プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

宮崎昭二

2016-11-20 13:24:49 | 日記
1964年

今でこそ昔陸軍プロ野球なんていわれるほどプロ野球選手は時代の花形あつかいされているが、その揺繁期には職業野球など浮いた水商売と見られ、親兄弟こぞって反対されたものだという。ところが近ごろではわが子のプロ野球入りを奨励し、もしスカウトたちが門前、市をなせばわが一門の名誉と誇りと思うのがジョーシキ。世の中も変わったものである。しかしわが子をプロへ入れたがる親にもいろいろあって、金の卵を産んだ親鶏よろしく、もっぱらソロバン勘定に熱心なお人もいれば、もう野球ときたら三度のオマンマよりも好き、一目見たい絆のユニホーム姿・・・といった純粋な愛球家計もいる。この宮崎昭二投手の父親などこのカテゴリーにはいる野球狂にシンニュウをかけたくらいのマニアで、宮崎クン、オギャと産声をあげたとたんから、ウォーミング・アップをやらされたという。まさかそれほどでもなかったろうが小学校から中学と、近くの広場での厳しい父さんコーチは続き、やがて鹿島高のエースを育てあげた。「東映入りの時も、母を初め家族はオール反対でしたが、父だけ大賛成で男ならやってみろというわけなんです。今でもテレビや新聞で詳しく情報を集めて、近ごろホームラン製造が多過ぎるぞとか手紙でいってくるんですよ」マン・ツー・マン・コーチがついていちゃ宮崎投手、がん張らにゃア。「野球教育といったってなにも野球ばかりやっていたわけじゃありません。中学時代は基礎体力をつくれという父のすすめで、バスケット、バレーボール、有明海のそばでしたから水泳、陸上競技、それに相撲は誰にも負けませんでした」これじゃスポーツ十八戦、万能選手じゃないの。バネのきいた伸び伸びした1メートル75の恵まれたからだはこうしてつくられたものだ。目下、4勝3敗、巧みなコントロールの持ち主で東映の数少ないリリーフ投手として重宝がられている宮崎投手だが、目下いささか悩んでいることがある。それはシュートやカーブの変化球の投げ過ぎで、右肘の関節のところに軟骨が出来てシクシク痛むことである。焼とりのナンコツなら食べてしまえばいいが、肘の場合ではそうもいかず、マウンドに上がっても五、六回は快調なピッチングを続けられるが、長く投げているとうずきだすというから全くやっかいなシロモノだ。「今、多田コーチのすすめで熱いお灸をすえたり、マッサージしたり、なんとかサッパリしようと努力しているんですが・・・湿度の高い梅雨時が最低で、これからカラリとした秋晴れが続けはじめたものなんです」同じようなリリーフ役で変化球専門、肘を痛めた巨人の宮田投手のキモチがよくわかるという。「ピッチングのほうは4勝をあげた去年が、ただ無我夢中でスピードのある球をほうろうとしていたのと比べて、ことしは低目にカーブをコントロール出来るようになりましたから、防御率のほうはよくなったと思うんですが・・・リリーフ投手というのはいつなんどきでも緊急発進OKの態勢をととのえていなければなりませんからネ」プロ入り三年目。二十一歳の前途有望の新鋭投手、監督やナインに信用され、東映に不可欠の選手になりたいというのが念願だそうである。バッテリーを組む捕手をえり好みしてはいけないのだが、やはりベテランの安藤順三捕手に球をとってもらうのが最高で、心おきなく自分のピッチングが出来る。「苦手なのは青い目の外人選手、だから外人のいっぱいいる西鉄にはヨワイ・・・」ことに平和台の西鉄がいやなのは理由がある。鹿島高のエース時代、九州地区大会で平和台に駒を進め、筑紫高と対戦した折、不調でKO負けして以来、平和台恐怖症にかかったものらしい。度胸がなくては火消し役はつとまらないから、どんなピンチにマウンドを立たされてもガタつくことはないが、日常は万時控え目なほう。いでたちにしても城の開襟シャツに濃紺のズボンといった地味好み、どうもケバケバしたアロハのごときものは性にあわないものらしい。ニック・ネームはもやしという余りありがたくない名前をつけられているが、名付け親は不明。細くヒョロヒョロと伸びている印象からつけられたものと推察されるがビタミンもたっぷりあるもやしにあやかって東映強化のためのビタミン的存在になってもらいたい。あだ名につきあったせいでもなかろうが食事にしても菜食主義。なかんずく野菜サラダは毎日絶対いただかないと血の回りがおかしくなる。海辺育ちのくせに魚がきらいというのも不思議な話だが、紺屋の白バカマとでも解釈しておこうか。目下、ほしいものは何か、と聞けば、「なんにもいらないけど、勝星をもっとふやしたいだけ」今度移った多摩川の新合宿では、一度足をもらっているが交通不便なのが困るという。「ことしはもっとがん張って好成績をあげ、シーズン・オフにはまだ行ったことのない北海道へ行ってみようと計画を立てています。そのためにもがん張らなくちゃ」さすった腰のあたりには、お父さんから送られた郷里の祐徳稲荷のお守りがしまってある。
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田辺修

2016-11-20 07:52:45 | 日記
1970年

巨人戦用に育ってきた、というより巨人をカモにしている。これで九試合目。負けなしの3勝だ。中日首脳陣にとって、実に三年ぶりのこのカードの完封勝利。首脳陣をはじめナインが「ほんとによくやった。いったいどうなっているんだ」というのも実感だろう。よほど疲れたらしい。「最後まで気が抜けなかった。ただ無心で投げただけ。完封なんて夢にも思っていなかった」ヒタイからシャワーを浴びたように汗がこぼれ落ちる。「審判が高めの球をとってくれたので助かった。外野へフライをポンポン飛ばされていたので、いつかホームランを打たれるのではないかと思っていた」マウンドでは余裕がぜんぜんなかったと告白する。捕手の木俣が「ポイントだった」と見ている六回表満塁のピンチ、二死ながらコントロールが思うようにならなくなった。「森さんの一ゴロは内角のストレートだった。ボールがまるで死んでいた。それがかえってよかったみたいだ。ボールはやや沈んだ。そして森さんは変なふうにひっかけてくれた」(木俣)というから、運もよかった。田辺も「ストライクをとりにいった球だった。本当に助かった」と、冷や汗の場面を思い起こしてニガ笑い。そんなだから巨人打線をふりかえる余裕はまるでない。「巨人打線のことなどまるでわかりません。給料からいったらONには百%ヒットを打たれておかしくはない。でも、つとめてそういった意識をもたないように、ただ無心で投げただけ」と笑った。これで防御率は1・87とはねあがり、大洋の平松を抜いて第二位。「野球は水もの。いつめった打ちにされるかわからない。そんなことどうでもいい。ことしこんなに勝てるとは思っていなかったしね。もうどうでもいい」いまや完全に中日の柱になりきっている田辺だが、昨年まで近鉄のウエスタンでまるでうだつがあがらない男。急に別の世界にはいってきて、すべてにどまどっているような感じである。
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