プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

井上忠行

2016-11-15 23:39:25 | 日記
1962年

「いつもおとなしくて話題のないのが井上(忠)」というのがナインの井上評だ。「先発メンバーに出たのはきょうの試合が三試合か四試合目くらいになるんじゃないですか」というほど目立たない。そんな井上がスタート・メンバーに出たのは城戸がカゼぎみだったからだ。中西監督も試合前「城戸が出られないのは痛いな」と困った表情をしていた。おとなしいおとなしいといわれながら、昨年の十二月結婚式をあげた。夫人はファッション・モデルだった。「まだ子供をつくる余裕なんかありません。もっともっと野球がうまくなってからこしらえます」てれたような笑いをうかべながら井上はボソボソしゃべった。「まっすぐでしたよ、三回の二塁打も七回のヒットも。ディサ?別にどうってこともなかった。でも二本ともあまりいい当たりではなかったですね。それに、七回のヒットは八田さんがジャンプしてちょうどおりたところへとんでいったような感じでした。いい当たりでなかった証拠です」プロ入り六年目、技術面でも考え方も入団当時から、まるでかわったところがないという。西代表がいっていた。「井上はひっぱることばかりを考えずに、外角球を右翼に流すように注意してもいっこうにやらない。相かわらずひっぱってばかりいる。私も一度いったことがあるんだがね」井上のいま考えてることは「からだが早く開きすぎる点。振り遅れは要するにポイントですね。これがうまくつかめるようになれば・・・」という。ひとつのことを一本気に思いつめるのが井上のいいところかもしれない。「趣味もなにもないのですよ。野球のないときは家でただゴロゴロしているだけです」朝から晩までバッティングを、からだが開くことだけを考えて暮している。打てなかった右翼に打った七回、試合をきめた右前安打もそんな性格が出たものだ。
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江藤慎一

2016-11-15 22:56:10 | 日記
1962年

マスクをぬいだ江藤はすごい顔をしていた。目がギョロリと光ってふきげんだ。くいつきそうな顔でいった。「1-3からあんな中途はんぱなバッティングをしてはいかん」三回の満塁で投ゴロを打ったのがきげんの悪い原因。バットをケースにしまいながら「なっとらん」をなんども連発した。1-3になったとき「内角球か外角球かどちらかにヤマをかけよう」と計算して五球目を待ったという。その計算はボールが池田の右腕からはなれたときにふと「くさいボールでも打っていこう」というふうにかわったそうだ。ブツブツはつづいた。「一球見のがしてもあとにまだ一球残っているのに・・・。バカバカしい、なっとらんな。あんなときにふと気がかわるなんてオレもまだ若い。あんなこっちゃいかん。四番なんだからね」きげんが直ったのはホームランの話になってから。「会心の当たりだった。ちょっと低かったがシンカーみたいな球で、回転が少なかった。よくとんだろう。オールスター戦で久保から打ったのもよかったが、今夜のはそれ以上だ」これで長島、王とならんでホームラン・ダービーのトップ。だがそんなことにはまるで耳をかさない。ひとのことを気にするとあせりが出るから・・・という。「自分のペースで打っていく」とたんたんとしている。計算はひと月五本だ。江藤と同じように捕手で四番を打っている南海の野村も同じ計算を立てている。「野村さんにやれることが・・」とファイトをむき出しにしていった。「八月にはホーム・グラウンドのゲームが多い。だから体力的にもかせげる。今月はあすのダブルヘッダーでもう一本打っておけばいい」
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長谷川繁雄

2016-11-15 22:22:27 | 日記
1962年

試合前の長谷川は寺田の話がもちっきりのダッグアウトを見ながらふきげんだった。「テラ(寺田)は二ホーマー、オレはかすんでしまいそうやな」だがバッティング練習でトップを打った長谷川の打球はガンガン右翼席へとび込んでいた。四回先制のホーマーを放った長谷川は試合前のふきげんはどこかへ吹きとばしたような表情だ。「まっすぐやったと思うな。スイッとバットが出よった。手ごたえはあんまりなかったけど、手首にはツンときたな」四打数ノーヒットの寺田がその前をムッツリとして通った。「バック・スイングを小さくしてスタートしたのがやっと自分のものになってきた。去年までは大きく振りまわしていたけど、いまは気にしなくて小さく、そしてシャープになってきている」石本コーチも「南海時代のもろさはなくなった。五年間ものび悩んでいたものがいまさらうまくなるかとよくいわれたが、私の思いどおりに育っている」と安心したような口ぶりだ。だがこの本塁打にも秘密があった。南海時代杉浦のボールを一番よく打ったのが長谷川だ。森滝はフォームもほとんど杉浦と同じ。それでいてスピードは杉浦より少しない。「リーグはかわってもどんなところでプラスになるかわからんもんだな」とニヤニヤ。ただ北川にはとまどったようだった。「あんなクロスして投げるのは若生(大毎)ぐらいやからな。それも横手と上手との違いがある。八回三振したのは全然見えなかったよ。オープン戦ではほとんどパ・リーグ相手やったからよかったが、これからの相手投手を研究するだけでも精いっぱいや。セ・リーグの投手はパ・リーグより落ちるというけど、そんなことはないよ」中日にはいったとき南海・鶴岡監督が「あれがクリーンアップを打つなんてね・・・」といっていた。奮起をうながすための言葉だったのだろうが、とにかく長谷川は三番定着に必死だ。最近の口ぐせは「他人がどんなこといおうと勝手にいわしておくさ。オレはもう中日の長谷川やで」最後にはおこったような口ぶりでバスに乗り込んだ。
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桑田武

2016-11-15 22:02:05 | 日記
1962年

「ぼくはとってきょうは地元でのはじめての試合だし、なんとかひとつ恩返ししたいな」満員のスタンドをみながら桑田はいった。恩返しといったのは左足首をスピーディーに直してもらった関東労災病院の医師、看護婦さんがネット裏にみにきていたからだ。恩返しの一発は三回裏左翼中段へ打ち込んだみごとな逆転2ランだった。「こんどこそはいったと思ったな。真ん中よりやや内角より、シュートのかけそこないじゃないかな。ヒザもとをだいぶ攻められたが、こわくはなかった」こんどこそに力を入れたのは、これまで二本も中堅後方のフェンスにぶつける準ホームラン?を放っているからだろう。「桑田さん、初ホーマーの感想を・・・」つぎからつぎへマイクがのびて、桑田はなかなかロッカーへ帰れない。みかねたように平山マネがそばへきた。「あと十分で第二試合がはじまるんですよ。こんど打てなかったらどうします」心配のあまり声がちょっとふるえている。それでも桑田は最後までていねいに答えていた。「勝ってよかったな」はじめて三番でスタート、しかも九回まで三塁を守りとおしただけに、言葉ははずんでいる。「打つ方はだんだん調子があがってきたから、これからは細かい守備の動きを練習しなくちゃ・・・。バント攻めの対策?あまりムリしないで打つ方でカバーしますよ」七回二死一、二塁で飯尾のベースよりのゴロをさばいたが「まだベースへかけ込む瞬間的な力が出なかった」という。「桑田は(フトシ)西鉄・中西監督)と同じようにケガしやすい体質だが、そのケガをのり越えるたびにひとまわりずつスケールが大きくなってきた。ここ一、二年のうちに迫力では長島を完全に抜くだろう」と三原監督。この日、最後まで守らせたのは「もし同点になった場合、延長戦でもう一発出してもらおうと思ってね」ちょうど一年前の五月十三日、やはり川崎球場のナイター開きの対国鉄戦で北川から先制5号を打っている。
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城戸則文

