プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

鵜飼克雄

2016-11-22 23:16:15 | 日記
1974年

「そうなんです。ボクの同期生は、そうそうたる人たちなんですヨ。高校から比較すると、8年遅れのプロ一年生やけど、いい励みになりますワ」12球団のなかで、たったひとつ左投手が1勝も出来なかった日本ハム(旧日拓)に、カネとタイコで迎えられた左腕鵜飼の評判が良い。それも道理、プロ入りには遠まわりしたが、高校(徳島商業)までの球歴は、立派なものである。「幼稚園からボールをにぎってましたネ。ボクは、佐古小学校、城西中学、徳商、同志社と、ずっと一年後輩で、鵜飼先輩と同じ道を歩いて来ましたから、良く知っていますが、子供の頃は、毎日毎日、野球をやって遊んだものです。すばらしくうまかった」家が近所で、徳商時代、いっしょに甲子園にも出場した福井さん(現在、徳島市で食堂経営)は語る。「特に肩が良くて、小学校6年のとき、ソフトボール投げで90㍍も投げて、先生方がびっくりした出来事がありました」実家は、甘納豆などお菓子の製造販売業、母の操さんは、きょ年まで小学校の先生。経済的にも恵まれているし、家庭のしつけもきちんとしていた。「真面目で、ものごとに対する集中心というか、練習も熱心でした。徳商の練習は、放課後から夜の八時九時までやるんですが、いつも一番遅くまでやってました」と福井さん。この鵜飼は、高校時代は投手ではなかった。一塁手、五番打者である。「エースの利光さん(現日生)が肩をこわして、投手もしたんだけど、タマは早いけど、ノーコンで、どこへ行くやら、前にまわってボールに聞いてみないとわからんくらいの出来で」落語の「うなぎや」である。しかし打者としては一流で、40年の選抜では良く打った。「鈴木(育英・現近鉄)から3安打したけど、まぐれですヨ。準決で平松(岡山東・現大洋)にやられましたから」度胸がいい。いまをときめく大投手も、年齢は同じ。呼びすてて表情も変えなかった。「投手は大学に入ってからなんです。監督(渡辺博之氏・元阪神の五番打者)が、目をとめられて、それからです」それでいて、一年の春のリーグ戦に登板したのだから立派。以来、大学とノンプロ(四国電力)で八年の投手としてのキャリアがある。「大きいフォームで重い。投げ方が鈴木隆(大洋コーチ)で、球質は鈴木啓(近鉄)ですヨ」山根コーチの口は、こと鵜飼に関しては軽い。「千恵子夫人との交際も、そうでしたけど、執念の人ですからネ。徳島の病院の事務をしていた奥さんと知り合ったのが、大学の2年のときで、それからは合宿から毎晩電話ですヨ。かけたり、かけられたり。小づかいは全部電話代でとんでたでしょう」と、福井さん。同じ徳商ー同大の二年先輩の村尾さん(現瀬戸内海テレビ勤務)も語る。「きょ年の六月に、高松競輪でひょっこり逢いまして、肩をこわして、もうアカンですわなんていってましたが、その秋、産別で好投してプロへの道を開いた。ちっとやそっとで弱音をはくようなヤツじゃないと思っていたら、子連れでプロへ行きました。あのきかん気な顔を見てくださいよ」パ・新人王候補鵜飼克雄、26歳、扶養家族、妻1、子1、計2名。
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