プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

池沢義行

2016-11-12 17:35:02 | 日記
1963年

一塁コーチス・ボックスの川上監督がとびあがった。三回池沢の右越3ランが出たときだ。セ・リーグの左打者がヘビよりいやだという大洋・権藤のカーブの曲がりっぱなを池沢は気力で打った。もっとも川上監督にいわせると「みごとに打ったとはいえなかったな。いうなればやぶれかぶれで打ったのがホームランになったという感じだな」という。「肩口から真ん中寄りにはいってくるカーブ。力いっぱい振ったら、あまり手ごたえのないような妙な感じでとんだ。はいるかなと思って走ったんだが、一塁を越えたところでスタンドがワーッとわいた。ホームランになった。よかったなというのがそのときの実感ですよ。オープン戦ではじめてのホームランだし、ホームでオヤジ(川上監督)がいつものおこったような顔じゃなくニコニコして待っていてくれたし、いいものですよ」オムスビのような逆三角形の顔が笑っていた。もう一つ池沢にうれしいことがある。「いままで代打のときはよくヒットが出たが、スタメンにはいるとサッパリ。王さんらにひやかされてね。おいイケ、はじめからか、それじゃ2-0やといわれてくさっていたんですよ。これでみんなそんなことをいわなくなるでしょう」2-0とは二打数ノーヒット、それで交代という意味だ。大洋の先発が権藤と発表されたとき同じ右打者の坂崎が池沢のところにきて「ワーッ、イケよ、権藤だよ」といったそうだ。「ぼくも血の気が多い方でね。先発の左打者が権藤はいやでしようがないというのを聞くと、かえってこんちくしょう、打ってやるぞと思うんです。そんなときの方がよくヒットが出てね。代打のときもランナーがいればいるほど打てるんです」エレガント巨人の中でもっとも野性味にあふれた男、それだけに六回かぎりでベンチへさげられたときはガックリしたそうだ。「守備がまずいんでね。まだ信用がないんですよ。一試合全部出してもらえるようにならないとしかたないわ。しかしことしのオープン戦ではまだノーエラー、ノーポカです。きょうのホームランをチャンスに・・・。代打もいいけれどスタメンに出るようにならなきゃね」天知俊一氏は昨年春入団したときの池沢に左の長島というニックネームをつけたほどとてもかっている。「ことしは非常にしぶとくなった。一回には最後は三振したがファウル三つでねばりにねばった。左の権藤にあれだけねばれるところは進歩だ。気力がある点や坂崎や国松よりはるかにいい。五番として出しても、代打としても巨人の外野でもっとも頼もしい選手だね。池沢をレギュラーにはじめから使えば、坂崎、国松らが代打にまわって代打層が厚くなる」といっていた。池沢は五番、ライト池沢をめざして張り切っている。
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石川緑

