プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

石原碩夫

2019-04-26 22:08:53 | 日記
1962年

「石原がいいですね」ときりだしたら、多田コーチは「みなさん、そうおっしゃいます」とひとごとのように答えた。そうおっしゃいます・・・ではないものだ。石原碩を早くから高く買っていたのは、そもそも多田コーチ本人。昨シーズンの終わりがけにノンプロ東洋紡岩国から入団したとき「きっとものになるピッチャーだ」といっていた。今シーズンから安藤元投手が加わったが、それまで石原は東映ただひとりのアンダースロー。そこに石原の魅力があったわけだが、入団したときは、ただタマが速いというだけでまとまりがなかった。やっと使えるメドがついたのはシーズン終了間ぎわで、秋の阪神のオープン戦には、変型ピッチングでタイガース打線をさんざん悩ませた。ことしはなおいっそう成長したわけで、過日の紅白戦に登板したときは、当っている吉田、西園寺も手を焼き、左バッターで打ちやすいはずの張本も好打を奪えなかった。黒ブチのロイドメガネスラリとのびた長身。ちょっと見たところ野球選手タイプではない。そのへんの文学青年といった感じだが、自分でいうのもおかしいくらいシンが強く、負けずぎらいだそうである。「アンダースローは足腰が強くなければならないので、ことしのキャンプでは走って走りまくった」といっていた。そのせいかどうか「ことしは最高にスピードが乗ってきた」ということだ。石原の強みは高めの失投がないことである。ほとんどのタマが地をはうような低めのタマでストライクゾーンのぎりぎりいっぱいに飛びこむ。打っても好打が出ないし、ストライクと思って手をだすと、ボールになることが多い。これはアンダースロー独特のものだが、スピードが加わってこのタマがいっそう生きてきたといわれる。しかし本人は「カーブの力の切れをよくしないことには・・・」とドン欲である。多田コーチ、水原監督とも「ローテーションに加わるのは間違いない」と太鼓判。春のオープン戦には尾崎、吉田、宮崎らの新人投手のしめくくり役として使われるそうだ。身長1㍍77。秋山(大洋)についで岡山東高でプロに送りこんだふたりめのサブマリンである。

石原投手の話 まだとても自信をもつ段階でないが、最近登板するのが楽しい。オープン戦で一度相手をやっつければスカッとした気分になるかもしれない。自信のあるのはシンカー、もう少しカーブを鋭くしたい。何勝が目標などとてもとても・・・。一試合、一インニングでもたくさん登板させてもらうことです。

多田コーチの話 低めのタマはなかなかまとまりがあり、大きくくずれないだけの安定性が身についてきた。欲をいえばベルトから上のタマが浮きあがるようになることだ。第一線のローテーションに加わるとみている。
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松井尚男

2019-04-26 21:13:16 | 日記
1962年

松井外野手は国鉄へ入団が決定した。金田投手が入団の仲人役をつとめた。松井選手の父親秀男さん(65)と、金田の父親とはむかしからの友達だそうだ。太洋からもちょっと入団の話があったそうだが、松井クンは「金田さんのいるチームへ行きたい」と強く希望。国鉄球団は「すぐには使えないが、うちは左打者が少ないので採用した」といっている。
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角田満

2019-04-26 21:12:03 | 日記
1991年

日本ハムの角田満投手は、昨年までの勝ち星が0、0、4、0と通算で4勝。その角田投手が6月5日から11日までのわずか1週間で3勝も挙げる獅子奮迅の活躍ぶり。「いやあ~、ラッキーなだけですよ」と本人は謙そんするが、その3試合で11回2/3を投げてわずかに1失点と、内容はリッパ。決して運だけで挙げた勝ち星ではない。通算5勝がチーム最多なら、防御率2.09はリーグ4位に入る堂々の成績。今や日本ハムの貴重な守護神だ。国士舘大を1年で中退し、テスト入団した草魂児。夢の一軍昇格まで、あと一歩だ。
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角田満

2019-04-26 21:10:51 | 日記
1987年

大学中退ーテスト生ー入団。ちょっと変わった球歴をもつ日本ハム・角田満投手に、首脳陣の期待が高まっている。金山二軍投手コーチも「カベを乗り越えて、伸びてほしい選手」と、右の本格派に熱い視線をおくる。高校生になって、内野手から投手に転向した。「高校時代は何も誇れる記録もなかった」が、「体がしっかりしている」と国士舘大のセレクションに合格。折り悪しく角田が入部したとき、同大学に不祥事(野球特待生制度がアマチュア憲章に抵触)が起きて、同部は1年間の出場停止となった。「野球のうまい人はやめていくし、とにかく陽の当たる所で野球を続けたい」と大学を中退した。60年秋、日本ハムの入団テストを「友だちと2人で軽い気持ちで」受けに行った。合格しても、一年間は練習生扱いだったが、実力が認められ昨年秋、ようやく正式に入団。角田は「野球をできる喜びでいっぱいです」と生き生きしている。金山コーチは角田の今の状態を「赤ん坊でいう離乳期だよ」と説明する。「早くフォームを体で覚えて、投手として必要なこと(ケン制球やフィールディングなど)をマスターさせたい」と注文は多い。イースタン・リーグの試合には、6月の中旬以降登板していない。「体力作りが最優先」(金山コーチ)のためだ。角田も「毎夜、屈伸をしたりして下半身を鍛えています」とその注文に応えるべく、体づくりに余念がない。同じ苦しみを味わった大学の同級生と時々会う。「ディスコに行ったりして、あの頃の暗さはもうないです」休日は、合宿所近くの多摩川へ釣りに出かける。「のんびりできて、野球のことは考えない」少ない自分の時間を楽しんでいる。陽気な男ではあるが、「ピンチなのに笑顔で投げている」と最初、首脳陣のヒンシュクを買った。角田本人は「真剣に抑えようと投げてるんですけど…。でも、ビデオを見ると自分でも笑っているようにみえるんですよね」とこれには苦笑いだ。「まっすぐでグイグイ押せる投手になりたい」とキッパリ。金山コーチも「地肩が強いのが一番の魅力」というだけあって、球は速くて、重たいようだ。「阪急の佐藤さんのような投手」を目標に一生懸命、練習に取り組んでいる。
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山本勝則

2019-04-26 21:09:47 | 日記
1991年

初めて踏む東京ドームのマウンドが心地好かった。初めて浴びる3万の大観衆の視線にも快感だった。8月25日の対巨人戦。V6へまい進中の好調打線を散発の3安打、1失点に抑え、プロ入り5年目で初めて完投勝利を収めたのは西武・山本勝則投手。ちょっぴり遅咲きの感はある。2年目には米国教育リーグにも参加、140㌔台のスピードボールの切れには将来が嘱望された。しかし、その後ファームでも勝ち星なしと鳴かず飛ばず。今季自己最多の4勝と変身したのは「チェンジアップで緩急をつけられるようになった」からとか。「投壊」が進むレオ役の救世主№1候補といえよう。
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池永浩之

2019-04-26 21:06:51 | 日記
1962年

中西監督以下六十七人という球団はじめての大世帯となって、背番号のほうもぐんとふくれあがったが、そのどんじりが73番をつけた池永捕手である。加えて池永は無名の選手。しかもテスト生だ。そんな先入感から、おずおずしたところが感じられてしょうがなかった。しかし、話をしてみるとまったく逆で、明るい性格とファイト満々の好青年であることがわかった。「テスト生ということからひけめを感じるのは事実ですが、そのような気持ちをはやくぬぐい捨てたい。要は気の持ちようです。ぼくの背番号にしても考えようではありがたい番号です。というのはものごとを印象づけるのは最初と最後ということです。一番どんじりの73番をつけたぼくは、みんなからはやく覚えてもらえると思うのです」ことばづかいもはきはきとしている。池永は大学進学を希望していた。「福岡の大学へ入学して好きな野球をつづけようと思っていた。しかし同じやるなら思い切ってプロへ行こうと決心して西鉄のテストを受けた」そうだ。だがその決心をするのには何日も考え抜いたそうである。一番心配したのは「もしクビになったら…ということですね。しかし、そんなことを考えていたらプロのめしは食えません」ときっぱりいい切った。目標は「一日もはやくレギュラーになること」と、新人共通のことばだった。
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原正

2019-04-26 21:05:44 | 日記
1962年

きょう十五日は成人の日。西鉄ライオンズでは井上善、杉町ら十一人が成人式をあげるが、そのうちのひとり原は、昨年の暮れに香椎球場で行なわれた新人テストで選ばれた幸運児である。昭和十六年七月三日生まれで1㍍77という長身ではあるが、62㌔という体重は球団でも最軽量である。からだは決して恵まれたほうではないが集まったテスト生のなかでは左腕からの速球をビシビシと投げてめだった。「テスト生のなかから選手を拾うということは、なかなかむずかしいことだが、左腕投手ということもあって採用した」と藤本球団課長はいっている。福岡県黒木高校の出身。高校時代はもちろん硬式野球部の投手として活躍した。そして三十五年春に卒業して久留米市の三枝商事に就職した。そのころは身長も1㍍70前後で「プロ野球に選手のなろうとは思ってもいなかった」そうだ。いわば販売課の平凡なサラリーマン。ところがこの原にとって幸運だったのは会社の軟式野球部が、久留米市でも一、二という強チームであったことだ。チームのエースとして大活躍したことはいうまでもない。また一年間の社会人生活は、原を人間的にもずいぶんと成長させた。そんなある日、西鉄ライオンズの新人テストを知って受験する気になったそうだ。「幸運といえば幸運ですが、ぼくにとっては必死だった。生活のためですからね」それというのも実家が零細な農業で、しかも六人きょうだいの末っ子だからだそうだ。自活の道を開こうとする原の信念は強い。「なんとしても、注目される選手にならねば」と力強く語っていた。
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三宅孝彦

