プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

佐藤進

2016-11-21 21:01:02 | 日記
1970年

水原監督も大島コーチも驚きを通り越し、ただただあきれるばかりだった。「きょうはヤツのひとり舞台。打って守ってシャットアウトときたんだからいうことなしだ。うんとほめてやってくれ」と水原監督。首脳陣がたまげたのも無理はなかった。昨年暮れヤクルトを自由契約になり、一度はユニホームをぬいだ男。しかもことし中日に拾われたあと、右肩痛を再発させ、キャンプではピッチングのピの字も出来ない状態だった。それがこの夜、初先発し、六安打の完封勝利。四十一年七月三十一日の大洋戦以来実に四年ぶりの完封勝ちだ。勝ち星の方も四十三年九月十日の対中日戦以来約二年ぶりと久しい。さらにもう一つ監督をあきれさせたことが重なっている。「きょういってくれるか」と試合前監督から先発の意向を打診された際「まだちょっと・・・。かんべんしてくださいよ」と一度は断っている。まるで地震がなさそうだった。それが「いけるところまででいいんだ。いってくれ」という監督の苦しい胸のうちをちょっぴりみせられて引きうけたマウンドで大活躍。試合後、いきなり出てきた感想が変わっていた。「ぼくは不思議な男。ウエスタンへ行くとウエスタンなりの投球をするのに、一軍へくると一軍の投球が出来る」わかったようなわからないような振り返り方。しかし、そんなムードに酔っているような感だけでなくちゃんと計算された内容もあった。「このつぎまた使いたいのでどんな球かいえないが、一球だけ自信を持って投げられる球があった。(村山監督は「フォークボールだろう」と見ていた)その球は不利なカウントからも平気で投げられた。それがきいたんだと思う。阪神はむかしと変わっていない」いまから四、五年前のサンケイ(現ヤクルト)時代、佐藤は阪神キラーという異名をほしいままにしていた。プロ入り通算49勝のうち13勝までが対阪神からの勝ち星だ。おっかなびっくりであがったマウンドだったが、投げる方も往年の自信がよみがえってきて、気がついたら完封勝ちしていたということらしい。打の方でも決勝の右中間タイムリー二塁打。「ちょっとヘッドアップ気味だったが、外角やや真ん中寄りへはいってきた」と投手らしからぬことば。こんな人をくったような男だったが、最終打席、カークランドの打球が中堅中のグローブに吸い込まれた瞬間、マウンドで二度とびあがり、涙をボロボロこぼしてよろこんでいた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三沢今朝治

2016-11-21 20:44:05 | 日記
1967年

同点となったあとの九回一死三塁。三塁コーチ・ボックスから「代打・三沢」とつげた水原監督はそのままベンチまでトコトコ帰ってきた。三沢へアドバイスするためだった。「外野フライでいいんだぞ」何度もこう念を押されたそうだ。だが三沢はこのとき、十七日の対南海七回戦(大阪)で今シーズンの初ヒットを打ったときのことを思い出して、そうかたくなっていなかった。そのときも駒大の先輩萩原のつぎに代打で出たのだった。それに米田とは昨年一度顔をあわせ、中飛を打っている。こわいという印象はなかった。0-2から一球から振りした四球目。「内角高めのストレート。打ったとたんにはいると思った」(三沢)というサヨナラ・ホーマーが飛んでいった。打たれた米田が「こんなやられ方をしたのはあまり記憶にない」というほどの、みごとな一打。これはまだ三沢にとって、五年目でやっと出たプロ入り初アーチでもあった。「から振りしたのが低めのへんな球だったでしょう。だからつぎは高めにマトをしぼって持っていったんです」米田のフォークボールをへんな球とすましていう。後楽園より多摩川グラウンドにいる方がずっと多い選手なのだからムリもない。駒大時代は東部のスターだった。三年秋と四年春にはつづけて首位打者。四年秋も末次(中大ー巨人)とせり合って二点差で負けている。「もう入団五年目です。こんな場面がチョイチョイ出てこなくてはウソなんです」興奮はだんだんさめてくると、こんな反省もした。一昨年結婚し、昨年生まれた長女なおみちゃんはもう九ヶ月。東京・自由ヶ丘のアパートから通うときも、途中で合宿のマイクロ・バスに拾ってもらう質素な生活だ。「この調子でがんばってなんとかことしの暮れに給料をあげなくちゃ・・・」ネット裏でみていた大川オーナーは「いやあ、すばらしいホームランだった。りっぱりっぱ」とひとりで感激していた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする