1992年
三年間の思い出多い日高高校中津分校ももうすぐ卒業、四月からはあこがれのプロ野球選手です。西武ライオンズには先輩の垣内さんもいるので色々と教えてもらおうと思っています。プロは実力だけが頼りの厳しい世界。得意球のスライダーをさらにみがき、現在135㌔の直球を140㌔を超すようにしたい。そのためにも、今年はランニング中心に下半身をじっくり鍛えようと思っています。目標は渡辺久信さんです。
1992年
三年間の思い出多い日高高校中津分校ももうすぐ卒業、四月からはあこがれのプロ野球選手です。西武ライオンズには先輩の垣内さんもいるので色々と教えてもらおうと思っています。プロは実力だけが頼りの厳しい世界。得意球のスライダーをさらにみがき、現在135㌔の直球を140㌔を超すようにしたい。そのためにも、今年はランニング中心に下半身をじっくり鍛えようと思っています。目標は渡辺久信さんです。
1990年
契約金4700万、60年春のセンバツ準優勝投手。準決勝までの4試合中、3試合は完封だった。筑波大では62年の神宮大会で東洋大、法大に1点勝ちして優勝。一躍有名になった。シュート、スライダー、カーブなど変化球投手。
1988年
ミノ。高校3年から投手に転向したばかり。それだけにまだまだ伸びる要素は十分。カーブ、スライダー、フォークに加えストレートも145㌔。元巨人江川タイプの声。
1990年
仮契約は、同校で午後三時から行われた。巨人から加藤克巳スカウト部長、城之内邦雄スカウトが出席。秋葉投手側からは本人をはじめ父親の定夫氏、母親の君江さん、同校野球部の矢内邑路監督が出迎えた。話し合いは、秋葉投手の強いプロ志向もありトントン拍子に進み、金銭面でも全く問題なくスンナリと決まった。城之内スカウトは「まだまだ体力は無いが、きつい練習も好きならがまんできる。一からのスタートとなるが、体が良く(187㌢、86㌔)将来性を買った。一軍のマウンドはなまやさしいものではないので、大学に行ったつもりで四年やって五年目に上がってきてくれれば」と、自らが発掘した金のタマゴの成長を期待している。秋葉投手は今年、関東で百三十人が受けた巨人の入団テストを受け、一人合格している。ドラフトまでの間にヤクルト、中日、西武、近鉄、ダイエーの各球団から入団の誘いを受け本人も指名を楽しみにしていたが、現実は厳しく6位までに指名されなかった。このため一時は悔しい思いをしたが、ドラフトの翌二十五日に巨人から「ドラフト外で欲しい。ドラフト指名者と同じ条件で取りたい」との連絡があり、「今年だめなら来年もう一度プロで」と考えていた矢先の朗報に、即入団OKとなった。秋葉投手は小学校四年生から千城台の少年野球チーム、リトルサウスで活躍。五年生の時には各チームから選抜された中の一人として千城台ジュニアに入り、中学の時は千葉東リトルシニアで一塁手としてレギュラーで頑張ってきた。千葉大宮高校に入り二年生の秋、矢内監督に素質を見込まれ投手に転向、今夏3回戦で敗れたもののチームを引っ張ってきた。千葉大会が終わってからも後輩たちとランニング、ウェートトレ、サーキット練習を積んでおり、矢内監督も「ピッチャー経験は少ないが、肩を酷使していない。まだまだ伸びる」と、太鼓判を押す。高吉文彦教頭も「在校生らみんながこれから自信を持てる。学校時代も希望が持て、活気づく。これからも頑張ってほしい」と励ました。秋葉投手は一月中旬からの新人特別練習に参加、さらにグアムキャンプ行きの可能性もある。城之内スカウトからは「パスポートも取っておくように」との期待を込めた言葉も贈られた。
1998年
昨シーズンの途中、上田監督に黒木が「社会人の後輩で僕より凄い球を投げるヤツがいますよ」と話したという。身長171㎝と小柄ながら打者に真っ向勝負を挑む本格派サウスポー。高校時代は最多の15三振を奪うなど全ての試合で各10個以上の三振を奪い、強豪ひしめく徳島県で注目を浴びた。常時140キロ以上を出す速球と切れ味鋭いカーブ。その度胸満点のピッチングをまずはじっくり見せてもらおう。
契約金6700万。徳島の生光学園時代は平均10個以上の三振をとったとか。社会人野球での実績は少ないが、球団はドラフトの隠しダマと大喜び。143キロの速球を持ち、真向から勝負する強気のピッチングが持ち味だ。将来に期待。
1999年
期待の左腕もやはりカベは厚かった。プロ初登板となった4月7日ロッテ戦(千葉)の8回、マリーンズ打線の猛功をまともに食らい、わずか1イニングで4点を献上している。一軍戦2試合で防御率22.50と信じられないような結果に終わったが、これもプロの打者から受けた厳しい洗礼。明るく前向きな性格、まず「太りやすい体質」の改善に努め、速球主体の生命線に磨きをかけたい。
2000年
負け試合の中でキラリと光ったのが昨年7月2日の西武戦(東京D)、その日ファームから上がったばかりの初マウンドだった。序盤で5点差をつけられた3回途中から先発KOのウィッテムを救援、6回までわずかに内野安打1本に抑える見事なピッチングが今も鮮やかに蘇ってくる。左腕投手がサイドから自信満々に投げ込む時、左打者にはかくも有効なのか、という事を改めて思い知らされた。太めだった体を絞り込んだ成果だろう。キレのいい腰の回転はコンスタントに140キロ台のスピードボールを産み、若さあふれるきっぷのいいピッチングは圧巻だった。ワンポイントは勿論、ロングリリーフをも十分にこなす原田の3年目が楽しみだ。
2001年
思わず左打者の腰が引けるようなサイドハンドから繰り出す落差の大きいカーブが持ち味だ。5月16日、17日のオリックス2連戦(神戸)ではその決め球でイチローを連続して空振り三振に仕留めるなど、序盤戦は6打席ノーヒットと完ぺきに封じ込んでいる。待望の左キラー誕生かとワクワクさせられたものだが、防御率1点台と安定していたサウスポーも一本のヒットをきっかけに輝きが薄らぎ始めた。5月24日、得意としていたイチローから7打席目にして浴びた初安打(適時二塁打)はショックだった。自らの存在をアピールできた偉大なる相手もついに米球界入り。まずは1回に1個のペースで与えていた四球の数(28)を減らすとともに、昨年チームトップの58試合登板の経験を活かして次なるターゲットを見つけたい。
2002年
一昨年日本ハムでは、中継ぎとしてチーム最多の58試合に登板しながら、昨年は登板機会に恵まれず非情の解雇通告。しかし、阪神の入団テストでは、サイドから打者の胸元に攻め込む投球に高評価。遠山二世として、高齢化が進む中継ぎ陣の救世主との期待が集まった。「古巣が後悔するような活躍がしたい」連投OKの若きタフネス左腕は熱く吼える。
1997年
高校3年夏の府大会決勝では、延長の末惜しくも敗れ甲子園出場はならなかった。直球に加えカーブ、スライダー、シュート、フォークと球種は多彩。フィールディング、けん制がうまく打者はタイミングがとりづらい。まずは体づくりから。