プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

田辺修

2016-11-19 19:34:01 | 日記
1970年

谷沢の打球が中堅方向に舞いあがった瞬間、ベンチの一番うしろにいた田辺の顔に笑いが広がった。四十一年七月十五日以来、四年ぶり、中日へ移籍後、初の完封勝利だ・・・。しかし、三塁走者の中がホームへかけ抜けるところはもう見ていなかった。笑いをかみ殺し、クルッと振り返り、急ぎ足でロッカーへ飛び込んでいた。人一倍のテレ屋。ナインの祝福をまともに受けるのがはずかしかったのだろう。フロにもはいらず、ユニホーム姿のまま球場出口の方向へ足を向けたところ、ラジオのアナウンサーにつかまりインタビュー。それもそそくさと切りあげ、終始逃げ腰だった。受け答えの内容も「いや、運がよかったんですよ。だから完封できたんです」といったぐあいにあっさりしたもの。こんな中で「冷や汗もんでした」と、実感をこめて振り返っていたのが、八回無死一塁で代打近藤和を遊ゴロ併殺にうち取った場面。「外角カーブ」をうまくミートした近藤和の打球は、田辺の足元をゴロで抜け、中前へ達するかと思われたが、遊撃の一枝が二塁ベースの方向へスタートを切っていてあっさり併殺。「やられたと思った。しかし、うしろを振り向いたら一枝さんがいた」完封勝利のカー・ステレオをもらい、ますます顔を赤くした。「自動車をもっていないし、こんな高価なものを・・・。近鉄で完封勝利をあげたころは賞品など、なにもなかったです」これで9勝。中日では星野仙と並んで目下最多勝。「阪神の鎌田さんに近鉄時代より低めにボールが決まるようになったなといわれました。これがよくなった原因でしょうか」大洋の長田は前々から「どこかのダンシング・チームへでもいった方がいい。職業を間違えたんじゃないか」と、その変則投法に悪口?をいっていたが、この夜はまるで口なし。ダンサーに四安打完封負けでは、それも当然だろう。それにしても三十八年に柿本がエースにのしあがって以来、小川健(永久追放)を経て、この田辺まで、他のチームを整理同然で追われた投手が、中日で拾われると中心投手として活躍する、という妙な伝統?がつづいている。

八時の時報がボーンと鳴ったとき、試合は六回の表二死二塁というハイ・ペース。平松と田辺の速球比べがゲームをものすごい早さで引っ張っていった。二試合連続KOの平松は、見事に立直っていた。カミソリシュートはよみがえり、四回と六回に二死から木俣、江藤に二塁打を浴びたが、あとはガッチリ縮めてエースの貫録十分。投げ合う田辺も五回二死まで完全試合と一歩も引けをとらない。六回、二死からの重松の右中間二塁打も、つづく中塚を投ゴロ。八回終わって両投手とも三安打ずつと、全く互角のピッチングだった。大洋は九回無死から重松が中前安打し、突破口をつかみかけたが、中塚がバント失敗の三邪飛に倒れ、得点圏に進められなかったのがこたえた。中日もその裏同じように、トップの中が中前安打。江藤がうまく送ったところから両チームの明暗が分かれた。ミラーの三遊間の当たりは松岡が身をていして止めたが内野安打になって一死一、三塁。ここ十日間、勝ち星の味を忘れている平松にとって苦しい場面だ。木俣を敬遠して満塁策をとり、谷沢との勝負に出た。もう平松は得意のシュートを投げるより手はない。このシュートがやや高めに浮いた初球を果敢に打って出た谷沢も並みのルーキーではなかった。中堅やや左に高く飛球が上がったとき、もう中日のサヨナラ勝ちは決定的。中塚が必死に本塁送球を試みたが、快足の中が唯一の得点を本塁ベースにしるしていた。シュートとスライダーの揺さぶりで、大洋を四安打に押え込んだ田辺は、中日移籍後初完封をマーク。大洋は4連敗を喫し、好投の平松も貧打に泣いて3連敗。なお、一時間四十分の試合時間は今季最短。

水原監督「九回のバントの巧拙が明暗を分けた。田辺は非常によく投げてくれた。ここ一点のゲームで何度も勝ち星を落としているが、この夜は食いついていけば勝てるという執念を見せてくれた」

別当監督「平松はよく投げた。すっかり立ち直ったといっていいだろう。しかし、打たなければ勝てないよ。とくに中心打者の二、三、四番がノーヒットでは勝てません」
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鬼頭洋

2016-11-19 18:24:55 | 日記
1967年

「え?鬼頭?どんな投手だい」メンバー交換が終ったあと、阪神ベンチですっとんきょうな声をあげたのは後藤コーチ。プロ入り初登板が三年目の今シーズン六月十七日の巨人戦だから、新人と間違えるのもムリはない。大洋に入団してから毎年、ケガに悩まされる。ことしもそうだ。オープン戦で快調にとばし、十一イニング無失点で2連勝しながら、ツメを割って開幕までもつづかなかった。「あいつから気の弱さと故障をとれば大した投手になるだけの素質は十分持っているんだ」秋山コーチのことばが鬼頭のすべてを的確にあらわしている。一年目は左ヒジ痛に悩まされ、昨年は左ヒジ痛から制球難病を誘発して自信喪失。まるで方程式のようなきまりきったシーズンをおくった。今シーズンからその胸にはいつもライトブルーのマリアの像を浮きぼりさせたペンダントがさがっている。毎年ケガに悩まされ、自信を失いかけた鬼頭をみかねた友人の母親がくれたものだ。「それからはケガもなく自信らしいものがついてきたんです」という。それを立証したのは五度目の登板のこの試合。ボールがおもしろいように決まり、実にさっそうとしていた。二回の一死満塁のピンチも「不思議とビクビクしなかった」そうだ。六回二死満塁をあとにロッカーに走り込んできた目は、まるでウサギの目のように真っ赤だった。「きょうはボールが走っていたし、シュートがよくきれた。降板?なにかいけそうな気がしたけど、死球を出したでしょ。あそこが限界じゃないですか。きょうは打たれて元々の気持ちで投げたんです。ぼくには過去の実績が全然ありませんからね。これだけ投げられたのがうれしいんですよ」まるで新人のような答え。何回も期待を裏切られているだけに、首脳陣の感想も慎重だった。秋山コーチは「ボールが速いしナチュラルにスライドするストレートがいい。気の弱いのは欠点だが、ピンチに動揺しなくなったのはよかった。あと五試合くらいああいうピッチングをしてくれれば・・・」と、それでもホッとした表情。もし今シーズンツメの故障から再起できなければ、郷里愛知県桑名市の実家に荷物をまとめて帰る決心をしていただけに、鬼頭は「この日がくるのを何度夢にみただろう。とにかくこの初勝利ほどうれしいことはありません。こんどの目標は完投勝利。これからさっそく友人のおかあさんに初勝利を報告するんだ」とはねるように球場をあとにした。
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田辺修

2016-11-19 17:58:18 | 日記
1970年

「リキんじゃったよ。ひっかけてばかりいたな」と長島はなんども首をかしげてバスにのった。江夏(阪神)平松(大洋)のように球威のある投手にねじ伏せられたのなら、あきらめもつきやすい。だがいつか点がとれると期待しつつ、ズルズルとすべり落ちたような試合だった。それだけにくやしさもひとしおらしい。しかし試合前、先発田辺を予想した選手は、苦しそうな顔はしなかった。それまで十二打数六安打とカモにしていた黒江はこういった。「打てれば、どんなピッチング・フォームでも気にならないもんですよ、打てれば・・・」もっとも、ふるい立って打席にはいった黒江でさえ、ノーヒットで八回には代打と交代している。一日にはONが久しぶりのアベック・ホーマー。上向いた打棒をバックに今季最長ロードに出たやさきに、カチンと出ハナをくじかれたようなものだったろう。打の責任者荒川コーチも「ウーン」と考え込むようにいった。「カーブと落ちる球だったなあ。それほど振り回さずにミートしたはずなんだが、当たりがボヤーンという感じでね。後半はカーブにマトをしぼったのだけれど、バッターはストレートを意識していたようだ。やはりタイミングをはずされてしまったのかなあ」足をまっすぐ肩口まで上げ、投げる変型フォーム。ちょうど今春来日した大リーグSFジャイアンツのマリシャルに似たフォームから和製マリシャルという人もいる。長島もまっさきにこの変型を話題にしていた。「上げた足の下から顔が見えるようだ。あのギッコンバッタンした足はいやだよ」とフォームを気にして試合にのぞんだ結果も「あのフワフワッとした感じにやられちゃった。スピードがないのにタイミングがはずされちゃうんだ」

