プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

船田和英

2016-11-13 21:11:25 | 日記
1963年

船田の五回に打った左中間スタンドにはいる豪快な2ランが善戦の大洋をダウンさせた。六回の2打点をたたき出す左翼線テキサス二塁打。この日の船田はニックネームどおり無敵のライフルマンだった。「ホームランは会心です。フェンスに当たるかなと思ったが手ごたえは十分あった。真ん中ベルト辺のストレート。秋山さんは後楽園でも一本打っているし、自信はありました。スピードがなかったですよ」大洋の系列会社であった北洋水産から巨人入りした船田は川崎で大洋ファンから目のかたきにされている。船田が打席に立つと「裏ぎり者、大洋へ帰れ」というヤジがとんだ。「かえってファイトがわきますよ。大洋には裏切りかもしれないが、あんなことをいわれるとこちらもカッとしますよ。たしかに高校のときから大洋にはさそわれました。しかしぼくはまだプロでやれる自信がなくてことわったんです。それじゃ北洋水産にでもはいっておれといわれていったんですがね。大洋はその後強くさそってくれなかったし・・。安心しすぎていたんでしょう」気の強いことをいう。船田は大洋戦には皮肉にもよく打ち、現在十四打数九安打6打点。バッティングはファースト・ストライクを思い切ってひっぱたく。ホームランも二塁打もすべて第一ストライクだ。「悪い結果を心配してはいけないと監督さんや荒川さんにいつもいわれています。キャンプのとき、紅白試合でまるで打てず、消極的なバッティングになって、荒川さんに女のようなバッティングをするなとどれだけおこられたかわかりません。阪神戦のときは張り切りすぎてボールにばかり手を出して、さんざんだったですが・・・。きのう(二十六日)指名されなかったけれど多摩川で打ったんです。ジャスト・ミートしだしたのはそのためでしょう。ホームラン以外は三打席つまっていたんですが・・」船田は一回の打席で三塁ラインをそれる強烈なゴロを打ち、川上監督にぶっつけた。川上監督は当ったところをさすりもせずに平気な顔をした。「監督さんは痛かったに違いないのになんでもないというゼスチャアをしてくれたでしょう。文句も全然いわれなかった。グッときますよ。監督さんのためにやらなきゃあという気になります」その気で次打席で打ったのが逆転ホームランというわけだ。インタビューがすむとある週刊誌のグラビア・ページの撮影が待っていた。選手のいなくなったグラウンドで反射板を顔に当てられ船田はテレながらバットを振りだした。一人のファンがベンチの上からいった。「船田、あしたも写真とってもらえよ」船田は小学生のように「ハイ」とこたえた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

F・アグリー

2016-11-13 20:50:04 | 日記
1963年

おせじにも守備がうまいとはいえないアグリーを二塁にすえた理由を三原監督はこういう。「三塁、遊撃なら桑田、鈴木(武)と比較してみてマイナスだ。ほんとうは一塁に使いたいのだが、一塁には島田(幸)マックそれに近藤(和)がいる。近藤(昭)がちょっと調子を落としているのでね・・・」連敗つづきの三原監督が考えに考えたすえの二塁起用。攻撃要員だけに五回逆転の満塁ホーマーを打つと三原監督はすぐベンチへひっ込めた。「ぼく、三回ぐらいね。あそこで打たなければベンチだもの」三回ぐらいというのは打席のこと。予定数の最後になってやっとみごとな一発が出た。「まん中のボール。ぼく、とられると思った。当りがよくなかったよ」と自分でも驚いている。打たれた鈴木は一塁側ロッカー・ルームで涙を流していた。「シュートがボールにばかりなって。アグリーは外角さえつけば流せないからだいじょうぶだと思いながらも、四球がこわくて投げられなかったんです。内角を思いきってついたつもりが、なん中へはいっちゃった」1-2とカウントはよかった。コースも絶好球だ。「しょうじきにいって、アグリーの二塁は冒険です。だけどアグリーの打撃を生かすためにはこれ以外に道はないんです」久しぶりに作戦の当った三原監督は、当分はこのまま二塁で一番を打たせ、そしてその勝負強さをフルに生かすハラだ。アグリーは「ほんとうは外野の方がいいんだよ。二塁ははじめてなのでどうもね。でも打てばいいんですね」打つだけというアグリーはたどたどしい日本語だが、力強くいい切った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高倉照幸

2016-11-13 20:49:15 | 日記
1963年

もう3号ホーマー。うち二本は第一打席のものだ。「オープン戦でも四本打ったが、みんな第一打席だったよ」切り込み隊長のニックネームどおり活躍を続ける高倉は、あっさりいう。一月十九日慢性のチクノウ症を手術、続いて十年目のボーナス交渉と忙しく、キャンプは出おくれていたのに・・・。「新人じゃあるまいし、自分の調子をどのくらいの時間をかければあげられるか、わかっていたよ」やはりそっけない返事だ。「第一打席のホームランは外角寄り、低目のスライダーだろうな。打つ気はなかったんだがバットが出てしまった。あれ、球が逃げていくと思ったとき、無意識に手首でこねていた。よく風にのったね。ハハハ・・・」黒い顔、シシッ鼻、短い髪のせいか二十八歳とはとても見えない。「こんなにいいすべり出しは、プロにはいってからはじめてだ。十八打数九安打だって?フーン、そんなに打っているかな。毎年四、五月に打とうと心がけながら打てなかったのが、おもしろいようにヒットが出るんだから楽しいよ。ついてもいるね。調子のいい理由?なあ、チクノウ症が完全になおって、鼻がよくとおるようになったからかな。オレは気分屋なんだ」どんなにチームのふんい気が落ち目になっているときでも、高倉だけは打つと、中西監督が今シーズンのオーダーをきめるときにまずトップに確定させたのに気分屋などとウソをついている。熊本商を卒業したとき、高倉はエンジニアを夢みて大学で工科を専攻しようと考えたそうだ。「それがどう変わったのか野球選手になっちゃった。でもなんでもいいや。みんなから喜ばれるような人間になりたかった。まだまだぼくはハデさはない。それでもフトシさん(中西監督)や野村なんかのようにドッとわくところがないんだ。だけど、そんな人間はそれなりに生きていく道があると思うんだ。トップを打って出塁して、クリーンアップの爆発を持つ。それでいいじゃないか。ほんとうに野球の好きな人だったら認めてくれると思うね」地に足のついた話だ。十年目のボーナス一千万円、年棒にして百万円参加報酬があがったといわれている。野球選手の給料は高すぎるといわれる選手が多いが高倉の値打ちを会社は認めている。「いくら金を出しても惜しいとは思わない選手だね。ほんとうのプロ野球人だ」西鉄・川崎重役は、いつもいっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮原務本

2016-11-13 19:03:14 | 日記
1963年

右手にバット・ケース、左手にボール・バッグ。およそヒーローらしくないスタイルで宮原はベンチを出た。「ぼくボール係なんですよ。三年たったのにまたボール。重いんですよ」あわれっぽい声が出た。キャンプ中は尾崎と新人にボール係をゆずったのにシーズンにはいるとまたボール係。ピッチャーには持たせられないんですって。おはちがぼくにまわってきたんだ」ナインの中で最年少の宮原がまたバックをかつぐことになった。「三年目なのに・・・」と口をとがらし、バッグを引きずりあげる。取りかこむ報道陣も、バットとバッグをぶら下げた宮原に近寄れない。首をのばして「打った球のコースは?」と聞く報道陣にやっとバッグをおろし「カーブだったと思うのですが!」とたよりない返事だ。「なにしろ今シーズン四度代打に出て四回とも投ゴロなんですよ。ヒットははじめて」と急に顔を赤らめた。「代打は予想していました。島田さんはもう出たあとでしょう。こんどはぼく」かたわらを通り抜ける土橋が「サンキュー。バッティングのコツ教えてやろう」と冗談をいうとまた顔を赤らめ、帽子をぬいでゾウキンのようにしばりつけてテレる。まだ高校生気分が抜けないようだ。昨シーズン前半に痛めた右足の故障が尾を引いてことしのキャンプを棒に振っているが「まだほんとうの当たりではありません。左中間にとんだしょう。ミートした瞬間腰が落ちてしまって変な方にとんでしまった」としきりに頭をかく。ほんとうの当たりというのは一塁ベース・キャンバスを抜くライナーだそうだ。入団一年目の三十六年のペナント・レースではこの当りで島田につぐ第二の代打要員の地位をがっちりつかんでいる。「やはりキャンプに出なかったのが響いています。公式戦になると練習できないでしょう」バッティング練習はいつもあとまわしだ。バックをかつぎバスへ走りながら「でもいいんです。東京にいるときは昼間イースタンでやれますからね」といった。イースタン・リーグにいけば四番バッターなのである。去年は全然パッとしなかったから、その分まで取り返さなければ・・・」バスのタラップにぶらさがって小声でこういった。参加報酬をもう三万円あげてもらってイギリス製の背広をつくりたいのだそうだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊藤勲

2016-11-13 17:55:43 | 日記
1963年

八回大洋の攻撃がはじまる前、三原監督と岩本コーチが2点差を追う代打陣の順番をきめた。残っていたのは黒木、伊藤にマック。伊藤は「九回裏の攻撃がピッチャーのところまでまわり、そのとき中日の投手が左の西尾のままなら代打」といわれた。伊藤は「ぼくのところまでまわるかな」と思いながら、すぐロッカーの大鏡の前で素振りを始めた。その出番は1点差になった九回二死一、三塁。このとき岩本コーチは「三振かホームランのどちらかだ」と思ったそうだ。「二、三年までの若手の中で伊藤はリキと心臓は一番、左にはめっぽう強い。それにきょうはレフトへ風が吹いているし、シンにさえ当たればはいる。でなければ振りまわしての三振だ」この予想はいい方に当った。プロ入り初ホーマーの逆転3ラン。伊藤はダイヤモンドを一周しながら一瞬首をひねった。「はいるなんて自分でもびっくりしました。真ん中あたりのスライダーのような球だったと思います」説明はあいまい。プロ入り三年目で初めてヒーローになったのだから、冷静になれないのもムリはない。ホームランする前、二球目に外角への落ちる球をから振りしている。「あれだけは注意しろといわれたんですが、手を出してしまいました。でもかえって落ちつきました。あとは最後まで球にくいついていくことしか考えなかったです。一軍での打席?ことしはこれで八打席目で、そのうち代打が四回です。ヒットは代打のとき一本、三遊間に打ったことがあるだけです」青ざめた顔色をしながらこれまでの経歴をしゃべった。松原(二年生、飯能高出)と並んで三原監督から「将来の大型捕手」と折り紙をつけられ、キャンプのときに「ことしはずっと一軍で鍛えていく」と目をかけられていた選手だ。「ムッツリしているが、なかなかカケごとも強く、東北人らしく最後まであきらめないねばりがある。やわらか味のある筋肉質のからだはこれからまだまだ大きくなるだろう」これは合宿でよく伊藤のめんどうをみている小林トレーナーの診断。1㍍78、75㌔というりっぱな体格。母校は仙台の名門東北高だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早瀬方禧

2016-11-13 17:30:26 | 日記
1963年

雨さえ降らなければ、毎朝十時になると西宮球場の重いとびらを押しあけてグラウンドにとび出す若い選手、それが早瀬だ。一人で根気よくグラウンドを一周、また一周。全力疾走とふつうのランニングを交互にたっぷり一時間。グッショリ汗をかくと球場のすぐそばにある合宿へ帰っていく。ランニングにうち込んでいるのは、西本監督からこう注意されたからだ。「君は太りそうなからだつきだ。現在のからだ(1㍍71、75㌔)ならまあまあだが、太ったら腰の回転がきかなくなって、バッティングが鈍くなる。守っても動作がスムーズにいかないよ」出身地名古屋の名物はきしめん(東京でいうひもかわうどん)これが大の好物。中京大時代には朝食からきしめんをどんぶりで三、四杯ペロリとたいらげたそうだ。しかしいまはめん類はいっさい食べない。米飯もなるだけ少なくし、肉と生野菜を主食にしている。「でんぷんは太るでいかんわ」名古屋弁でいった。西本監督がほれ込んでいるのは、高知のキャンプで見せたシュアなバッティングもそうだが、なによりもいわれたことをあくまでやり通そうとする性格だ。オープン戦ではさっそく五番を打たせてためしてみたが、西本監督の採点は合格点。ウエスタンでは中堅を守って常時三番。三試合で十三打数三安打、1打点をあげて順調な成績だ。「ずば抜けた素質があるわけじゃないし、ふつうの練習をやっていては、レギュラーにはなれないと思います。ぼくは研修期間中走れるだけ走ろうと思っているんです」こんな早瀬を、梶本(兄)はかわいくてしようがないようだ。「まだ顔もよく知らないうちから、オレの部屋にはいってきて各球団の投手についていろいろ聞くんだ。合宿の中でも」合宿の早瀬の部屋の窓から球場のノイトが見える。「早くあの光の中で思い切ってプレーをしたいものですね」公式戦が五十試合を追えるのがほんとうに待ち遠しそうだ。二十二歳、中京商・中京大出身、右投右打。今春入団。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鈴木悳夫

2016-11-13 17:14:06 | 日記
1963年

研修のとけた東映・鈴木悳夫内野手が十六日の対大毎戦(東京)に先発一塁手として十二球団のルーキーの先頭を切って公式戦にデビューした。二回裏、八番一塁鈴木とアナウンスされると、三塁側からこの日最高の拍手と歓声がデビューを祝福した。しかし初打席は小野にひねられて三球三振。「ノックの前に先発と知らされた。そのときは別になんとも思わなかったが、やはり第一打席はあがっていたのかもしれない。三球目はボールのスライダーだったのに振ってしまった。でもはたでみるほどあがってはいませんでしたよ」鈴木はしきりにあがらなかったことを強調。早大のとき一年生でリーグ戦に初登場したときの方がよほど堅くなったそうだ。第二打席では2-3までねばって四球。そしてまた拍手をあびて代走ラドラと交代した。「小野さんはカーブの多い投手だと注意されていたんですが、やはりスピードがあるので・・・。六大学やイースタン・リーグとは全体的にスピードが違う」と報道陣との応対も六大学時代に経験し、研修期間の間もインタビューで鍛えられている?だけに手なれたもの。このへんがいままでのルーキーとはちょっと感じが違う。しかし守っている間もベンチにいるときも一球ごとに声をかけ、また内野をまわったボールをていねいに土橋に手渡していたのはいかにもルーキーらしい。「イースタンでずいぶんやってきただけにあらたまった感激は別にありません」とちっともテレたようすもない。鈴木のかたわらで水原監督が「鈴木はなかなかいい度胸をしているな」と話しているのを聞くとようやく頭をかいてテレた。またいっしょにベンチ入りしたライバル三沢は、この日下痢のため出場のチャンスがなかった。この二人は昼間は多摩川のイースタン・リーグに出場、夜は一軍といそがしい日が当分つづきそうだ。イースタン・リーグでの成績は24試合74打数21安打、打率二割八分四厘。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北川芳男

2016-11-13 17:01:48 | 日記
1963年

「きょうなどシャットアウトしないといけなかったね。一回に4点をとってくれたんだから。ここ四、五年ない経験だよ。あまりよくなかった。スピード不足だったよ。後半は出てきたがね。北川のように勝っても負けても気持ちよく話す投手はいない。ピッチングもテンポが早いが、話しも実によどみがない。「阪神というチームはいくら負けていても初球から打ってくるんだ。だからせり合っているとやりやすいとはいえないが、こっちがリードしているとあんな楽なチームはないね」阪神の選手が聞くとアタマへきそうなことを平気でいう。そのうえ藤本監督がこれまでよくいった「北川は国鉄にいたからこそウチに割り合い好投できたんだ。巨人で投げると意気込みが違うから、いつもほどウチに通用するわけがない」という見方にも堂々と反論しはじめた。「チームは変わっても阪神の攻め方は変わりっこないよ。同じさ。ただ九回に藤本にだけはうまくやられたな。外角のスライダーだぜ。長島君がよくやるように上からかぶせて、手首でレフトのスタンドへもっていかれた。あれがアメリカ帰りのリスト・スイングというものかね」取材記者を大笑いさせることもちゃんと心得ている。十四日の阪神戦に一度出ただけでその後登板なし。北川にとって巨人にはいってはじめての勝利だ。「やっと勝利投手倶楽部と完投投手倶楽部の両方にはいれたよ。ウチの投手は出ると勝ちでしょう。ぼくだけがとり残されているようでやはりあんまりいい気持ちはしなかった。この1勝で落ちつくね。しかしホームランされたのは巨人の投手陣でははじめてなんだ。これはあんまり感心しない」横にいた王が「へー、ホームランされたのははじめてなの?しかしきょうならいいじゃないの。ああ、打たれたかという程度ですむよ。勝敗には関係ないから」と妙ななぐさめ方をした。「きょうのスピードならまたあすの新聞に北川はスピード不足をコーナーワークで補ったと出るね。あの文句をいるのはあきちゃったよ。かわった書き方をしてくれんかね。バックがあれほど打ってくれるなら、まだおれでも十年くらいもちそうなのに・・・」と北川ははや手まわしにあすの新聞の予想までしていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮川孝雄

2016-11-13 13:18:20 | 日記
1963年

「真ん中高目のストレートです。だれでも打てる球でした。フラフラッととんでいったようですが、バットのシンには当たっていました。ああいうのを感じよく打てたというのでしょうね」宮川はノンビリした表情でインタビューにこたえた。声も小さいし調子も高くない。ホームランを打った直後の喜びようとは人がかわったようだった。三塁ベースをまわろうとして白石監督におしりをたたかれたとき調子をとって最敬礼のような格好をして走り抜け、そのまま本塁からベンチまで歓迎のナインにクルーカットの頭をたたかれどおしだった。顔中笑いにして宮川は荒っぽい祝福をしあわせそうに受けていた。「オヤジ(白石監督のこと)からミヤ九回の裏のときにいくぞといわれていた。巨人戦は好きなんです。ファイトはわくし、やろうといく気になります。代打専門は当っているうちは楽しいですね。一試合に一度出てポンと打てばそれでいいんだから・・・」レギュラーになるのと代打専門とどちらがいいかと聞かれて、はっきりこたえないところをみると代打オンリーにも生きがいを感じているらしい。昨年の唯一のホームランも城之内から奪った代打ホーマー。プロ入り以来打ったホームランが二本とも代打のときだったという代打男だ。「ジャッキー、ナイス・ホームラン」平山コーチが握手してきた。ジャッキーというのは足が速いことから米大リーグの俊足強打者ジャッキー・ロビンソンに似ていると平山コーチがつけたニックネーム。これで宮川の打率は十三打数五安打、打率三割四分五厘という高打率になった。アダ名のとおり足も速いし、バッティングはしぶといし絶好のトップ・バッターになれる。しかし一年に一度は大ケガをして休むのが玉にキズ。「ファイトがありすぎてボールに向かっていって、すぐわき腹などに当って休むけんのう」と白石監督は痛しかゆしの表情だ。白石監督は「とにかくことしはケガがないのでいいな。もっともこの前の阪神戦では首筋を寝違えて休みましたがね」宮川も自分の欠点はよく知っている。報道陣から解放されて一番最後にロッカーへ帰ったらホームラン賞の生ビールサッポロ・ジャイアンツの大ビン二本が待っていた。「祝杯?いやあ、まだシーズンがはじまったばかりなのにこればかりではのめません。ノンプロ(門鉄)に六年もいたから考え方も現実的になりましたよ。一本だけは持って帰ろうかな。オヤジにのんでもらう」といって大事そうにかかえた。「それがいいね。こんどはジャイアンツをのんでしまえ」と竹内マネがセンスのあることをいってけしかけた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

前田益穂

2016-11-13 12:58:30 | 日記
1963年

中日のダッグアウトはごったがえしていた。インタビューぎらいの杉浦監督も腕組みをしてアゴをぐいと突き出し、質問を受けて立っている。そんななかで前田だけはバットとグローブを片手にもって逃げじたく。「いいでしょう、一本打ったくらいで・・・」腕を引っぱられ、肩をおさえられた前田はしかたないという表情で向き直った。「まあね。高目のカーブでした。内角へきたから思い切って打ったというだけです」初球をねらったの?ヤマをかけたの?という質問にもそっけない。言葉に勢いがなく、からだもだるそうだった。だがこのからだのだるさが前田にとってはよかったという。「どうもからだの調子のいいときはダメなんだな。上体に力がはいりすぎてしまう。だから夏場になってバテ出すといい当たりが出るんですよ。きょう?ええちょっと・・・」はじめて笑って、やっと言葉にも調子が出てきた。「左にはだいたい強いんですよ。伊藤からもよく打っている。それに二人ストレートで歩いたあとだから、必ず投げ込んでくると思ってたよ」はじめははぐらかしていたのに、こんどは自分からしゃべり出す。足木マネジャーの「早くバスに乗って・・・」という言葉も無視した。「いままではバットを立てて構えていたんだけど、ボールから目がはなれるので、ちょっとねかすようにしてみたんだ。それがいいのか悪いのかわからんけど・・・」第2号ホームラン。だが四月十五日の国鉄戦につづいて二本目の決勝ホーマーだ。杉浦監督は勝負強さにおいては、この前田を一番に推している。しかし自分でもまだものたりないという。「もっとコンスタントに打たなくちゃ。いいときに大きいのが一発出ているだけだものね」前田がバスに乗り込むと、雨が激しく降っていた。それをみながら「ああよかった。中止にならなくて・・。これは巨人さんの涙雨かな」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トニー・ロイ

2016-11-13 10:38:49 | 日記
1963年

ロイの口元に、二、三本マイクが突き出された。
ー満塁ホーマーを打った感じは?

