プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

林直明

2016-08-27 11:46:25 | 日記
1952年

「球から眼を離すな」ということは打撃のコツであるとともに「投手心得の第一条」でもある昨秋来日した大リーガー三投手ーエード・ロバットメル・パーネル、ボビー・シャンツがこれを実行していたが、特にシャンツは手もとから離れて行く球を追うように腰をすえて注視していたのが印象的であった。これを日本の投手にあてはめて見ると球を一番よく見ているのは大洋の林投手である、そしてまた身体全体を使い、特に腰の回転に気をつけ、コントロールを命に、無駄球を少なく、精進かけて投げている点、シャンツと林に通ずるものがある、ただ馬力が違うから球速の相違はあるが、短体を意識しての慎重な投法、多彩な変化球など、心がけに似たところがある。林は名選手を多数輩出している野球都市一宮の中学で四年から投手、卒業して兵役、廿一年名古屋ドラゴンズ入り、そして芽が出ないまま廿二年は第二リーグをめざして名乗りをあげた国民野球リーグのブレーブスに走って一年、そのブレーブスが当時の金星スターズと合体したため金星に移って一年、このとき「投球数七十三球」という新記録をつくり、ファンの注視を浴びた。交換移籍のシーズン中にロビンスへの移籍が実現、これが廿三年の夏であった。この年まで上手投専門で投げていたが、感ずるところあったらしく廿四年度のシーズンから横手投を加えるようになり、上手投時代のカーブを多投でに好投手とうたわれ十七年朝日に加入、その年卅二勝、防御率も第一位、十八年廿勝で第二位(惜しくも若くして戦死した)という名投手、その血をうけているだけに直明も熱心な練習でピッチングのコツとコントロールを身につけ、廿五年大洋入りして十一勝十二敗で十二位、廿六年は十六勝十一敗で八位、今年は十一勝九敗(27節まで)最も信頼できる投手の一人になってしまった。身長のないこと、体重の軽いことを考え登板した日から四五日は体力の回復に努めているようであるが懸命な方策である、試合中一番多く投げているのは横手投の直球であるが、この球は内角に行くと落ちるし、外角に投じると流れるのが特徴、この間にカーブを混投して打者の調子を乱している。武器としてはカーブもその一つであるが数が少ない、それよりも横からの変化する直球でコーナーぎりぎり、あるいは高低ストライクの限界点を衝いたり、打者の欠点を攻めている。最近スライダーの操作が巧くなり、上手、横手の両投法でかなり多投して成功しているしかしなんといっても体力がないから疲れると腰の回転が甘くなり棒球になって打たれているので「力の配分」を研究しスピードの不足をカバーしているのも適策である。現在投げている球質は変化する直球、シュート、カーブ、スライダーの四種であるが、速度、コースの変換を行っているのでかなり多種類の球になっている。

中沢さんはシャンツ投手とぼくとを比較していますが、まだまだシャンツ投手の足もとにも及びません。大体絶対的な武器をもたないんですから無造作に投げればすぐ打たれてしまいます、そこで一球、一球慎重に投げることに努めています、こうした点を多少とも中沢さんに認めていただけたのでしょう。球速Bは甘いですね、C程度ですよ、球にスピードのないのはぼくの一番大きな弱点です、ただコントロールには自信があります、ですから常に打者をバッター・イン・ザ・ホールに追いこむことをモットーとして投げているつもりです。一番自信のある球はサイドハンドから投げるシュート、これが良く決まる日は一応自分でも満足できる投球ができます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮崎一夫

2016-08-27 11:10:54 | 日記
1952年

オリオンズのスプリング・キャンプを見て来た人々が「毎日の企画は凄いよ、ピッチャーが廿人くらいいるぞ」と驚いていたがまさか十人も登録はしないだろう、さすればその大半は来年用か、あるいは「将来用」の新人とふんでいた。たしかにそのとおりで荒巻、野村、上野、山根、榎原、末吉、守田、稲垣と登録されたから今年はこのピッチング・スタッフで乗り切るのかと見ていたら・・・新人和田勇が早くも四月廿七日の対近鉄戦にデビューして初の勝星を挙げ、七月十二日の対近鉄戦にこれまた新人の宮崎一夫が初出場で一勝をかせいで投手陣に加わった。使えると眼をつけたのかその後、西鉄、西鉄、近鉄、大映と好調なチーム相手に登板すると五連勝してしまった。大分前のことであるが毎日陣営のある首脳に「宮崎はまだ使えないか?」と質したら「内野手みたいなきれいな球だからだめでしょう」という答であった、たしかに軽そうに見えるしきれいな球であるが、その宮崎が調子に乗ったとはいえ、強敵相手に五連勝したのはなぜだろう?わかりやすいたとえをひけば「なんの苦もなき水島の・・・」とかいう水鳥がすいすいと軽く泳ぐ裏には、水かきで水をかいている労力がひそんでいるように一見きれいで打ちいい球に評価される宮崎の上手投速球には「スライド」させている苦心がひそんでいるのである。開成高ーコロンビアを通じて投手生活五年、オリオンズに入って二軍投手、これが宮崎の球歴である、大きな舞台もふんでいないし、大試合の経験もないわけであるが、多少でも「投手術」なり「試合の処理」を覚えたとすればコロムビアにいた一年間であったと思う。正銘のオーバー・スローは相当の速さを持っているから、スライダーにはもって来いの球質である、身体全体が柔軟で腰がいいからシュートにも向く投法が出来るのである。若いのに試合前のウォーミング・アップは短くていいらしい、ただしブルペンでの練習は中々長く力を入れている。試合中一番多く投げている球は、直速球のスライダー、ほとんど直球に見えているが、一球、一球スライドがかかっているから相当老巧なバッターまでミートをはずされている、そしてウイニング・ショットはスピードの乗ったシュートを使っている。スライダーとシュート、打者から見れば正反対の回転、流れを見せる球質、これを大胆に投げ込み、時々カーブを交ぜている、投法も球質もいいが、なんといっても投手経験が浅い、まず投手守備が弱いし、投手としての処理、対策を覚えこまねばならない。現在の「カーブ」のきれがよくなるように努めているらしいが、これが身につくと、スライダーもシュートも、もっと生きて来るに違いない。また首を振る癖があるのでその矯正にも努めているらしいが長所としては、強敵相手の登板にさっそうとしかも楽し気にやっていることだと思う、大成する一人としてその研究と努力に期待したい。

宮崎投手 「正銘のオーバースロー」に違いありませんがもとは正銘の横手投の投手だったんです、開成中学の五年生のとき当時新田建設(今の明治座)にいた宮下さん(現在パ・リーグ二軍審判)がそれでは肘をこわすから上手投に変えた方がいいといわれその時以来上手から投げています事実その当時僕のピッチングは横からのシュート一点張りで、このためいつもかすかながら肘に痛みを感じていました、しかしオーバースローに変えてからはそれもなくなり投げているうちにコツをのみこんだのがスライダーです、これに上、横手からのシュートとカーブを交えて投げているわけですが調子のよいときには直球よりもシュートやスライダーの方がスピードが出るんですよ、そのうちに中沢さんのいわれたようにカーブの切れをよくしてシュート、スライダーを有効に生かしたいと思います、肩のつかれなどどこのごろほとんど感じません、むしろ毎日投げないと調子が狂ってしまうくらいでウォーミング・アップも人の倍近くやる方が僕にはいいんです、首をふるのは悪いクセですよ、スピードが殺されますからね、このクセとフィールディング、それとカーブ、僕の宿題は山ほどあります、ただ試合度胸Bというのは少し変ですね、僕は相当心臓がつよいはずなんですが・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡本教平

2016-08-26 21:56:19 | 日記
1955年

昨夏の都市対抗に準完全試合を遂げ名をあげた川崎トキコのエース。彼が生まれた静岡県掛川市は桜井寅(慶)関原(慶)高塚(慶)荒川宗(早)らを出している野球の盛んな土地で、彼は小学校六年のときすでに現トキコ稲葉(旧姓高塚)監督の眼にとまり、数年後には掛川西高のピカ一選手、二十七年稲葉氏の世話でトキコに入社した。以来彼は目立った戦績は残していなかったが、昨夏都市対抗予選から急にめざましい活躍をはじめた。川崎市代表を決する予選では対コロムビア戦に完投、シャットアウトして許しに安打わずかに4本、本大会の後楽園では一回戦は不戦勝、二回戦に鐘紡化学に対戦、与えた四球1、しかも無安打無得点の準完全試合を記録した。二回目河田にカウント2-3から四球を与えなかったらパーフェクト・ゲームになったわけである。しかもこの日外野に飛んだ打球はたった二個で、コントロールのいいシュートといいカーブといい、申し分のないピッチングであった。こうして川崎トキコは予選以来四試合を通じ相手に三塁を踏ませぬという好調ぶりで選手権三位を獲得したわけである。彼のピッチングを解剖して見ると投球は横手投げぎみ、球速は普通で一見平凡に見えるが案外に成功をおさめているそれは彼の制球力のよさと、なんといってもシュートのよさにある。シュートこそ彼の唯一の武器といえよう。だがプロの世界ではこれだけではむりでさらにスピードを増すこと、カーブの切れをよくすること、これが彼の第一の課題であろう。これらをみたすためにはもっとオーバーハンドで投げなければならないだろうし、また上半身をやわらかくし、腰のバネを強くするように大いに努力しなければならない。彼は不言実行の士であるというから努力さえすればその真価が発揮されていくことだろう。少し長い眼で見てやることが必要である。彼の家庭では男が生まれるとじきに病死して育たないというので彼は女の名前をつけられてしばらく育てられたという話も聞いている。まだ二十一歳、試合経験も豊富だけに将来が楽しみだ。

プロ入りの動機 別段あらたまっていうほどのものはありません、近鉄から話があったとき軽い気持でプロ入りをきめました。それだけ私は野球が好きなのかもしれません。

まず勉強したいこと 私は体力が十分でありませんから耐久力をつけること、これが第一だと思います。ノンプロでは大会前だけ慎重にコンディションを調整しておけばよかったのですがこれからはそう思いちきませんので体力的にへばってもスピードが落ちないように工夫したい。技術的にはスピードをつけることはもちろんだが、変化球をマスターしたい。

目標とする選手 私の体格などからみて関根投手(近鉄)のようなピッチングをすることが最良だと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鬼頭洋

2016-08-22 20:29:09 | 日記
1970年

こんなうれしいことはない。きょうはうちに帰って乾杯だ。あれだけ期待していた鬼頭がやっとその力を出してくれたんだからね。きょうの試合前にも鬼頭にいったんだ。「おまえの1勝5敗という成績をよく考えてみろ。これだけ使うということは、おまえがチームのカギを握っている証拠なんだ。もし逆に5勝1敗なら、うちはとっくの昔に首位だ。もしきょうもだめなら二軍落ちだからね」と。発奮させようなんていう意味ではなかった。ワン・ポイントならルーキーの間柴のほうがよっぽど度胸がいい。もしこの日に鬼頭がだめなら、とうぶんあきらめようと思っていたのだ。鬼頭が入団した六年前、私のバリバリの重役で問題にもしなかったが、球が速い投手だという印象がある、ただ、ブルペンでは速いが、マウンドに立つとその半分も力を出せないのが玉にキズだった。だから毎年期待されながら、いつもファームの選手でいたのだ。そこでもっと青年なら元気を出せ、というところからコーチを始めた。オドオドした内気な性格がわざわいしていると見たからだ。「ホラでもいいからしゃべりまくれ」というのだが、どうも引っ込み思案が気になった。おれの心臓をかしてやりたいと思ったこともたびたびだ。ただ感心するのはだれにも負けない努力家ということ。やれといったらどんな苦しい練習でもやってきたし、ミーティングでもせっせとメモをとるのはチームでも一番だ。その努力が実ったということを決して忘れないでほしい。そして、1勝5敗という成績なのに先発に使ってくれた監督の好章も忘れてはいけない。たしかにきょうはブルペンと同じほどのスピードがあった。でも自分でもやったと思ってはいけない。バックと好リードした大橋のおかげだということをキモにきざんでおくことだ。ファームに落とされてもそのたびに一軍に上がってくるねばりはみごとなものだが、この大記録を境にピッチングにもねばりをつけるように研究してほしい。きょうを土台におれにファームなんていうことばをいわせないでくれ。たった一人の左腕投手なんだからー。これをきっかけにどんなピッチングをするかそれがたのしみだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鬼頭洋

2016-08-22 20:08:34 | 日記
1970年

鈴木コーチを先頭にベンチの一団がマウンドめがけて突進した。大橋と鬼頭はもう抱き合っていた。まるで高校野球決勝戦の幕切れのような感動的なシーンだった。大きな輪の中で鬼頭は頭をこづかれ、握手を求められ、そしてだれかれとなく飛びつかれた。「ありがとうございます」何度も繰り返した感謝のことばはうわずっていた。一生忘れられない日になるだろう。試合前は破れかぶれの心境だった。二日前の札幌円山球場で、中日・江島に代打満塁ホーマーを打たれ、ションボリしていたところに、鈴木コーチから「九日の先発はおまえだ」といわれた。ただ、そのあとにこわいただし響きがついていた。「もしこんど打たれたら、二軍行きだけは間違いないからな」チームただ一人の左腕投手として、今シーズンは平松と同じくらい使われている。しかし成績は1勝5敗。希少価値だけが取りえといわれるこのごろだった。最後のテストだった。毎年、このくらい期待されながら裏切る投手を知らない。いま相手チームの別所監督も、大洋コーチ時代に「ことしの鬼頭は20勝」と宣言し、裏切られた男の一人だった。もし、この日の登板に失敗したら、ことしもまた鬼頭はかけ声だけで終わったろう。「どんなことをしても一軍に残りたかった。無我夢中で投げはじめたんです」そのうち、といっても七回、ふと鬼頭は一本もヒットを打たれていないことに気がついたという。ベンチはだれもだまっていた。球も速く、素質は抜群なのに、まだ完封の味を知らないのはノミの心臓といわれる気の弱さだ。もし教えて、ガタガタしたらたいへんだ、という配慮だった。そのせいか、松原は九回の守備で「四球を出したら平松のリリーフだろう」とみていたくらいのベンチのだんまり作戦だった。「でもみんなソワソワしているし、スタンドの声も聞こえてきましたからね。九回は執念でやってやろうと思いました。とにかく打たれてもいいから自信のある球でいこうときめたんです。それにリードしてくれた大橋さんのおかげです」大橋には、鈴木、土井両コーチが急所をアドバイスするあわただしい九回。最後の打者の武上のライナーが中塚のおがみどりで終わったとき、鬼頭は全身の力がいっぺんに抜けていったそうだ。「ストレートが速かった。これまでは好投していてもポカがあるので、一球一球ていねいに投げたのがよかった。そのうえ適当に荒れたのもよかったのでしょうね」昨秋の渡米野球留学のワクが二人と決まったとき、おおかたの予想は山下と平松だった。しかし、アメリカに飛んだのはこの鬼頭と高橋。どれほど首脳陣が鬼頭に期待をよせていたかがわかる。六年目のプロ入り初完封がノーヒット・ノーラン。ボールを投げはじめてあじわう最高の感激だ。「今夜はとても眠れません。いまでもなにがなんだかさっぱりわかりませんからね。ぼくはどうしたらいいんでしょう」二軍落ち地獄テストから、セ・リーグで十八人目の大記録という天国にかけのぼった二時間二十分。「大それた記録にあいつの心臓が破裂するかもしれない」という声もあるくらいだ。「自分を取り戻すのはあすでしょう。そしてこの記録を忘れることにします。これからはまだ三つ負け越しているし、ばん回に全力を尽くします」ノミの心臓もこの大記録で少しは大きくなったはずだ。「この自信は大きいだろうな」と見る別所監督。鬼頭の誤算で大洋を追われた別所監督は、このまなでしの晴れの姿を複雑な思いでみていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田原基稔

2016-08-21 17:57:12 | 日記
1950年

最初見た時は手をつけられないように思っていたが、この頃ではその進歩の度合いの早さに驚いている。従っていまここで分析することも、時期尚早の事なきを得ないが、敢えて解剖する。上京した当時は、球の投げ方も分からず、監督を驚かせたということであるが、持って生まれた資質は、三カ月を出てずして芽をふき出してきた。重い腰ではあるが、球に引かれるように投げている姿からはごく自然なバーバリスチックなものが感じられて気持ちがいい。このままではまだウエイトが残るように思うし、腰の回転も十分とはいい得ないが、まずまず上の部である。打者の欠点が開口にあるという考えに従って、整球の方法を教わったらしく、どうも球が高目に行きすぎるようである。このためとかく早目に球を放す癖がつきぐしているのではあるまいか、このピッチングを続けると、カーブにしろ低目のスウィフトにしろ、どうしても球にウエイトが完全にのらなくなり、球速も落ちてしまうものである。またモーションにも鋭さが欠けてくるし、球の切れ具合も悪くなる。従って田原投手はやはり一応オーソドックスなピッチングフォームを完全にマスターするために、軸足から腰にかけての最も基本的なものをネジと心得て、このネジが十分巻かれ、そのためには尻の部分が右から左について回るようにつとめる。一方、上半身の、特に胸部の筋肉の開閉、左腕の後方への引っぱり等を十分考えて球を投げることである。このように試みると体にかくされていた部分で、今まで知らなかったものが随時自分のものとして甦ってくるので、面白いように球にスピードが出て来るしまたカーブ、ドロップにも威力を増してくる。とかく今までの投手にしても、まだ自分の持てるものを十二分に発揮しているとはいえないのであって、一人前の投手とみられる人も少ない。田原投手は未開の分野に勇敢に突進むことである。おそらく新人投手中これ位の大物は珍しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

末吉俊信

2016-08-21 17:24:20 | 日記
1952年

今年ほど新人投手の輩出した年はないその数多いプロ一年生の中で最も若練なピッチングを示しているのは、セ・リーグでは大洋の有村パ・リーグでは末吉だと思う。しかし有村は卅九歳の古豪、新人投手に取り扱っては本人から苦情がくるかもしれないが、末吉は廿五歳の新人でありながらその若練さは有村にまさるものがある。特に大もの打者を相手にいささかも固くならず、内角、外角高低さまざまなポイントを大胆なコースで鋭くカーブの操作には、投手経験を持つ人々が思わず「うまいなあ」と声をあげるほどである。小倉中学で二年間、八幡製鉄所で一年、早大が五年間の投手経歴であるから、今年は投手になってから九年目のシーズンである、早大に入った年までの四年間は上手投げのピッチング、その翌年から横手投、斜め投げに変ったのは野球を覚えると共に身長のない軽量投手が上手投だけでは打ち込まれる、身体のバネを活用し変化のある横手投でいった方がいいと気づいたためだと思う。打力はいいし守備も巧い、二塁手に使っても相当の選手だといわれているように、末吉の長所は野球をよく知り、野球のうまいことである、そこですることにそつがない、安心して見ていられるが、威力が足りないし重圧感がない、四回、五回と好投していても、九回まで好調が続くか、体力が持つかといった懸念がついてまわっている。そうした観点から見て、アメリカ式に先発させ、おさえておいて左の豪球投手にリレーするか、あるいはあと四、五回、あるいは三、四回という限度を考え、ピンチにさっと登板させると働きを見せる投手であると思う、それだけに末吉をフルに使いきる監督はピッチャーのコーチが出来る男である。学生時代のように常に登板していれば、その間に自分で調整して行けるが、いつ出されるかどんな場面に登板するか、投手自身に予測のつかないプロ野球では末吉、林(大洋)長谷川(広島)さらに大島(名古屋)荒巻(毎日)などは監督の使い方で出来栄えに変化がある。八月末までの末吉は五勝六敗その五勝は東急と近鉄に各二勝西鉄に一勝となっている、六敗のうち四敗は南海である、これは末吉のピッチングを説明する資料であり、選球のいい選手が揃っている南海には末吉の方から負けているのである。試合に多く投げているのがカーブ、これは内角へ落としたり、高いところから低いところへ流したり、ストライクぎりぎりのボールでつったり色々のコースを使い、ウィニング・ショットにはカーブで外角を攻めている。カーブを多投するにはコースとベースを変えなくてはならない、そこでどうしてもコントロールが乱れがちになる、ここが末吉の苦心するところであり相手の狙うところである、投球に移る時うしろに引いた右手をそのまま止めずに投げる時と一度止めてから手首を返して投げる時と同じモーションでふたとおりの投げ方をしているのが効果をあげている。現在は直球、カーブ、シュート、スライダー、ナックルの五種類を投げているが、もう少しスピードが乗ると変化球の効果が倍加するに違いない。

末吉投手 度胸で投げているといわれているが、そんなことは全然無いですよ、プロに入った当初はやはりあがりましたネ、学生時代には十日に一ぺん位投げればよかったのが、プロではそういうわけにはいかない、恥しくないピッチングをしようと思えばどうしても少しはかたくなりますよ。私が二塁手になるかもしれないといわれたはずい分前の事で、今は全然そんな話もなければ、意志もありません、もっともっと精進して何とか恥ずかしくないピッチャーになりたい。スポーツライターの修業はほとんどやっていません、そのひまもないんです、試合の戦評は随分むずかしいだろうと思いますね、やはり間違いがありますよ、例えば自分はカーブを投げて打たれたのが新聞では直球の失投と書いてあったりするんです、むずかしいライターになどなれそうにありません、ぼくはやっぱりピッチング一本槍で頑張ります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

島本和夫

2016-08-21 15:27:25 | 日記
1951年

六尺に五分足りないキリン児いまでこそ高校球界にも六尺近い上背の投手が珍しくなくなってきたが、戦後間もない栄養失時代に彼は出現した。こりゃ大物に違いない。待ってましたと彼を甲子園のキリン児にまつりあげたのはせっかちなファンの責任だ。和歌商の島本が京都一商の北本か、こんなゴロ合わせめいた他愛のない風評の中に、彼の実力は市場価値だけを高めていた。いわば英雄待望の心理におどらせたのに過ぎない。その証拠に北本、島本ともに相次いで松竹に入団したものの二年あまり二軍で待機した。北本はこの春ノンプロ田村駒へ、島本は新田新監督の知遇を得て一軍へと袂を別ったが、小西監督が留任していたら今年芽を出せたかどうかだけに「運」というものはわからない。大男だがおとなしすぎる。弱い性格というよプロ選手に不可欠な強じんさがない。千軍万馬つわ者ぞろいの松竹では頭のもたげようのなかったゆえんだ。新田監督は「機械の油さし」と、監督としての自分を自己批判しているが言い得て妙である。選手なり、チームなりを機械視しているところに技術家新田の面目がある。技術的に新田氏が見て有望と思う小林(恒)徳島、小林(章)目時らが、それぞれの持ち味を生かして一せいに働きはじめたのは「油をさされて」機械が動きはじめたのに似ている。島本もその一人「スピードはチーム随一」と新田監督の折紙つきで、オープン戦以来しばしば起用され、まだ一本立ちとまでは行かないがとにかくもう二軍クラスではないことを証明した。コントロールに難もあるし、ことに九回を投げきる呼吸、かけひきは当然とはいえ未熟だが、ただスピードのあることだけでも珍重される当世プロ球界では、期待の新人グループに教えあげてよい存在だろう。新田氏の知遇にまず応え、ファンの期待も裏切らないでほしい。
和歌山県出身、和歌山商卒、廿四年松竹二軍に入団、今春一軍に昇格、五尺八寸五分、十八貫五百、右投右打、廿歳。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寺川昭二

2016-08-21 14:51:36 | 日記
1952年

十二、三回戦と全くいいところなしで失った南海はこの試合も実になかった。しかし六回寺川ー宮沢のリレーの間げきを衝いて快打を集中、ようやく自己のペースに投球を巻き込み三連敗を免れた。東急は一回深見がレフトに17号して気勢を上げ、四回にも浅原、斎藤、長沢の三連安打で加点、寺川の好投とたちまち、ゆうゆうとゲームを選んだ。寺川は重いシュートを低目にきめ南海打線をなぎ倒した、南海は五回まで笠原が二回に二塁打で、五回に四球で塁に出ることが出来ただけという貧攻にあえぎ、このまままたも押し切られてしまうのではないかと見えた。しかし六回無死右前安打した筒井と代打島原のヒット・エンドランを見事にきめ寺川をぐらつかせた、寺川はこのピンチを球速を落とし、カーブにたよって切り抜けようとしたが、かえって南海の好打を誘い、木塚、飯田に連安打されて降板、リリーフ宮沢は球威なく火つけ役となって堀井、蓑原に長短打を浴び決定的な六点を奪われてしまった。この間飯田の左前安打を後逸した常見と山本の三ゴロを一塁に悪投した斎藤のエラーが寺川の陥落を早めていた。リードを奪ってからの南海はメンバーを落としながらしなも七、八回に戦意を失った投球を叩きのめし前二試合の溜飲を下げた。後半の投球は南海の猛打をただ右に左にと追うばかりだった、この大敗の中にあって深見の1718号ホーマーがひときわ光る、17号は文句なしの快打だったが八回の18号は大きなレフトフライ、東急ベンチからの「それそれ」という声をボールが承知したもののように風にのってフラフラとスタンドに入ったやや幸運のホーマーであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中原宏

2016-08-21 13:40:58 | 日記
1952年

名古屋の享栄商業で鳴らした投手であるが、戦争で野球がおさえられた時代であったためあまり目立たなかった、十八年の春阪神タイガースのユニフォームを着たが翌十九年には兵役、終戦後再出発してノン・プロの大日本土木に入り、一、二と二年続けて都市対抗で優勝投手となった、廿三年から南海の投手、そのスタートは好調で十三勝七敗、防御率二・二七という輝かしい記録、廿四年は十三勝十三敗で十位、廿六年は肘を痛めて療養、八月十六日から登板して四勝一敗、今年は奮闘して十一勝五敗、防御率も二・八一で七位という好成績であった。享栄で五年、阪神一年、大日本土木二年、南海に入って五年、合わせて十三年の投手経歴で、廿八歳の働きざかり、ベテラン中原といっていい球歴である。長い間、上手投を続けていたがが最近横手投(むしろ斜め役)が入るようになった、身長も体重も投手としては水準線そこそこの体格、単調な投法では打たれるおそれがあるため、俗称「二段モーション」で背伸びしたりいろいろと投法に変化を与え、上手投だけではコースが単調になるので斜め役を加えたのであろう。斜め役(スリーコーター)を混ぜてからコースが多彩になった、肘がなおったこと、斜め役の実行、この二つが今年好調を生んだ大きな原因であると思う。投げた翌日はランニングとキャッチボール程度、二日目はコントロールに重点を置いたピッチング、三日目は全力投球の投法をして、四日目登板が好適らしい、体格の関係で休んだり雨でピッチングが出来ない場合、調子がよくないようだ。試合で登板前のウォームアップは大体卅球ぐらい、ゲームで一番多投しているのはカーブと直球で外角低目にきまる球(四つに一つの割合で内角を衝いている)武器は大きく、まっすぐに落ちるカーブ都市対抗で優勝した当時はこの球を一人の打者に二つ、あるいは三つぐらい投げてミートさせぬピッチングであったが、相当肘の力を使うので、肘を痛めてからはここぞいう時だけ使うようになった。それだけ腕を大切にするようになってからは球速が落ちた観がある、これを徐々に回復し「ホップする速球」を持とうとする努力が、ブルペンの球(四つに一つの割合いで内角を衝いている)武器は大きく、まっすぐに落ちるカーブ都市対抗で優勝した当時はこの球を一人の打者に二つ、あるいは三つぐらい投げてミートさせぬピッチングであったが、相当肘の力を使うので、肘を痛めてからはここぞという時だけ使うようになった。それだけ腕を大切にするようになってからは球速が落ちた観がある、これを徐々に回復し「ホップする速球」を持とうとする努力が、ブルペンの練習にもうかがえる、ホップする速球を望む半面に、去年まで見せなかった新しい球質「落ちる球」を研究して時々使っていたが、シンカーとも見られるし横に逸れるのが特徴である。十年鍛えたシュートを持っているだけに、この新球をマスターしたら新生面をひらくに違いない、結局現在投げているのは速直球、カーブ、シュート、シンカーなどであるが、大体において落ちたり、逸れたりする球が多い。

中原投手

二段モーションは中学の終わりごろから始めたのですが、私のように体格も腕力もない投手は普通のフォームで投げた場合には、バッターに対してなんの驚異も感じさせないので一つは自分の球の非力をカバーするためにやり出したのです、中沢さんのいうように単調な投球になるのを避けるためと打者に与える精神的な効果をも狙っているつもりです、別所、スタルヒン投手のように大きなモーションの方がある程度有利だと思います。落ちる球には一応自信を持って来ました、今年は余り使わなかったが、オープン戦で実際に使ってどの程度に使えるかを試し、来年はどんどん投げるつもりでいます、同じ落ちる球でもドロップよりむしろシンカー気味のをマスターしたつもりです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山根俊英

2016-08-21 11:51:07 | 日記
1952年

実力を備えていればどこにいても芽を出すのが人の世の定則であるが、時と所の関係で早いおそいの差はあろう。終戦の翌年、大分経専と鳥取高農が高専大会の優勝戦に頭を合わせ、両軍投手の怪腕で三振また三振の競演、ついに大分の勝ちで大きく宣伝されたのが星野組に入った優勝投手の荒巻淳、その陰になり一部の人にしか真価を知られなかったのが鳥取の山根俊英であった。しかし山根の実力派鐘化在社二年の間に各方面に認められ、廿五年の暮、毎日オリオンズに加入、今年の春から第一戦に現れ故障の荒巻に代わって活躍、八月卅日までに十勝五敗の好成績をかち取っている。しかし投手経験を持った人々なら気付くであろうが、力もあり好成績を収めているのに山根のピッチングは投手術を収めているのに山根のピッチングは投手術を勉強しながら投球しているようなわかいところが見える。これは投手経験の浅いことが原因で、山陰の名門鳥取一中では遊撃手、鳥取高農に進学して二年生から投手に転向したのだから、高農で二年、鐘化で二年、毎日で二年、今年は投手として六年目のシーズンである。そこでいい素質を持ちながら昨年度は芽を出すきっかけをつかみきれず四勝四敗に終わっているが、その内容を見ると四月中旬南海と西鉄の二試合に登板、二度とも負け、しばらく出場の機会なく、やっと七月末から出場、それからの六試合では四勝二敗となり「山根は毎日投手陣のホープだ」という声があがったのである。鐘化時代まで上手投専門であったのが、プロ入りしてから横手投が加わり、最近では横手投が多くなって来たからステップも多少変化して小さくなり、またアウト・ステップも交って来たようだ。長身で均整がとれ、肩も強いから、登板した日から三日目の登板が好調だといっているように、疲れの残らないのが特徴であろう、そこでリリーフに立つ時でもウォーミング・アップは十球以内でマウンドに登っている、これはいい習慣、今後もこの調子で行くことが望ましい。試合中に多投する球は横手投の速直球である、この球は流れたり、落ちたりするが、腰がよく乗り球がのびるのは強味である、ウィニング・ショットとしてはシュートとカーブを使っているが、シュートは天賦の鋭さがあり、カーブは研究したコースを活かしている。ただしカーブのコントロールは、まだ十分でなく、このコントロールが洗練されたら廿勝投手の列に入るに違いない、それとともにやはり投手経歴が浅いためか、投手守備が弱い、現在はもっぱらフォームの完成ー特に腰の回転とステップの研究ーに努めているが春から見るとぐっとおちつきが出て来たようだ。

山根投手 どうもほめてもらう方が多く痛いところをズバリとやっていただけないのがややものたりないですね、投手術を勉強しながら投げているのはどのピッチャーも同じやないでしょうか、僕なんかまだまだ勉強以外何もありませんよ。しかしプロの水は辛いと痛感しながらも、毎日研究しながら投げることは楽しいものです。僕が球質そのものの研究よりフォームに重きをおいています。いま上手、横手、そして下手と三通りの投げ方をマスターしようとしているところですが、これでシュート、直球、カーブを身につければチェンジ・オブ・ベースという武器が出来るわけです、ところがこのカーブが苦手でしてね、ずいぶん苦労しています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上野重雄

2016-08-21 11:21:56 | 日記
1953年

野球都市で有名な八幡育ち、熊本で野球を習い九州学院で三年京城医専で二年、門司鉄道局で二年毎日で三年、合わせて投手経験十年である、力をつけたのは門鉄時代、その頃の門鉄チームには江藤、中谷、木塚(南海)片山(松竹)などがいた全盛時代で、ここで鍛えられ廿四年度の鉄道大会に優勝し、その十一月に毎日入りした、当時の評判は「速球投手上野毎日に入る・・・」ということだったから、速球で鳴らしていたに違いない。ところが廿五年は七勝六敗、廿六年は六勝五敗で噂ほど働かない、廿五年は荒巻、野村、榎原に押され、廿六年は野村、佐藤、荒巻の陰になっていた腰の回転がかたく、フォームが乱れがちであったのと、偏食くる胃腸障害、この二つが速球を阻み、コントロールを乱す原因になっていたと思う。それが去年の秋から今年のスプリングキャンプにかけてフォームの修正、力強い腰の回転、偏食から肉と野菜へ・・・といった努力を続けたのでフォームがよくなり、体力が強靭になった、そのため球速もつき、疲れが少なくしかもコントロールがよくなり、荒巻故障という投手陣のピンチを野村と共によく救い、十四勝六敗、勝率七割で毎日陣営の一位、防御率は三・二〇であったから大きな進歩である。従来から上手投一本槍、前とくらべて少しステップが小さくなった程度で投法には変化はない、中二日休めば完投できるくらいの体力と肩を持っているが、ウォーム・アップは相当長い、試合中多投する球はホップする直速球、これがいい球質だけに効果がある球は自然にスライドする球を持っていたが、いまではほんもののスライダーを身につけて活用、直速球は浮いたり、のびる球になっている、ウィニング・ショットは低目を攻める直速球とスライダーになっているが、低めにいかず、腰の辺り高さになると、上手投のきれいな球だけに、たたかれる危険がある。弱点を探せば変化球の少ないことと一本調子になる(チェンジ・オブ・ペースの修練が不足)ことであろう、そこでシーズンを通じてカーブの研究に没頭していたようであるが、これは賢明な対策である。現在投げているのは直速球(浮いたり、のびがいい)シュート、カーブ(シーズン後半にいいカーブを見せていた)スライダーなどであるが、カーブとスライダーの混投を巧くやれば、もっと勝てる投手である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋重行

2016-08-21 07:38:59 | 日記
1967年

高橋に投げ負けた産経の村田は、ロッカーに帰ると「相手の投手がよすぎたよ。押されっぱなしだったものな」とニガ笑いしながら試合を振り返った。ネット裏で観戦していた山本八も「球が速い。それにいいコントロールをしている。この間、川崎でみたときとは、別人のようだ」という。今季初完封。昨年の九月三十日、対広島二十七回戦で完封勝利をマークして以来、約七か月ぶりのシャットアウト。最後の打者福富を一ゴロにとると、汗ひとつかかず報道陣にかこまれた。「直球は速いとは思いませんでした。合宿を出るとき、肩が重くて心配だったのだが、投げているうちに調子が出てきて・・・。よかった球?スライダーです」三十九年は対産経戦5勝、一昨年は4勝と産経キラーだったが、昨年は1勝4敗とすっかり負けこんだだけに、この1勝はまた格別らしい。「二回に2点をとってもらったでしょう。あとはぼくが点をとられないようにすればいいと思って投げた。苦しい場面はなかった」四回まで産経をノーヒット。五回、小淵に一、二塁間を抜かれ、完全試合の夢は消えたが「あれはシュート。チビってしまった。思いきって投げていれば二ゴロだったですよ」チビッたのはノーヒットを意識したわけではない。楽にとれるとみたのだそうだ。秋山コーチは「力の配分がうまくなったね。下関の広島戦で勝って自信を取りもどしている」と語っていた。オープン戦で、高橋が不調つづきだったとき秋山コーチは「速い球を投げる高橋がこのまま終わるはずがない。きっと出てくる」といっていたが、このカンがピタリと当ったわけだ。自信もよみがえった。「チャンスさえ与えられたらいつでもやれる自信があった。ロバーツ、ジャクソン?きょうは徹底的にマークしたんだ。あの二人はコーナーを徹底的に攻めれば、そう打たれないよ」ロバーツは「ナイス・コントロール」とただひとこと。ヒットは打ったもののあとは凡打に終わった小淵は「球そのものはたいしたことはないが、ていねいに攻めていたね」とくやしそうにいった。どこからみても満点に近い高橋だが「期待はずれ・・・」ときびしい評価をくだす人もいる。天知俊一さんはそのひとり。「復調というからたのしみにしていたが、三十九年当時の剛球投手のおもかげは全くなかった。横と上からのカーブ。あとはシュートとチェンジアップ主体のピッチング。本格派の速球投手が技巧派投手になってしまった」といい、高橋に完封勝ちを記録させたのは、産経の雑な攻めに原因があったとみていた。同じような見方をするのが産経の中原ピッチング・コーチだ。「横と上のカーブ。あれにひっかかっていた。カーブがいいからシュートも効果を生む。しかし打てない投手じゃないよ」こんな評価を知ってか知らずか、秋山ピッチング・コーチは「これから勝てそうな試合にドンドン高橋をつぎこんでいく。ここというポイント、短いイニングに投入して相手をおさえていくのだ」と語っていた。昨年までドジャーズの大黒柱だったコーファックスを尊敬する高橋。ことしの彼は大洋のコーファックスになれるだろうか。

三原監督「二回の先制点が大きかった。三回の一、二塁、それに七回2点をとったあとの満塁をモノにしていればもっと楽な試合ができた。高橋は非常によかった。スピードが最後までおとろえず全く安心してみていられました」

飯田監督「高橋は直球もよかったし、カーブ、シュートなど変化球の切れもよかった。ウチの村田もよく投げた。五回の一、二塁で丸山に代打を出すつもりはなかった。最初の打席でいい当たりをとばしているし、いけると思った。六回のトップに村田の打順がまわってきたが立ち直っているし、まだ2点だったので反撃のチャンスはあると思って打たせた」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野母得見

2016-08-20 12:53:09 | 日記
1959年

久々にみる野母の快調のピッチングだった。七回長光にマウンドをゆずるまで三安打。二段モーションから内角低目ギリギリにきまる球が効果的だった。だが試合後「そうね、高目にボールがいかなったのがよかったようだね」とひとごとのようにいった。かえって鶴岡監督の方がうれしそうに「キャンプ、オープン戦と野母はだんだんよくなっているコーナー・ワークがいい。打者の心をよく読んでいる。ペナント・レースでも、もちろんローテーションの重要な一員だ」といった。六年前、柚木(現南海ピッチング・コーチ)の再来とさわがれて入団したが、コントロールが悪く、さわがれたわりには活躍してなかった。しかし南海では数少ない左腕で、昨年は西鉄戦用の投手として何度も起用されている。「キャンプでは自分の思うとおり練習できた。体の調子も上がった。今年は六年目だからひと花咲かせなければ、と思っているがどうかね。もう思いきり投げたって、そうスピードが出るわけではないし、やはりかわすピッチングだね。それにはコントロールが第一。きょうの試合はかわすピッチングとしてはまあまあだった」帰りのバスの中でも、ひとり片スミにすわってだまってタバコをふかしている静かなヒーローそばのサディナ投手がおぼえたばかりの日本語で「ノモ、ナイス・ピッチング、ゴチソウサマ」といってポンと肩をたたいた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近藤三明

2016-08-20 12:30:28 | 日記
1959年

第二試合近藤が国鉄をシャットアウトするとベンチから林、平井両コーチがとびだして、かたく握手をかわした。「よくやった。ご苦労さん」林コーチは興奮している。林コーチは「これで完投投手が一人ふえた。いままで完投したのはこの近藤を入れて吹田、武智の三人になった」と明るい表情。それにくらべ国鉄ベンチはニガ虫をかみつぶしたよう。近藤が日本鋼管から近鉄に入るとき国鉄もさかんに勧誘していた。近藤がその国鉄からプロ入りはじめて、それもシャットアウトで勝ったのだから皮肉なものだ。オープン戦二度目の近藤は「外角にシュート、内角にはストレートを投げました。ストレートにのびがあったので打たれなかった」と興奮からさめないのかとぎれとぎれに話す。「日本鋼管にいたときは横の変化に弱かった。それでこんどのキャンプでは外角にシュート、内角にカーブを投げ、ピッチングに幅をもたすように練習した。カーブはまだブレーキがないのであまり使わなかったが、これからはどしどし使う」と語った。打っては三回右翼に本塁打し、七回にもタイムリー安打するなど、近藤のひとり舞台。林コーチに彼のピッチングをきいてみると「リスト、腰は強いが、体が少しかたいように思う。それもふとっているためで、、もう少しやせればもっとフォームがスムーズになるだろう。きょうは外角にいいシュートを投げ、内角にはときどきカーブを投げていたが、このカーブはまだあまい。スロー・カーブは内角いっぱいにきまるが、ググッと鋭く曲がるのがみんなはずれているもっと体がやわらかくなるとこの球がきいてくるだろう。でもまだカーブをほんとうに投げていないので、なんともいえないが・・・」といっていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする