1970年
水原監督も大島コーチも驚きを通り越し、ただただあきれるばかりだった。「きょうはヤツのひとり舞台。打って守ってシャットアウトときたんだからいうことなしだ。うんとほめてやってくれ」と水原監督。首脳陣がたまげたのも無理はなかった。昨年暮れヤクルトを自由契約になり、一度はユニホームをぬいだ男。しかもことし中日に拾われたあと、右肩痛を再発させ、キャンプではピッチングのピの字も出来ない状態だった。それがこの夜、初先発し、六安打の完封勝利。四十一年七月三十一日の大洋戦以来実に四年ぶりの完封勝ちだ。勝ち星の方も四十三年九月十日の対中日戦以来約二年ぶりと久しい。さらにもう一つ監督をあきれさせたことが重なっている。「きょういってくれるか」と試合前監督から先発の意向を打診された際「まだちょっと・・・。かんべんしてくださいよ」と一度は断っている。まるで地震がなさそうだった。それが「いけるところまででいいんだ。いってくれ」という監督の苦しい胸のうちをちょっぴりみせられて引きうけたマウンドで大活躍。試合後、いきなり出てきた感想が変わっていた。「ぼくは不思議な男。ウエスタンへ行くとウエスタンなりの投球をするのに、一軍へくると一軍の投球が出来る」わかったようなわからないような振り返り方。しかし、そんなムードに酔っているような感だけでなくちゃんと計算された内容もあった。「このつぎまた使いたいのでどんな球かいえないが、一球だけ自信を持って投げられる球があった。(村山監督は「フォークボールだろう」と見ていた)その球は不利なカウントからも平気で投げられた。それがきいたんだと思う。阪神はむかしと変わっていない」いまから四、五年前のサンケイ(現ヤクルト)時代、佐藤は阪神キラーという異名をほしいままにしていた。プロ入り通算49勝のうち13勝までが対阪神からの勝ち星だ。おっかなびっくりであがったマウンドだったが、投げる方も往年の自信がよみがえってきて、気がついたら完封勝ちしていたということらしい。打の方でも決勝の右中間タイムリー二塁打。「ちょっとヘッドアップ気味だったが、外角やや真ん中寄りへはいってきた」と投手らしからぬことば。こんな人をくったような男だったが、最終打席、カークランドの打球が中堅中のグローブに吸い込まれた瞬間、マウンドで二度とびあがり、涙をボロボロこぼしてよろこんでいた。
水原監督も大島コーチも驚きを通り越し、ただただあきれるばかりだった。「きょうはヤツのひとり舞台。打って守ってシャットアウトときたんだからいうことなしだ。うんとほめてやってくれ」と水原監督。首脳陣がたまげたのも無理はなかった。昨年暮れヤクルトを自由契約になり、一度はユニホームをぬいだ男。しかもことし中日に拾われたあと、右肩痛を再発させ、キャンプではピッチングのピの字も出来ない状態だった。それがこの夜、初先発し、六安打の完封勝利。四十一年七月三十一日の大洋戦以来実に四年ぶりの完封勝ちだ。勝ち星の方も四十三年九月十日の対中日戦以来約二年ぶりと久しい。さらにもう一つ監督をあきれさせたことが重なっている。「きょういってくれるか」と試合前監督から先発の意向を打診された際「まだちょっと・・・。かんべんしてくださいよ」と一度は断っている。まるで地震がなさそうだった。それが「いけるところまででいいんだ。いってくれ」という監督の苦しい胸のうちをちょっぴりみせられて引きうけたマウンドで大活躍。試合後、いきなり出てきた感想が変わっていた。「ぼくは不思議な男。ウエスタンへ行くとウエスタンなりの投球をするのに、一軍へくると一軍の投球が出来る」わかったようなわからないような振り返り方。しかし、そんなムードに酔っているような感だけでなくちゃんと計算された内容もあった。「このつぎまた使いたいのでどんな球かいえないが、一球だけ自信を持って投げられる球があった。(村山監督は「フォークボールだろう」と見ていた)その球は不利なカウントからも平気で投げられた。それがきいたんだと思う。阪神はむかしと変わっていない」いまから四、五年前のサンケイ(現ヤクルト)時代、佐藤は阪神キラーという異名をほしいままにしていた。プロ入り通算49勝のうち13勝までが対阪神からの勝ち星だ。おっかなびっくりであがったマウンドだったが、投げる方も往年の自信がよみがえってきて、気がついたら完封勝ちしていたということらしい。打の方でも決勝の右中間タイムリー二塁打。「ちょっとヘッドアップ気味だったが、外角やや真ん中寄りへはいってきた」と投手らしからぬことば。こんな人をくったような男だったが、最終打席、カークランドの打球が中堅中のグローブに吸い込まれた瞬間、マウンドで二度とびあがり、涙をボロボロこぼしてよろこんでいた。