「満塁ホーマーはこれまで何度もある。それよりチームが勝てたことの方がうれしい」
ーどんな球だった?
「シンカーだ。少し高かったようだね」
ーきょうはだいぶ寒かったがプレーに響かなかったか?
「寒さなんか関係ないよ。暖かくても打てないときもあるしパーマもそろそろ打ちはじめるよ」と、この日無安打の仲間のことも忘れない。「ヒット一本打てば勝てるんだからね、本塁打よりそれをねらったんだ。チームの勝利以外考える必要がないよ」というロイの打球は文句のない本塁打。バック・スクリーン横の中段だった。ロイがなんとなく落ちつかないのはサヨナラ・ホーマーの興奮のためではない。若生投手の姿が見えないからだ。若生がバスにのっていることを聞いて安心したのか「まだ百五十分の二を消化しただけだ。これからいつも三人のうち一人がヒーローに首を突っ込むよ」ロイの肩を軽くたたいてバスに足を運ぶウィルソンは、軽くウインクしながら自信ありげにそういった。ロイの家は、若生が福岡で経営するホテル。若生の長女いずみちゃん(一つ)とすごく仲がいい。七日夜小倉にきて以来、玉木マネジャーと顔をあわせるたびに「彼女に会いたい。早く福岡へ帰ろう」と困らせるそうだが、理由は彼女とツイストが踊れるから。「きょうは彼女におみやげができた。早く帰って、すきな日本酒を飲んで、彼女とツイストを踊るんだ」といいながら、ファンをかき分けてバスに乗った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤井栄治

2016-11-13 10:29:15 | 日記
1962年

ロッカーへ帰ってきた藤井に若手の連中が声をかけた。そのロッカーはレギュラー・クラス用のロッカーの奥、若手選手のたまりという感じだ。横地がニヤニヤしながらいった。「火の出るような当たりだったな」逆転打になった藤井のタイムリーはワン・バウンドで前進守備の須藤の頭を抜いた第一級のヒットとはおせじにもいえないもの。「エヘヘヘ」とテレくさそうに笑いながら藤井は説明。「無死二、三塁だったでしょう。外野フライを打てればと思っていたんです。それが打ったら内野ゴロ、会心の当たりなんていばられへんわ。いくらあつかましくてもね。ストレートだったと思います。ようわからへん。インパクトのときにやけくそみたいにパッと力を入れたのがよかったんでしょう」歯切れの悪いいい方で、口のなかでモグモグ。ハデさなどツメのアカほどもない選手だ。「打ったときはこれはとられたと思いましてん。しかし走っていると大きなバウンドで須藤の頭を越えたのがみえた。あんなときはなにも感じないものですわ。これで逆転したなんて感じはなんにもない。意識がなくなったみたいです。ボーッとしながら一塁へ走っただけです。中村はそう速いという感じはなかった。ただ2-1になってから高目のストレート二球ファウルして、なんだかいけそうな感じがしていましたけれど・・・」ニックネームを聞いたらはずかしそうな顔をして「それはだれかに聞いて下さい」と逃げ出した。同じルーキーの安藤に聞いたら「鉄仮面というんです。顔の感じが似てるでしょう。ぼくらは名前を呼んで鉄仮面とはいわないけど・・・」色が黒く、造作のいかつい藤井にピッタリのニックネーム。「とうとうバレたか。関大のときにつけられましてね。ぼくにはうれしくない呼び名ですよ」という藤井に横から櫟コーチが「いいアダ名じゃないか。鉄仮面のごとく強くたくましい選手になればいい」と妙なほめ方をした。藤井はニヤニヤしながら下を向いていた。「村瀬はどうしたんだろう。なんだかいつもの元気がないようやった。くさらずにがんばれといっておいてくれませんか」と一人になった藤井は、関大時代の二年後輩、巨人の村瀬のことを心配していた。趣味はなにもない。ヒマなときは寝ころんで野球の放送を聞いているのが一番いいというあくまで地味な存在だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする