プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

中山俊丈

2016-11-03 20:33:46 | 日記
1962年

中日の中山投手がさる二十四日の広島戦で三年ぶりに勝利投手になった。甲子園大会の優勝投手で三十一、三十二年には連続20勝した実績のある中山のカムバックは明るいニュースだが、中山が左の横手投げで成功したところに話題がある。球界では左のアンダースローやサイドスロー投手は珍しい。大リーグはもちろん、アンダースロー全盛の日本で戦前法大の鵜沢投手(NHK)戦後は中日の三富恒雄氏(東京中日新聞)が成功したぐらいだ。大洋の鈴木(隆)投手も中大の二年生のとき当時常盤炭鉱の監督だった谷口五郎氏(大洋コーチ)のアドバイスでアンダースローにしたが、一年間でやめてしまった。どうして下手投げのサウスポーがいないのか。理由は簡単だ。秋山(大洋)杉浦(南海)が左打者に弱いのと同じで、左の下手投げ投手は右打者にカモになりやすい。「左打者はヘビよりいやだ」という秋山は「なにしろ球筋がよく見えるのだから打ちいいんでしょうな」と左打者のときは投球フォームをややスリークォーター気味にあげたりして苦労している。バッターの八割は右打者だそうだ。これでは左の下手投げ、横手投げ投手が出てこないのも無理はない。理論的にむずかしい左のサブマリンに中山を変えた理由を杉浦監督はこう説明した。「中山は球質が軽く、鋭いシュートもない。全盛期に比べ、スピードも落ち限界にきている。そこで新しく生きる道として①オーソドックスな投法をやめて、打者の心理を逆につくチェンジアップにするか②思い切って、すなおなフォームを横から投げることで球にクセを出すか、どちらかの方法を選べと命じたのだ」中山は左打者対策、ワン・ポイント・リリーフとして転向することになったが、投手陣の不振で彼に登板のチャンスがふえ、七試合目に四年目のシャットアウトという金星を射止めた。広島の打者は「12点も差がついてしまったので・・・」といっていたが、カーブでカウントをかせいでおいて低目に落ちる球を配した横にゆさぶるピッチングが効果的だった。しかし成功したいまでも中山はフォームを変えたことに懐疑的だ。「習慣なんですね。ときどき上から投げてしまう。幹部は成功した例(三富氏)があるというんですが、どうも右バッターには投げにくくてね。監督さんがなんとかぼくにチャンスを与えてくれようという気持はありがたいんですが・・」吉田正男氏も首をかしげているひとりだ。「きれいすぎるくらいのフォームがむしろ欠点になっていた中山だけに、いまのフォームでピッチングに変化が出てきたことは一つのテストだ。これで活路を見いだせば・・・とういのが杉浦監督の本心ではないだろうか。しかしこういうタイプの投手は必ず勝てるというお得意さんのチーム、打者をつくらねばだめだ。三富氏が26年に12勝したのも阪神(5勝3敗)に強かったからだ。その点中山は左打者の多い大洋、巨人あたりをぎゅうじる研究をしないと理論だおれになりはしないかな」
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柿本実

2016-11-03 19:33:59 | 日記
1962年

「雨の降る日は調子がいいや」ひとり言にふしをつけて小雨のマウンドへあがった柿本は堂々としていた。「開幕戦に登板して勝ったんですからね。監督がそれだけぼくを買ってくれてるんですよ」柿本が四回に迎えたただ一度のピンチ、一死三塁をみごとに切り抜けられたのもこのゆとりがあったからだ。濃人監督に「ナイス・ピッチング」と祝福された柿本はダッグアウトをとび出し、流れる汗をタオルでふきながら急ぎ足。「調子なんてわかりませんね。キャッチャーのサインどおりに投げただけです」興奮しているのか息をはずませてスタスタ。「キャンプで練習したとおりにピッチングをしただけです」とそっけない。しかしきのう休みに「どうすれば打たれないですむか」とずいぶん考えてたそうだ。その結論が「鈴木(秀)徳武、土屋をマークする」ことだった。シュート、カーブ、フォークボールを交互にコーナーへ変化させながら、得意の落ちる球を低目にきめて有効に生かした。石本コーチは「完ぺきのピッチング」とタイコ判を押す。国鉄の打球でヒット以外に外野へとんだのはたった二本。ダッグアウト横でみていた大洋・宮崎コーチは「打てそうなんだがな」と首をひねりながら「両サイドを実にうまく使っているね。落ちる球がいちばん有力な武器だ。なによりコントロールが柿本の身上だ」といっていた。開幕試合(七日・中日)の対広島戦一回に1点をとられてから通算十七イニング無失点。しかも無四球という記録が柿本のコントロールのよさを証明している。宿舎に帰った柿本は「大投手と投げ合うのがぼくの楽しみです。オープン戦で稲尾さん(西鉄)やスタンカ(南海)を相手に投げたので、公式戦にはいってエースにぶつかっても気負けしません。その点ぼくはチャンスにめぐまれました」といった。心の準備はできていたのだ。「さあ、これで日本一の金田さんに勝ったんですからね。こんどは秋山さん(大洋)に勝つ番です」広島のエース大石から初白星、そして金田には零封勝ち。金星二つつづけて柿本はまだ満足していない。
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久保征弘

2016-11-03 19:18:31 | 日記
1962年

プロ入り四年目の初勝利。この夜までの久保は通算10連敗だった。口の悪い人が「大津(近鉄)の連敗記録に挑戦するのじゃないか」というと近鉄ナインはこういって笑いとばしていた。「久保はいつも好投しながら運がなかった。それに昨年の久保は徳久の勝ち星をずいぶん助けているぜ」九回、久保が最後の打者島原を遊ゴロにうちとると全選手がまるで鉄砲ダマのような勢いでマウンドめがけてとんでいった。先頭を切ったのが別当監督。久保はマウンドからナインに押されたり、突かれたりしてベンチへ帰ってきた。「スライダーが非常によくきまった。阪急戦(十五日)が終ったあと先発をいわれたんですが、自分でもつぎはそのころだろうと思ってました」色白のかわいらしい久保のホオを汗が流れ落ちる。「広瀬だけは塁に出さないでおこうと注意しました。あとはこわい打者はいなかった。もしいたとしてもそれをいったら相手に自信を持たれてしまうから・・・」プロ入り五十九試合目の勝利については「自分では別に気にしていなかった。投球内容からいえばもう4勝くらいはしているのに運がなかったのだ」とハッキリいった。相当な自信家らしい。六回近鉄が1点をリードしてから、久保が南海打者を一人アウトにするたびに「ワッショイ、ワッショイ」とかけ声をかけたファンがベンチの屋根から何本も何本も手を差し出す。「サンキュウ」と一人ずつにこたえて久保はカメラのフラッシュをあびた。昨年まで得意の沈む球を投げすぎて後半バテてしまった久保は「スピードをつけること」を今シーズンの課題にして、キャンプ前から体力をつけることに心がけた。その成果がみのった勝利である。1㍍81、67㌔、右投右打、大阪港高出、四年目。
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坂井勝二

2016-11-03 19:05:28 | 日記
1962年

坂井はインタビュー室で下を向いてタバコに火をつけた。けむりがスーッと鼻先を通りぬける。片側のイスでは九回サヨナラ安打を放った塩津が報道陣に黒山のように囲まれて「打ったのはまっすぐ。コースは外角でしたよ」はしゃいだ声が坂井まで届いてくる。報道陣から「塩津が終るまでちょっと待ってね」といわれた坂井は自分の番を待っているわけだ。十分くらい静かな表情をくずさなかった。「きょうはおもにストレートを使いました。そうですね。スピードはあまりなかったと思います。土橋さんの方が速かったでしょう」土橋に投げ勝って8勝目をマークしたうれしさなど埃ほども感じられない話しぶり。「東映?サア、ちっともこわくないです。以前は西園寺さんがいやだったが・・・。このごろはどんな強打者もそれほど投げにくくない」まるで大投手のような風格が身についていると錯覚を起させる。「まあ、一回一回慎重に投げることをモットーにしています。ああ(思い出したように)風がホームからライトにふいていたでしょう。左打者は落ちる球で徹底的に攻めました。これが勝利のもとです」田宮が「坂井がマウンドに立つとなんとかして勝たしてやりたい気になる。まじめに投げるからだ。よいしょ、よいしょと投げている気持ちが外野までつたわってくる」と大毎一の紳士坂井を一生懸命ほめる。さる十六日対南海10回戦で今シーズン初の完封勝利を飾っている。「相手が東映で完投勝利、悪くないですね。スタミナがない?イヤ八、九回だんだんボールが速くなったでしょう。東映さんびっくりしたでしょう」静かな口調も強気になってきた。「ホームラン配球王とナインにいわれるが、やっぱりきょうは出ましたね。なんでも王になるのはむずかしいですよ。配球王も一つのタイトルですから」ここで坂井はニヤニヤ。「ホームランが出てかえっておちついた。どうせジンクスなら早くやられた方がいい。あれからはゆうゆうとピッチングした」だから七、八回のピンチも楽に切りぬけることができたそうだ。大毎投手陣をささえる坂井と菅原は遠征先でも必ず同室にする仲よし。「同期生(四年生)だから、いま勝星の競争をしている。これでぼくのリードだ(菅原は7勝)」と坂井はちょっぴり自分の勝利をほこった。「あすは先発だ」(杉下コーチ)といわれる菅原がこれを聞いたら「何を」とがんばりかねない。東映にとって坂井を勝たせると菅原にまでつながるからいい迷惑?だ。フロ場にいったら菅原とバッタリ会った。おとなしい坂井が菅原に「ワーッ、こいつ」と湯をぶっかけた。「無欲なように見えて勝負ごとには強い。ぼくはいつもハナ札に負けている。おとなしいと思ったらまちがいなしですよ」と菅原はこっそり悪口(?)をいっていた。
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重松省三

2016-11-03 11:43:50 | 日記
1962年

大洋は、このほどノンプロ西濃運輸(岐阜市)の中心打者、重松省三外野手(22)=1㍍67、67㌔、右投右打、松山商大出=の入団を内定した。同選手は西濃運輸の四、五番を打ち今春の選抜大会に出場、シュアな中距離打者として注目された。なお正式契約は同選手が二十八日からはじまる都市対抗に出場するので大会後行われる予定。

重松選手「二、三の球団からプロ入りをすすめられているが、いまはなんにもいえない。都市対抗初出場がきまったので、それが終ってから考えようと思う。プロへいくとすれば一番熱心にさそってくれた大洋になるだろう」

大洋・森代表「都市対抗に出場する選手だし、すべては大会が終わってから、としかいまはいえない」
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池田英俊

2016-11-03 11:04:38 | 日記
1963年

「ことしもマイ・ペースでいく。ずば抜けているところがないから、背のびするのが一番こわい。自分の最高のピッチングを常に心がける。それが打たれればしかたがない」昨年、プロ入り一年目でこういいながら14勝もあげた。ことしももう4勝している。「いつも投げているのはストレート、カーブ、スライダー、シュート、それにフォークボールみたいな落ちる球。しかしこの中で、これといって特別にいい球はない。だから一つぐらい悪くても融通がきくんだ」といった。四月二十九日の中日戦ではヒジが重く、カーブがきまったのはたった三球だけ。シュートとストレートだけで1点に押え完投勝利。中日の江藤、中らが「内角へくると思うと外角、見送ろうと思うとズバリ投げ込んでくる。実ににくいね。後半はこれにさんざん迷わされた」とくやしそうにいっていた。博多の中心街、蓮池の自転車屋に生まれた。十五歳上の長男猛雄さんと姉四人の六人兄弟の末っ子。兄弟とも福岡高の出身。猛雄さんも投手をしていた。そのため小学校二年生のときから重たいグローブを持たされて野球を教え込まれた。「福岡高はいままで夏の大会の県予選に優勝して地区予選に二度出場しているんです。その二度というのは猛雄と英俊が投げたときなんです。市長杯も二度獲得しましたが、これもウチの坊主がなんでして・・・」と父親清さんはこれが自慢のタネだ。猛雄さんはその後学問畑にはいり、いまは明大の独文学の助教授。池田は三十一年に明大に進んだ。二年生の秋のリーグ戦が最高のできだった。「いまとは比較にならないほどボールがよく落ちた。あんな球がいまあればおもしろいんだが・・」となつかしそうにいう。このリーグ戦が終ったあと腰を痛めた。スポーツ・ドクター水町四郎博士(関東労災病院長)から「野球は遊びにしかできない」といわれ、ひと晩中泣いた。プロの誘いを断って八幡製鉄に就職したのもこのためだ。このころから自分のペースを守る男だった。八幡製鉄での仕事は業務部製品発送受渡業。仕事は忙しかった。野球は仕事の終わった午後五時からしかできない。根っから野球ずきの池田にはたえられなかった。プロ入りした理由をこういう。「二年間考えた。もっと野球をしたかったこともあるが、ぼくは資金をためて将来独立して商売する夢があるんだ。この二年間で腰の方もすっかりよくなった。イチかバチか冒険してみる気になった。二十七、八歳になって冒険はできない。若いうちなら失敗してもすぐ立ち直れる。でもプロでやれる自信はさっぱりなかった」がっちり型の池田がうった一世一代のバクチかもしれない。しかし参戦報酬は大活躍したのにすえおき。「一年くらい成績がよくてもフロックということがある。ことしよければうんと昇給させてやる」というのが会社の答え。だから池田はことしにすべてをかけている。
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ドゥール

2016-11-03 10:32:24 | 日記
1954年

「スピードはないがナックルはNYジャイアンツのウィルヘルムばりにひねくれている。直球で変化させる技巧派だ」と初登板のドール投手を板倉捕手がこう語っていた。高橋ファン期待のドールは一風かわったモーションから立上り荒川を歩かせ、一死後別当に左前安打されて一、二塁、球にのびがないうえ多投するカーブもブレーキがない。つづく山内の中越二塁打で二塁から荒川をかえされ一点、ルイス右飛のあと三宅に三遊間をぬかれ別当、山内を生還させ毎日に一回はやくも三点をとられた。毎日この回の三安打はいずれもカーブの曲りハナをたたいたので、曲球投手にしてはちょっと心もとないデビューぶりだった。しかし二回からは得意のナックルもきまりだし、横手からのカーブをおりこんで立直った高橋は一回黒田、マケーブが連安打したが、榎原はレッカをカーブ攻めで三振させた。この回をきりぬけた榎原は切れのよいシュートとスピードのある速球で好調。北村の再度にわたる美技もこれを助けて得点機をつかませなかった。毎日は五回安打の北村を一塁に置いて二死後別当がドールのカーブを左翼へ二点本塁打し前半はやくも大きくリードした。六回からドールをリリーフした吉岡も代りばえせず、七回二死後小森に右前安打、この夜大当りの別当が右中間三塁打して一点を追加差をいよいよ大きくした。榎原が後半になってもスピードが落ちず、高橋は七回小田野も中堅右に二塁打したが、あと一本が出ず反撃できぬままシャットアウトされた。高橋の残塁はわずかに四個。
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ドゥール

2016-11-03 10:13:00 | 日記
1954年

高橋は二回に打者十人を送り東映の三投手から六本の長短打と3四球で一挙七点をあげた。東映の加藤はこの日がはじめての先発だが立上りから球の抑えがきかない。一回トップ河内に外角高目の右翼線に打たれその河内の二盗失敗でホッとしたのもつかの間、黒田の遊撃前内野安打をはさんで笠原、マッケーブに四球をあたえ一死満塁と追い詰められた。このピンチにはレッカ、小田野をやっと凡フライにしとめたが二回にまた無死で山田を四球で出した。ここで井野川監督がダッグ・アウトから出て来たので投手交代かと見ていると土井垣捕手と相談してそのまま加藤に投げさせた。結果的にはこれが悪くつづく安井に二塁頭上をライナーで抜かれて無死一、三塁。マスクをとった土井垣がベンチを見ながらまったくニガリきった顔をする。リリーフ布施も変りばえせずスピードこそあったがコントロールがない。高橋はドール四球のあと河内が再び右翼へ流しこれが前進した伊藤の右をワン・バウンドで抜く三塁打となって二点。笠原四球とつづき黒田、マッケーブも左に右にクリーン・ヒットしてたちまち布施をKOした。布施は安井の二盗失敗で一死をとっただけ。高橋はさらに三人目の上野からもレッカが三塁線突破の二塁打、山田が中前安打して七点目をあげた。勝負はこの回できまった感じで、あとの興味は二度目の登板のドールがどこまで投げるかだけ。ドールは重い直球とシュートがコーナーによくきまった。東映は二回まで無安打、三回安打と四球、五回野村、斎藤の連安打でともに二死一、三塁と攻めたが以後は二塁をふめず大量の失点にすっかり元気をなくしてシャットアウトされた。

