プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

中村常寿

2017-03-11 18:56:30 | 日記
1960年

五回裏難波が代打に起用されると中村(常)はスタスタとロビーへもどった。またたく間に報道陣がとり囲む。太いマユ、ヒゲの濃い顔。たんたんと質問に答える。「カーブがうまくきまった。2ストライクをとったあとはほとんどカーブ。それに肩をこわして以来はじめて使ったシュートが生きた。飯田さんがこのシュートにうまくかかってくれてね」「九回まで投げる余力があったようだが」「このへんがいいところでしょう」「苦しかった回は」「スコア・ブックを見せて下さい。ああ、四回・・・。飯田さんに三塁打されたときです」「プロ入り初勝利の気持ちは?」「だってまだ試合終わっていないでしょう」どっと周囲から爆笑が起こる。「着がえますが、いいでしょうか」と立ち上がった。中村は四月中旬、立川キャンプで行われた巨人若手と米空軍部隊との試合前、一塁手をつとめてボールを下手から投げて、肩を脱キュウ。豊島区の吉田接骨医を訪れたときは「オレの野球生活もこれで終わりか」と思ったという。「クヨクヨしてもダメだと思い、痛い肩を使わずに練習した。つまり走ることです」そのうちに肩の痛みはウソのようになくなり、五月二十五日。対中日戦(後楽園)に投げたが自信らしい自信は二日対大洋戦(川崎)で投げてからだそうだ。
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大矢根博臣

2017-03-11 18:47:13 | 日記
1960年

大矢根はナインの握手攻めにあいながらダッグアウトへ引きあげると、ベンチの一番すみでタバコを一服。巨人から一勝をあげた五月二十六日(後楽園)は脱兎?のようにとび込んできて「ああ、疲れた」ベンチにながながとあお向けにねそべってしまったのにくらべると格段の差。カメラマンに呼び出されて、ていねいにタバコをベンチに置いてグラウンドへ出た。「きょうはこの前(六月六日・中日)より調子は悪かった。とくにはじめは気負っちゃったが、バックが二点とったでしょう、ずっとらくになっちゃって・・・」どっしり前足をひろげてしゃべる口調はゆっくり。「ふしぎと巨人相手のときはファイトがわくね。きょうはシュート、落ちる球がよかった」強気を売り物の大矢根らしく言葉はあまり出てこない。「四回森が国松のホームランになる球をとってくれたでしょう。試合のヤマだった。国松にはあまり打たれていないから、外角へはずしてから落ちるやつで勝負しようと思ったんですが、ど真ん中へいっちゃった」-だれを一番マークした?の質問にも「王君ですね。二つも四球を与えちゃったでしょう。打たれてはいないんだけど、しぶとくくいついてきそうでなんとなくこわかった。長島君はなんとも・・・」かざる様子もみせず正直に告白した。「後半はずっとらくになった。三点でしょう」さもあたりまえのようにいってのけたあたりが大矢根らしいただ一つの言葉だった。中日は後楽園ノイローゼになっていた昨年にくらべると、ことしはうってかわったような活躍ぶりだが、その原因をこの大矢根がつくり出したようなもの。「巨人のときはどうも必ずといっていいほど調子がいいんですよ」といってテレくさそうな笑いでごまかしてしまった。杉下監督が報道陣を前をラバー・コートを小わきにかかえて振り向こうともせず小走りにダッグアウトを出ていくときは、もう吸い残したタバコのことは忘れているようだった。
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大矢根博臣