2016-11-12 15:28:15 | 日記
1962年

石川(緑)はひとりでうつむいて歩いていた。その肩をつぎつぎにたたいていったのは中日の選手だった。「ミドリ、ナイス・ピッチング」去年までの同僚のお祝いだ。はじめは「フフフ・・・」とふくみ笑いをしていたが、しまいにはめんどうくさそうな声でいった。「やめろよ、オマエら敵同士なんだぜ。そんなにほめちゃいかん、いかん」ロッカーに落ちつくとやはり中日の話からはじめた。「中日にこれで3勝か。中日打線をよく知っているというけど、それはぼくの方が損なんや。フリー・バッティングで投げたぼくの球をみんな知りつくしているんだからな。でもピッチングはかえていない。オレ、ズボラだからな。阪神にきてかわったといえばよう走るようになったことぐらいかな」そして思い出したように一回いきなり中に打たれた場面を説明した。「第一球だからね。まさか打ってくるとは思わなかったな。なにげなく投げたんや。いい球やったな。しかし、あいつ(中)はいつも初球から打っていたな」だが七回一死までその一安打だけに押えた。「シュートがよかったのと低目低目ばかり攻めたのがきいた。ニュークはあの低目をよう打たんね」小山、村山、伊奈につづいてこの日入団が決定したばかりのバッキーまで握手する。藤本監督は最後にきてニヤッと笑った。「渡辺の予定だったんだが、カゼ気味だというので試合直前に代えたんだ」ニヤニヤしていた藤本監督が真剣な顔でまくしたてはじめたのはそれから十分後。「一部には藤本監督は小山、村山の試合以外は捨てているとか、ふたり以外で勝つともうけものという考えがあるなんていっているが・・・」といったとたんだ。「いったいだれがそういうことをいいはじめたんだ。第一、そんなことお客さんに失礼でしょうが。私はいつも五日前に先発をきめている。きょうも渡辺がカゼときいたとたん、頭の中の数字をくったんだ。対中日戦の成績は、小山、村山、渡辺。そのつぎがミドリなんだ。スコアラーの記録を私が一番よくみてるんだぜ。ヤマ感で試合を捨てるようなことは絶対いたしません。ただ小山、村山の出ないときは総合戦力が落ちるから、ときに奇想天外な手でマイナスされた戦力をカバーしなければならない。表面的にそんなことだけみて私が捨てると思われては大きな迷惑だ」そばでフロからあがった石川(緑)がからだをふきながらだまってきいていた。五十七歳。白髪をかきあげながら藤本監督はまるで二十代の若者のような熱っぽい口調だった。
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マイケル・ソロムコ

2016-11-12 14:20:25 | 日記
1962年

サヨナラ・ホーマーを打って帰ってきたソロムコはニコニコ笑っていたが、一番さきに抑えにいった村山の話では「マイケルは興奮しとったなあ。ホームを踏んでからは、わけのわからんことをわめいていた」そうだ。ナインにもみくちゃにされたソロムコはうれしさをかみ殺そうとする。表情がひきつってなかなかふだんの顔にならない。通路でバッタリ巨人の中村に会ってますます弱った顔になった。「この野郎」と中村はゲンコツをふり上げるかっこう。ソロムコは右手を上げて「アイム・ソーリー」とでもいいたそうな顔をしてロッカーへ逃げてしまった。ロッカーへ帰ってきてやっと実感がわいてきたのか「いい気持ちや」といい、ゆっくりベンチにすわった。外人の口から大阪弁がとび出すのは妙な感じだ。「きょうの中村はすごくよかった。七回三振したフォークボールはひざもとでぐーんと落ちてバットにかすらなかった。だから九回もミートしようと思って振ったらスタンドへはいったのでビックリした。打ったのは高目へはいってきたスライダーだった」ソロムコをとり巻く報道陣の輪の中へ、ヒョイと顔を突っ込んできたのが小山。「あれは大満貫やで、ヤク満や」とソロムコの肩をひとつポンとたたいた。ソロムコは「これだね」とマージャンパイをにぎるマネをして笑い出した。ソロムコはこれで十ホーマー、そのうち六本を巨人戦で打っている。しかもほとんど決勝ホーマーか同点ホーマーという貴重な一発。ジャイアンツ殺しのマイクというプロ・レスラーそこのけのニックネームをナインにつけられている。
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石川陽造

2016-11-12 13:46:09 | 日記
1963年

夏目漱石の坊ちゃんで知られた松山から、予讃線で約一時間高松へ向かって走ると、石川のふるさと伊予三島がある。「高松商には越境入学なんです」ダルマというニックネームどおりのいかつい顔をほころばせた。「オヤジが高松商出身なもので・・・」実父茂高さんは石川が五歳のとき病気でなくなったが、高松商時代は野球部に籍をおいた投手だった。その遺志をついだわけだ。高松商時代は三度甲子園に出場している。「印象に残っているのは昭和三十三年夏の四十回大会でベスト8に残ったことですかね」最上級生でエースだったが、作新学院に負けてくやし泣きをしたそうだ。それから立大を中退、東映入りと日の当る球歴を歩きつづけてきたが、昨年はまったくの不振だった。「キャンプ入りしたとき、自分でもよくこんな力でプロにはいったなと情けなくなるほど球がのびず、ストライクもはいらなかった。もちろんくさりましたよ」といい、すぐ「二軍でやっていては話にならないと思いましたが、イースタン・リーグにもベスト・ナインとか最優秀投手などというタイトルがあると聞いて、どうせやるならそれをとってやろうと思って・・・」と目を細めた。イースタンの最優秀投手、ベスト・ナイン。ねらったタイトルはピタリといとめた。「ことしのキャンプでは、コーチに認めてもらって早く一軍入りしたい、そればかりを考えていた」という。直球にのびが出たうえに、昨年からマスターした落ちる球に威力が出てきたのもプラスだった。石川は「直球が生きています。いまも直球とカーブでカウントをととのえて落ちる球で勝負している。でも直球にのびがなければこれだけ勝てなかったでしょう」と直球の効果を語っていた。大学二年に痛めた右ヒジも「たくさん投げるとにぶい疲れが残るが、もうなんともない。二日おきの登板だったら絶対ですよ」というまでになった。負けずぎらいな性格のなかに無欲が同居していて「目標なんて考えてもいなかった。だいいちこんなに勝てるとは思いませんでしたからね。ことしは新人のつもりでがむしゃらにやるだけです」と4勝目に自分でもびっくりしたようすだった。
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岡本凱孝

2016-11-12 12:19:58 | 日記
1963年

巨人の大橋が右足故障で休んでいるとき抜くのはいまだと思ったそうだ。同じ六大学出、同じポジション。大橋に対する闘争心は意外に強い。夜、床にはいってあれこれ考えてるうちに、いてもたってもいられなくなり、真夜中に起きてランニング、バット・スイングをくりかえしたこともある。大倉山の合宿のまわりは人家もまばら。警官に職務質問されたこともある。しかしそんなことはあまりしゃべりたがらない。「宣伝はいやですからね」と笑う。ファイターらしいきつい顔つきに似ず、神経はこまかい。いうことも控え目だ。心配されていたバッティングで二割九分二厘とかなりの好打率を残しているが「三割を打てなくてはなさけない。守備でも金田さんのすごい変化球をうけ切れるかどうか。根来さんに聞くと、金田さんはノー・サインのほうが多いそうじゃないですか。でも顔をみていると次になにを投げてくるかわかるというんだから・・・。打つだけでなく捕手はこういうことを早くのみ込まなければいけないと思う。これだけでも根来さんとは比べものにならない。だからぼくはもし一軍に入れてもらえたら根来さんの負担を少しでも軽くしてあげられたらと思ってるんです」ヒザが堅く、泳ぎがちになるのがバッティングの悪いクセ。コーチたちは「だからフォームが安定せずバットが振りきれないんだ。それでもこれだけの成績を残せるのだから楽しみの多い選手いはちがいないが・・・」という。岡本も「泳ぎグセは大学四年のときスライディングして痛めた右足をカバーしようとしているからでしょう。気の持ちようですぐなおりますよ」とあまり気にしていない。小山二軍監督の心配は別のところにある。「アベレージだけをみたらたしかに悪くない。だがいまの調子で一軍でも通用すると思ったら大きなまちがいだし、一軍入りには実力だけではなくプラス・アルファの力も手伝うことを忘れてはいけない」プラス・アルファというのは六大学出のスター・プレヤーというネーム・バリュー。それを自分の力だけで登用されたという考えになっては困るというわけだ。
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村田元一

2016-11-12 11:54:56 | 日記
1962年

村田がベンチへ帰ってきたときは異様なふんい気だった。村田はいつものポーカー・フェイスだったが、ナインの方でいやに気をつかっている。だれも声をかけるものがいない。しばらく間をおいて鵜飼が「ゲン、いいピッチングだったぞ」といって手を出したら、村田はうすら笑いを浮かべてにぎりかえした。それからは「ハード・ラック(不運だったぞ)」と「ナイス・ピッチング」という二種類の声がナインからつぎつぎと出た。村田が敗戦投手になったような錯覚を起こすほどだった。星山は「イレギュラーしたのか」と聞いても無言、さっさとベンチを出ていった。グルリと報道陣にかこまれた村田はベンチのイスにすわると、小さな声で「アーア」とタメ息をついた。万感こもごもというタメ息だった。「ああ、暑かった」といってから冷静に説明した。「外角のまっすぐを投げた。ちょっとスライドがかかっていたかな。それが西山のバットの先っぽに当った。そしてあの人の前でワン・バウンドしたんです。ベースのへんでね。イレギュラーしたって?どうですかね」たんたんという村田だが、星山をあの人という微妙な言葉で形容したのをみても、必ずしも心おだやかではなかったのだろう。国鉄のある選手は「あれはエラーですよ。ヒットなんて判定はひどい」とおこっていた。おかげで村田はパーフェクトどころかノーヒット・ノーランまで逃がしてしまった。「パーフェクトということはすぐわかっちゃった。いつも三回ごろまでにじゃんじゃん走者を出してはホームランをポカリと打たれてるぼくですからね。あれっ、きょうはランナーを出していないなとすぐ分かる」やっとトボケた。「おしかった、おしかった」という報道陣のコーラスに「ちょっとね。しようがないですよ。まあ勝ったからいいですよ」といってロッカーへ歩き出した。金田が待っていた。「ゲン、気を落とすな。まだこれからやれる、やれる」と大声をあげた。ちょっと会釈してロッカーへはいった村田はいった。「プロ野球初の1勝のときも五回だったかに一本打たれてね。相手は大洋だった。五年くらい前の話ですよ。三度目にはやれるかな」真っ赤なバスタオルを巻きつけてフロから出てきた村田は、いままでのマンポ・スタイルならぬチャコール・グレーの背広をきちんと着た。「あすは休みだし、きょうは飲むぞ。ヤケ酒かって?とんでもない。もちろん祝杯ですよ」
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高木喬

2016-11-12 11:37:54 | 日記
1963年

法大出。関根は大先輩である。この関根が四月十四日の対東映ダブルヘッダーで、第一試合に決勝ホーマー、第二試合が逆転2ランしたとき、ネット裏にいて心に誓った。「関根さんのような打者になることがぼくの夢だ。一日も早く追いつきたい。そして追い抜こう」近鉄は十四日現在、首位打者の土井(三割二分九厘)をはじめ打撃ベスト・テンに四人が並び、チーム打率も二割七分八厘でセ・パ両リーグを通じてトップ。高木は答える。「研修期間がとけるのはもうすぐだ。だが少しでもミスをすればまたすぐファームへ落とされるだろう。ぼくのとりえは打力だ。六大学リーグで四番を打ったぼくだ。ちょっぴりだが自信がある。だがプロでは打てるだけではダメだ。走れなくてはね・・。ぼくの泣きどころは足のおそいことだ。オープン戦に出たときも別当さんにこわい顔をされた。少しでも速く走れるように、まず走って走り抜こう」久しぶりに雨のあがった十四日、藤井寺での練習のあとも、一塁ベースめがけて何度もダッシュをくり返した。その姿に目を細めながら、根本コーチがポツリといった。「表面はおとなしそうだが、根性があるやつや」五月二日、島原で行われた対阪神ウエスタン・オープン戦で左手親指を打撲、脱きゅうした。しかしそのあとも試合に出場。やっと休んだのは五月二十四日。「ムリをしているとバッティング・フォームをくずすから休め」と根本コーチにしかられたからだ。だがこの間もランニングは毎日たっぷり一時間つづけた。堺市に住む父親茂雄氏(56)は室内装飾専門の建築デザイナー。その一人むすこでめぐまれた環境に育った自分の性格を「うつり気でテレ屋」というが、野球だけは別らしい。「打球が左中間へ飛ぶのは体重を前へかけていたからだ。このため右手首が返らなかったんだが、この欠点も徐々に直ってきている。あとは走力とスローイングだけだ。バネがいいから走り込めば自然に速くなる。送球の方も高校時代投手をやっていたくらいだから強いはずだ。ただモーションがプロ向きになれば問題はない。打つコツもよく知っているから、研修期間さえすぎれば代打要員ですぐ通用する」根本コーチの採点は合格だ。
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須崎正明