2016-11-15 21:49:27 | 日記
1962年

「城戸ってどんな男だい」と聞かれて真っ先に浮かぶのは青い顔と金歯だ。この二つは深い関係がある。プロ入り三年目の三十四年、城戸は近鉄の黒田(勉)投手からアゴに死球をくらって口の中がグチャグチャになった。それまでは「コンクールに出たら一等になる」ような真っ白な歯だったそうだ。死球がケチのつきはじめで虫歯にとりつかれ、いまでは自分の歯は一本もなくなった。金歯はそのときのもの。元来胃がじょうぶでなかったのがこれで慢性になった。「目がさめるとスッぱい液が朝のあいさつをするんだ。青い顔がますます青くなりました」悪いことにウエスタン・リーグのホームラン王(33年)はボール恐怖症にもなった。「死球から顔が逃げるようになった。手が手長ザルのように長いから外角球でもバットを当てることはできるが、ヒットがでない」こう酷評された城戸が青い顔にほんのりくれないを浮かべて決勝の三塁打を説明した。「内角寄りの直球でした。シュートしたかな。きょうは球に向かっていった」城戸は常盤高出身、坂井は田川中央高から専大に進み、それから大毎。プロ入りしたコースは違うが、高校ではよく対戦したので気安さがあったという。「走者が出ると坂井はスピードがなくなった。それにしてもぼくにしては真シンの当たりだった」開幕以来四本目の安打。打点ははじめて。六本のバットと製菓会社の三塁打賞をもらって城戸は宿舎へ。その途中で「きょうは腰が逃げなかったでしょう」と思い出したように笑った。キャンプで中西監督は三塁城戸、一塁田辺を打撃競争させた。「負けた方のポジションをオレが守る」と中西監督はいった。城戸は「いまのところ完全にぼくの負けだ」と率直に認めている。十八日、中西監督が二十四日の大毎戦から三塁を守ると声明した。「あの声明が刺激になった?城戸はしばらくニヤニヤしていた。「とにかく試合に出たら体当たりでいく。まだ二十二歳ですからね。先は長いですよ」この話を中西監督にしたら「体当たりでいくって?いい刺激になったな。オレは別に出なくたっていいんだ。ほんとうはそれの方がいいんだ」とうれしそうな顔をした。
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鈴木武

2016-11-15 20:34:26 | 日記
1962年

帽子をとられ、頭をつつかれながら、ナインに引きずられるようにして帰ってきた鈴木(武)は「ああ、はずかしい、ああ、はずかしい」を連発、ロッカーの片すみにうずくまってしまった。ワッととりまく報道陣に近藤(和)が声をかけた。「これでいよいよ見合いの相手がきまるぞ。あしたはひとつハデに写真をのせてやってや。候補者がどんどん殺到して困るかな。とにかくきょうはいい日や」鈴木(武)は箱田とならんで大洋独身会の幹部だ。「ワシはなにをするのもめんどうくさい無精者でね。なかなか嫁さんのきてがあらへん」と日ごろからよく冗談をとばしている。「外角寄り、高目のまっすぐや。外角へのドロップがくると思ってねらっていたんだが・・。堀内も完全にへばってたな。もうドロップを投げる力がなかったんだろう。ああ、サヨナラ・ヒットちゅうもんはほんまに気持ちのいいもんや」スムーズに出たバットのかっこうをして見せて得意そう。-敬遠してくるような気配もあったが・・・。「そうね・・。ヘボ・バッターやからだいじょうぶだと思ったやろ。でもそう簡単にはいかんわい。こっちも長いことただメシを食ってないからな」三原監督は近藤(昭)とこの鈴木(武)は典型的な超二流選手だという。つまり「名前は一流でなくてもいざというときには何をやるかわからん。たよりになるバッターだ」というわけだ。三原監督はこの鈴木(武)を近鉄時代から高く買っていた。三十五年六月大洋へひっぱったのもそのためだ。「タケシは気分的にムラがあるが、いわゆる職人だ。環境に応じて使えば、これほど心強いバッターはいない。しかしちょっと目をはなすと、すぐ近鉄のぬるま湯気分にかえってしまう。だから折りを見てシリをたたいたり、チクチク刺激を与えたりしているんだ」鈴木(武)にとっては一昨年大毎との日本シリーズ二回戦で決勝打を放って以来の花やかな舞台だったことだろう。
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足立光宏

2016-11-15 20:13:37 | 日記
1962年

キョトンとした顔で足立はマウンドをおりてきた。ナインが足立めがけて走り出すと細い目をいっぱいあけて逃げ腰になった。ベンチの前でもみくちゃにされた足立は、そのときはじめて太田から新記録のことを聞かされたそうだ。ふとった阪急岡野代表もころがるようにして走ってきた。足立のまわりでフラッシュがひかった。「全然知らなかったんですよ。ほんとうに・・・。シャットアウトのお祝いかと思っていました。新記録ですか」報道陣にとりかこまれた足立は、イスにすわりこむとウーンとうなった。球場の係り員が「社長がお呼びですから」と呼びにきた。ピョコンと立ち上がって直立不動の姿勢をとると、二階のロッカーへあわてて走った。小林社長の前でも直立不動だ。「どうも、どうも」監督、代表、社長の前で足立は米つきバッタのようにペコン、ペコンと頭をさげてばかりいる。威勢のいいのはピッチング・コーチの荒巻だ。「監督さんは石井(茂)の方がいいのじゃないかといっていたが、ぼくは足立を推薦した。きのうの練習で球が走っていたからね。もちろんことしはじめての先発だよ」荒巻がおこったような声で足立を呼びつけた。「あわてるな。これは大事なもんやからな。ちゃんとサインをしてしまっておくんや」記念のウイニング・ボールでオデコをコツンと荒巻コーチにたたかれて足立はやっと落ちついた。「きょうはコントロールがよかったですね。完封はおととし(三十五年)の東映戦以来です。外角によくきまりました。六、七回ごろにへばりました。完投なんで久しぶりでしょう。スタミナが心配ですね、早く代えてくれないかと、そればかり考えながら投げました」フロにいくことを切りだせないでいつまでも報道陣の相手をしている。三人きょうだいの長男で性格もおとなしい。気の強い松並が「右打者にはカーブ、左にはシュートを勝負球にした。のびがあったし、ひとつも棒球はなかった」と補ってやる。コップ一杯のビールで顔が真っ赤になる。しかしきょうだけは大阪福島の自宅で飲めないビールを父親忠太郎さんを相手に少しずつゆっくり飲むそうだ。まだ独身。
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久保田治

2016-11-15 20:00:09 | 日記
1962年

アンダーシャツを三枚とりかえた。どれもいま水からあげたばかりのようにぐっしょりだ。久保田はチームでも一、二を争う汗っかきである。「オールスター戦中練習らしい練習はしなかったので、いつもの倍は汗をかきました」プロ入り八年生なのに言葉づかいはすごくていねい。試合前のことだが大毎の若生、上条らが「こんちわ」と久保田にあいさつすると「アッ、これは、こんにちわ。暑いですね」と腰を低くかがめた。久保田の方が先輩である。話し合いはこんなふうにバカていねいなだけでなく、話すスジもちゃんと通っている。「外野を走っているときはこの暑さでしょう。どうなることかと思いましたが、マウンドで投げたらこれはいけると思いました。球威がありました」-完投できると最初から自信があった?「二回投げて自信がわきました。おそらく投球数は八十前後だと思います。ぼくの場合、一イニング十球のペースでは完投できません。外角へはずし内角シュートで勝負したのですが球威があったのでねばられずにすみました。一回八球、二回は九球でした。いままでも完投したときは必ず八十前後のはずです」言葉どおり投球数は七十八。ある記者が聞いた。「今夜は安打二本打たれたが・・・」みなまでいわせず「いいえ三本です」と訂正した。すべてこの調子である。オールスターに選ばれながら久保田は平和台でも広島でも投げなかった。博多に着いたとき水原監督に「おまえは投げさせんぞ」と引導をわたされたそうだ。「広島にはおやじもきていたので投げたかったですね。ペナント・レースの方がそりゃ大切なんでしょうけど・・」その広島で土橋が打たれ、この夜第二試合もみじめだった。「これからがぼくのシーズンです」という久保田をオールスターであえて使わなかったのは水原監督の深い読みがあったとみていていいようだ。久保田は冷蔵庫で冷やしたコンブのエキスを毎日欠かさず飲んでいる。「コンブの小切りを水につけるだけですが、塩が適当にとけておいしいです」これが夏の活躍を維持する秘けつだそうだ。
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