プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

小野泰敏

2017-03-20 12:22:58 | 日記
1970年

ことしでプロ生活四年目。昨シーズンはウエスタン・リーグで・323の好打率(リーグ三位)を残し、左打者という利点もあって一軍入りにあとひと息のところまでこぎつけている。みにくいアヒルの子の一羽だった小野の胸のあたりには、だからひとむらの白にコケがはえ始めたというわけだ。いきなり「なんてったって四年目ですからねえ。自覚しますよォ」ときた。自覚の現れが自主トレだ。郷里の行橋で走り、百道寮に帰ってからも和田教室でがむしゃらにがんばった。その成果が「からだが軽いんですよ。馬力がつきました。フリーバッティングでも、からだ全体でバシッと打てますからね」というベストコンディションとなって現れた。だから小野クン、もっか大いに欲を出してきたところである。「去年までと違って、ことしは最初から上(一軍)で通用するバッティングをやっているんです。いまから固めて、代打で一番勝負をやるつもりなのです」代打には2打席目はない。当たり前の話だが、小野クンの発想はここからスタートする。「だからフリーバッティングでも気を抜かないで打ってます。たとえ練習でも打てないとむしょうにくやしい。恥ずかしいと思います。気持ちが充実してきたのでしょうね」自分を見つめる目もかなりたしかなようだ。登録は外野手だが、キャンプではブルペン捕手もつとめる。「捕手はやめたはずだったけど、ボールに目をならすのにはピッタリだと思ってやってます」というから、なかなか重宝な選手だ。入団二年目から公式戦には何度かベンチ入りしたが、そのたびに「上との力の差を痛感させられて」二軍に逆戻りしている。「自分に腹が立ちますね。あんなときは・・・。親兄弟にすまないと思いました」実感だろう。「相手チームからはきらわれ、チームの中では後輩にしたわれる選手になりたい」というのが願いだが、171㌢、72㌔という体力の限界はわきまえており「雑草のように生きたい。そしてたとえ小さくてもいいから、ぼくなりの花を咲かせたい。それもすぐには枯れないような花を・・・」とつけ加えた。二十一歳の小野クンは、なかなかの詩人でもあるようだ。
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上薄淳一

2017-03-20 12:08:12 | 日記
1970年

「ぼくより重い背番号はない。こいつを軽くすることです」上薄選手は選手で一番大きい76にいささか抵抗を感じているようだ。きっと、心の中ではいまにみておれ、このおれだってー歌の文句に似た強い決意を燃やしていることだろう。だが、背番号同様に体格も新入団選手の中では抜群のもの。「身長182㌢は荒武、広野、木下につぐ第四位で、新人選手からは早くもロングというニックネームがつけられた。体重は72㌔、長身がことさら目立つのは「ウエート不足」だからだろう。「目標、76㌔」と上薄選手はいう。背番号が目標体重というわけだ。「淳ちゃんは、ぼくと違ってしっかりしている」という花田投手とともに川内実からライオンズ入りした。「とにかくチャンスによく打ってくれるので助かった」そうだ。「肩には自信がある」上薄選手は胸を張り「きっと大型内野手になってみせます」とキッパリ。「どちらが先にレギュラーになるか」と励まし合っている。上薄選手の悩みはラーメンだ。「やっぱり、おやじのが一番うまい」というのは、食堂を経営する父親淳美さん手づくりのラーメンを食べられなくなったからだ。「こんど川内に帰ったときは思いきり食べてくる」と楽しみにしている。もう一つは上薄という名前。「うえうす、うえうすい、かみうすなどいろいろいわれる。ほんとうはかみすきです」-。趣味は「食べること」という。二十三日の福岡後援会の激励会に招かれたときは目を細めてばくついていた。「ことしの新人はたのもしいほどによく食う。私も大食漢だった」と稲尾監督。
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淡河弘

2017-03-20 11:54:54 | 日記
1967年

熱狂するネット裏のファン。その中に、ひとりとり残されたような淡河(おごう)=巨人捕手=がいた。味方のリードを喜ぶでもなく、ゲームの展開を見つめるでもない。沈みきった目は、グラウンドの一点を動かなかった。母の死ーそれは、あまりにも突然だった。七日あさ、福岡県久留米市の自宅付近を歩いていたヤスノさんは、走ってきた自転車と衝突、後頭部を強打して近くの病院に収容されたが、意識を回復しないまま、十日午前二時九分息をひきとった。知らせを聞いて淡河は七日よるとんで帰ったが、ひとこともことばをかわすことができなかった。葬儀いっさいをすませ、この日の試合前帰京したが、ナインのなぐさめのことばに、ただうなだれていた。「信じられないんですヨ。まだ・・・ほんとうにまいった」淡河には、大きな悔いがある。野球好きの母を東京に呼び、後楽園球場で自分のユニホーム姿を見せようという計画が、一度も実行できなかったことだ。「東京へさそうたびに、おふくろはありがとう、そのうちにネと答えたっけ、あのとき、なぜオレは強引に東京へ引っぱってこなかったのだろう」高校時代(久留米商)わけあって淡河はヤスノさんと別居していた。二年生のとき、ヤスノさんから一本のバットが送られてきた。このバットを使うと、不思議にヒットが出た。二年生の末に折れてしまったが、このバットで六割以上の打率をマークした。「いつまで悲しんでいてもしょうがないのはわかっているんですけど・・・。人生にこんなつらいことがあるとは知りませんでした」プロ入り六年目になるのに、公式戦に出場したのはたった十三試合。あとはもっぱらブルペン捕手。いま巨人のリードに声をあげて喜ぶネット裏で、かれが巨人の選手であることを知っているファンは何人いるだろうか。絶え間なく爆発する三万八千人のエネルギーあ、いまはなき母を思うひとりの青年を、より孤独にうつしていた。「でも・・・がんばらなくちゃあ・・。あすからまたユニホームを着ますヨ」巨大なエネルギーに反発するような、かれの最後のことばが印象的だった。
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奥柿幸雄

2017-03-20 11:41:00 | 日記
1966年

下宿さき(静岡市南町二の五の四、才茂方)の応接間で奥柿にバットスイングをしてもらった。じゅうたんの上に素足。力がこもらないはずなのに、振りは鋭かった。バットを高めにかまえるダウンスイング。腰がふらつかない。童顔の面影を残しているのに、目だけがキラリと光った。二度、三度・・・。スイングはさらに強くなったが、フォームはびくともしない。見守っていた静岡商野球部本間文雄部長は「手首のよさは抜群」とたのもしそうにいった。それでいながら奥柿は首をかしげて、こういう。「ボク、野球に自信ないんです。甲子園でホームランを打てたのも、まぐれみたいで・・・。ましてやプロ野球選手になるなんて、考えたこともありませんでした」アトムズが交渉権獲得というニュースに、奥柿は、むしろどうしたらいいか分からないという表情。甲子園でみせた豪快なホームランも、あの闘志も、どこにも見られなかった。「学校から帰って、はじめて知りました。プロ野球は遠い世界のことと思っていましたから、自分のこととは思えない。もう少し野球を身につけてみたい。それには大学へいくほうがいいと思います」これだけいうのに十分もかかった。テレ屋でくち数も少ない。本間野球部長は「性格はのんびりしている。自分の人生設計を考えるところまでいっていないから、大学を出るまでに、考えたほうがいいでしょう」と進学を主張している。奥柿は足がものすごく大きい。中学(静岡県・浜岡中)時代、一塁に力走する途中、スパイクシューズがぬけてしまったことがある。現在のクツの大きさは十一文半。中学時代はそんな大きなスパイクはなかった。かかとがはみ出しそうなのをはいて、この大失敗をやらかした。静岡商に入学してから奥柿の世話をしている才茂安吉さんは「特製のスパイクを作るのに、苦労しました」とニガ笑いしていた。そのくせ手は意外に小さく、神経質な面もある。一年生のとき、勉強に追われ、野球でしぼられ、とうとうすっかりまいってしまったことがある。「八人きょうだいの末っ子だから、甘えん坊なんだナ」と本間部長もお手あげのてい。プロ入りするか、大学進学かの判断も、学校や世話になった才茂氏など周囲の意見によってきまることになりそうだ。
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牧憲二郎

2017-03-20 11:24:27 | 日記
1976年

牧憲二郎投手(29)-熱心な野球ファンなら「高鍋高(宮崎)時代に甲子園で活躍、四十年にドラフト一位で南海に入団した、あの選手か」と、すぐにピーンとくる人もいるはずだ。この二シーズン、阪急のバッティング投手としてV2に貢献した。だが、シーズン終了後に牧を待っていたのは任意引退の通告だった。たとえバッティング投手でも「もう一度マウンドに」というひそかな夢を持ちつづけてきた牧にとって、それは大きなショックだた。普通ならスパッとプロ野球から足を洗うところだろうが、牧は阪急にとどまった。「野球に未練がある。選手でなくなったことは寂しいが、阪急の優勝のために役立ちたい」。球団側の希望もあって専門のバッティング投手として再契約。第二のプロ野球生活を歩き出した。

牧は南海に四年いて、四十五年に阪急に移籍した。南海時代は0勝2敗。阪急では四十七年に3勝3敗。それ以外は故障で泣かず飛ばずだった。入団して二年目に右ヒジを痛めたのが命取りとなって大器とさわがれながら大成しないまま十一年間の選手生活にピリオドを打った。「一線でバリバリ投げていたのなら十一年も短く感じたでしょうが、私の十一年はヒジとの戦いで長かった」阪急は四十九年から野呂瀬、渡辺守、そして牧の三人を選手登録のバッティング投手にしていた。この三人が「選手にカムバックする夢だけはいつも持っていた」といっている。オレはバッティング投手だからと決して投げやりな気持ちにはならなかった。そこには現役選手としての肩書があったからだった。牧は野呂瀬、渡辺守よりも入団のいきさつからして、夢が捨てきれなかった。四十七年には日本シリーズのマウンドに立っているとあればなおのことだった。「バッティング投手は全力投球するわけじゃないし、だからたなみ全力で投げてみると、自分でもびっくりするような球が行くんですね、そんな時はオレもまだやれると、そう考えるんです。いまの私には日本シリーズで投げたんだという誇りがある」バッティング投手を言い渡されたとき、牧は「二十七歳だったので別の就職口を探そうかと思った」球団にこのことを打ち明けたところ「重要な任務なのでそれなりの保証はする」ということだったので球界に踏みとどまった。投手出身ならだれでも出来るというものではない。バッティング投手としてのセンスが要求される。牧はコントロール、球種ともバッティング投手として一級品だったのだ。バッティング投手はただマシンのように投げまくるだけ。時には一時間以上も投げ続けることもあるが、試合前の練習では20分~30分というのが常識。一日に30分の仕事だと考えると楽なように感じられるが、バッターの調子をチェックしながらのピッチングはかなりの重労働だ。「自分が調子のいいときなら、自由自在にコースに投げ分けることも出来るが、バッターが不調で私もコントロールが悪いときなどは気疲れする。時間給なら高給取りですがね」と苦笑する。Bクラスの待遇をしている。巨人を破ってV2を達成したときの功労金はAクラス並みの分配だ。牧がいまやりがいを求めているのは、阪急の縁の下の力持ちとして優勝に貢献することだ。「渓間社長も理解があるし、上田監督も気を使ってくれる。監督からご苦労さんと声をかけられると、その日の疲れも吹き飛んでしまいますね」-俊子夫人と結婚して七年になるが子供はまだいない。八年ぶりに正月を故郷の延岡で迎える。心の片すみにある選手への未練を断ち切るためかもしれない。
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井上守・岩本勝・松崎勝志

2017-03-20 09:21:02 | 日記
1964年

ベテラン松並、中京商で林(南海)とバッテリーを組んでいた大森両捕手が整理された。松並は第二捕手として活躍していたが、さいきんは岡村、住吉の若手におされてしまった。八年間在籍した人見も去る。ここ二年間、胸部疾患で療養していたが、ついに野球生活を断念する。通算打率・243、本塁打22本、打点153。若手のうち井上、岩本は新阪急ビル。松崎は東京の阪急交通支社に勤務がきまって、新しいスタートを切った。
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上条高敬・押田令三・新井彰・小林英幸

2017-03-20 09:15:06 | 日記
1964年

国鉄から移った小西が、一年だけで姿を消した。守備要員だった高井良、東京の高校球界では、珍しく大型投手とうたわた上条、代打要員として貴重な存在だった小林ら新旧交代の犠牲になった。このうち上条、押田、新井、小林の四選手は、すでに東京・三晃印刷株式会社に就職。模範的社員として、新しい職業にとり組んでいる。
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外国人 引退後

2017-03-20 08:53:08 | 日記
1975年

東映にいたあのけんかラーカーはいまどうしてる?中日にいたマーシャルは? 日本のプロ野球がスタートして間もなく四十年、この間、約二百五十人の助っ人がアメリカからやってきているが、意外に知られていないのが、その後の消息。成功者あり、さびしく死んで行ったものあり、帰国後はまちまちだが、日本を去ったあとを追ってみると・・・。

「もう日本では二度とプレーしたくない」と、ことし近鉄をクビになったアンドリウスが帰国後あちこちでグチをもらしている。しかし、こんな例はごくまれ、ほとんどの選手が、帰国後も日本での生活をなつかしがり、チャンスがあればまた再来日したいという希望を持っている。昨年太平洋に入り、わずか1試合で故障した巨漢ハワード。帰国したあとも「日本でプレーしたい」とあちこちのコネを願ったが引き受けてなし。このほど3Aスポーケンの監督に就任した。帰国後の出世ナンバーワンは、ブリュワーズの副会長になったジム・バーマ(元西鉄内野手)。ブ軍にはゼネラル・マネジャーのポストがないため、事実上のゼネラル・マネということになる。友というのはありがたいもの。西鉄時代の同僚ロイは、バーマの推せんでブ軍のマイナー、A級の監督をやっている。大リーグの監督になたのは元中日のジム・マーシャル。現在カブスで指揮をまかされ、二度もパ・リーグの首位打者になった元西鉄のブルームをコーチに迎えている。ブルームは日本にいたころオツムが寂しかったのに今は黒々、フサフサ。どうやらカツラのお世話になっているらしい。今季ワールド・シリーズでレッズに惜敗したレッドソックスの三塁コーチが東映にいたドン・ジマー。一昨年までパドレスの監督だったが、日本式。トックンを採用したのが裏目に出てクビがとび、いまはコーチに甘んじている。中日にいたドン・ニューカムは同じ球界復帰でも背広のフロント組。古巣ドジャースに戻り、広報、プレス関係をあつかう職についている。変わりダネは名遊撃手として南海入りして期待を裏切ったジョニー・ローガン。ミルウォーキーに帰り、ウデがなくノドを生かしてブリュワーズ担当のアナウンサーだ。野球界とすっかり手を切った選手も多い。こちらの方の変わりダネは元阪急の投手だったフレッド・リック。日本で覚えた味覚を生かし、故郷ワシントンで開いた天ぷら屋が大受け。りっぱな経営者におさまっている。東映で人気があったラーカーは、かの有名なルート66を昼夜の別なく吹っ飛ばす長距離トラックの運転手。ハンサムで人気のあった同じ東映のボブ・クリスチャンは、二年前、二十九歳の若さで死んでいる。さて、いまいる助っ人来年やってくる新顔たちは・・・。
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佐藤博正

2017-03-19 22:03:13 | 日記
1974年

ジンクスはこの世界につきもの。左打者が多いというわけでなk、阪急は下手投げを苦手にしている。昨年夏の甲子園大会に駒を進めた札幌商のエース佐藤をみてロッテ・スカウト陣の気持ちははずんだ。巨人も食指と聞き込んだので同球団はドラフト一位指名、すんなり入団させることができたのである。舞台はかわる。一月三十一日ロッテの宿舎鹿児島・サンロイヤル・ホテルで歓迎レセプションがひらかれていた。いの一番北国民謡のノドを聞かせたのがルーキーの佐藤だ。「ええツラがまえしとるのう」相好をくずしたのは金田監督だった。昨年のキャンプでがむしゃらにスキヤキをばくつく弘田をみて「ええ食欲しとる」とカネやんは感心した。その弘田は押しも押されもせぬスター。佐藤が成功すれば、金田監督を感心させた選手はロッテのスターになれる新ジンクスが誕生するかもしれない。三日は暖かい日だったので佐藤がはじめてブルペンに立った。大投手カネやんが横にいるので心臓男もさすがに緊張した。「ええリストしとるやないか」といわれてペコリと頭を下げた。「自主トレには両親が東京までついてきてくれたんですが、、神宮外苑を走らされてアゴを出した。プロはきついなあと思いましたよ。でもいまは平気です。なにしろ南国は暖かい」白い歯をみせた佐藤は178㌢、80㌔、上背はたいしたことはないが、北国で鍛えた体ががっちりしている。高木ピッチングコーチは「プロ四、五年生のものおじしない態度、重いタマでコントロールがいい。うちはよそと違って新人だからといって一年間は調整なんてことはしない。よかったら本番にどしどし投げさせる」という。下手投げのルーキーが売り出すかどうか。
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山下浩二

2017-03-19 21:52:49 | 日記
1974年

遠投108㍍、例えばホームベース上から投げた球が軽く外野のフェンスを越してしまう距離である。強肩がプロの第一条件とはいえ、これほど鉄砲肩を持った新人はそうザラにいるものではない。熊本二高から阪急入りした山下浩二投手(18)、甲子園の経験がなく、その点では無名だが、このところ不作といわれてきた九州にスイ星のごとく現れた本格派の大器である。181㌢、72㌔と均整のとれた体は全身バネといった感じ。とくに手首の強さは抜群で、スナップを利かした快速球に上田監督は「純金」と一目ぼれ、「新人王をとらしてみせる」とまでいい切った。怪物江川の慶大進学で、ライバル早大が江川に対等に投げ合える投手として選んだのが山下。「四年間も苦杯をなめさせられてはたまらん」と、山下を必死に説得したが、ドラフト指名一位の江川にソデにされた阪急がプロのメンツをかけてやっと獲得したいわくつきの投手だ。「江川は完成品だが山下はまだまだ伸びる。そんな未知の魅力を持ちながらフォームもまとまっているし、手を加えるところがない。課題といえば実戦でプロの野球を身につけることだけ」というのは梶本コーチ。「江川君はテレビで見ましたがそんなにスピードがあるとは思いませんでした。あの程度なら僕だって投げられる」試験勉強で昨年八月から球を握ってなかった山下、キャンプも六日から参加したが、ナインに追いつき追い越せとばかり張り切る山下に「張り切り過ぎて故障でもされたら・・・」と首脳陣は手綱を締めるのに手を焼くほど。二外人の入団でレギュラー争いがさらに激しくなった阪急の投手陣だが、そんな中でいち早くオープン戦登板の切符を手にした山下、それだけでも素質のよさが知れる。「米田さんを目標にがんばりたい」怪物江川を上回るスーパー怪物はプロ一年生とは思えぬ度胸のよさでエースへの道へスタートを切った。
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サディナ

2017-03-19 21:07:19 | 日記
1959年

南海ホークスから招かれてさる二日半田選手とともに来阪したハワイ朝日軍のジョン・サディナ投手は五日から本格的なピッチング練習をはじめた。今シーズン投手力強化に重点をおきながら国内では目ぼしい補強ができなかっただけに、橘球団社長はじめ鶴岡監督は大きな期待をかけている。五日は正午から半田といっしょにグラウンドに飛び出し軽いトレーニングのあと真剣にピッチング練習を行った。すでにハワイで半田選手とトレーニング、ピッチング練習をしていたと言うだけあって、この日は前日とうってかわった全力投球をみせたが、なかなか好調。蓜島が捕手をつとめたが「きのう、松本コーチさんも、ボールが重くて手がしびれると言っていたが、本当だ。球が速いしすばらしい」とほめちぎった。サディナは、はじめのうちオーバーハンド、あるいは時おりサイドから速球を投げたが、直球が大半のようだった。それにしてもシュートの切れが鋭く、外角のシュートはみな低目に沈んでくる。サイドからのシュートも威力があり打者に威圧感を与えそうだ。

鶴岡監督の話 まだ見たばかりだから詳しいことはわからないが、予想以上だ。できたら巨人とのオープン三連戦にも使うつもりだ。早く慣れさせて調子しだいでは西鉄、大毎の上位球団にぶっつける考えだ。

柚木コーチの話 きょう初めて見たが、非常にいいピッチングをしている。球速も申し分ない。とくに横手からのアウト・シュートは威力があり、スピードの点では杉浦以上だ。ウイニングショットにはもってこいだ。おもに直球を投げているようだが、全部シュートがかかっている。いまのところコントロールも心配ない。ちょっと腰が高いために下半身が気にはなるが、これからジックリ見てみる。とにかく一線級として十分期待できることは間違いない。

サディナ投手の話 半田が日本は寒いと言ったが、とても暖かいので調子がいい。二、三日したらバッティング投手もできる。ハワイではずっと練習していたから心配いらない。コントロールは、あまり力を入れたり、無理をすると、自分でもどこに球が行くかわからないときがあるが自信はある。
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柳田利夫

2017-03-19 20:29:47 | 日記
1970年

南海ホークスは二十四日午後一時、大阪球場内の球団事務所に、柳田利夫外野手(34)合田栄蔵投手(28)中村之保内野手(26)中条博投手(22)の四選手をよび、近藤球団重役から自由契約をいいわたした。これは、野村監督の若返り第一弾である。二十五日にも、唐崎信男外野手(28)ら五選手に自由契約を通知することになっている。

この日、よび出しを受けた柳田、中村、合田の三人はいずれも元主力選手。柳田は大毎(現ロッテ)から巨人、さらに四十二年に南海に移籍された。一昨年は左翼で五番を打ち131試合に出場し・275、68打点、15ホーマーを記録、阪急と公式戦の最後の一試合まで優勝を争う一翼をになった。ことしは門田の加入、島野の成長で出場の機会が少なく、わずか56試合に出ただけだった。合田はことし十年目、三十九年から第一線に登場した。近鉄キラー。西鉄のボレス(当時近鉄)はいまでも「ゴーダの顔を見るだけでもイヤだ」と顔をしかめるほど。ところが、一昨年のシーズン終わりごろ右ヒジを痛め、球威がガタ落ちとなり、昨年は勝ち星なし、ことしは一度も登板のチャンスがなかった。中村は四十二年のドラフト第一位選手。法大から即戦力として入団したが、一年目は62試合に出場しただけ(打率・167)ことしはファームぐらしをつづけた。南海でドラフト第一位選手が自由契約になったのは、昨年の牧投手についで二人目である。就任一年目の野村監督が若返りを打ち出したのは、すでにシーズンなかばだった。「ファームの平均年齢があがりすぎている。少なくとも入団四年目ぐらいまでの選手だけにしたい。ファームにながくなると、どうしても気力がなくなるし、そのままズルズル置いておくのは本人のためにもよくない。思いきって整理し量より質のあるものにしたい」と語っていた。この考えは岡本二軍監督にも知らされ、シーズン終了後の染色検討会議でも話し合いが行われ、新山球団社長も了承していた。すでに小泉外野手が選抜会議で中日にトレードされ、さらに真部投手(本人の意思による)唐崎外野手・山本多外野手・山田外野手・坂外野手がリストにあがっているもようで、二十五日にはいずれも本人に通知される。

柳田選手の話「夏ごろから覚悟はしていた。この二年間、思うように働けなかった。しかたのないことだろう。他球団からの話はない。自分ではまだやれると思うが・・・」

合田投手の話「ことしの中ごろには野球をやめたいと考えていたが、いまはまだ未練がでている。二年のブランクで自分の力がどうなのかわからないけど、右ヒジの故障はすっかりいい。これからいろいろな人と相談して身の振り方をきめたい」

近藤球団重役の話「四選手をよんで自由契約にすることを伝えました。自由契約選手は全部で九人。二十五日は五選手にいいわたす予定です」
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木樽正明

2017-03-19 20:28:20 | 日記
1979年
・昭和51年12月14日。東京は木枯らしが吹きまくっていた。
1人の男がコートも着ずに、白いタートルと紺のブレーザーの軽装で、西大久保の
ロッテ球団事務所の扉を開けて、その中に姿を消した。
20分後、男は晴れ晴れとした表情で出てきたかと思うと、
「任意引退になりました。悔いはまったくありません」と笑った。
ギョロリとした目玉が一瞬細くなった。木樽正明だった。実質上のクビである自由契約より聞こえはいいが、任意引退もクビと大した変わらない。
「いろいろありました。でも僕はプロに入ってから、太く短くと考えていましたから、満足です」。日ごろのマスコミ嫌いを返上して、木樽は詰めかけた報道陣に精いっぱい明るく振るまうと、再び寒風吹きすさぶ師走の街に消えていった。そんな彼を玄関まで見送ったのは、球団関係者では西垣球団代表だけである。
プロ生活11年間で367試合に登板。112勝80敗、防御率3,05が木樽が残した記録である。「木樽は任意引退になった」社のデスクに電話で第一報を入れたⅩ記者は寒風の中で、「彼のいうとおり、本当にいろんなことがあったなあ。一匹オオカミだったからねぇ」とつぶやいていた。
一匹オオカミ木樽、波乱の野球人生を書くには高校時代「千葉・銚子商」にも触れなければならない。木樽は昭和40年の夏の甲子園大会で準優勝投手。秋の国体では優勝投手になり株をいっぺんに上げた。高校1年生時には右肩を骨折しながら誰にも知らせずに投げ抜いた。あとで知った監督が真っ青になったという根性の持ち主でもあった。木樽の実家は当時、従業員を40人も使う水産加工業者である。裕福な家庭の7人兄弟の末っ子。家族は全員、大学進学を強く勧めたが、それを振り切ってプロに飛び込んだのは木樽本人の意思だったという。「大学で4年間投げるより、高校からすぐプロに入った方がいい。巨人は好きだが、その巨人相手にシリーズで投げる方がもっと楽しい」とさっさとプロ入りを決めてしまったという。
「花の40年組」といわれたほど、この時の高校球界は人材が豊富で堀内「巨人」、森安「東映」、平松「大洋」、鈴木「近鉄」などがおり木樽の評価は彼らに比べると芳しくなく「スピードはあるが棒ダマ。カーブも曲がらない。むしろ打者としての素質の方が上」という声があったほど。事実、1年目の41年に甲府商から巨人入団の堀内が16勝2敗だったのに比べ、木樽は3勝8敗。ロッテの中心投手に成長していったのは4年目「44年」からである。その年、15勝9敗、防御率1,72「1位」、翌45年は21勝10敗でMVP。もちろん年俸はエースになってからうなぎ上り。連続20勝を果たした46年の更改では1800万円。投手陣では一番の高給取りにのし上がっていた。だが、この頃、知らず知らずのうちに「職業病」にむしばまれていた。右肩痛、腰痛とけんしょう炎。「外野を走っていた時なんだ。プツンと、まるでアキレス腱が切れるような音がしたので横を向いたら木樽が、うずくまっていたんですョ。その時は腰痛だったんだけど、あんな音がするもんですかね。僕は初めて聞きました」とは同僚の八木沢の証言である。こうして木樽は大阪の厚生年金病院をはじめ、和歌山・勝浦温泉病院、別府・帯刀電気治療所など、あらゆる治療所通いをシーズン中からやることになる。マッサージ、ハリ、きゅう、みつばち療法・・・。そして最後は金バリの打ち込み。やはり
酷使からくる職業病が「太く短い野球人生」にしてしまったのだ。チームメイトの某投手などは「適当に、これからは投げた方が身のタメだぜ」と忠告したという。だが、木樽は敢然として無視した。「精いっぱいやって、選手寿命が尽きたら、それはそれで仕方ないじゃないか」という考え方である。
職業病の他に、木樽は顔面骨折のアクシデントも受けている。49年3月の巨人とのオープン戦「静岡」でのことだ。5回に巨人・上田の投手ライナーを右ホホに受け「右ホホ骨陥没骨折」。幸い開幕には間に合ったが、ともかくケガには滅法強かった。なにしろ銚子商1年の時の右肩骨折では甲子園から帰京後に治療したほど不死身の体力の持ち主である。だが長年の持病となった腰痛にはついに勝てなかった。そしてこれが48年からロッテ監督に就任した金田正一氏との不和にもつながっていくのだ。腰痛完治の見込みがないと判断した金田監督は密かに49年暮れトレードを画策した。これが木樽を激怒させた。50年になるとシーズン真っただ中の8月下旬「腰痛で自信がない」という木樽と金田監督が衝突。「闘志のない人間はいらん。任意引退にする」までに両者のケンカはエスカレートした。金田ロッテになって3年目、ファミリー結成を至上とする総指揮官と一匹オオカミを貫こうとする木樽は、確かに両極端だった。KОされた木樽に金田監督が「なんだ、そのザマは」と激怒すれば、無言で扉をスパイクで荒々しく蹴り上げ、ベンチを出ていった木樽。こんな光景を何度見たことだろう。金田監督は「バカだ」「チョンだ」と選手を悪しざまに避難するが、翌日になるとケロリと忘れてしまう。ナインはみな、そんな監督の性格を知って「それ、また血圧が上がってきたぞ、さわらぬ神にたたりなしだ」程度ぐらいに行動しても木樽だけは違っていた。異常なまでのプライドが許さなかったのであろう。調子が悪ければ変化球で逃げる。本職のピッチング同様、「チェンジ・オブベース」の切り替えの出来る人間なら理解していたろう。木樽の性格は直情径行型だ。お世辞もいわなければ、変化球も投げないタイプだ。プロの投手である以上、ピッチングの幅を広げるため変化球の球種は年々、増やしていくものだ。だが木樽ときたら終始、直球が決め球だった。「スライダーもフォークも投げたが「仕方なしに投げているのだ」ともいったことがある。
29歳の若さで、退団ー任意引退。野球選手にとって、あまりにも寂しく悲劇的な結末である。トレード要員の通告を受けた後、西垣代表、金田監督とも会った木樽。一時は「お願いします」と身柄まで預けた。だが長池「阪急」を筆頭とする各球団の主力級とのトレード話はご破算。対象は二軍選手に向けられ阿野「巨人」、
世良「ヤクルト」との交換話が出た時点で、木樽はユニフォームを脱ぐ決意を固めた。「江川問題」で球界が騒然としている今シーズン「昭和54年」。同期の鈴木「近鉄」、堀内「巨人」は華々しく活躍するだろう。自由契約になりながら西武に拾われ、泥まみれで体当たりするプロ26年目の野村捕手。木樽だって不死鳥のようにあるいは再起していたかもしれない。表面上は職業病があったにせよ「太く、短く」のモットーを貫き通した木樽にも、真の男の姿を見ることができるのだ。
木樽が引退してもう3年の歳月がすぎた。
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山村勝彦

2017-03-19 14:20:02 | 日記
1977年

「兄貴には負けない」と童顔をほころばせるのは、クラウンライターがドラフト六位に指名した大鉄高の山村勝彦外野手(18)。まだ正式に入団決定していないが、浦田チーフスカウトが交渉に当っており、すでに時間の問題。同球団には兄の善則内野手がいるので、兄弟が同じチームで腕を競うことになる。球団が別なら定岡、河埜(ともに南海と巨人)というケースはあるが、同じカマのメシを食うというのは珍しいことだ。「見てくれましたか。ネエ、あの胸幅。がっちりとした足腰、大物の素質は十分なんですよ」と浦田チーフスカウト、指名こそ六位だが、ドラフト前から事前に話し合いがついていた。球団側の評価は二、三位クラスに相当する逸材。いまは他球団に指名されなかったことで同スカウトはほっと胸をなで下ろしている。第一回の交渉の一日は、あいさつだけにし事をあせらず慎重に進めている。勝彦君は兄の善則さんが、四十八年に太平洋(現クラウンライター)に一位指名されたときから「きっとオレもプロ野球の選手になるんだ」と心に決めていた。中学三年のときだった。そして兄と同じ大鉄高に進み、シーズンオフで善則さんが帰ってくると一緒にトレーニングをした。175㌢の身長は兄に3センチ劣るが、体重は78㌔で互角。父親の恒善さんが「パワーは兄より上じゃないかと思いますが・・・」というほどで、一年ごとの成長はめざましいものがある。大鉄高の三年間で本塁打二十本以上、通算打率も五割以上をマークしている。おまけに50メートルを6秒2で走る俊足は、兄よりも数段上ときているのだから、クラウンライターにとってはまさに掘り出し物というわけなのだ。シーズンオフになるといつも実家に帰って来ていた兄が、ことしは福岡に残り特訓を受けている。内野と外野でポジションは違うが入団すればライバル同士。勝彦君は「兄をしごいてやるつもりで楽しみにしていたのに残念。兄が特訓をしているなら、私も負けないように練習しなくては」と学校から帰宅する午後四時から、毎日約一時間半のランニングと補強運動をしている。自宅から約5㌔のところに黒鳥山公園がある。なだらかな丘、急な斜面、そして50メートルの階段もある。からだを痛めつけたあとは夜の日程が待っている。照明設備のある庭でティーバッティング、十一月の中旬からは父親の恒善さんと親子特訓を始めた。「いまから気持ちを引き締めています。兄は三年目で正ポジションを取ったが、私は二年ぐらいで一軍入りするつもり」と野球の師匠である兄をライバルに大きくはばたこうとしている。
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木村広

2017-03-19 11:58:51 | 日記
1977年

「一体、いつになったら一軍入り出来るんだろう」と、このところ、いささかあせり気味なのが、二軍のエースこと木村広投手(22)だ。まだプロ入り二年目。何もあせることはなかろうと思うのは常識的に過ぎるらしい。「何としても一日も早く一軍に上がりたい」という木村のイライラの原因をさぐってみたら・・・・。

木村は昨年、日大からドラフト5位で入団した。軟式野球の出身で、長崎県口加高校時代にはエースとして全国大会の優勝経験を持っている。硬式に転向したのは日大三年の後半からで、そのため東都六大学野球でも無名に近かったが「球も速いし、鍛えればモノになる」(毒島スカウト)と見た球団は、入社が内定していたリッカー本社の吉田社長を中村オーナーが自らが口説き落として、入団にこぎつけた。いわば「掘り出し物中の掘り出し物」(中村オーナー)だったわけだが、本格的なトレーニングを知らず、ゼイ肉が目立っていたからだも一年間で見違えるように引き締まり、今シーズンはどうやらプロらしい体格になって来た。投手としての駆け引きも一応はマスターしたし、速球のほかにシュート、カーブ、スライダー、シンカー、フォークと五種類の変化球を持っている。つまり「ファームのピッチャーとしては文句なしに水準を抜いている」(三浦ピッチングコーチ)わけで、そうなれば本人が「一日も早く一軍入りへ」と力試しにやる気持ちもうなずけなくはない。が、もっと大きな理由が木村にはあった。「義則ですよ。あいつは大学の一年後輩。球威ならオレも負けなかった。あいつが一軍で勝星をあげているのに、なんでオレがファームのままでいなきゃならんのかと、ちょっとフに落ちんのです」と木村。義則というのは阪急のドラフト一位投手・佐藤義則投手(日大)のこと。つまり木村は、後輩の活躍に、いたく競争心をそそられたということである。ウエスタン・リーグでは14試合登板と全試合の半分以上に顔を見せ、成績こそ4勝3敗と一つしか勝ち越していないが、ジュニアオールスターの出場はほぼ確定的と見てよい実力派。強心臓ぶりにも定評があり、死球をぶつけた相手を逆ににらみつけ「当たる方が悪い」としかったこともあった。「ストレートの切れもよくなったし、からだもしまって来た。球威は一軍の二線級より上だし、一軍でも通用するだろう」と見た三浦コーチは、前期の後半に一軍昇格を推薦している。後期スタートにあたり、先輩の野崎が一軍入りしたため、一軍のワクがなくなり、木村の昇格はまたお預けとなったが、木村は「こんなに一軍入りが難しいものなら、一度上がったら二度と落とされないような実力をつけて上がらなきゃ損だ」と、いっそう熱っぽく練習と取り組み始めた。がんばれ、希望を捨てるな、二軍のエース!
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