2016-11-12 10:52:18 | 日記
1963年

ベースを一周してベンチに帰った関根はあらためて後輩たちの差し出す握手にこたえながら目はグラウンドに向けたままだった。ボックスには須崎がはいっていた。関根の紹介で信越電電から入団した新人だ。高校(都立多摩高)を卒業して渋谷でアルバイトをしていたところの主人が関根と友だちだった。「うまくすくったな。いい手首の使い方だ。なにかアドバイスしてやったかって?冗談じゃない。あんなにいいホームランを打つのに・・・」ぼくの2ランは内角ストレートと説明する前に関根は後輩をほめた。「カーブやスライダーでしょう。いい手ごたえでした。きっと杉浦さんは調子が悪かったのでしょう」と須崎。「須崎を入れるとき考えたんだ。ぼくのあとガマになってくれるかもしれないって・・・。足も速い。とはいってもまだまだ負けられないがね」関根と須崎は同じ左の外野手。ほっそりとしたからだつきまでよくにている。「関根さんのようにムリのないフォームでヒットを打つように早くなりたい。からだ(1㍍76、67㌔)も大きくないから長打をねらってもダメだと思う」研修選手の中でホームランは第一号。最後の打者野村の打ったウィニング・ボールを須崎は大事そうにズボンの左ポケットにしまい込んだ。「ぼくだって初めてホームランを打ったときはうれしかったな。まだ投手をしていたころだったけど・・・。須崎はきっと一生きょうのことは忘れないよ」関根は初めて報道陣に囲まれた須崎を自分のことのようにうれしそうにみていた。(須崎=二十三歳、左投左打)
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久保田治

2016-11-12 10:30:55 | 日記
1963年

「シュートがよかったね。このくらい落ちた」両手で50㌢ほどの間隔を示して捕手の安藤(順)はひょうきんに笑った。50㌢はオーバーだが、よく落ちた証拠はスコア・ブックにも正直に現れた。五本の安打を除けば外野飛球はたった三本。「当たりは本物だ」と試合前、本堂監督が太鼓判を押した大毎打線もほとんどが内野ゴロ。いつもはロッカーにはいって汗をぬぐってからインタビューに応ずる久保田が、この夜は珍しくすぐ話しだした。「オールスター前に10勝ライン」という目標を達成したのでそのサービス?かもしれない。「シュートがよかったですね。カーブはこの前の西鉄戦の方が切れた。捕手もそれを知っていて、スライダーのサインは一本も出なかったな」久保田は十一日の南海戦に投げる予定だった。「どうせ10勝あげるならぜひ南海戦でやろうとコンディションを調整した。前の日ブルペンで投げたらすごく調子がいい。これなら南海にお返しできるとひそかに祝福をあげていたら雨さ」大毎を完封しておきながら久保田は南海戦の雨のことばかり話した。「大毎は投げやすいかって?そうですね。田宮さんのところへくるとシュートが低目によく落ちたがあれで助かった」ボールがよく落ちたのは六日間も休養したため。「中二日の休みではよく落ちない。そのかわり休養十分のときはシュート一点張りですよ」南海と二ケタのゲーム差をつけられたことを久保田はズバリいった。「打ってくれなきゃね。防御率がウチで一番いい石川だって打たれちゃうんだから。それ以上打ち返してくれなきゃあ」だが南海とまだ十五ゲーム残っているのがいくらかの救いだという。ひまなときは父親ゆずりの墨絵をかき、ことしもコンブのだしで作った冷水を栄養剤にして、久保田は南海戦での腕だめしを楽しみにしている。
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高橋栄一郎