浜崎監督談「ドールは落ちるシュートがよかった。これがコントロールがよくきまったときはちょっと打ちこめないだろう。大映の姫野のようにちょっと無理なフォームなのでつかれると威力がなくなる。三日ぐらい休ませて、それから使って行きたい」
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グルンワルド

2016-11-03 09:54:27 | 日記
1962年

いつもは試合後球場正面入り口の前は阪神選手の帰りを待つファンでいっぱいだが、この日は半分くらいが大洋のマックとグルンをとりまいてゾロゾロ歩きだした。日本の選手はサイン帳を出されても黙っていってしまうことが多いが、ふたりはすごくあいそがいい。「コンニチワ」「どうですか」などといっては、女学生がさし出す手帳をまるで握りつぶすような感じでバカでかい手にのせてサインした。「陽気だな。じいさんみたいな顔をしているが、気持ちは十代だ。美声をみんなにほめられると得意になって歌をうたう。気がいいんだね」と入谷コーチ。気のいい、陽気な男はみんなが電車のくるのを待っているのにひとりで球場の横でサインをつづけている。「変化球がよかった。カーブとチェンジアップがほとんど。阪神の打者がきれいにチェンジアップにひっかかってくれたので助かった。速い球?日本の選手には少しくらいのスピードだけでは通用しない。暖かくなってきたからもうぼくらの天下だ」ヒゲだらけの顔に目だけがキューピーの目玉みたいにまんまるで若い。日本の打者の話になるとその目玉がクルクル動く。「まだ名前と顔が一致しないので、どれがいい打者だかわからない。しかしアメリカで聞いていたよりはるかにうまい。だから変化球中心で目先を変えなければダメだと思った」グローブのような左手を見せ、手首をグリグリ動かして、通訳のスタンレー橋本をつっついた。「これがオレの宝といえといってる。カーブを投げるとき手首が変な曲がり方をするでしょう。彼は左手をすごく大切にするよ」そのためグルンはグラウンド外の事は全部右手でぎこちなくすませている。「日本の生活?グッド。日本の野球?ベリー・グッド。オール・ベリー・グッド」だれにきかれても録音してあるような返事だが、ゆううつなことが一つある。かも居に頭をぶつけてばかりいることだ。「頭がこわれちゃうね」と大声で笑った。

阪神を三安打で押えたが、グルンのピッチングはまだほめられない。左腕特有の外角へのシュートがないし直球にもスピードがない。せっかくの大きなからだ(1㍍94、80㌔)が全然生かされていない。ステップが小さく、右腕もないのと同じ。阪神が打てなかったのは全投球数の70㌫くらいをしめる変化球にごまかされていたからだ。ナックルとチェンジアップにとまどって、からだをのり出し、泳いで打っていた。グルンを打ちくずすにはまずよび込んで打つこと、そしてタイミングをはずされないことだ。
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ドゥール

2016-11-03 09:39:01 | 日記
1954年

高橋ユニオンズ入りする三人目の外人選手ジェームス・ドゥール投手(28)が二十九日午前八時羽田着のPAA機で来日、七月一日岡山で行われる対近鉄戦からユニホームを着ける。ドゥール投手はダートマス大出身で六尺一寸、二十二貫、右投右打、戦後四年間ハワイ・レッドソックスで働き、現在はハイスクールの教員をするかたわらワイキキ・ワンダラーズ・チームのエースとして活躍している。去年ハワイ・オールスターズの一員として来日しているので日本のファンにもなじみ深い。カスパラヴィッチ(現近鉄)とともにもっとも活躍した。球速はないが小さなモーションから重い球とスロー・ドロップをコンビネーションよく投げ分け、とくにコントロールされたドロップが武器である。
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