プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

橋詰文男

2017-03-19 11:05:24 | 日記
1960年

先発は東映・金山、阪急・秋本。秋本は二十一回戦で二打席連続本塁打を打たれているトップ島田にしょっぱなヒットされて不安な立ち上がりだが、先取点は阪急があげた。二回増田が中前安打、岡本の二ゴロで二進し、中田の連続内野安打、一、三塁となったあと岡田の三ゴロで増田がかえった。しかしこれは三塁西園寺がホームに投げるのをためらうボーン・ヘッドでひろったようなもの。東映もその裏無死から吉田右中間二塁打、山本(八)四球で一、二塁の好機をつかんだがラドラがバント失敗で三振。保井監督代理もここで秋本をつぶそうと思ったか不調と思えない金山を引っ込めて代打策に出た。しかし岡島、高木ともに秋本のカーブとシュートにまどわされて凡打に終わり、この好機を生かせなかった。六回阪急は中越二塁打の田中(守)が衆樹の中前安打でホームをついたが、中堅ラドラの好返球で直前アウト。東映はその裏稲垣の遊撃右の安打、西園寺の左翼線二塁打で無死二、三塁のチャンスだが吉田三振。ここでリリーフした足立にも山本(八)が投ゴロと粗雑なバッティング。幸運にもラドラの連ゴロ失で同点とした。東映は八回三人目の米田から稲垣が右前安打、西園寺の三ゴロで稲垣は二封されたが西園寺二盗のあと、吉田が右前にたたいて逆転した。いままでチグハグな攻撃ぶりをみせていた東映がやっと有効打が出て得点に結びつけたわけだ。三回からリリーフしたプロ一年生の橋詰はシュートとカーブをうまくミックスして阪急をかわした。
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福永栄助

2017-03-19 10:28:37 | 日記
1972年

バッティング投手から社長見習いへと、みごとな変身をとげた人がいる。今季いっぱい、ヤクルトで打撃練習の投手をしていた福永栄助さん(24)だ。故郷の熊本に帰り、実家の商売である材木会社を継ぐことになったもの。新天地で力いっぱい仕事をしている福永さんは、野球への未練もさっぱり捨て去った。他人は、これを華麗な転身という。だが、こんな幸運にめぐまれた人はそうざらにはいない。「練習台だった四年間のムダを取り返したい」という福永さんは意欲的に毎日を送っている。ゴルフに明け暮れる華やかな陰にあるもうひとつのシーズンオフの姿がこれである。

熊本県の玉名郡長州町。東京都違って、排気ガスも騒々しい車のクラクションもない人口一万四千人の小さな町。そのほぼ中心にある「福永木材店」に元バッティング投手はいた。社長は父親、福永はそのあとつぎだ。「野球?ぼくがやっていたのは野球じゃないんですヨ。練習台というやつ。まあ、ぼくらみたいな男がなくちゃ成り立たないとは思うけど、いま考えると、ムダな四年間でしたねえ」四十四年、西鉄(現太平洋クラブ)に入団。中西監督(現ヤクルトヘッドコーチ)に「カーブの切れは抜群。将来はエースだ」とタイコ判を押された。が、福永のたどりついた先はバッティング投手。一昨年暮れにはヤクルトに移ったが、ここでもローテーションにははいれなかった。「野球の話はもうやめましょう。四年間の空白を一日も早くとりもどさなくてはいけないんですヨ。野地板(屋根の下張り板)、貫(柱と柱との間をつなげる小柱)など、材木の種類も覚えなきゃならないし、ソロバンもぼつぼつ練習しとかなきゃあ。いま必死ですヨ」球界で下積みを続けていたせいか、桧、杉など材木のスターよりも、野地板や貫ら、裏方さんの名前のほうに愛着がわくという。「貫にしても、大貫、中貫、小貫ってあるんですヨ。家が違ってしまえば、こうしたやつはかくれてみえないが、これがないと出来上がらない。どんな所にも、スターと裏方は同居しているんですねエ」きびしい生存競争に負けたとはいえ、こうしたところに気がつくあたり、社長見習いの第一歩はまず合格点。従業員の将来の社長評もすこぶるいい。「野球は四年前だったが、この商売は一生ですからね。オヤジに代わってもっともっと稼がなきゃあ」社長見習いは、トラックの助手に早替り。注文を受けた材木を満載して威勢よくとび出していった。ことし球界を追われた同期生は多勢いる。が、福永のように再出発に好スタートをきった男は何人いるだろうか・・・。「そうですよ。大量点を背負ってマウンドに上がるようなものですからね、時には苦しかったきょ年までを思い出して・・・」野球話はいやといいながら、社長見習いの抱負には、やはり元バッティング投手が生きていた。
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前岡勤也

2017-03-19 10:03:11 | 日記
1964年

新宮高時代、金田二世とうたわれた前岡が自由契約になった。投手を廃業して、外野手に転向したが、俊速だけではどうしようもなかった。名古屋のボーリングセンターに就職して第二の人生のスタートをきったのは喜ばしい。スコアラーから現役に転向した佐々木、法政二高時代は柴田(巨)是久(映)と三羽ガラスといわれた的場・日大の強打者だった会田、小粒だがピリリとしていた今津といった連中が、ユニホームをぬいだ。今津あたり、まだ働けるのに、高給のため「経営合理化」の犠牲になったのはさびしい。
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スミス

2017-03-19 09:53:09 | 日記
1972年

南海ホークスの新山球団社長は、二十五日午後四時から大阪球場内の球団事務所で、ジョーンズにつづく強打の黒人、元大リーガーのウイリー・スミス外野手(32)=1㍍83、81㌔、左投げ左打ち=の獲得を発表した。

この日早朝、帰米中のブレイザー・ヘッドコーチから野村監督に「球団および本人に内諾を得た」と国際電話がはいり、球団ではただちにコミッショナーに対して調査を依頼した。米コミッショナーを介しての調査で支障がなければ、ブレイザーが正式契約を結ぶ。同選手は一月末に来日してキャンプから参加する予定。野村監督は「左翼で三番か五番を打たせたいが、投手出身でショート・リリーフもできるということなので場合によってはワンポイント・リリーフにでも使いたい」と話しており、もし実現すれば来日外人初の投打二刀流となる。ブレイザーが現地のスカウトに聞いたところによると、スミス選手への評判はかなり高いものだったという。「バッティングは大へんなものらしい。大リーグの経験も長いし、ことしは3Aで3割5分も打っている。クリーンアップを打てると思う。それにことしも短いリリーフなら投げていたというし、ウチが左が村上と上田の二人だけだから、おもしろいぜ」発表に同席した野村監督も、懸案の外人が決まってホッとした表情だ。現実には野手として獲得したわけで、投手としては評価をしていない。それなのに、自分からワンポイントの話を持ち出すところなど、まさにごきげんという形容がピッタリ。来季の南海、Aクラス復帰の足がかりは、やはり打倒阪急ーとくに下手投げの足立、山田の攻略である。その意味で、強力な左打者が一枚加われば攻略の可能性が大きくなる。「富田をサードにまわし、門田を四番にすえて・・・」と、来季の青写真がつぎつぎに野村監督の顔に描かれていくようだ。「スミスに関する心配は守備。肩は心配ないと思うが、守備範囲、足が心配や。けど、広瀬がいるから助けてくれるやろ」そのスミス、米大リーグ通の藤江清志氏(元南海渉外課長)は「戦力としてもプラスだが、それ以上にまじめな選手だから、南海にとって大きなプラスでしょう」という。1960年にプロ入り、十二年のキャリアを持つスミス。妻のクレオサス夫人(27)と長男スター君(9つ)次男ウイリー・ジュニア君(8つ)の家族とともに来日する。巻き返しをめざす南海で、どんな助っ人ぶりをみせるだろうか、注目される。
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妻島芳郎

2017-03-16 22:27:09 | 日記
1962年

出身 昭和十三年十月九日、東京生まれ、二十三才。
現職 大毎オリオンズ、投手。
寸評 細身だが、スリークォーターからの外角低目速球と鋭いカーブに威力がある評判ルーキー。
学歴 三十二年日大二高卒。
球歴 日本通運に入社。堀本(巨人)が日通にいた当時はパッとしなかったが堀本がプロ入りするとが然頭角を現しだした。高校時代投手としての経験はあまりないが、日通に入ってから本格的なコーチをつけノンプロ球界有数の投手にのしあがった。気が弱いのが唯一の欠点でこれさえなければコントロールもいいし、角度のある球をもっているので期待できる。
趣味 映画
現住所 東京都中野区朝日町22
家族 五人兄弟の次男
投打 右投右打
身長・体重 178㌢、70㌔
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高垣義広

2017-03-14 21:50:49 | 日記
1977年

ライオンズは、まだ勝ち続けている。十三日の南海戦から平和台を舞台にこれで5連勝だ。こんなことは昨年はもちろん山賊野球の一昨年にもなかった。つまりは四十九年五月の6連勝以来実に三年ぶりのことだ。山笠名物の追い山は終わった。が、山笠シリーズをきっかけに突っ走り始めたライオンズのお祭り野球は、まだまだ終わりそうにない。あの慎重居士ナンバーワンの鬼頭監督までが、とうとう台乗りでオッショイ、オッショイ。「勝つ時は、だれ(相手投手)が来ても勝つですよ。例え鈴木が来てもね。出来ればこのまま(オールスター休みなしで)行きたいよ。ピッチャーだってローテーション通りだし、別に無理はさせてないからね。これからも一つでも二つでも勝ちたいでーす」先発の野崎がプレートに足をひっかけ、腰を痛めて突然引っ込んだあと、三回一死二塁のピンチを引き継いで無失点のまま六回まで押えた高垣が今季初勝利。七回から九回までを分担した山下が4連続セーブポイント投手だ。高垣は大洋時代の四十七年十月三日、ヤクルト戦に救援で勝って以来五年ぶりのプロ通算4勝目だ。「いつ以来かも覚えてなければ、いくつ勝ったかも記憶にないんです。僕らは、とにかく点をやらないように投げればいいんだから・・・」と、およそプロのガメツさとはほど遠い投手哲学を披露した高垣だが、少年ファンに囲まれて握手攻めにあい、同僚たちに祝福されると、さすがにうれしさを隠せなくなった。「ありがとう」「ありがとう」の連発で、ついには声がかかる前に「ありがとう」の先制攻撃。これで六月二十一日の近鉄戦以来3試合連続9回1/3の無失点である。「低めに内野ゴロを打たせる球を集めました。シンカー気味の球がよく決まりました。近鉄とはオープン戦でもよかったし、一発がないチームだから比較的投げやすい相手だと思ってました。チームのムードは最高だし、出たら一生懸命投げるだけです」そんな高垣を救援した山下も、ことし大洋から一緒に来た同窓生だ。だれが来ても勝てるチームは、同時にだれが(マウンドに)行っても勝チームのはず。いまのライオンズの形がそれである。この日3打数2安打で3打点をたたき出した基も言う。「ナインは連勝記録なんて教えてやしませんよ。ただがんばろう、いい野球をやろうと考えてるだけなんです。土井さんもよく打っとる(6試合連続打点、2試合連続本塁打)し、ピッチャーもガッチリと投げてます。みんなムードに乗って走ってますよ。これが本物かって?うん、この形がウチのパターンだってことは言えるんじゃないですか。その意味じゃ本物と言ってもいいと思いますよ」本物議論には、鬼頭監督も「ウチもツイとるんかなあ」と一度は首をかしげた。しかし最後にキッとなって断言した。「これだけはハッキリ言えると思うんです。いまのウチは、どこにも走り負けしていないということです」。就任以来一年半、ひたすら走る野球に情熱を注いだ鬼頭さんの夢が実りかけている。「このままでいつまでも・・・」というこの人の語調には、厳しいシッタに耐え、ようやくここまでついて来てくれた選手たちへのねぎらいの響きがこもっていた。
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権藤正利

2017-03-14 20:42:48 | 日記
1967年

バースデーケーキの上に立てられた六本のロウソクを、康弘君はひと息で吹き消した。パパもママも、姉の由美子ちゃん(8つ)も六歳になった康弘君にやさしい拍手を送った。昼間は一家そろって近くのプールで水遊び、夜は誕生パーティ。康弘君にとって四日は忘れられない一日だったにちがいない。「こどもがふびんでね。甘ったれぱなしなので、おころうと思うけど、どうしてもできないんだ」試合前、前日の誕生パーティーの話をしながら、阪神のサウスポー権藤はしみじみした口調で胸のうちを打ち明けた。権藤正利。三十二歳。柳川商高(福岡)のエースで名を売り、二十八年洋松ロビンス(現大洋)入り。このとし新人王を獲得。三十四年一月、多恵子夫人と結婚、川崎市に居をかまえたが、三十九年東映、四十年阪神に移籍。現在西宮市の阪神合宿「虎風荘」に寄宿、妻子とは別居生活を送っている。「別居生活はやっぱり異常だヨ。こどもがかわいそうだ。阪神に移ったときは一年で野球をやめようと思っていた。でも、こうなったらもう少しがんばらにゃいかんし・・・」権藤の大きな悩みだ。一シーズン、30試合以上ある東京地区(川崎を含む)での試合、他のナインとは逆にこのときだけは権藤の一家だんらんの時なのである。三日の巨人戦に登板したあと、その最終便の飛行機でひと足先に川崎入りしたのも、愛息の誕生日に間に合わすためだった。1㍍76、60㌔のきゃしゃなからだで今シーズンもがんばっている。規定投球回数にあと10イニング不足しているが、防御率は1・62で第一位。新人王のほか何も知らないタイトル、三十五年、四十年と二度ものがした防御率第一位に、プロ入り十五年目の夢をたくしている。高校一年にかかった小児マヒを克服した闘志、三十年から三十二年にわたってつくった28連敗(日本記録)の不名誉にも屈せず、立ち直った負けじ魂が、いまも細いからだにみなぎっている。「こどもには気の毒だけど、投げられなくなるまで現役でやる」-。出かせぎ亭主のやもめぐらしは当分続きそうだ。
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中村邦弘・杉本喜久雄

2017-03-13 22:27:59 | 日記
1960年

昨年の高校野球全日本軍に選抜された倉敷工中村邦弘投手(18)はこのほど大毎入りが決定した。まだ同校のエース杉本喜久雄投手(18)は広島入りする。中村、杉本両選手は昨年選抜、選手権大会に出場、当時からプロ野球のスカウトにねらわれていた逸材。中村は東映、西鉄、阪神、大毎が動きかけていたが、大毎は三宅スコアラーがプロ入りする二十五年春まで、同校の監督をしていたことで、終始他球団をリード、阪神は、昨年のキャプテン三宅内野手をとったOB会関係のルートで最後まで食い下がったが、およばなかった。杉本は東映、阪神、広島、国鉄、西鉄、阪急がねらっていた。中でも東映、阪神、広島が熱心だったが、左投手がほしい広島は藤村コーチがほれこんで、岡山出身の木庭スカウトと一緒に熱心に説得したものがものをいったようだ。

大毎・三宅スコアラーの話「中村君は入団の確答はまだもらっていないが、八分どおりはきてくれると思っている。スケールの大きい長打力のあるバッターなのでウチのチームにはうってつけの選手だ」

広島・岩本球場部長の話「大体ウチにきてくれることになるだろうと思っている。具体的な話はまだこれから行うところだが・・・・」

中村邦弘外野手 昨年の選抜、選手権両大会に出場。夏の大会では太田高中島投手(阪神)から本塁打し、二試合で打率四割二分九厘、打点5を記録、アメリカ遠征の全日本に選ばれた。ことしの県予選では19打数で三塁打1、二塁打2を含む七安打、三割六分七厘の高率を打ち、高校球界でも指折りのスラッガー。1㍍70、70㌔、左投左打。

杉本喜久雄投手 昨年選抜、選手権に出場、選手権では一回戦で太田高を4安打におさえている。緩急二つのカーブと打者のひざもとをつく速球に威力があり、岡山県の№1投手。ことしは選抜、選手権大会ともに米子東高に出場をはばまれたが、夏の予選では38回投げて24安打、29三振、6四球、5失点の好成績をマークした。1㍍72、68㌔、左投左打。
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村上俊義

2017-03-13 17:12:52 | 日記
1964年

村上が「トレードか、自由契約にする」を命じられた理由は一軍では使えないというだけではなかった。ほかにもあった。藤本監督は「ファームのコーチから村上はいらないといってきた。なにか理由があったのではないか」白坂ファーム責任者は「その点については監督に聞いてくれ」とそれぞれことばをにごしているが・・・。村上は徹底的な個人主義者だったといわれる。そのため、チームワークという点で問題を起こすことが多かった。ファームコーチの命令にそむくこともたびたびだったといわれる。ファームで12勝、前途ある投手をクビにした一番の理由は村上の性格にあったといえる。この点、自業自得といってよいが、ファームで12勝した投手がクビになったという点に問題が残るのではないか。「とにかく一軍に入れてもらえるのを楽しみにやってきた。コーチもウエスタンの成績がそのまま一軍への道になる。しっかりやらねばとぼくらにハッパをかけた。そしてウエスタンで優勝したんだ。それが、こんごの仕打ち。ファームにいるものはどこに目標を置いたらいいんですか」と村上はうっぷんをぶちまける。もっともな話だ。「ファームで一生懸命やり、いい成績をあげても、なんにもならない」-という気持ちをファームの選手はいだくのではないか。これが心配だ。
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村上俊義

2017-03-13 16:59:59 | 日記
1964年

阪神はさる一日から、来シーズンの契約更改をはじめた。問題の人、村上は、初日に球団から呼ばれた。午前十一時から大阪・梅田の阪神電鉄本社三階会議室で岩間常務と話し合った。会議室にはいるまえ、村上はことし12勝、最多勝利投手になった実績があるだけにかなりの昇給を予期していた。だが、岩間常務の口からでたことばは全く意外なものだった。「来シーズンのメンバーにキミははいっていない。トレードの申し入れがあれば出してやるが、ないときは自由契約選手にする」村上はびっくりした。そして返事もそこそこに会議室を出た。どうだったの?いあわせた二、三人の記者が聞いた。ブ然とした表情で村上はこたえた。「ことし12勝もしたのに・・・。ファームではいくらがんばってもいかんのだろうか」そのあと記者は戸沢社長に、村上をトレードか、さもなくば自由契約選手にした理由を聞いた。「ファームでは働けるが、一軍では使いものにならないからだ」村上は、東筑高を出て三十五年の暮れ、ブリジストン・タイヤから阪神入りした。ブリジストン・タイヤでは中日の権藤と同期。入団発表の席でも胸をはっていったものだ。「ぼくはブリジストンでは権藤よりタマがはやかった。速球には自信がある」前半、中日入りした権藤は30勝を記録していた。報道陣は村上の自信の強さに目を丸くした。村上はことばどおりタマはめっぽうはやかった。だが、コントロールがなかった。このため三年間鳴かずとばずに終わった。ことし、藤本監督はこんな村上に目をかけた。タマがはやいところから、巨人戦用のピッチャーにと考えたのだ。キャンプでは杉下コーチがつきっきりで教えた。監督自身が手をとって教えた場面もたびたびみられた。その結果、コントロールもかなりよくなり、一軍では働けなかったが、ファームでは最多勝投手になるまで成長した。「ことし一軍にあげてもらえなかったが、来年はがんばる」と公式戦終了後話していた。十一月十三日の長崎を皮切りに行われた九州の四強オープン戦のメンバーにも村上ははいっていた。村上にとってはオープン戦は一軍にあがる登竜門といってもよかったのだが、結果はかんばしくなかった。十四日の佐世保のゲームで救援に出たが、1回1/3投げて被安打3、自責1。リリーフの役目をはたせなかった。そしてこの日のピッチングが「あいつは一軍では使えない」と球団が考える決定的な動機となった。
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村上俊義

2017-03-13 16:38:26 | 日記
1964年

自由契約の宣告を受けた村上俊義投手を西宮市宮西町、夙川(しゅくがわ)苑アパート16号室にたずねて現在の心境をきいてみるとー。阪神香櫨園近く、夙川の堤防下にある文化住宅ふうのアパート、その二階いちばん奥が村上投手の住まいだ。「村上俊義、和美」の表札もまだ新しい。ガウン姿であらわれた村上は、さる十一月三日に生まれた長男、貴(たかし)ちゃんの寝顔をみながら「本当に考えてもいなかったことです」と、さびしそうな顔つきでこんごのことについての話をはじめた。「トレード要員、もしトレードの申し込みがなければ自由契約にするー一応トレード要員ということですが、もうお前はいらんということでしょう。ボクも、こんな商売ですから、ある程度の覚悟はいつもしています。女房にもいって結婚しました。しかし、今シーズンはこれまでの欠点だったコントロールもよくなって12勝した。自分でもピッチングというものがある程度わかったし、これをきっかけに・・・と思っていた矢先でした。こどもも生まれたことだし、はやく契約をすませて故郷の福岡県の両親に孫をみせようと考え張り切って出かけました。ところが自由契約でしょう。ショックでしたネ」村上は一気にしゃべった。「やる気がない、二軍ではよくとも一軍では通用しない。といったことがいわれているようだし、藤本監督はウチは投手陣が豊富だから、村上自身のためを思ってトレード要員にしたといっているともきいた。でも、やる気がなくて12勝もできるでしょうか。一軍で通用するかどうかということも、実際にやってみなくてはわからんでしょう。昨年までは腕、腰と故障がちだったので、こんどこそ機会を与えてもらっていいと思っていた。しかし、九州地区のオープン戦も、ちょっと投げただけで、すぐ帰される始末。力を発揮する間もないですヨ。いろいろいいたいことはありますが、球団がいらないというならどうしようもありませんがネ」いまさら文句をいっても仕方ないというのが村上の心境である。自由契約までの条件であるトレードについては「申し込みがあれば球団から連絡するということになっていますが、ボク自身はまだまだ野球をつづけたいから、トレード話さえあれば喜んで応じますヨ。でも相手がなければ仕方がないし、自分で話を進めるといってもルートがありません。当分はこどもの相手をして申し込みを待つつもりですが、ダメだったら故郷に帰って商売でもしなくてはいかんでしょう。残念ですが仕方がありませんヨ」トレード申し込みにすべてを託している村上だが、この希望はかなえられるだろうか。
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種部儀康

2017-03-13 13:39:38 | 日記
1972年

南海の種部儀康二軍投手コーチ(34)は二十六日退団を申し入れ、新山社長もこれを了承した。この日、来季のコーチ編成のため、新山社長が各コーチに「来季も南海でやる気持ちがあるかどうか」と確認をとったさい、種部コーチが退団を申し出たもの。退団後は家業(鉄工業)に専念するという。
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中西勝己

2017-03-13 12:51:10 | 日記
1960年

大毎の慎太郎こと中西はマウンドからおりた直後はちょっと興奮していた。特徴のある早口がよけい速くなって聞きとりにくい。「苦しかった回? そんなのないけど、いやな回は五回だった。やらんでもええ一点をやってしもうてハラがたってかなわんわ」一点をとられたことが興奮の原因とすれば調子はすこぶるよかったのだろう。「はじめはボールが多かった?違う違う、あれはね意識的にボールを散らしたんや。きわどいコースばかりついてみたんや。だからボールになってもちっとも困りゃせん」報道陣の質問は否定されつづけた。「カーブを投げなかったのはヒジが痛いから?違う違う。向こうはカーブ、スライダーをねらってくると思ったから直球とシュートばかりで勝負したんや。八回森下を三振にとったのが会心のスライダーよ。ちゃんと投げられる」しゃべっているうちに興奮がさめてきた。二回森中の4球目をボールにとられたとき、ホーム・ベースまで走って捕手のかっこうでストライクだと抗議したことを「オレのいたずらや。あとで沖さんにあやまるよ」と上きげん。先発をいわれたのは試合前だったが、西本監督以下徹底的にとぼけた。本人も医務室の舞台にねころんだりして中西先発を報道陣にかくした。十一日に右ヒジに打球を受けて以来、都内豊島区椎名町の吉田接骨医宅に通いながら傷の状態を聞かれても電話口に吉田医師を出して答えてもらうほどの慎重さ。傷の経緯は本人の口からなんともいわれないうちに突如おどり出して南海を血祭りにあげたわけだ。しかしそのあと「右手がしびれていうことがきかん」といい出し、ロッカーにもどると二回に死球を受けた山内といっしょにフロにはいらずにすぐ吉田接骨医宅へ向かった。その途中ロビーから外へ出るまで中西はつぎつぎに女性ファンの握手を受けなかなか前へ進めない。スカッとしたふんい気からいつとはなしに慎太郎というアダ名がついたほどもてる中西でもある。
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青木宥明

2017-03-13 12:32:40 | 日記
1960年

プロテクターをはずした島球審はいう。「球はビチビチ生きていた。私はストライク、ボールの判定をみるだけで球の種類はよくわからないが、いつになく球にのびがあったようだ。森捕手が外角に構えているとビューッと内角にきたりする。イン・シュート、アウト・カーブなど過度に荒れていたのが効果的だったようだ」島球審がそういっていたころ青木はロッカーで報道陣にペコペコ頭を下げていた。「ぼくにきょうのピッチングのことをしゃべらさないで下さい。しゃべるとまた調子が悪くなるから・・・・」それでもしぶりながら青木の語ったことは・・・。「太りすぎたので多摩川で毎日走った。一貫八百匁(7㌔)減った。いまちょうど二十貫(75㌔)あと一貫(3・75㌔)くらい減るとベスト・コンディションになる。井上さんに本塁打されたのは真ん中、シュートをかけたつもりだったが、浜崎さんにあんなものがシュートなものかとしかられた。まだまだシュートがきまらない。体の動きはぐっと楽になったけど相手は中日だし、きのう先発をいい渡されたときはビックリした。これからまだ投げられるか?そんなことわからない」森捕手の青木評は「低目によくきまった。青木の持ち味であるコースぎりぎりの球が生きてきたのがよくなった原因じゃないか。スピードがまだないから、コンビネーションには苦心しましたがね」ピシャリと根性論で青木の再起を断定するのは浜崎コーチだ。「多摩川で一生けんめい走ったからだ。やる気を起こして体をつくれば彼はまだまだ投げられる男だ。開幕当時と全然かわらぬ低目のコントロールが出てきたじゃないか」最後に佐々木信也氏の青木観は「低目に集まっていたことがきょうの青木のよかったところ。開幕当時にくらべればスピードは落ちているし前の方から大きく切れるカーブがなくなっていて、それほどいいとは思われない。中日の右打者はほとんど左へ、左打者はほとんど右へ打っていたこと、それが青木のスピードがなかったいい証拠だ。下手投げの石川(緑)を坂崎、与那嶺、王など巨人の左打者がよく打ったのに反し、サイドの青木を中、本多など中日の左打者が打てなかったのが青木を助けていた。青木はまだ完全なカムバックとはいえないのではないか」
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堀本律雄

2017-03-11 20:02:34 | 日記
1960年

みずからのサヨナラ打でかせいだ二十四勝目、文字どおり堀本の一人舞台だった。七回一死一、二塁で伊藤を救援してみごと後続を断ち、その後十回まで投げてわずか一安打。そしてその裏小山から安打を奪ってケリをtけるはなばなしい活躍ぶり。国松が決勝のホームを踏むのをたしかめない前に一塁ベンチをとび出したナインは、一塁ベース上に突っ立っている堀本めがけて殺到した。「堀本サマサマや」ナインにつかまれるようにしてベンチへもどった堀本に浜崎コーチがいま流行のダッコチャンを左腕にからませた。「これがきょうのお祝いや」「大事にしますね」-自分でたたき出した勝利の味は格別だろう?「きょうはピッチングのことより、バッティングの方を聞いてもらいましょうか。最後のは外角スライダー。その前がカーブだろう。カーブ攻めを覚悟していたんでボックスのずっと前に立ったのがよかったな。外角を打つにはボックスの前に立つのにかぎるわ。八回の二塁打?あれも外角のカーブや」八回裏一塁に森をおき、右翼線に二塁打。森は本塁寸前に別れて決勝打とはならなかったがこれも外角打ちの見本のような当たりだった。「ここまでできたんだから、どうしても勝たんことには・・・」少し気ばった感じ。ここでまたカメラマンにグラウンドへ呼びもどされて「外角のスライダー・・・」を連発。「もう、よろしおまっか」と関西ベンでことわってからタオルを首にまきつけ小走りにロッカーへ。通路に待ちかまえていたファンの手をふりほどくのも一苦労の堀本だ。「・・・点をとらさないためには堀本より仕方なかった。あいつはたのもしいやつ・・・」水原監督の声がロッカーから流れてきた。「連投はもちろん覚悟していますわ。いまのウチの状態じゃ毎日投げるのもあたりまえやと思ってますさかい。しかし手がちょっとしびれてね」右手を二、三度握りしめた。着がえながらそばにやってきた長島が「堀本さん、参りました」と最敬礼。「こら、ひやかすな」どちらからともなく笑った。これで堀本の登板数は実に51。巨人の試合が97だからいかに堀本の比重が大きいかわかろう。-いよいよ30勝が迫ってきたね。「これからがホネや。別に記録は意識してないがね。まあのばせるだけのばしてみますが・・・」と金歯を光らせた。
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