2016-11-12 09:49:29 | 日記
1963年

高橋は狭いベンチのなかをカメラマンのフラッシュから逃げて歩いた。口をきくのがめんどうくさいわけでもない。鶴岡監督や捕手の野村に手柄話を聞かれるのがはずかしいのだという。それほど高橋は気が弱く、テレやだ。ナインがひとり残らずロッカーにはいるのをたしかめてから高橋は女性のようにやさしい声でしゃべりだした。「ストレートがよかったです。東映はみんなこの速球にひっかかった。そしてぼくのねらいはズバリ当たった」試合前高橋は大沢にからかわれた。「栄ちゃん(高橋)ことしいくつや」高橋は答えた。「もう二十六歳」大沢は笑っていう。「もう子供があってもええ年や。気が弱すぎる。だから東映のやつらにヤジられる」高橋はこの大沢との会話のなかからこの日のピッチングにひとつのヒントを得た。「気が弱すぎるといわれたとき、ふと思った。東映はそれを計算に入れて攻めてくるのじゃないかとね。だからぼくははじめから強引に攻めていった。シュートをきめ、カーブを忘れて速い球で押したのはそのためだ。東映はたしかにあわてていた」しばらく話し続けると高橋は目をとじて考え込んだ。「苦しかった巨人時代のことを思い出したのか」という質問に、高橋は激しく首を振った。「いや違う。たしかにぼくはきょうの試合に勝った。だが五回に一点とられた。その場面を反省したんだ。安藤(元)に打たれた内角の速球、あの球にはのびがなかった。相手が投手だからかんたんに押えようとリキんでいたんだ」高橋お言葉はつづく。「もう巨人時代のことは忘れた。いや、これでさっぱり忘れられる。まだあのころのことにこだわっていたらこんなピッチングはできない」高橋ははっきりいった。昨年まで1勝もできなかった高橋が、ことしは南海のかせぎがしら。第一目標の5勝はとっくにあげた。
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河村保彦

2016-11-12 09:13:35 | 日記
1963年

河村はおよそ勝利投手らしくなかった。幕切れが一塁カバーにはいったため、巨人ベンチの前で中日ナインにかこまれ、それから加藤コーチと肩ならしのキャッチボール。顔色を青ざめ肩で盛んに息をした。「河村はヨウ、神経質ダナ、いかんのだワ」名古屋のファンの河村に対する評価はこれが圧倒的。切れ長の鋭い目、青白い顔がいっそうそういう感じをもたせるのだろう。この日もゲームの前にロッカーでじっとすわっていたと思うと、なんとなく浮きまわってキョロキョロと落ちつかない。同じ中日でも、権藤、柿本のあたりになると、芝居がはいるのでわからないが、河村のときは先発がすぐわかる。ゲームが終っても河村の顔はもうひとつさえなかった。6連勝の水をのんでもまだ苦しそうな表情。「こわい。やはり巨人が一番こわいです。苦しかった。こんなに苦しいのははじめてだ」先発はスターティング・メンバーの放送の寸前にいわれたそうだが、ロッカーでの表情を見るとちょっとあやしい。杉浦監督は登板の目にこういって送りだしたという。「いつも勝っているんじゃないか。ひとつくらい負けろや」杉浦監督も神経質な人なだけになかなか心得ている。やっと河村が落ちついたのは、水が背ぶくろのすみずみまでいきわたったころ。白い歯がこぼれ、冗談もとび出した。「6連勝?だめですよ。こんどは負けます。パンクします。いまのぼくなんて疲れタイヤみたいなものです。きょうなんか最低ですよ」ところが捕手江藤にきくとことし最高のピッチングという。最低と最高ではたいへんな違いだが、もうひとつ食い違っていたことがあった。立ち上がりから投げ続けていた、途中で落ちる球。江藤はフォークボールと説明したが、河村のはカーブ。「フォークボールは去年投げすぎて肩をこわしたので投げていない」そうだ。巨人ベンチでもフォークだ、スライダーだとまちまちの意見。フォークボールを魔球として売り出した元中日のエース杉下茂氏に聞いてみたら「フォークボールはあんなに回転しない。あれはカーブだ」と結論を出した。ベンチからバスまで逃げるようにして帰った河村は「こんどは負けますよ」といやに病しい声でいった。
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渡海昇二