2017-03-11 18:31:14 | 日記
1960年

長島のサヨナラ・エラーをひきおこす三塁ゴロを打った大矢根は必死に一塁へ走った。「ちょっと見たら長島がファンブルしているのでムチャクチャに走ったよ・・・」決して足の速い方ではない大矢根だから気ばっかりあせって一塁ベースの近くではヨロヨロしていた。長島がファンブルした上にあわてて送球したのが左へそれ、王の足がベースからほんのわずか離れていなければアウトだったろう。中日ベンチは大さわぎ。日ごろ冷静な牧野コーチまで「やってくれたよな」とわめいている。大矢根は森にかかえられるようにしてベンチに帰ってきた。いすにドスンとすわって「へばった」しかしすぐ「いや、それでも後楽園で巨人に勝ったときよりずっとましだ」といった。そういえば後楽園のときはベンチへ帰ってくるなり、長いすにながながとねっころがりしばらく放心状態になっていた。九回の二死一、三塁で打者大矢根となったとき、ネット裏記者席では「大矢根の代打はだれだろう」とみな盛んに考えていた。ところが杉下監督が長い間大矢根と話し合った結果、大矢根が打ち、貴重なサヨナラ・ゴロを放ったわけだ。杉下監督にきくと「どうだと大矢根にいったら、どっちでもいいや、というんだ。そこで、じゃあまだ投げられるかというと、それは大丈夫です。と答えたので打たせたんだ」とのことだった。気の弱い投手の多い中日の投手陣で、いちばん気の強い男として勇名。杉下監督がマウンドへいっても、すぐマウンドをおりたがらない投手としても知られている。「調子はよかった。同点にしてから気も楽になり、のびのび投げた。はじめはシュートを主に、あとはシュートとカーブを半分ずつくらい。自信はあった」そうだ。今シーズンの三勝のうち巨人にはいずれも完投の二勝、中日に新しい巨人キラーが現れた。
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荒船洋資

2017-03-10 22:21:38 | 日記
1972年

「プロ野球は、努力だけではダメですね。運、体力がないと・・・」と東映の荒船が、この日、球団に退団届けを出し、受理され任意引退選手になった。荒船は三年前、埼玉・深谷商から入団。ごく普通の選手であったが、元運輸大臣の荒船清十郎さんをオジにもっている関係で一時は脚光を浴びたものである。童顔でおとなしく、ナインから清十郎と呼ばれ親しまれていた。「ボクは体力(1㍍78、73㌔)もないし、素質もない。だけど何か目標に向かいたいのでプロにはいったんです」イースタン・リーグでもたまにしか出ない。荒船は、努力したが、ことしのキャンプで胃かいようになり、ますます目標が遠のいてしまった。「このままの状態(ファーム暮らし)でいいのなら、東映はキャッチーも少ないしいられるけど、そんなのはボクもいやなんです。自分なりに努力したし、もう悔いはない。これからはオヤジの仕事をするんです」荒船の父親、靖雄さん(56)は埼玉県秩父市で織物業を営んでおり、長南の荒船はゆくゆくは会社を継ぐことになる。「ほんのちょっぴり不安はありますがデッチから鍛えてもらう」とこれからのことについていう。野球では成功しなかったが、清十郎は、立派な社会人になるだろう。
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片岡建

2017-03-10 22:09:47 | 日記
1975年

「野球人生、もう一度、一からやりなおしです」-ニッコリ笑って日ハムのバッティング投手・片岡建選手(28)が、現役を引退。先乗りスコアラーとして第二のプロ人生を歩み始めた。四十五年、リッカーからドラフト一位で入団したのに、左足肉離れを再発。結局1勝もできず大方の期待を裏切ったが、持ち前のスピードとコントロールはバッティング投手で花開き、張本の恋人といわれる名物選手となっていた。「ハリさんの移籍とともに僕も現役を引退ですよ」ごくろうさまでした。生まれたて、ホヤホヤの先乗りスコアラーさんは、多忙なオフを送っていた。六日、神奈川・金沢文庫の自宅。机に向かって、ことしのチーム成績の整理だ。実は、スコアラーの仕事は三年ほど前から手を染めている。バッティング投手との二足のワラジ。張本の恋人としての役割は、それほど重大だったことになる。「ユニホームを脱ぐことには別に抵抗はなかったです。これからすべてを勉強しなきゃいかんという気持ちだけ。ただ、こんな若いのにあえてボクを先乗りスコアラーに選んでくれたことには責任を感じますね」専任の先乗りスコアラーとしての一本立ち。「バッティング投手として選手も横から見たきた目。見習スコアラーとして出す報告書の確かさ。そのへんを買われたんでしょうね」(岩本ファームディレクター)入団時にはドラフト一位とチヤホヤしておきながら、ひとたび不運な故障に見舞われると「契約金ドロボー」とののしる冷たい世間の風も、十分に知りつくしている偵察情報に重点を置く大沢野球が自信を持って送り出す偵察隊長だ。その新米の先乗りスコアラーさんが最近頭に来てること。彼氏張本のことである。「セ・リーグの投手の中に、3割はもう無理だろうなんていってる人がいる。バカにしてたらやられるよ。ことしだって、技術的にはどこも悪くなかった。成績が悪かったのは、他にそれだけ心配事があったということになる。打たれてから泣いたって知らんよ」なるほど恋人だけのことはある。四年間、張本のために投げつづけた球はざっと約5万2千球。試合前にその日の好、不調を予想し、それがピタリと当るのは毎度のことだった。その張本の移籍とともにやっと二足のワラジにサヨナラをする。かたわらにルイスビル製の破れたグラブ。四年間、バッティング投手をつとめた間、使いつづけたものだ。「これもちょうど、引退の時が来たんだね」-初めて見せるしんみりした表情。これからはペンを持っての床ガラスだ。まだ独身。「いままでだってお嫁さんが見つからなかったのに、今度の仕事は半年も出ずっぱりで、ますますむずかしくなるなあ」0勝1敗。投手・片岡のこれがプロ成績のすべてだ。
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佐藤敬次

2017-03-10 21:47:30 | 日記
1971年

ロッテ、南海両球団の間で進められていたロッテ・佐藤敬次投手(21)と南海・里見進捕手(28)の交換トレードが、九日午後、正式に両球団事務所で同時に発表された。ロッテは、昨年のトレード会議で里見捕手を南海に移籍させたが、大沢監督が同選手の復帰を強く要望したため、若手のホープといわれる佐藤投手を放出することにして移籍を実現させた。佐藤投手は、四十四年に大宮工からロッテ入り、公式戦出場は四十五年に2試合に登板しただけだが、上手投げの本格派で、将来性が期待されていた。
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ミケンズ

2017-03-08 21:29:34 | 日記
1960年

先発のミケンズは試合前きげんがよかった。島田に「大丈夫? 」と肩をたたかれると「ダイジョーブ。うまくやるね」とカタコトの日本語でこたえた。ボトラにくらべ日本語をおぼえるのは遅かったが、最近は愛娘ショーンちゃん(2つ)の「おやすみなさい」「おはよう」とパパを上まわる上達ぶりにすっかり刺激されて日本語がうまくなった。上きげんなのは先発投手となったからだ。「アメリカではぼくはずっと先発投手。先発なら七回ごろまで投げてリードしておればすぐリリーフ専門にリレーする」だから先発は得意だというわけ。こんなところは実にわり切っている。リリーフはいやだから三日休んで先発させろ、とづけづけいうし、三日の南海十九回戦でも勝利投手になるためにもう投げないといいだしたり、千葉監督をさんざんてこずらせ「外人選手はわり切っているがここまで個人主義に出られては・・・」とあきれさせたりする。この日も六回2-0とリードすると「もうぼくの責任はすんだ。リリーフを出せ」といいだした。瀬口通訳はミケンズがこういいだすとベンチをとび出してかくれてしまった。通訳がいないと話にならないので、ミケンズはシブシブ投げた。「疲れるのはぼくが一番よく知ってるんだ。それを知ってもらうために・・・」というが、千葉監督は「ミケンズしかいないという現在の投手陣をもう少し理解してももらわなくては」とこれもしぶい顔。それでも完投の味はまんざらでもなさそうで「シンカー、カーブそれにチェンジ・アップがよかった。九回呉山に打たれたのはぼくの失投。あとの安打は相手がうまかった。八、九回は少し疲れたね。それにしても九回一、二塁で関森が二死後中前の小飛球をよくとってくれた。おかげで完投できた」関森をつかまえて抱きつかんばかりに握手攻め。「ミック」の愛称でしたしまれている彼はもう十年選手。ロサンゼルス州大を卒業して二年間陸軍にいて、そのあと3A級に八年間。三十四年に近鉄入りしたが、三十三年にポートランドで七勝をあげたのがアメリカでの最高勝利数。三十四年は近鉄で十一勝、今シーズンはこの夜ではやくも十一勝をあげた。二十九歳。
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スミス

2017-03-08 21:00:45 | 日記
1972年

ロッテー南海の4回戦の六回裏、ロッテの攻撃を終えて、南海の助っ人スミスが投手としてはじめてマウンドにあがった。米大リーグ時代、リリーフ専門で2勝4敗のほか、3Aでも通算36勝20敗の投手成績を持つスミス。南海入団の時も「投手もOKネ」と公言していた。それだけにスタンドの観衆も「ピッチャースミス」のアナウンスにはびっくり。左翼守備を佐藤道と交代してマウンドへあがったにわか投手スミスに拍手を送っていた。が、最初の打者、アルトマンに投げた1球目をみごと右前へはじき返され、あっさり降板。再び佐藤道と交代してしまった。ワンポイント登板とはいえ、投球数たったの1球。それも打たれて、スゴスゴ左翼へ引きあげるスミスにスタンドはまた拍手と声援を送る。このスミス起用は、来日以来、野村監督が考えていたもので、「左投手がいないから、今後もこういったケースで起用する考え」という。しかし、交代して左翼を守らせた佐藤道の方はたいへんだったようす。「いつ打球がくるか、ドキドキものでした」とタメ息まじりに話していた。ところで、当のスミス投手はすましたもの。「うまく打たれたが、つぎはダイジョーブよ」と胸を張ってみせた。
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巽一

2017-03-07 22:03:58 | 日記
1960年

プロ入り初完投シャットアウト。巽はうれしくて仕方がないだろうと思いながらロッカーへ。五分ほどしてからフロから出てきた巽をみたら全然笑っていない。勝っても負けても表情のかわらないのが彼の特徴。「きょうは何点ぐらいの出来?」「・・・・。」「調子はよかったろう?」「ええ、悪くはなかったんですけどね、この間(14日対阪神八回戦)勝ったときの方が直球は速かったですよ」「カーブが少なかったのはどういうわけ?」「最初のうちはたくさんほうっていたんですけど、うまくきまらないので途中から直球とシュートばかり投げました」根来捕手もいっていたが、途中からカーブの数をへらしたのは直球が速くしかものびがあって十分威力があったためではないかと思う。広島の打者が荒いバッティングで、高目のボールに手を出していたので楽だったが、いいかえれば高目の直球で打者を釣れるだけのスピードを持っていたことを意味している。おそい球は選球することはやさしいが、球が速いときはボールに手を出しがちなものである。「内角低目の球が少なかったのは?」「あれをほうると浜崎さん(巨人コーチ)にしかられるんですよ。サウスポーの一番いい球は右打者の外角低目にコントロールされたシュート・ボールだといわれましてね。内角へ投げるとげんこでゴツンなんです」浜崎コーチ、いくら後輩がかわいいといっても商売がたきである国鉄の投手にこれほど気をくばっているとはまったくおそれいりました。「一番よかった球は?」「シュート・ボールです」「完投シャット・アウトの気分は?」「ええ、なかなかいいです・・・」「相当自信をつけたんじゃないか?」「・・・・・」会心の投球をしたあとの投手にしては口がおもい。ハッタリでもいいからもっとしゃべればいいのにと思う。そばにいた宇野監督いわく。「しんぼうのしがいがあったな。自信がつくようにうんとほめて書いてやれよ」
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迫田七郎

2017-03-07 21:13:04 | 日記
1964年

「迫田ってどんなピッチャーかい?」なに、ひねくれダマだって? それで速いんかネ、おそいんかネ」メンバー表を見ながら、別所コーチがケゲンな顔をした。迫田は昨年鹿児島・照国高からはいったテスト生。イースタンでは金田二世の半沢(9勝4敗)を上回る12勝4敗の勝ち星をあげ、ナチュラルに沈むタマを武器に「ひねくれダマの迫田」の異名でその変化球には定評があった。来シーズン期待の一番手として、東京が、オープン第一戦に起用したのもうなずけよう。「フォームがだいぶラクになりましたから・・・。腰の振りを小さくしてステップを開きぎみに直したんですが、それがよかったようです。シーズン中よりずっと投げやすくなりました」とニキビづらをほころばす。今シーズンは公式戦には12試合に登板したが、いずれもリリーフばかりで0勝1敗の星。「自分としてはやっぱり先発のほうがずっと好きです。きょうの先発は二、三日前からいわれてたんで乗り切ってきました」とケロリとした顔。イースタン時代はマウンド上でニヤニヤしたり、バッターをなめたような態度をみせるため「なまいきな野郎だ」といわれていたが、もともと図太い性格らしい。ことしは八月十日すぎに過労で一週間ほど休んだのがたたって、公式戦は八月五日の西鉄戦を最後にファームにおりたり、一軍ベンチをあたためるなど不本意なシーズンだっただけに「二年目の来年こそは・・・」のファイトを人一倍持っているようだ。桑田や近藤和はどうだったと聞くと「へへへ・・・」と逃げ出した。1㍍75、70㌔、十九歳、右投げ右打ち。
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菅原紀元

2017-03-05 20:38:00 | 日記
1964年

第二試合、菅原が登板すると大洋ベンチはドッとわいた。別所ヘッドコーチは「あんなピッチャーがいたのかい。どんなタマを投げるの」とさかんに岩本コーチらにきいていた。別所ヘッドコーチが知らないのもムリはない。菅原は一昨年の春、埼玉県の川口球場で練習中、醍醐捕手の打ったタマを頭部に受け、一時は再起不能とまでいわれた。しかし手術もやり、あらゆる苦難をのり越えカムバックの道をきりひらいた。「どんなことがあっても再起してみせようと思った。とくにこの世界では一度ボールが当たると選手生活を断念しなければならないような懸念があるので、そういうものをなくするためにもがんばった」と根性は人一倍強いものをもっている。二回投げ、自責点1は初の先発としてはリッパな成績である。「まさか先発するとは思ってもいなかったので、真田さんから投げろといわれたときは緊張した。かたくなり桑田さんに打たれたが、味方が2点とってくれたのでラクになった。しかし三回になったら足がガタガタしてきた。やはりまだ下半身を鍛えなければ」と反省もわすれない。真田コーチは「まだ練習をはじめて日があさいので、下半身が弱い。これから練習を重ねるにしたがってスピードもでてくる。もともとカーブ、ドロップはよいものをもっているので、下半身さえ鍛えれば、来シーズンはそうとう働いてくれるだろう。西、妻島とそれにこの菅原には来年10勝ずつを期待している」という。1㍍82、80㌔、東京・東洋商高出身、右投げ、右打ち。
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長南恒夫

2017-03-05 20:04:16 | 日記
1964年

東映の三番に抜てきされて左右に殊勲打を飛ばした長南は、ごつい顔と反対にいたってはにかみ屋だ。スタンドの豆ファンにせがまれ照れくさそうに握手していた。三十七年、尾崎、安藤元らとともに、東映入りしたとき、水原監督が「やわらかいフォームをしている。なかなかいい」とほめていた。しかしいまひとつスピードがなく、昨年秋、多田コーチのすすめで外野手に転向。この秋から一塁にポジションがかわった。いわば急造一塁手。東映はノドから手がでるほど一塁手がほしい。そのためのコンバートだったが、長南はどうやら合格しそうだ。長南は今シーズン113打席で打率3割1厘。もともと打撃はいい。藤村コーチは「左打者なのに左翼へ流してばかりいる。もともとからだがやわらかいのだから内角球を右に引っぱることもできるはずだ。いまのままではまだパンチにとぼしい。だがきょうのホームランはよかった。こんごもこのようなバッティングをしてほしい」と長南評を語っていたが、本人は「藤村さんや張本さんからいろいろアドバイスされていわれたとおりにやっている。いちばん心がけているのは、打つときの手首の使いかたで、これでパンチをつけようと思っている。左へばかり打っていたのは外角ばかり投げられたからで、別に内角が弱かったわけではない」と藤村コーチの評とはちがったことをいっていた。長南の話題は一塁のフィールディング。それもボロをださずにやっている。来シーズンは、一塁手の定位置を確保することだろう。1㍍79、75㌔、安房水産高出身、左投げ、左打ち。
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三好守

2017-03-05 09:51:02 | 日記
1965年

サヨナラホーマーをとばした殊勲の三好は中西監督に「若年寄り、気合をいれたら打てるだろ」と大声で気合いをいれられテレくさそうに頭をかいた。(若年寄りは三好のニックネーム)年の割りにもう一つファイトがみられない三好がこの日4打数2安打2打点、中西監督がびっくりするような活躍をした。「二回の二塁打はカーブ、九回のホームランは直球でした。豪快なホームランだって・・・それよりレフトに打った二塁打のほうがよかったでしょう。感じよくバットが出たです」三好が本塁打より左翼へ打った二塁打を喜んだのは理由があった。身長1㍍81、体重81㌔の三好は力では西鉄のトップクラス、だがこれまではこの力がわざわいしていた。力にたよりすぎて強引にひっぱるバッティングしかできなかったからだ。新任の花井コーチがまっさきに指摘したのはこの日だった。チームとしての練習は休みだった十六日も三好は百道(ももじ)の合宿所にある室内打撃練習場でファームの投手を相手に百本近く打ってきた。「ぼくもことしで四年目、来年レギュラーになれないとダメだと思うのです。このオープン戦でその足場を築きたいと考えているのです」という三好の目にはファイトがあふれていた。「あいつは足も速いし守備もうまい。そのうえ野球のセンスもある。やる気になればやれるのだ」中西監督は三好の活躍に格好をくずしていた。
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緒方勝

2017-03-05 09:29:30 | 日記
1968年

ロッカールームは物音ひとつしなかった。しぼれば大粒のしずくがボトボト落ちそうなユニホームを着たまま、緒方は物をいわぬカベをみつめていた。肩からしたたり落ちる汗。「まだまだわかりません。勝負はゲタをはくまでわからないから・・・」緒方はポツリと口を聞くと、またカベに視線を向けた。五分、十分・・・。緒方は動こうともしない。かすか、ほんのかすかだが、風に乗ったグラウンドの歓声がロッカールームにしのびこんでくる。何を考え、何を思い出しているのだろうか・・・。「ガチョン(緒方の愛称)勝った、勝ったヨ。石戸が押えた」河村が、石岡が大声でロッカールームにとび込んできた。緒方は立ち上がった。汗が顔をおおう。「オレの初勝利は初登板だった。あの感激はいまでもわすれないヨ・・・」河村が手を差しだす。握り返す緒方。ノッポの石岡がほほえみを送る。頭をさげる緒方。二人とも、とっくの昔に味わっている初勝利の快感。だが、緒方の顔は地面のように青白い。昨年までの六年間は生きているバッティングマシンといわれるバッティング専門投手。夢にまでみた勝利投手の味を七年目に現実にして笑いも涙もストップしてしまったのだろうか。三人しかいなかったロッカールームに、ナインが続々と引きあげてくると、笑い声と歓声がガンガンひびく。緒方の手は、そうした連中からつぎつぎに握られていく。バッティング投手から第一線へ引き上げてくれた山根コーチ、逆転打を中前にとばした高山には「ありがとうございます」「サンキュー」と白い歯をみせて緒方のほうから手をのばした。ロッカールームのにぎわいに、勝利の味がようやく燃え上がってきたのだろう。だが、緒方はいった。「やめなくてよかった。やっていてよかった・・・」カクテル光線の消えた球場をバックに、ポツリと口を聞いた時は、数分前の笑いはないく、青白くひきつっていた。そして、そのホオにキラリとするものが流れていた。宮崎県児湯郡新富町には母親スミエさん(65)がおり、大分・別府には一月十一日に結婚した光子夫人(28)がいる。七年目にやってきた感激の夜。二か所ともけたたましい電話のベルが鳴ったことだろう。
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東条文博

2017-03-05 08:55:48 | 日記
1972年

ラジオ局の係り員があわてた。浅野のヒーロー・インタビューが終わりに近づいたころに、東条はバットとジャンパーをこわきにかかえて、さっさとベンチを出ようとしていた。そのウデを引っ張り込んで「打のヒーローですからお願いします」-が、その返答も「ボクはいいですヨ」だった。五回の一死一、三塁で先制の二塁打をとばしたというのに。結局はムリヤリにお立ち台に立たされたが、味もそっけもないやりとりだった。「浅野が一生懸命に投げてたから、打たねばいかんと思ってました。会心の当たりでした。調子ですか?悪くはないんですが、たまにしか出ませんから・・・」文字にすれば活気がある内容だが、鹿児島なまりの低い声でボツリボツリ・・・地味だった。東条によると、マイクをつきつけられたのは、プロ入り八年目ではじめてだった。だが、この東条、マイクへの話とは逆に、ハラの中では「やったゾ」という気持だったに違いない。この日が、四度目の先発メンバーだったのである。それは、船田が移籍してきたためだった。一昨年、盗塁王となり、チームではめずらしいタイトルホルダーも、キャンプの段階で、もう控えに回されている。それでもくさらなかった。花やかなふんいきをもつ船田と対照的に、黙々と練習を重ねた。シーズンに入ってからも、代走や守備固めでの出番に耐えた。試合前の練習でも、他の選手の二倍は走っている。船田だっていつかは調子をくずす。そのときはオレが・・・。そんな気持ちを東条はまた、ポツリといった。「辛抱すること。ボクらはくさったら終わりです」東条バンザイとクラブハウスまで、あとにつづくファンの間でのことばだった。「きょうはトウジョウがNO・1」ロペスもロバーツも同じことをいった。追加点がとれたのも東条のためという意味だった。この東条の起用。三原監督によると、連戦で疲れている城戸を休ませるためだった。「こんなに打つとわかっていたら、一番にすえています」とは、試合後のうれしい誤算の弁である。ヤクルトの連敗を食いとめたのは、大むこうをうならせる三原マジシャンでなく、地味な男の努力の積み重ねだった。
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