プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

河文雄

2016-08-28 20:20:40 | 日記
1950年

旭川鉄道の干場(阪神)札鉄の田原(国鉄)とならんで、北海道の三羽烏と言われたそうな。なかでも小樽協会の河がいちばん早く名をあげて中央球界に宣伝されたらしい。いちばん早く大モノを噂されたのに、プロ入りがいちばん遅れてしまった。まだ甲子園でキャンプ中のことだが内山、駒田、上沼、西村、石風呂ら一、二軍の若手にまじってピッチングをしている彼が一向目立たない。五尺六寸は可も不可もない上背とはいえ、野球選手仲間では小柄な部類に属する。松木監督に新人投手を寸評してもらったときにも「河はまあまあ及第点といったところ。キャリアがモノをいっている感じだ」とむしろ一軍から昇格させた西村や、軟式出身の上沼に期待している口ぶりだった。剛速球で北海道に君臨したという球威は、その後肩を痛めて影をヒソめている。シュート、カーブを高岡中、小樽協会で主戦投手をつとめあげてきた年の功にものをいわせてマスターしているのと、松木監督が評したように野球の味を知っているのが強味だろう。ただノンプロの味と違ったプロの味をこれからかみしめねばなるまい。梶岡、藤村弟をのぞいて阪神の投手陣は駒田、内山、干場、西村、田宮とこの一、二年に頭角を現した若手がそろっている。大河に水涸れずとはよくいったもの、別に他チームからの引ぬきをしないでも阪神の伝統が若手をスクスク育んでいる。河もその大河の流れに育まれて大成することだ。たしかにノンプロ的な一家馬をなしてはいるが、まだ廿六歳、このままなま半可にでき上がってしまっては惜しい。危険な年齢である。福井県出身、高岡中卒、小樽協会から昨シーズン末入団、五尺六寸、十六貫、右投右打。
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和田武彦

2016-08-28 19:30:52 | 日記
1952年

昭和廿六年、全国高校優勝野球大会に、三岐地方代表として出場した大垣北高は確か初出場であったと記憶している、およそ、初出場のチームはこの大会独特の雰囲気に不慣れのため日頃の実力を出し切らないうちに、敗退してしまうのが、常識のようになっているので、大垣北高も、おそらく一回戦あたりで、敗退するであろうと軽く評価されていた、それが三回戦にまで勝ち進んだのであるから当時のファンは亜然として、この成り行きを見守ったものである。二回戦には塩谷(現早大)を擁する北海高校を一対零で降し三回戦には優勝戦まで勝ち残った熊谷高校と対戦し、二対零で敗退したのであるが、初出場の成績としては、まさに賞賛に値するものがある。大垣北高が、かくも好成績をあげ得た最大の原因をたずねられるなら、私は和田投手の奮闘をあげる以外、他に何物も求め得られないといっても決して過言ではあるまいと思う。和田君は、非常に整ったフォームをした投手で、スピードはあり、特に、内角低目の直球には威力が認められるしドロップにもコントロールがあって、スピードに変化を与えて投げ込むドロップには眩惑的なものがある、そのうえインサイド・ワークも十分心得ているというのだから、優秀投手の列に加わる資格を十分に持っている。大会終了後、アサヒ・スポーツの審判員座談会で、優勝校平安の清水(毎日)二位熊谷高校の服部(大洋)昨廿七年度の優勝校芦屋の植村(毎日)等を退けて、№1に推薦されている事実を見ても、彼がなみなみならぬ投手であることが立証されていると思う。彼の投球フォームが余りにも美麗であること、コントロールがよく、ストライクが多いことから、打者が安心して、立ち向かって来る傾向があるので、意外の不覚を招くといった不利がなかったでもないが、それはよき女房役がおりさえすれば、解決出来る問題で、幸い名古屋軍には野口捕手がいるからこの点安心であり、また本人にとっても幸福である。これほどの優秀かつ有名な投手が昨一ケ年間、全く球界に姿をあらわさなかったことに関しては、彼を知る多くの人の間で大きな話題となっていたのであるが、今度、名古屋軍に入団することになる、彼の進むべき正しき道を、やっと見出したような気がして、彼のために、祝杯を挙げてみたい気持ちにかられる。今後の彼は、このブランク時代に得た尊い体験を十分生かし技量プラス精神力、即ち実力であることを認識し大いに精進努力してもらいたい。
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野村武史

2016-08-28 15:52:54 | 日記
1950年

実業界のベテラン投手で、一応一貫を成している、ただし武末投手のように下手投げで完成された投手ということが出来ない。ということは、武末と野村とを対比してみれば、すぐわかることであるが、第一野村投手には武末のような腰の使い方が巧みでなく、それだけ球質も軽い。下手投げは上手投げを全然逆にしたものである。従ってそのピッチングも上手投げ投手が試みると同様の投法を正しく行えばいいに決まっている。武末のピッチングを見ている人なら、この原理によく沿っていることがわかる。野村のピッチングではどこか腰にファーッと浮いたような感じを受けるであろう。そのためにどうしてもコントロールに狂いが出来てくるのである。またカーブの切れが悪くなる。落ち気味のインシュートが決まらず、外側に威力なく流れてしまう。野村の球はどちらかといえば素直な方である。従ってコントロールの余程いい時でないと成功しない。また球を離すポイントも少し早いきらいがある。武末の場合は腰に集中された力が(ウエイトが)球についていっているが野村投手の場合はその力が半分抜けている。勢い球勢がないということになる。アメリカでは下手投げの投手で成功したのは後にも先にも一人である。日本の場合もやや同じような状態にある。強いて挙げれば武末のほかに林投手(大映)がいる。この投手も球質においては野村以上に軽いが、絶妙のコントロールは野村の比ではない。いわば野村投手は武末と林との中間的な球質を持った投手であり、ユニークな存在ということが出来る。この意味でこの投手が今後どのような球質を歩むか、緩めて興味が深い。要するに野村投手の考える点は、今少し球を遅く離すこと、出来れば球についてゆくようなピッチングをすることである。経験は浅いが、それにさらに磨きをかけるのは、研究である。
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真田重男

2016-08-28 15:35:33 | 日記

1952年

去年の不調がたたって今年阪神入りした時も「真田のカムバックは可能か? 」という反語的な批判が多かった、シーズンに入ってもなかなか勝星を挙げないため「今年いっぱいは駄目か?」といった見方が多かった。しかし真田の意思の強さ、粘りある気力を知っている私としては「きっと起き上がる・・・」と淡い気持ちで待っていたが、どうやら待ち甲斐があったようだ。昭和十五年、六年、海草中学時代の真田投手は全くすばらしい大器ぶりを示し、引く手あまたの中にすくすくと伸びていった。当時の海草野球部長兼監督の長谷川君(現パ・リーグ審判員)に頼まれ野球の話をしにいった時「真田が卒業後の方針を誰にもいわないので各方面への応対に困っている、ひとつあなたから真意を聞いてもらいたい」とせがまれ「どこへ行けなぞとはいわない、真意だけは部長も知っておかないと困るだろうから・・・」と質したら「私はプロ野球に入って日本一の投手になりたいのです」ときっぱりいい放った「えらい、その意気込みを忘れるな」と誉めたが、今ならともかく、あの当時の空気、情勢のもとで、これだけのことをいいきる少年選手はざらにあるものではない。十八年朝日(ロビンスの前名)に入って十三勝十三敗でいきなり第七位の成績、十九年から兵役で潜水艦乗り、これがたたって廿一年太平パシフィック(朝日改名)に復帰したが芽が出ず、太平が廿二年から太陽ロビンスになり、その翌年から復調、廿四年が十三勝十三敗で八位、廿五年松竹ロビンス優勝のシーズンは最多勝の卅九勝十二敗で七位、この無理がひびいて肩を痛め廿六年は七勝六敗に終わった。ちょうど今年が投手になってから十一年目のシーズン、フォームは十一年間少しも変わっていない、上手と横手の両投法でホップする速直球と速度の落ちない鋭いカーブで攻めておいて、外角低目に速球を極めるコンビネーションは岩をかんで落下する急流のように、すさまじいスピードと変化を持っていた。肩を痛めた廿六年からそのスピードが消え、威力が減ってしまった、大体真田の故障は潜水艦に乗っているころに痛めた胃腸が夏になると生涯を起こしてやせるのが第一、そこへ廿五年の肩の酷使で肩を痛めたのが重なったため回復がおそく、意思が弱いとくざるところであるが若き日の気力と意地の強さを持ち続け遂に両方の支障を治したらしい。ウォームアップは長いが中三日ぐらいで登板するのがいい試合中多投するのはカーブのかかった球、これにスピードが乗れば好調、最近の武器はスクリュー・ボールを使っているが手首の返しがまだ十分とはいえない、ブルペンの練習でこの手首の返しを繰り返し練習しているから明年度は相当の威力を発揮するに違いない。弱点は肩をいたわる関係から以前のスピードが出せないこと、長所は投手守備と度胸、球種は直速球、カーブ、シュート(横からのがいい)スクリュー・ボール

真田投手 松竹が優勝した時の無理がたたったといわれているが、あの時にはリーグ戦中は全然といっていいくらい無理は感じなかった、ただ選手権に備えて毎日がシュートに弱いというので寒いさい中にシュートを猛烈に投げた、それがまあ、直接の故障の原因といえるでしょうね。しばらく思うように投げられないので随分苦しみました、しかし阪神に移って気分を転換し、楽な気持で練習しているうちに自然と痛みがとれました。長い野球生活では当然多少の波がありますよ、なにも「真田のカムバック」などと騒がれるほどの問題ではないのです、スピードは確かに落ちました、その不足を補うのはチェンジ・オブ・ベースだけです、ドロップをウイニング・ショットにまだまだ打たせない自信はあります。
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真下定夫

2016-08-28 13:13:03 | 日記
1955年

上野から乗って高崎駅の一つ手前、高崎線と八高線の合するところに倉賀野という駅がある。真下はそこの中学から高崎商に進み、二十七年四月一時大生相互に籍をおいたのち高崎鉄道管理局に就職した。高鉄に入ってすぐ全国鉄道野球大会の関東地区予選に鉄道球界の名門東鉄を破る金星をあげている。全国大会に初出場、二回戦に完投して米子鉄道局を7-5で破っている。翌年も東鉄の補強選手としてであるが出場、大会後産別野球に出場するオール国鉄の一員に登録された。しかし全国的に真下の名が知られるようになったのは昨年の都市対抗予選である。日立、大生強しという下馬評を完全にくつがえし、大生相互、明利酒類、富士重工、高崎理研をけちらしてみごと高鉄を初出場させ関係者をびっくりさせた。とくに地区大会では、明利、日立を連続シャットアウトするとおもに明利から三振13を奪い、一、二次予選を通じて四球は一試合2個という好成績をあげている。都市対抗では覇者八幡製鉄と完全に四つに組み延長十三回5-3と敗れはしたがりっぱに投げた。このとき本紙の観戦記で私はこう彼を評している。「真下のピッチングはひときわ光る。速球とアウドロのきれがよく、前半多く投げていたシュートにも見るべきものがあった。フォームも一応まとまっており将来が楽しみな選手である」「真下はコントロールがよく、ボールで崩れるような投手ではない」(国鉄藤田監督談)しかしそうかといって技巧派でもなくスピードもあり、ドロップ、シンカー、シュートと多くの球をマスターしていて若手としてはめずらしく安定性のある投手だいいスピードをしているが、それよりも球に重味があるのが特長、そして重いシュートが彼の武器である。シュートは大きく落ちるシンカーと、小さく沈む球、それと胸もとに浮きあがる球がある。とくにシンカーは普通の投手と違って落ちる角度が大きいのでウィニング・ショットとして成功している。フォームは一見捕手のようなモーションをしている。右手が振りかぶったときちぢみ、球をはなすとき押し出すような感じだ。このため球速にいま一息ののびが出ていないが、反面このフォームのために球に変化が生じ、シュートしたり、落ちたり、あるいは外角低目をねらうストレートがナチュラル・スライダーしたりしている。真下のピッチングの生命というか秘密がここにあるわけだ。それに真下のいい点はこの変化球を意識して投げ分けていること、またウィニング・ショットを生かすことを知っていることである。一段に若手投手はやたらに緩め球を使いたがるものでそのため自ら自分の力を殺すようなことをするものだところが真下はシンカーを投げる時期を知っている。このことがピッチングのうまさを如実に物語っているわけだ。藤田監督が「新人の投手では一番期待している」と私に語ったが、私ももちろんすぐ第一線投手として活躍すると思っている。