この日、巨人で唯一の複数安打を打った王の当たりも、本来の痛烈なあたりではない。王シフトの間を縫うようにして流し打ったのがヒットになり、思いきり引っぱったのは凡打になっている。巨人ナインでただひとり「タイミングがあった」という王でさえ引っぱりきれないところに、田辺の強さがのぞいているようだ。チャンスは二回二死二、三塁と六回の二死満塁。二回は打者が投手の高橋一でものにならず、六回はそれまで中堅後方に強い当たりをとばしていた森だった。ところが一塁真っ正面のゴロ。「フォークだよ。それまではよかったのに」といかにも残念そうな表情をしていた。いずれにせよ、チャンスになればピタリ止まる巨人打線は、直っていないことはたしかだ。九月十日の後楽園につづいて、巨人打線は田辺の変型フォームの前に、またもシャッポをぬいだ。「どうもウチはカーブが打てん」とぶぜんとした表情の川上監督。二ゲーム差に迫られたことよりも、こうも特定投手に押えられることに頭が痛いようだった。

木俣監督「はじめの1点ではものたりなかったが、木俣の2ラン・ホームランが六回に出て試合は決まった。田辺は八回、ONに打順が回ってくる前にランナーを出さなかったのがよかった」
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田辺修

2016-11-19 17:33:35 | 日記
1970年

一塁側ブルペンにいた大島コーチは気が気でなかったという。後半はブルペン投手のように背を向け、マウンドに向かって叫び続けた「落ちついて。低めへ投げろ」最後の打者バレンタインが見逃しの三振に倒れると、水原監督が真っ先にマウンドへかけのぼり、大島コーチがつづいた。今シーズン小川、伊藤久につぐ三人目の完投投手の誕生だ。大黒柱の小川を失い、非常事態がしかれている投手陣。それをあずかる大島コーチはうれしさのあまり「よく投げてくれた。スピードもあったしコントロールもよかった。連投で心配だったがほんとうによくがん張ってくれた」とロッカーの中をうろうろ歩き回っていた。「まぐれまぐれ。インコース寄りのシュートがよく決まったし、コントロールがよかった」田辺の方がむしろ落ちついていた。四十一年八月十七日の対東京(現ロッテ)十八回戦以来の完投勝利。「この前の完投勝ちはいつだったかすっかり忘れてしまった」と思い出せないのも仕方のないことだろう。この夜の先発は、「ローテーションからいくと、星野仙の番」(大島コーチ)だったが、二十二日に星野仙が左足に打球をぶつけ痛みがとれないため急に前夜リリーフに出た田辺に再びリリーフの役がまわった。それが五回まで三人ずつ、きれいに片づける完全試合ペース。「うすうす知っていました。だけどぼくの体力と実力ではできるとは思わなかったので、コースにていねいに投げました」大記録の楽しみも、六回先頭の後藤に中前へたたかれてのがし、そのうえ1点をとられて追いつかれたときは「ガクッとしてからだ中の力がぬけた」そうだ。それだけに七回の勝ち越し点は「これでまたいけるという気がしてきました」と顔をくずした。昨年近鉄を自由契約になり、中日に拾われるように入団。キャンプ中から「スピードはチーム一だ。なんとか一本立ちさせたい」と田辺の成長を夢見てきた水原監督の願いも、どうやらかなえられそうな気配になってきた。この三月には長男浩一君が誕生。毎日グラウンドでは、子供の話になるとからだを乗り出す親バカぶり。だが「赤ん坊が夜泣いてうるさくてねむれない」と名古屋で試合のあるときは、中村区向島の合宿に寝とまりして、コンディションの調整にはげむ気の使いようだった。「近鉄にいるときは、毎日毎日がもうなれっこになって、どうでもよいという投げやりな気があった。でも中日に移ってからは、ルーキーだというフレッシュな気持ちでやっているのがよいんでしょう。試合で投げることだけがうれしい」とひねた新人は目を縮めた。「さあ、あすからは大事な遠征。今夜はゆっくり休んでくれ」大島コーチはタカラものを扱うように、帰り支度をする田辺の肩をかかえていた。
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