投げきる呼吸、かけひきは当然とはいえ未熟だが、ただスピードのあることだけでも珍重される当世プロ球界では、期待の新人グループに教えあげてよい存在だろう。新田氏の知遇にまず応え、ファンの期待も裏切らないでほしい。
和歌山県出身、和歌山商卒、廿四年松竹二軍に入団、今春一軍に昇格、五尺八寸五分、十八貫五百、右投右打、廿歳。
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寺川昭二

2016-08-21 14:51:36 | 日記
1952年

十二、三回戦と全くいいところなしで失った南海はこの試合も実になかった。しかし六回寺川ー宮沢のリレーの間げきを衝いて快打を集中、ようやく自己のペースに投球を巻き込み三連敗を免れた。東急は一回深見がレフトに17号して気勢を上げ、四回にも浅原、斎藤、長沢の三連安打で加点、寺川の好投とたちまち、ゆうゆうとゲームを選んだ。寺川は重いシュートを低目にきめ南海打線をなぎ倒した、南海は五回まで笠原が二回に二塁打で、五回に四球で塁に出ることが出来ただけという貧攻にあえぎ、このまままたも押し切られてしまうのではないかと見えた。しかし六回無死右前安打した筒井と代打島原のヒット・エンドランを見事にきめ寺川をぐらつかせた、寺川はこのピンチを球速を落とし、カーブにたよって切り抜けようとしたが、かえって南海の好打を誘い、木塚、飯田に連安打されて降板、リリーフ宮沢は球威なく火つけ役となって堀井、蓑原に長短打を浴び決定的な六点を奪われてしまった。この間飯田の左前安打を後逸した常見と山本の三ゴロを一塁に悪投した斎藤のエラーが寺川の陥落を早めていた。リードを奪ってからの南海はメンバーを落としながらしなも七、八回に戦意を失った投球を叩きのめし前二試合の溜飲を下げた。後半の投球は南海の猛打をただ右に左にと追うばかりだった、この大敗の中にあって深見の1718号ホーマーがひときわ光る、17号は文句なしの快打だったが八回の18号は大きなレフトフライ、東急ベンチからの「それそれ」という声をボールが承知したもののように風にのってフラフラとスタンドに入ったやや幸運のホーマーであった。
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中原宏

2016-08-21 13:40:58 | 日記
1952年

名古屋の享栄商業で鳴らした投手であるが、戦争で野球がおさえられた時代であったためあまり目立たなかった、十八年の春阪神タイガースのユニフォームを着たが翌十九年には兵役、終戦後再出発してノン・プロの大日本土木に入り、一、二と二年続けて都市対抗で優勝投手となった、廿三年から南海の投手、そのスタートは好調で十三勝七敗、防御率二・二七という輝かしい記録、廿四年は十三勝十三敗で十位、廿六年は肘を痛めて療養、八月十六日から登板して四勝一敗、今年は奮闘して十一勝五敗、防御率も二・八一で七位という好成績であった。享栄で五年、阪神一年、大日本土木二年、南海に入って五年、合わせて十三年の投手経歴で、廿八歳の働きざかり、ベテラン中原といっていい球歴である。長い間、上手投を続けていたがが最近横手投(むしろ斜め役)が入るようになった、身長も体重も投手としては水準線そこそこの体格、単調な投法では打たれるおそれがあるため、俗称「二段モーション」で背伸びしたりいろいろと投法に変化を与え、上手投だけではコースが単調になるので斜め役を加えたのであろう。斜め役(スリーコーター)を混ぜてからコースが多彩になった、肘がなおったこと、斜め役の実行、この二つが今年好調を生んだ大きな原因であると思う。投げた翌日はランニングとキャッチボール程度、二日目はコントロールに重点を置いたピッチング、三日目は全力投球の投法をして、四日目登板が好適らしい、体格の関係で休んだり雨でピッチングが出来ない場合、調子がよくないようだ。試合で登板前のウォームアップは大体卅球ぐらい、ゲームで一番多投しているのはカーブと直球で外角低目にきまる球(四つに一つの割合で内角を衝いている)武器は大きく、まっすぐに落ちるカーブ都市対抗で優勝した当時はこの球を一人の打者に二つ、あるいは三つぐらい投げてミートさせぬピッチングであったが、相当肘の力を使うので、肘を痛めてからはここぞいう時だけ使うようになった。それだけ腕を大切にするようになってからは球速が落ちた観がある、これを徐々に回復し「ホップする速球」を持とうとする努力が、ブルペンの球(四つに一つの割合いで内角を衝いている)武器は大きく、まっすぐに落ちるカーブ都市対抗で優勝した当時はこの球を一人の打者に二つ、あるいは三つぐらい投げてミートさせぬピッチングであったが、相当肘の力を使うので、肘を痛めてからはここぞという時だけ使うようになった。それだけ腕を大切にするようになってからは球速が落ちた観がある、これを徐々に回復し「ホップする速球」を持とうとする努力が、ブルペンの練習にもうかがえる、ホップする速球を望む半面に、去年まで見せなかった新しい球質「落ちる球」を研究して時々使っていたが、シンカーとも見られるし横に逸れるのが特徴である。十年鍛えたシュートを持っているだけに、この新球をマスターしたら新生面をひらくに違いない、結局現在投げているのは速直球、カーブ、シュート、シンカーなどであるが、大体において落ちたり、逸れたりする球が多い。

中原投手

二段モーションは中学の終わりごろから始めたのですが、私のように体格も腕力もない投手は普通のフォームで投げた場合には、バッターに対してなんの驚異も感じさせないので一つは自分の球の非力をカバーするためにやり出したのです、中沢さんのいうように単調な投球になるのを避けるためと打者に与える精神的な効果をも狙っているつもりです、別所、スタルヒン投手のように大きなモーションの方がある程度有利だと思います。落ちる球には一応自信を持って来ました、今年は余り使わなかったが、オープン戦で実際に使ってどの程度に使えるかを試し、来年はどんどん投げるつもりでいます、同じ落ちる球でもドロップよりむしろシンカー気味のをマスターしたつもりです。
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山根俊英

2016-08-21 11:51:07 | 日記
1952年

実力を備えていればどこにいても芽を出すのが人の世の定則であるが、時と所の関係で早いおそいの差はあろう。終戦の翌年、大分経専と鳥取高農が高専大会の優勝戦に頭を合わせ、両軍投手の怪腕で三振また三振の競演、ついに大分の勝ちで大きく宣伝されたのが星野組に入った優勝投手の荒巻淳、その陰になり一部の人にしか真価を知られなかったのが鳥取の山根俊英であった。しかし山根の実力派鐘化在社二年の間に各方面に認められ、廿五年の暮、毎日オリオンズに加入、今年の春から第一戦に現れ故障の荒巻に代わって活躍、八月卅日までに十勝五敗の好成績をかち取っている。しかし投手経験を持った人々なら気付くであろうが、力もあり好成績を収めているのに山根のピッチングは投手術を収めているのに山根のピッチングは投手術を勉強しながら投球しているようなわかいところが見える。これは投手経験の浅いことが原因で、山陰の名門鳥取一中では遊撃手、鳥取高農に進学して二年生から投手に転向したのだから、高農で二年、鐘化で二年、毎日で二年、今年は投手として六年目のシーズンである。そこでいい素質を持ちながら昨年度は芽を出すきっかけをつかみきれず四勝四敗に終わっているが、その内容を見ると四月中旬南海と西鉄の二試合に登板、二度とも負け、しばらく出場の機会なく、やっと七月末から出場、それからの六試合では四勝二敗となり「山根は毎日投手陣のホープだ」という声があがったのである。鐘化時代まで上手投専門であったのが、プロ入りしてから横手投が加わり、最近では横手投が多くなって来たからステップも多少変化して小さくなり、またアウト・ステップも交って来たようだ。長身で均整がとれ、肩も強いから、登板した日から三日目の登板が好調だといっているように、疲れの残らないのが特徴であろう、そこでリリーフに立つ時でもウォーミング・アップは十球以内でマウンドに登っている、これはいい習慣、今後もこの調子で行くことが望ましい。試合中に多投する球は横手投の速直球である、この球は流れたり、落ちたりするが、腰がよく乗り球がのびるのは強味である、ウィニング・ショットとしてはシュートとカーブを使っているが、シュートは天賦の鋭さがあり、カーブは研究したコースを活かしている。ただしカーブのコントロールは、まだ十分でなく、このコントロールが洗練されたら廿勝投手の列に入るに違いない、それとともにやはり投手経歴が浅いためか、投手守備が弱い、現在はもっぱらフォームの完成ー特に腰の回転とステップの研究ーに努めているが春から見るとぐっとおちつきが出て来たようだ。

山根投手 どうもほめてもらう方が多く痛いところをズバリとやっていただけないのがややものたりないですね、投手術を勉強しながら投げているのはどのピッチャーも同じやないでしょうか、僕なんかまだまだ勉強以外何もありませんよ。しかしプロの水は辛いと痛感しながらも、毎日研究しながら投げることは楽しいものです。僕が球質そのものの研究よりフォームに重きをおいています。いま上手、横手、そして下手と三通りの投げ方をマスターしようとしているところですが、これでシュート、直球、カーブを身につければチェンジ・オブ・ベースという武器が出来るわけです、ところがこのカーブが苦手でしてね、ずいぶん苦労しています。
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上野重雄

2016-08-21 11:21:56 | 日記
1953年

野球都市で有名な八幡育ち、熊本で野球を習い九州学院で三年京城医専で二年、門司鉄道局で二年毎日で三年、合わせて投手経験十年である、力をつけたのは門鉄時代、その頃の門鉄チームには江藤、中谷、木塚(南海)片山(松竹)などがいた全盛時代で、ここで鍛えられ廿四年度の鉄道大会に優勝し、その十一月に毎日入りした、当時の評判は「速球投手上野毎日に入る・・・」ということだったから、速球で鳴らしていたに違いない。ところが廿五年は七勝六敗、廿六年は六勝五敗で噂ほど働かない、廿五年は荒巻、野村、榎原に押され、廿六年は野村、佐藤、荒巻の陰になっていた腰の回転がかたく、フォームが乱れがちであったのと、偏食くる胃腸障害、この二つが速球を阻み、コントロールを乱す原因になっていたと思う。それが去年の秋から今年のスプリングキャンプにかけてフォームの修正、力強い腰の回転、偏食から肉と野菜へ・・・といった努力を続けたのでフォームがよくなり、体力が強靭になった、そのため球速もつき、疲れが少なくしかもコントロールがよくなり、荒巻故障という投手陣のピンチを野村と共によく救い、十四勝六敗、勝率七割で毎日陣営の一位、防御率は三・二〇であったから大きな進歩である。従来から上手投一本槍、前とくらべて少しステップが小さくなった程度で投法には変化はない、中二日休めば完投できるくらいの体力と肩を持っているが、ウォーム・アップは相当長い、試合中多投する球はホップする直速球、これがいい球質だけに効果がある球は自然にスライドする球を持っていたが、いまではほんもののスライダーを身につけて活用、直速球は浮いたり、のびる球になっている、ウィニング・ショットは低目を攻める直速球とスライダーになっているが、低めにいかず、腰の辺り高さになると、上手投のきれいな球だけに、たたかれる危険がある。弱点を探せば変化球の少ないことと一本調子になる(チェンジ・オブ・ペースの修練が不足)ことであろう、そこでシーズンを通じてカーブの研究に没頭していたようであるが、これは賢明な対策である。現在投げているのは直速球(浮いたり、のびがいい)シュート、カーブ(シーズン後半にいいカーブを見せていた)スライダーなどであるが、カーブとスライダーの混投を巧くやれば、もっと勝てる投手である。
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高橋重行

2016-08-21 07:38:59 | 日記
1967年

高橋に投げ負けた産経の村田は、ロッカーに帰ると「相手の投手がよすぎたよ。押されっぱなしだったものな」とニガ笑いしながら試合を振り返った。ネット裏で観戦していた山本八も「球が速い。それにいいコントロールをしている。この間、川崎でみたときとは、別人のようだ」という。今季初完封。昨年の九月三十日、対広島二十七回戦で完封勝利をマークして以来、約七か月ぶりのシャットアウト。最後の打者福富を一ゴロにとると、汗ひとつかかず報道陣にかこまれた。「直球は速いとは思いませんでした。合宿を出るとき、肩が重くて心配だったのだが、投げているうちに調子が出てきて・・・。よかった球?スライダーです」三十九年は対産経戦5勝、一昨年は4勝と産経キラーだったが、昨年は1勝4敗とすっかり負けこんだだけに、この1勝はまた格別らしい。「二回に2点をとってもらったでしょう。あとはぼくが点をとられないようにすればいいと思って投げた。苦しい場面はなかった」四回まで産経をノーヒット。五回、小淵に一、二塁間を抜かれ、完全試合の夢は消えたが「あれはシュート。チビってしまった。思いきって投げていれば二ゴロだったですよ」チビッたのはノーヒットを意識したわけではない。楽にとれるとみたのだそうだ。秋山コーチは「力の配分がうまくなったね。下関の広島戦で勝って自信を取りもどしている」と語っていた。オープン戦で、高橋が不調つづきだったとき秋山コーチは「速い球を投げる高橋がこのまま終わるはずがない。きっと出てくる」といっていたが、このカンがピタリと当ったわけだ。自信もよみがえった。「チャンスさえ与えられたらいつでもやれる自信があった。ロバーツ、ジャクソン?きょうは徹底的にマークしたんだ。あの二人はコーナーを徹底的に攻めれば、そう打たれないよ」ロバーツは「ナイス・コントロール」とただひとこと。ヒットは打ったもののあとは凡打に終わった小淵は「球そのものはたいしたことはないが、ていねいに攻めていたね」とくやしそうにいった。どこからみても満点に近い高橋だが「期待はずれ・・・」ときびしい評価をくだす人もいる。天知俊一さんはそのひとり。「復調というからたのしみにしていたが、三十九年当時の剛球投手のおもかげは全くなかった。横と上からのカーブ。あとはシュートとチェンジアップ主体のピッチング。本格派の速球投手が技巧派投手になってしまった」といい、高橋に完封勝ちを記録させたのは、産経の雑な攻めに原因があったとみていた。同じような見方をするのが産経の中原ピッチング・コーチだ。「横と上のカーブ。あれにひっかかっていた。カーブがいいからシュートも効果を生む。しかし打てない投手じゃないよ」こんな評価を知ってか知らずか、秋山ピッチング・コーチは「これから勝てそうな試合にドンドン高橋をつぎこんでいく。ここというポイント、短いイニングに投入して相手をおさえていくのだ」と語っていた。昨年までドジャーズの大黒柱だったコーファックスを尊敬する高橋。ことしの彼は大洋のコーファックスになれるだろうか。

三原監督「二回の先制点が大きかった。三回の一、二塁、それに七回2点をとったあとの満塁をモノにしていればもっと楽な試合ができた。高橋は非常によかった。スピードが最後までおとろえず全く安心してみていられました」

飯田監督「高橋は直球もよかったし、カーブ、シュートなど変化球の切れもよかった。ウチの村田もよく投げた。五回の一、二塁で丸山に代打を出すつもりはなかった。最初の打席でいい当たりをとばしているし、いけると思った。六回のトップに村田の打順がまわってきたが立ち直っているし、まだ2点だったので反撃のチャンスはあると思って打たせた」
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