プロ入りの動機 高崎商のころからプロ入りが夢でした。昨年都市対抗に出場して自信をいよいよ深めたときに勤務先(高鉄)を通じて国鉄から話があり、鉄道でも喜んで送ってくれたのでプロ入りしました。

まず勉強したいこと 西垣さん(コーチ)にスナップの使い方と腰の入れ方がまだ不十分だと注意された。この二点を直すことが第一です。私はほとんど自然にシュートするのでこれで特色にもなっていますが、反面外角低目にいくストレートにのびがなく苦しんでいます。これも直したい。

目標とする選手 巨人の別所さん、オーバー・ハンドの豪快な本格的なピッチングをマスターしたい。

趣味 映画、歌謡曲

身長・体重・投打・年齢・背番号 五尺五寸五分、十七貫、右投右打、二十一歳、背番号33。
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青木稔

2016-08-28 11:37:03 | 日記
1955年

青木君は小学校六年のときにはソフトボールの外野手、旭丘中学(京都)に入学してから投手に転向、ただちにエースとなり、在学三年間、京都新制中学野球大会上京区ゾーンには全勝の好成績をあげた。三年生のときには京都大会の決勝戦にこんど相携えて巨人入りした国松のいた平安中学と対戦、惜しくも長打を逸している。同志社高校でもすぐエースとなり、二年生のときには甲子園大会京都予選の準決勝にまで進出している。(高校時代一試合平均被安打五本、三振九)同志社大学では入学の秋からエースとなり、二十九年春腰を痛めて不振を極めた以外は全く好調、文字通り同志社大学の原動力となっていた。当時の成績は二十八年春には一勝一敗、秋は六勝二敗、二十九年春は三勝一敗、秋は三勝二敗。特筆大書するほどきわだっているというものではないが、背後守備の拙劣、味方の攻撃力不振などに災いされせっかくの奮闘も実を結び得なかったきらいなさにしもあらずである。過去の成績を見てもわかるように彼は確かに並々ならぬ投手には違いない。また、たとえカーブにスピードがなくとも、重味ある直速球をもって外角低目をつき、内角をシュートで攻める手法で十分補いをつけ、しかも効果を挙げている。しかし大学野球ならばいざ知らず、プロ野球でははたして、いままでどおりの地位を確保出来るか、どうか?同大おぞ口監督は「技巧派の多い関西六大学にあって彼は正攻法の代表的なものであり、実に得難い存在であった。球質が重く、その重い球で打者を料理する型のピッチングであるが、もし彼がカーブをマスターすることが出来シュートのコースを変化させることを研究体得したならばプロ球界にでも一人前の投手になり得ると思う」と語っている。幸いもともと強肩ではあるし、腰も強じん、耐久力もあるという好条件に恵まれていることではあるし、それに巨人軍という大世帯に籍を置いたことで、周囲に経験豊富な選手が多く、良き指導者、協力者を得ることが容易なので、本人の努力次第で必ず、第一線級の投手となるものと私は確信している。谷口コーチが「身体はまだかたいようであるが、筋肉のボリュームが豊富であるから楽しめる」と論じたことからも将来性に富んだ期待多き投手であるといえる。

プロ入りの動機 私は高校を出るころからいつかはプロで働きたいという希望にもえていた。同じプロでやるならば早い方がそれだけ勉強できると思いはじめていたときにプロから話があったのです。いま入団しても、また卒業してから入っても、一から出直すのは同じこと。それだけにあと二年残っている大学ですが、その二年間が大きいと思ったので中退の決心は割と自然に容易につきました。

まず勉強したいこと フォームの完成です。私は上半身がかたくそれに腰の開きが早すぎる欠点がある。これを直すことが第一です。つぎには直球にいま一段の球速と重味を加えること、カーブの球速を落とさぬようにすることです。

目標とする選手 巨人別所中日杉下両投手。別所投手は私は同じようにオーバー・スローなのでピッチングのすべてを、杉下投手はそのチェンジ・オブ・ペースを・・・。

趣味 ジャズ、洋画。

身長・体重・投打・年齢・背番号 五尺八寸、十八貫五百、右投右打、二十歳、背番25。

現住所 京都市上京区紫竹(シチク)西高繩町42。
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高野裕良

2016-08-28 10:38:31 | 日記
1952年

今を時めくニューヨーク・ジャイアンツのエース、サル・メグリー投手は1938年廿一歳で3A級のインターナショナル・リーグのバッファローに加入したが芽が出なかった。八年間がまんしたすえメキシカン・リーグに走ったりなどしたが、ついに1950年大器晩成型の筆頭といわれる腕前を現しジャイアンツで18勝4敗、十三年目に花を咲かせたのである。高野もそれほどではないが、一、二年で芽を出す選手にくらべると相当な晩成型である名門下関商業の四年の時、投手になり(巨人の藤本の後輩藤本から四代目の下商投手)十七年明大入学、一年で兵役廿年の秋巨人に加入、諏訪裕良の前名でプロ野球の名投手を志したが、巨人から金星、金星から大映と転々する間、少しも芽が出ず、注目されざる投手の一人であった、廿五年の両リーグ対立は、高野に活躍の天地を与えることになり「大洋ホエールズ」に加入することになった。下商から数えて八年間の投手経歴、ここで高野は従来の上手投投法から一足飛びに「下手投」に変える冒険をやってのけた、長身で腰が強く、痛さを知らぬ肩の強さが役に立ち、強い打力を背後に廿一勝を勝ちとり防御率からいっても十一位、大洋になくてならぬ投手となってしまったが、廿六年は球にのびがなく成績も十一勝十五敗、廿四位に落ちたので、また投法の研究にかかり、今春から夏にかけ、下手投が減って横手投と斜め上からの投法に変って来たようである。身体がいいので三日目に登板できるが、登板数が多く特に球数に向けられるので登板したあとは休養第一、調整一途に心がけているのはいいことである。多投する球は横あるいは斜から投げる速球、この球が外角へは流れ、内角へ落ちている、ところが下手投、横手投投手の共通する悩みはウィニング・ショットの少ないことであり、高野もその悩みを持つ一人である、その弱点をカヴァーするため細菌研究した新しい球質を試みている、それは斜めから投げて「真中低目に落ちる球」と「上手投げのスクリューボール」の二つである。廿五年より廿六年の成績が落ちたのは、球ののび=球威が減ったことそれは球速の落ちたことでもあり、ホップする球が少くなったことでもある。今年は去年よりスピードがいいから、新研究の二つの球を自由に操作したら、直球やカーブを有効にする役に立つ、去年の単調さを破って多彩なピッチングになると思う。勝っても負けても淡々たる態度、ピンチが来ても平然たる面持ち「いい心境だ」と質したら「いやそれが欠点なんです、かっとなれないのです、闘志が低いと自分で自分にいいきかせているんです」と答えてくれた、たしかに長所であり欠点であるかもしれない現在は直速球、カーブ、シュート、スライダー(数は少ない)とまん中に低く落ちる(シンカーの一種)とスクリュー・ボールなどを投げている、最近シュートのきれ味が鋭くないようだ黙々として研究、前進しているのか高野の特色である。

高野投手 下手投から横手、または上手とピッチング・フォームが変わっていたのはストライクゾーンの変化に適応させているのです、去年あたりから高目をとらなくなったでしょう、下手からの浮く球がみんなボールにとられてしまうのでフォームを変えたのですが、まだ下手のときほどうまくきまっていません。二つの新しい球ーこれも研究中です。下位チームには間々成功しているようですが、上位にはさっぱり、それにどんなボールを工夫しても結局スピードがなくてはダメです。細い技巧に拘りすぎるとピッチャーの生命であるスピードを忘れてしまう危険がありますねウイニング・ショットのない悩みはぼくばかりではないでしょう、ぼくと同型のピッチングをする野村君(毎日)などもネをあげていますよ、しかしいまのプロの投手で果たして何人がウイニング・ショットらしいそれを持っているのでしようかね。採点表はこそばゆい感じ、全部B、これでぼく自身の採点です。
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大脇照夫

2016-08-28 00:34:08 | 日記
1952年

セ・パ両リーグを通じて投手経歴の一番短いのが国鉄の大脇照夫であろう、野球では無名の滝実業を出てドラゴンズ入りを実現したが、テストで落とされて名鉄局入り、そしてスワローズに引き上げられ、今年が二年目という全くの新投手、シーズン前の噂では今年の国鉄は金田、宮地、高橋、古谷、田原、箱田、井上(佳)と投手が揃ったから相当戦えるということであったが、八月廿一日現在では、宮地、高橋、田原、古谷、箱田、井上(佳)の六投手でかせいだのが七勝、大脇一人で六勝という結果が出ている。これに金田の十九勝が加わって五位にいるのだから大脇の六勝=名古屋と松竹に各二勝阪神と大洋に各一勝=は金星である。この無名の新人が阪神、名古屋、大洋、松竹などをずらりとシャット・アウトで破っているのは・・・いつでも打てる球に見えるし事実よく当たっていると感じられるのにその実長打が出ない、また連続安打が出ない、いま打てる今度こそ打てると思っているうちに試合がすんでしまうのが原因である。長身、スマートな姿、きれいなフォームで淡々と投げる大脇のピッチングには「威圧感」がない、ところがまり目立たないが球が速い、のびがいい、しかもその速球が低目低目と、内外角にきまるから、打てそうで打てない、これが大脇の身上であるが、投手経験の若さから、球を揃えすぎたり、腰の高さに球が寄ると、きれいな球だけに相手が打ち気に出ると打ち込まれる危なさがある、そうした経験から最近上手投げを多投する間、ときどき横手投げを用いるようになったが、同じ速球でもカーブでも上と横ではコースに変化があるので奏功しているようである。完投した翌日は軽いバッティング、あるいは外野の練習を手伝う程度で休養二日目と三日目をピッチング、四日目登板が最好調という調整をしているが、事実は三日目にいい勝負をしているのも十九歳という若い力のためであろう、また若い投手はリリーフに立つ場合かなり長いウォーム・アップを必要とするが、大脇は強いウォーム・アップで登板している、これは筋肉が柔軟のせいであるが、今後も励行していい習慣である。試合中最も多投している球はのびのいい速直球、これを十球のうち六、七球は外角へきめている、この球に威力があるので、どの打者もこの球をマークしている、そこで繰り出す武器はシュートでこのシュートに威力のある日はたやすく打てない、かように球威とコースで戦っているようなものだからチェンジ・オブ・ベースの修練までいかない、それに経験が浅いから投手付近に飛んで来る球の処理がよくない。現在はコントロールをよくすること、さらにもうひと風スピードを増すことに専心している、操作している球種は速直球とスライダー、カーブ、シュートの四種、肥える体質のようだから、あとは一貫ほど体重がふえたら一段と球速が乗るだろう、既成型ではないが将来の楽しめる投手の一人であると思う。

大脇照夫 ぼくのピッチングはぼくが一番よく知っているつもりなのですが、中沢さんの文章を読んであらためて教えられるところが多いのに驚きました、人の長所や欠点はよく目につくのに案外自分のことはわかっていないものですね、中沢さんのいうように三日目の調子が一番よく球速もかなり出るし、アウトローへびしびし投げ込めます、いつもこのくらい投げられればシメたものですが・・・「最近横手から投げるように・・・」といわれていますがこの投げ方はずっと以前から練習していたもので最近投げはじめています、これはチェンジ・オブ・ベースCというぼくの最大の欠点を少しでも直したい心からです、まずシュートをよくきかせ、カーブにも威力が加わったら、いま覚えかけている沈むシュートをマスターしたい、これができたら来年はBくらいにして貰えるでしょう、プレート度胸はAですがまだ一点を争う試合には固くなりますよ。
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