2016-11-12 08:56:16 | 日記
1963年

一塁側ベンチからもっとも遠いところ(左翼)を守っていたのだからムリもないが、一番最後からトボトボと引きあげてきた。はでにたたかれるフラッシュにちょっと意外だといった表情。「いい当たりだったね。文句ないよ」待っていたナインからほめられてやっと口もとがゆるむ。「ゆるいカーブだったね。それも真ん中。監督さんに中途はんぱな打ち方だけはするなと注意されたんで、思い切って振ったんだ。カネさん(金田)からはことしはじめてのヒットだ。でも・・・」あとをにごしたのは、あれならだれでも打てるといいたかったらしい。それでも五回の満塁では代打に使ってもらいたくてずいぶん苦労したそうだ。「絶対右バッターが指名されるのはわかっていたから、ちょっとまわりをみまわしてみたんだ。そしたら三、四人はいるじゃないか。これはいけないと思ってバットをにぎったり、おおげさな体操をしてみせたり・・・。まあこんなデモンストレーションがきいたんでしょうね。ヘッヘッヘ」はじめて声を出して笑った。しかしこの日は別にもうひとつヒットを打ちたい理由があった。それは国鉄の根来捕手が「どうしてもオレの下においてやるんだ。そうしないとオレが心細くなる。だからきょうアイツが出てきたら徹底的にマークしてやるぞ」といっていたのをきいたからだ。打撃三十傑の二十九位が根来、ビリの三十位が渡海というのがその理由だ。「それならどうしても打ってやろうと思ったね。ビリじゃ情けないもの。でもゴロちゃん(根来)きっと頭にきただろうね。ぼくのヒットでゾロゾロ走者がかえってくるまで見せられちゃったんだからね」この三月、品川の下宿から渋谷に移転。心機一転をはかっていまコンディションは最高、調子も急上昇しているという。「からだが早く開きすぎるといわれた欠点も、もうだいぶなおったし、ゲームにもすっかり慣れたつもり。やはり目標は先発メンバーで出ることだな。まだまだ若いんだから、これからですね」自分で立てた見通しも明るい。川上監督もシーズン初めのころは「何試合か続けて出すと、もう疲れた、というらしいね」と苦笑していたが、このごろでは五番にすえる信頼ぶりだ。
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池田英俊

2016-11-12 08:40:26 | 日記
1963年

白石監督は顔をクシャクシャにして池田の完投勝利を喜んだ。「大石が疲労から右ヒジを痛め(筋肉炎)池田もヒジがだるいといっているし・・・。この中日戦では投げるヤツがいなかった」こんな事情にもかかわらず「いつも勝率を五割にしておきたい」という悲願をもっている白石監督が池田をムリに使ったのだから喜びも当然だ。「五日も休めば右ヒジもなんとかいうことをきくでしょう」と終了後池田は笑っていた。これで早くも今シーズン3勝目。昨年ノンプロ八幡製鉄から広島に入団、速球よりも変化球を得意としているため、プロでは通用しないだろうとウワサされたが、16勝16敗で大石についで貴重な存在となった。「きょうはぼくの持ち味を生かせなかった。カーブの切れが悪く、シュートでどうにか九回までもったようなもの。まあ、いいできとは決していえませんな。ほんとうに持ち味がなかった」持ち味を強調するあたり池田は技巧派であることを誇りにしているようだ。答えも落ちついたサビのある声で、まるでベテランの感じ。「マーシャルの本塁打?フォークボールのすっぽ抜けです。まったくヒヤ汗の出るピッチングだった。バックの好守にすくわれたんですよ」ここで色の黒い顔をニコッとさせてテレた。ニックネームとはインドのカラスもちろん顔の黒さから付けられたが、どうしてインドでなければならないのだろうか。「なんとなく哲学者の感じがするでしょう。ふだんも静かな生活を送っており、聖人のようなタイプだからな」と竹内マネは説明した。「右ヒジは明大時代にも一度痛めており、まあ慢性といえるでしょう」(福永トレーナー)ということ。「それをカバーしてこれだけのピッチングができるのだからそのへんのカラスとは全然違うよ」同じく色の濃い白石監督の目には、能あるタカにうつるとみえ相好をくずして池田をほめる。バスに乗る池田は「昨年、中日に3連敗しているので・・・」初めて勝利の喜びをかみしめた。
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