プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

滝田政治

2017-04-14 20:49:03 | 日記
1962年

阪神の滝田政治外野手(36)は二十一日午後一時、大阪・梅田の球団事務所に戸沢代表をたずね、体力の限界を理由に現役引退の申し出をした。滝田は十九日に藤本監督と話し合いその旨を伝えており、この日戸沢代表も引退を了承した。退団後は東京で家業(四谷の料理屋、飛鳥)に専念する。
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稲垣秀次

2017-04-13 00:10:47 | 日記
1982年

異色の経歴を持つドラフト外戦士たち。稲垣は田中土質基礎研究所という草野球チームのエースだった。それがなぜ巨人に? 話は今年の夏前のこと。岩本スカウト担当補佐のもとに早大野球部時代の片岡先輩から電話が入った。「調布のバッティング練習場で技術指導しているんだが、ちょっと面白い子がいる」と。早速、岩本氏が出向き見てみると「これがパンチもあるし、いいバッティングもしているんだ」すぐに多摩川に呼び、二軍首脳が試験。強肩、強打、鍛えれば面白そう、と草野球エースの巨人入りが決まった。硬式経験はないが、球歴は華やか。調布二小時代は荒木大輔(ヤクルト)とともに調布リトルに参加。調布三中に進むと中日入りした宮下(神代中)と三多摩地区の双へきと呼ばれた。が、志望高校に不合格、一転して就職する。それでも「いずれはプロに」と思いながら草野球で腕をみがいたという。軟式出身者は専売鹿児島の栄村も同じ。もっとも、こちらは定岡三兄弟の母校・鹿児島実業出身。中日にドラフト一位で入団した鹿島のバックで二塁を守り、二度甲子園に出場。三年のときにはドラフト外で数球団から声がかかったが「野球でメシを食う気になれなかった」と専売公社へ。二年間軟式野球で活躍し、巨人からの誘い。「あこがれの巨人だったから」とプロ入りに踏み切った。軟式から硬式へ、慣れるまでは大変だろう。しかし、かつての巨人のエース・大友、東映の土橋、最近では大洋・高木嘉、広島、大野と軟式出身の成功者もいる。彼らが第二の大友、土橋にならないとも限らないのだ。一方、京都商の堀田は高校を四年間通った。一年のときヒジを痛め、蓄のうを手術をしたため出席日数が足りず留年、三年生の今年はコーチとして練習に参加した。しかし、二年の昨夏、甲子園大会で三番打者として暴れ回ったことは記憶に新しい。松尾もまた大洋、ヤクルトの誘いを振り切り、巨人のテストを受けている。これらの異色の人材がどう育つか、現場コーチの腕の見せどころになるだろう。
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関根潤三

2017-04-12 21:47:31 | 日記
1963年

「ヒットの打ち方教えてください」試合前ベンチで女性のようなやわらかい関根の声がした。選手は笑って相手にしない。ベスト・テン3位、ちょっと当りがとまっていたといっても彼は巧打者だ。「四回の右前安打がきっかけになった。内角のカーブ、最近ぼくはあのポイントしか打てないんだ。土橋は知らなかったんだろう。見ている人は関根のヤツうまく打ったなと思っただろうが、そうじゃないんだ。力のはいり方がおかしかったし、フォームもバラバラだ」たとえホームランを打っても自分の考えたとおりのバッティングができないとふきげんな関根だ。「その点六回の二塁打は本物だ。一塁ベースの真上をゴロで抜いたが、ねらっていたとおりのコースにとんだ。七回の満塁一掃の二塁打?外角速球。左の橋詰だったからバットを突き出すように打ったんだ」落ちついたものだ。そのヒタイにはいく本ものシワが寄った。二十五年恩師藤田省三氏((近鉄初代監督)とともに近鉄入りして十四年。その間投手で七年、打者も七年になる。入団のとき「やるからには一流になれ」と藤田氏にいわれた言葉をいまも関根は忘れない。「第一、第二打席のカーブはふつうの左打者が打てば、きっとファウルになるむずかしい球だ。それをちゃんとヒット・コースにとばすのは名人芸だ」評論家の戸倉勝城氏も舌をまく。「つくづく思うんだ。十四年間、よく野球をやめなかったとね」近鉄の躍進を一番喜んでいるのは生えぬきの関根ではないだろうか。別当監督もいう。「潤ちゃん(関根のこと)が元気な間に優勝してチャンピオン・フラッグを握らせてやりたい」
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板東英二

2017-04-12 21:27:31 | 日記
1961年

マウンドの板東にナインから何度も声がかかった。「がんばれ英二」「とび出せ英二」そのたびに板東は童顔をほころばせて「はい」と答えた。その声があまり大きいのでスタンドは何度も笑いにつつまれた。試合が終わっても板東はあいそがいい。ベンチの上からぶらさがったたくさんの手にいちいち握手して持ち前のサービス精神を発揮。しかしピッチングの話になると気乗りうす。「あかんですよ。あんなピッチングじゃあ申しわけない。コントロールが悪かったですものね。それと前半とばしすぎです。カミナリ族みたいに早くからとび出したのが悪かった。だから後半随分ランナーを出したでしょう」ここまでいうと、もう板東はバスの方へ向かいはじめた。そのあとを報道陣が追いかけたが、板東はスイスイ歩く最後に「どうもスミマセン」と林家三平の専売特許でおどけ、バスにピョンととび乗った。前夜とその前の晩、板東は権藤と二人で合宿を出た。といっても無断外泊ではない。球団公認の外泊だ。というのは合宿が暑いので、先発投手にゆっくり寝てもらおうと球団が特別なはからいで市内八事の旅館にとってある冷房つきの部屋に泊まったわけだ。「なにしろ天皇陛下が泊まった旅館ですからね。最高ですよ」これは一緒に泊まった権藤の説明だが、板東も「二日間ぐっすり眠らせてもらった。おかげでランナーを出しながらも楽に投げられた」といった。なんでもその旅館は一泊五千円といううわさ。「それで負けては、それこそどうもスイマセンくらいでは追いつきませんよ」板東はここでまた三平の口マネをした。どうやら板東は大へんな三平ファンらしい。
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権藤博

2017-04-12 21:04:34 | 日記
1963年

六試合2勝1敗、防御率3・40、三十六、三十七年連続30勝(セ・リーグ記録)して権藤ドラゴンズとまで騒がれたエースにしてはものたりない成績だ。「真ん中に投げ込まんとダメなんだから・・・」と権藤はいう。新しいストライク・ゾーンへの不満だ。速球と大きく割れるドロップ。タテの変化で勝負するから「有利だ、といわれたのに外角いっぱいの直球をてんでとってくれない」と口をとがらせる。中の逆転2ランで敗戦投手はやっとのがれたが、阪神四回戦(五日・甲子園)でソロムコのホーマーを含め七安打、四回で降板したのもストライク・ゾーンのせいだといいたそうな口ぶりだ。だが女房役の江藤は否定する。「とんでもない。それが原因ならあの巨人戦(一日・後楽園)で完投勝ちなんかできるものか」杉浦監督も「権藤だって人間だから打たれるときだってある」と少しも心配していない。その証拠に七日から中日球場で行われる巨人三連戦では、権藤は巨人にひとアワ吹かせるつもりでいる。権藤には目標がある。三年連続30勝の日本プロ野球記録(いままで三人=スタルヒン、野口二、稲尾)への挑戦だ。投手の神様国鉄の金田にもできなかったこの大記録へ、ものすごいファイトをもやしている。目標というより義務だと信じ込んでいるようだ。ことしの契約のときことしも30勝を条件に大幅なベースアップを要求。会社を納得させたからだ。「ぼくは夏場にかけて強いんだ。昨シーズンは六月に5連勝、八月には8勝もかせいだ。ことしの手はじめはこんどの巨人戦だ。セ・リーグで一番こわいと思うのは巨人。その巨人をたたいてエンジンをトップに持っていくんだ」白い顔にサッと赤味がさした。
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野上俊夫

2017-04-12 20:51:27 | 日記
1976年
・意外だった。野上はサバサバしている。暗さはまったくない。
長い人生の中でひと区切りつけるというか、ワンクッションと割り切って、プロ生活にサヨナラした男。
「遅かれ早かれ、いつかはやってくるもの」野上はあくまでも楽観的に自らを見つめている。
11月8日に任意引退になってから1ヶ月が過ぎた。野上は依然として「どんな仕事が自分に向いているかを検討中」である。この姿勢は野上にとって大きな転換であった。どちらかというと周囲のムードに流されて漂うタイプだった。
市和歌山商のエース、強打者の両刀使いで甲子園を沸かせたときも「野球をやめよう」と思い、進学かプロで迷い、結局はドラフト1位で42年暮れに阪神へ入団した。迷いの人生は続く。「投手より、打者で進みたかった」のに、左投手不足という阪神の内部事情に流され続け「打者に専念させてほしい」のひと言がどうしても出せなかった。不運といえば不運でもあった。感情も自らの主張をも表面に出せない性格が、損なめぐり合せに輪をかけていった。阪神では2年先輩に藤田平がいた。何かにつけて比較されることは、「ポジションが違うので気にならなかった」そうだが、ズルズル歳月が流れるままに、ひとつの諦めだけが大きくなっていたことも認める。努力はした。しかし、俗にいうぬるま湯につかっていたことが野上自身、いま感じ取れる。阪神で7年、一昨年南海に移ったときはじめて「気分一新」の刺激があった。松田コーチがつきっきりで、埋もれた左腕を甦らそうと、マンツーマンで指導したが、またまた不運。肩を痛めた。洋服が着れないほどの痛みが襲ってきた。気のいい男は、また損をする。「あのときも肩が痛いと申し出ればよかった。肩をかばってバッティング投手を買って出たが、とうとう球が届かなくなった・・・」野球投手の生命はここで完全に断たれた。たったひと言の自己主張と自らのいたわりがなかったばかりにーーーー。
この男がたったひとつ首脳陣に希望を述べたのが今季で、それがプロとの決別の年になることを知りながら、「1年間だけバッターでやらせて欲しい」だった。
ウエスタンリーグ、54試合に出場、打率312.最終試合で4打数2安打なら首位打者を勝ち取る可能性があったほどの好打を披露した。穴吹二軍監督は「もう少し早く打者に転向していたらなあ」と、その素質を惜しんだ。考えようによっては、これまでその打力を認めようとしなかった周囲への最初で最後の抵抗だったのではあるまいか。
周囲からは「他球団に話してやろう」と、10年目にかける誘いもあった。しかし、あっさり身を引いたところが、いかにも野上らしい。
野上は述懐する。「ぼくにとって野球とは一体なんだったのだろう?好きでたまらないとは思えない。嫌いでもない。それなのに自分から野球を取り上げると何も残らない。そんなものだったようです」。
身を立て名を上げ、という野心と、他人を踏みつけても突き進む厳しさ。それらを持ち合わせない野上にとって、汗と涙にもまれた9年間は、いったい何だったのだろう、と自問自答した末の述懐だろう。
さて、この先、野上はどこへいくのだろう。職探しに奔走しなくてもいいほど、温かい誘いがあちこちらから伸びているようだ。「それだけでも恵まれています。ぶらぶらしていてはいかんのですが、一日も早く決めて再出発したい」という。
南海をやめた踏ん切りと、もう一つ自らを最大限に生かせる就職選びの踏ん切り。これまでズルズルと流されてきた野上に決断を要求される日々がきた。
大阪は阪急沿線の園田。神戸にも大阪にも足の便はいい。美子夫人と長女・麗奈ちゃんの3人暮らし。「机に座ってやる仕事より、なにか体を使って動き回るのがいいですね」と笑うまだ童顔の残る27歳。野球を離れることでこんな浮き浮きした表情をみせた人がいただろうか。
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田中久寿男

2017-04-11 23:00:10 | 日記
1961年

中西を加えた田中(久)豊田のクリーン・アップ・トリオはまったくすばらしい。豊田、中西の競争意識がありありとみえ田中(久)にまでそれがあらわれ野性味満点。それだけに相手投手はこの三人のところで萎縮する。ペースを乱したところをナインが乱打するのだから手のつけようがない。西鉄のよさがいかんなく発揮されている感じだ。とくに田中(久)が豊田、中西におとらず大あばれしていることは注目に値する。「3試合連続本塁打。しかもきょうは場外にあと数十㌢とまったくすごいですね」というと「こげんこと初めてですたい」と興奮もさめやらぬ博多弁で高笑い。「コースは内角と思ったけど・・・」
田中「高目か、ベルトへんかはっきりおぼとらんです。だけどシュートのようでした。あのコースが打てるとはおどろきました」
「というと、オープン戦で阪神の梅本のシュートを頭に受けた恐怖感からからだが逃げるの」
田中「こわいと思いませんが、内角へほうられると無意識にからだをよけるんですね」
「ではこれで一気にその心配はなくなった?」
田中「ウン・・・。そうですね」いかにもよかったという感じだ。
「きのう、きょうと初球だが」
田中「どうもファースト・ストライクにいいボールがくるような気がするんです。それだけに最初のストライクはのがさないよう注意しているんですが」
「変化球も打てるようになったね」
田中「ストレートの方が打ちやすいですがね。いまは変化球もそう気になりません」
「日ごろ注意していることは?」
田中「ゲーム前のバッティングでカーブを打つことに専念しています。バットの素振りはいつも十分やってますから・・・」
「豊田、中西コンビから何かプラスになるものがある?」
田中「せっかくクリーン・アップ・トリオに入れてもらったのだし、二人の先輩に見劣りしないように一生けんめいです。しかしあとが二人の強打者でしょう。相手投手はどうしてもぼくと勝負してくることになるからそれだけ打ちやすいです。そこがつけめなんですよ」
「今シーズンの見通しは」
田中「開幕前休んで不安だったが近鉄の投手さんが打たしてくれたもんですから、調子を早くつかみました」たくましいからだの田中(久)は胸毛をかきながらフロにとび込んだ。
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衆樹資宏

2017-04-11 21:52:15 | 日記
1967年

南海ホークスは三十日、高橋栄一郎投手、ケント・ハドリ一塁手・坂口和司内野手、衆樹資宏外野手、中島博征外野手を自由契約選手にすると発表した。また公式戦中に任意引退選手になった羽村起夫投手、栗崎日出男外野手も、自由契約選手になった。同時に田上一秀用具係も退団する。
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高垣義広

2017-04-11 21:05:34 | 日記
1974年

大きく曲がるスライダーに独特な味を持ち、昨年は「救援の切り札」と期待されていた。だが波に乗れないまま不本意な一年を送り、今年に賭けている。スキー場で恋がめばえた愛妻のためにも、今年はがんばらなければ・・・。

1976年

10勝8敗、昨年、イースタン・リーグで最多勝利賞に輝いた実績は、高垣に強い自信をうけつけ、一段とスケールを大きくした。キレのよい大きなカーブで打者を手こずらせるが「今年こそローテーションの一角にくいこむ」とはりきる表情は明るい。
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ニーマン

2017-04-11 19:52:42 | 日記
1963年

西沢コーチはリーディング・ヒッターだった。二十七年のことだ。中日を引退してからは野球評論家になり、ことしからまたドラゴンズのユニホームを着た。こんどはコーチ。相変わらずスマートにユニホームを着こなし、一塁のコーチス・ボックスに立っている。この西沢コーチが変わったことをやりはじめた。ホームランを打った打者がホームへかえってきたとき調子をぬぐことだ。どのチームにもある習慣を、西沢コーチは帽子をとることで変化をつけた。長身だけにそれが目立つ。二回、ニーマンの3ランが出ると西沢コーチは専売特許のとおり帽子をとり、ていねいに握手をした。八回もまた同じニーマンのおかげで西沢コーチの帽子は忙しかった。西沢コーチはことし四十一歳だが、顔のツヤがいいし髪の毛もふつうだ。三十六歳というふれ込みのニーマンは髪の毛はあっても顔はシワだらけ。外人選手ぎらいで大和魂の持ち主の江藤はこういった。「三十六歳?ウソだ。四十はいっているよ」しかし二日間で三度も西沢コーチに帽子をとらせたニーマンの腕っぷしは四十歳には見えない。昨年中日にいたニューカムが高射砲のような打球を打ったのにくらべ、ニーマンのはほとんどがライナー。阪神は定年近いような顔のこのニーマンひとりに連敗したようなものだ。「陽気で、ものの考え方が合理的で愉快なおっさんだ。映画でいえばウィリアム・ホールデンがやるような役柄にピッタリだね」というのが江藤の印象。たしかにニーマンは陽気な男だ。報道陣のインタビューには「君らは日本語はしゃべれるが英語はダメ。ぼくは英語を話せても日本語はしゃべれない。いったいこれはどうしたものだろう」とオーバーなゼスチャアで両手を上げた。肩もすくめた。ニーマンの口グセは「きょうはいい日だった。しかしあしたはまたいい日とは限らない」という言葉。この日も同じことをいった。二日続けて同じことをいうあたりはセンスがないのかもしれない。そのかわり友情にはあつそうだ。市内昭和区に借りた自宅には一匹の小さなイヌがいる。名前はガス。ことしオリオールズからタイガースに売られたガス・トリアンドスと仲よしだったことからつけた。インタビューが終るとユニホームのまま荷造りをはじめた。幼稚園のこどもならはいってしまいそうな大きなバックの横にはサンフランシスコ・ジャイアンツと書いてあった。昨年までいた自分のチームのことも忘れられないらしい。したくにかなりの時間をかけ、スパイクにはわざわざ木型を入れてかたちを整えた。ユニホームのどろもたんねんに落とした。隣に西沢コーチがユニホームのズボンを長い足に合わせていた。西沢コーチは現役時代ユニホームがよごれるからとスライディングを一度もやらなかったというエピソードがある。ニーマンもなかなかのシャレ者とみた。
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藤井弘

2017-04-11 19:51:38 | 日記
1963年

毎朝十時になると、ふとんを頭までかぶって寝ている藤井の上に一人娘の靖代(やすよ)ちゃんがのっかり「パパ」「パパ」とゆさぶる。最近までの目ざまし役に夫人の宣子(たかこ)さんだったが、どうしても起きなかった。そこで宣子さんが考えたのは靖代ちゃんを使うことだ。「パパを起していらっしゃい」ママの伝令だ。「靖坊のかわいい声で起こされては、いくら眠くても起きないわけにはいかない。でも十時はちょっと早すぎるぞ」それまで寝たいだけ寝ていた藤井は、奥さんのからくりを見破ったときは強く抗議したそうだが、宣子さんは受けつけなかった。「ナイターでも午前一時には床につけるでしょう。そうすれば十時に起きても九時間は熟睡できるはずです。それ以上は寝てもムダです」早起きが今シーズン好調のバッティング(十日現在三割八厘=五位、打点23=三位)に結びついた。十時起床はキャンプから帰ってから始まったが、それからは欠かさず毎朝食事前のトレーニングをつづけている。ぐっしょり汗をかくまで庭でバットの素振りだ。「まだもうひとつピンとこないものがあるが、一応三割を打っていられるのは早起き、つまり素振りのおかげでしょう」器用な選手ではない。からだが堅く練習を積み重ねて初めてエンジンのかかる方だ。このことは自分でも承知している。「足がおそく、守備もまずい。自分の生きる道は打つことしかない。そのためには人と同じ練習ではダメなんだ」公式戦の始まる前、白石監督から「もし、おまえが昨年の不振(二割三分)から抜け出せないなら、一塁は横溝を使う」といい渡された。これまでチームの中心打者として働いてきた藤井に、この言葉はカチンときたようだ。「よし、意地でもクリーンアップを打って、一塁はだれにも渡さないぞ。そのためには打点をかせがなければダメだ。ここ一発を打てる打者。監督の信頼はそこから始まるんだ」ムクムクとファイトがわいてきた。九日の対中日戦ダブルヘッダー第一試合で、六回板東の速球を左翼席へ2ランしてとどめを刺した。試合後、一番先に藤井に握手を求めたのは白石監督だ。「うまく打ったぞ」前半、毎回走者を出して不安定だった池田も脱帽した。「藤井さん、どうもありがとう」藤井は満足そうだった。「チームのために全力をつくせば、それが自分の成績にもつながるんだ。昨年のいまごろは本塁打を八本打っていたが、打率の方はサッパリだった。ことしはまだ五本だが、ツユがあければ長いのをとばす自信はある。とにかく、ことしは自分の記録を更新するチャンスだ。本塁打二十五本、打率二割八、九分が目標だ。三十四年は本塁打が二十本だった。打率の方は二割七分が最高だったが、何年だったかな・・・」そばで宣子さんがいう。「それは結婚した年の三十六年ですよ。私との約束をすぐ忘れるのもムリないわ。きょうの約束も忘れているんでしょう」「いや、覚えているよ。練習が終わってから、祭りにいくことだろう」十一日からの対国鉄四連戦にそなえて十日の広島の練習はたっぷり三時間。藤井を見ながら白石監督はこういった。「下半身の堅いのも、腰の回転が鈍いのも、だんだんよくなっている。これからは本塁打も多くなるだろう。もちろん打率はいまのままでいけるさ」
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森永勝治

2017-04-10 22:48:33 | 日記
1963年

七月中旬の暑さ、夕立ちのようなにわか雨。三時間半におよぶ乱戦にケリをつけたのが森永だった。七回満塁で同点タイムリー、十四回には決勝二塁打。富山球場から宿舎へ向かうバスの中ではればれした顔でしゃべった。「勝利に直接結びつくヒットなんてことし初めてだよ。それにまとめて三本出たこともなかったんじゃないかな。なにか、こう、スーッとした気分だな」だれかれとつかまえてはこの言葉をくり返す。昨年首位打者をとりながら、ことしは宮崎日南キャンプで右足首をねんざ。それがたたって開幕後、ずっとふるわなかっただけに、うれしくてたまらないらしい。「同点打はシュート、最後のはインコースのスライダーだったかな。あまりよく覚えていないよ」いつもはボソボソ声。あまり表情のない森永がめずらしく顔をクシャクシャにした。それでも王、長島の名が出たときだけは別だった。あの二人はたしかにすごいと目をむく。「とくに長島はヒットの打ち方が実にうまい。打つポイントが少し前になったほかは去年とあまり変わっているとも思えないが、意欲という点では問題にならないんじゃないかな」と感心してみせ「だからオレは首位打者をあきらめたんだよ」とさりげなくつけ加えた。しかし、打てないときの森永にはとてもこわい人がひとりいる。広島の自宅で、いつもテレビにかじりついているという長男の昌司ちゃん(三つ)だ。「まだ幼稚園にかよいだしたばかりなんだけど、カエルの子はカエル。よく野球のことを知っててね。家に帰ると9番、どうした!とやられちゃうんですよ。女房は笑うしこっちはうしろ暗いところがあるから大きなこともいえないし・・・」不調をうしろ暗いとは妙な表現だが、やさしいパパらしい一面をまる出しにして、ほこりとヒゲでどう黒くよごれた顔から白い歯をこぼした。「じゃ、こんどは大きな顔で帰れるんじゃない」そばできき耳をたてていた興津から声がかかると「まだあすがあるんだからあまりその気にはならんよ」と用心深い。「とにかく一週間の雨休みで足がすっかりよくなったのが収穫だった。このきっかけを大切にしてまた徐々に馬力をかけていければと思っている。昌司には近いうちにホームランでも打ってみせて、あんまりハッパをかけんでくれとたのんでおくことにしますよ」決勝のヒットのつぎはホームランだそうだ。
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久保文雄

2017-04-10 20:47:41 | 日記
1981年

ドラフト外とはいえ、関西スカウト陣の間ではマークされていた。広瀬(大洋)石本(近鉄)と並んで、関西左腕三羽ガラスなどと呼ばれ、左投手不足に悩む大洋としてはかなりの期待をかけている。サイドハンド気味の変則フォームから繰り出す速球は威力十分。体の方は意外とバネがよく、しっかりしているので一軍のマウンドも近い。

1983年

若返りをはかる投手陣の中にあっても注目の推奨株だ。これまでの上手投げから横手投げに投法改造。サウスポー独特のひねくれ球は一軍でも十分通用しそうなところまで来た。左腕不足解消のカギを握る男である。

1984年

派手さはないが、投球回数を見てもわかるように、毎年着実に一歩一歩成長してきている。サイドからの大きなカーブと伸びのあるストレートを武器に、今年も左打者へのワンポイント・リリーフとして起用される場面が多そうだ。課題は西武の永射のように粘っこい投球術を覚える事。

1985年

若手左腕の中では、年々着実に伸びている成長株。完全に一軍に定着したといっていい。長所は体ががんじょうなことで、スタミナは十分、使いベリしないタイプだ。リストの強さも特筆できる。今年は中継ぎ、ワンポイントだけでなく、ストッパーの役目も回ってきそうで、目下、その対策としてフォークボールを開発中。
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江田幸一

2017-04-10 20:06:06 | 日記
1979年

22年10月31日
上尾高、東京ガス
妻=清美、長女=芳子(1)
1㍍67、67㌔、右投右打

小さなからだのどこからあんなミラクル・ボールがとび出してくるのだろう。捕手のミットに吸いこまれるようなシンカーが決まればもうこっちのもの。長女芳子ちゃんの誕生で今季は気合い十分のマウンドだよ。
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鶴崎茂樹

2017-04-10 20:01:07 | 日記
46 鶴崎茂樹(28) 内野手

28年7月25日生 筑紫工、南海 妻=明美、長女=舞子(1)
1㍍71、72㌔、右投右打
期待されての新天地でファーム暮らしは不本意だった。一軍に故障者が続出していただけになお悔いが残る。10年目の大事なひと区切り。心機一転のことばは簡単だが、それこそ心機一転だ。
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