2019-04-26 21:04:19 | 日記
1962年

プロからの誘いは大毎球団だけ。投手陣総くずれでペナントレース第五位に転落した大毎は「なにがなんでもピッチャーの補強が第一だ」という方針から、三宅を補強したが、各球団スカウトは「スピードもなく、上背のないピッチャーのどこに魅力があるんだろう」と不思議がっていた。学校側もプロ入りには反対だったが、家族の方がのり気。
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佐藤護

2019-04-26 21:02:57 | 日記
1962年

つい最近、瑞穂球場で行なわれている愛知大学リーグ戦をみに阪急ブレーブスの丸尾スカウトが名古屋にやってきた。「佐藤のプレーをみて、これならプロでも通用する。安心しましたよ」数日前、名古屋市某所で丸尾スカウト、佐藤選手、学校関係者が会談。正式に阪急入団が決定した。同選手の守備は定評がある。高校時代から守備なら愛知県下ナンバーワンといわれ、すばらしいフットワーク、スマートな守備ぶりに人気があった。打っては高校、大学を通じ終始三番打者。早瀬のようにバッティングに馬力を持っていないが、シャープな打法を身につけ、どんな投手でも打てる安定した打力を示している。多数のノンプロから入社の誘いがあった。彼のプロ入りは家庭の事情からだ。早くから両親に死に分かれた。だが、佐藤選手にはそんな悲しい過去は少しもみられない。明朗で元気のいい青年である。球友たちは「野球選手よりも、映画俳優になった方がいい。よく町で高倉健とまちがえられる」というほどの好男子。上背もあり、脚力もあり、プロ選手としての素質はあるが、迫力を持たないのが彼の欠点といえる。プロ選手になるには根性と気力が大切。たくましさを身につけ、大成してもらいたいものだ。
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池末和隆

2019-04-26 20:47:46 | 日記
1990年

池末が本格的に試合でボールを握るのは、実質的には今年からといってもいい。過去2年間も試合に投げてはいたが、プロの水に慣れさせるためだけの登板という感じでコントロールの悪い荒れ球ピッチャーという印象が残っているだけに過ぎなかった。しかし、今年は、フォーク、カーブ、スライダー、シュートと球種も増やし、「ガッツだけはだれにも負けない」という持ち前の度胸のよさで、開幕して1ヶ月は毎試合のように登板して火消し役を務めるようになった。本人も「昨年までチームに迷惑をかけた分、中継ぎでも抑えでもなんでもいいから、2年分働きたい」と話すなど、意欲的なところを見せていた。ファーム首脳陣も、まず最初はリリーフ投手として自信をつけさせ、6月ごろには先発に起用して、完投能力をつけさせたいというプランを持っていた。30球以内の球をすべて全力投球できれば合格となるリリーフ投手を卒業させ、投球の組み立てやスタミナの配分に注意したり、ピッチングの幅を広げなければならない先発投手としての経験をさせようというわけだ。その原因は、上体に頼った投げ方だろう。胸幅も広く、ガッシリして、いかにも上半身が強そうな体つきをしているが、下半身の方がまだそれについてゆかず、投球フォームを見ても柔軟性に欠けている。そのため、投球の際、バックスイングでためた力が、ボールから離れたところで止まってしまって、フォロースルーまで持続できず、フォロースルーが取って付けたような感じに見える。そのような、上半身の力にまかせた投げ方の負担が腰に来る、と考えられる。これでは、長いペナントレースを乗り切ることはできない。そのために、首脳陣は現在、練習でもサードの守備位置から一塁までスローイングさせて、腕の振りを矯正させている。あとは、本人がどれだけ、その重要さを意識して頑張るか、だろう。ファームで実績を残し、すぐにも一軍へのチャンスを切り開きたいところだが、息の長い投手になるには、まずよいフォームを身につけること。そのためにも、体作りをじっくりと腰をすえて行ってほしいと思う。いずれにしても、プロ3年目の今年は、今後のプロ生活を占う上で、大事な一年になるはずである。
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下川満康

2019-04-26 09:18:50 | 日記
1965年

下川満康投手(22)は二十九日、家業(家具製造)に従事するため、任意引退選手として正式に退団した。
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