プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

林俊彦

2018-01-22 08:51:07 | 日記
1962年

南海か国鉄入りかで注目されていた中京商・林俊彦投手(18)=1㍍73、76㌔、左投右打=は、四日名古屋市内の某所で父親宗造氏ら兄弟親類が集まって入団先について約五時間話し合った。その結果、南海入りを決め五日中京商へ通達、了解をえたうえで発表することになった。林投手は三十六年夏の選手権大会(甲子園)で山中投手(現中日)をたすけて優勝、同年の国体では一人で投げまくって優勝した。ことしの春、夏の甲子園大会、岡山での国体にも出場して活躍した。上手から投げおろす速球に威力があり、バッティングも鋭い。林獲得にのりだしたプロ球団は南海、巨人、国鉄、阪神、阪急、大毎、中日。さいきんは鶴岡監督の熱心なすすめで南海が優勢で、国体での試合が終わった十月二十三日ごろには南海入りが決まったとつたえられた。ところが国鉄は同月二十九日砂押前監督が名古屋市内中川区柳堀町の林投手宅をたずね巻きかえしに出て形勢は五分五分になった。そのため林家では親族会議で協議の結果、鶴岡監督の熱心さにほだされて南海入りを決めたもの。

父親・宗造氏「私はむすこを進学させたかったが家族のほとんどがプロ入りをすすめた。そのうえ本人がどうしてもプロへはいって自分の力をためしてみたいっていうので承知した。入団先についてはどうせはいるなら優勝をねらえるチームに入れたい。あす(五日)学校の了解をえてから発表するつもりだ」

林投手「プロ球団では以前は中日が好きだったんだが・・・。とにかく自分を大事にしてくれるところで自分の力を思いきり出してどのくらいやれるかためしてみたい」
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岩本泰英

2018-01-22 00:02:10 | 日記
1960年

本格派の超高校級投手として注目されていた長崎南山高の岩本泰英投手(17)は八日、長崎市内駅前のニュー長崎ホテルで父親武雄氏(38)と同日午前長崎に着いた大洋矢野球団課長の最後的な話し合いで大洋入りが決定した。南山高は十月下旬、熊本で行われる国体に推薦出場することもあるので正式契約は国体後に行われる。同投手は九州髄一の速球投手としてことし西鉄入りした杉町二世といわれた。早くからさわがれ西鉄をはじめ東映、大毎、大洋、南海、中日などから交渉を受けていたが、家庭の事情から条件のよい大洋にきまった。同投手は二年秋、三年春の二度九州大会に出場、ことしになってからは十三試合で十二勝、うち完封勝ちは5。武器は内角シュート、外角低目のスライダー。1㍍79、73㌔、右投右打。

岩本投手の話「どうせ野球をやるならプロでやりたい。プロは昨年平和台とことし長崎でオープン戦を一度見ただけだ。好きな監督は三原監督。大洋というチームにも魅力を感じる。まだ国体に出られるかもしれない。それまではプロ入りについてなんともいえない」

矢野・大洋球団課長の話「国体が終るまでは白紙のままにしてほしいといわれた。岩本君は大洋に好意をもってくれているようだが、いまのところはなんともいえない」
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牧勝彦・福浦健次

2018-01-21 22:26:42 | 日記
1960年

阪神タイガースではこのほど豊橋工・牧勝彦投手(18)=1㍍85、75㌔、右投右打=と中央商・福浦健次投手(18)=1㍍81、75㌔、左投左打=の獲得に成功した。正式契約は高校野球のシーズンが終った十月、大阪で行われる。

牧投手は愛知県高校球界で指折りの好投手で今度の県予選では決勝戦まで進出しながら亨栄商に敗れて代表にはなれなかった。しかし県予選七試合(63回)を一人で投げぬき、失点11、奪三振85というすばらしい成績を残している。中日は豊橋工の石田監督がかつて中日二軍にいたところから同監督を通して動き、そのほか広島、阪神、大毎、近鉄、巨人もねらっていた。とくに巨人は中尾コーチがわざわざ春の愛知県大会をみにいくほど熱心だったが、広島、阪神の条件があまりにも高額だったため巨人、中日などはあきらめたが、阪神は佐川スカウトが広島の六百万円を上回る好条件で射落とした。福浦は東京高校球界で右の大林(明治高)左の福浦といわれたA級投手。都予選では四試合投げて34三振をとっている。巨人、阪神、大毎、阪急、広島、大洋からマークされていたが、阪神は佐川スカウトが中央商清水野球部長のルートで交渉したことが成功した。

阪神・戸沢代表の話「福浦君はOKの返事があったと佐川君から連絡があったが、牧君についてはまだ連絡がない。広島の西野君が非常に熱心にやっているのでまだ安心は出来ない」

広島・西野スカウトの話「牧はいい投手だが、三振をとるわりに将来性の点で疑問があるのでウチは手をひいた」
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小池昭南・三好守・植田征作

2018-01-21 22:01:55 | 日記
1960年

西鉄ではこのほど山口県岩国商高・森原信昭投手(18)=右投右打、1㍍76、72㌔、福岡県若松高・小池昭南投手(18)=左投左打、1㍍78、75㌔、同三好守中堅手(17)=右投右打、1㍍73、71㌔。東洋紡岩国、植田征作一塁手(21)=1㍍74、68㌔の四選手を獲得した。森原は今夏の全国高校野球大会西中国予選で出雲産業高から13奪三振を記録した。中国地方では屈指の豪球投手として早くから注目されていた。ノーヒット・ノーラン・ゲームを一度記録、春のオープン戦四試合で36三振を奪ったことがある。また打撃もよく本塁打を三本打っている。小池は大毎・小野投手によく似た速球派。選手権大会福岡県予選北部地区代表決定戦で甲子園出場の戸畑に2-1で負けた。上手からの鋭いカーブが武器。三好はスケールの大きい四番打者で若松高では小池が五番を打っている。三好は予選では12打数3安打、一割五分の打率だが、好機に強いスラッガーである。

西鉄。藤本球団課長の話「岩国商の森原君は代表決定戦で大社に負け、甲子園行きを逃したが、甲子園に出てもはずかしくない投手だ。四人とも契約は十一月ごろにする予定だ」
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松浦三千男

2018-01-21 21:05:52 | 日記
1960年

一回名古屋に一点を先取されなお二死二、三塁というピンチに、松浦は一塁側ブルペンからメガネを光らせながらゆっくりとマウンドに上がり、黒田を得意の落ちるシュートで二ゴロにとってピンチを切り抜けた。「リリーフはいわれていた。でも四回ぐらいからと思っていたのが意外に早かったのでちょっとあわてた。このためウォームアップがたりなかったので、最後まで調子にのれず、ズルズルといってしまった」そうだ。だがピンチに後続を内野ゴロにうちとったときの落ちるシュートの威力は大したもの。二十九年は夏の甲子園大会で滝(阪神マネジャー)とバッテリーを組んで準優勝。期待されて阪神入りしたが、甲子園のエースは阪神では育たないというジンクスを松浦も破れなかった。三十三年かぎりで阪神を退団、ノンプロ鐘化カネロンに就職。今夏の予選では敗れたが、スピードを買われ補強選手として後楽園に登場。プロ時代には一度も投げたことがない後楽園のマウンドで好投を続けている。「自分のチームではないのでとても気が疲れる。きょうも五回にリードしたとたんに堅くなって、体が妙にだるくなって困った。しかしここまできたらもう負けられない。自分の実力を思いきりためしてみる」といっている。仁木監督も「松浦のスピードはノンプロなら一流。それに決勝戦はナイターだから、松浦のスピードを生かす絶好のチャンスだ」と期待している。静岡商出身、1㍍75、68㌔、右投右打、背番号20。鐘化カネロン高砂工場経理課勤務、23歳。
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マニー

2018-01-21 20:43:26 | 日記
1962年

大毎・阪急戦で、二十六日契約したばかりの大毎マニー投手が初登板した。四回三浦に代わって出た同投手はレインズを三振させたあと、中田に初球を左翼席ホーマー、太田にも左翼線二塁打された。七回まで四イニングを投げたが、毎回走者を出すピッチングだった。奇跡を呼ぶ男(永田オーナー)にしては、たよりないというのがスタンドのおおかたの声だった。

マニー投手「第一ゲームなので思うように投げられなかった。こんどはもっといいピッチングをお見せする。中田に打たれたのは高目にはいったスライダーだ。スライダーのほかにはシンカーとナチュラルにシュートする球を投げた。阪急はいいチームだ」

杉下コーチ「まだ完調ではない。調子がよくないので第一ゲームでアがったなんていっているんだろう。しかしもう少しスピードはある投手だ。シンカーと自然にシュートする球が武器だ」
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井坂興

2018-01-21 19:39:39 | 日記
1962年

巨人では二十八日、大江弘投手(20)と井坂興外野手(21)の二人を自由契約選手にした。なお井坂は伊藤忠自動車に就職がきまっている。
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東条文博・山口昌明

2018-01-21 19:17:44 | 日記
1962年

南海はこのほど鹿児島実業、東条文博内野手(17)=1㍍75、75㌔、右投右打=佐賀県鹿島実業、山口昌明投手(18)=1㍍77、70㌔、右投右打の二選手の入団をこのほどきめた。東条は遊撃が主だが一塁もこなせる。四番を打ち、守備にも定評がある。西鉄、広島から入団のさそいがあった。また山口は上手から投げおろす速球が武器の本格派投手。
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重光芳次

2018-01-21 18:29:29 | 日記
1960年

広島の重光芳次投手は今シーズンかぎりで広島を退団したいと球団に申し入れた。球団側では来年もう一シーズンやらしたい意向をもっていたが、結局この申し入れをのむことになった。同投手はすでに山口県下松市の山門鉄鋼所に就職がきまっている。
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杉本公孝

2018-01-21 18:11:57 | 日記
1960年

三十日夜、国鉄入りの希望を語った立大・杉本公孝三塁手は三十一日午後三時半から東京都中央区日本橋蛎殻町の大野屋で上京中の父親・慶男氏と約三十分プロ入りについて話し合った。しかし国鉄を希望する杉本選手と広島を推す慶男氏との意見のくいちがいは調整できず、結論はきょう一日に持ちこされた。この日の話し合いで慶男氏は「広島以外のセ・リーグの球団にはいるのなら、いっそのこと広島に気まずい思いをしないようにパ・リーグへ」と杉本選手の説得につとめたが、杉本選手の気持ちを動かすまでには至らなかった。慶男氏の出した案によって本人の希望する国鉄と両親のすすめる広島、パ・リーグなら大毎・阪急の四球団が一応対象になり、杉本選手が姿をみせる前に国鉄・砂押コーチ、阪急・丸尾スカウトが慶男氏を訪れている。しかし杉本自身の気持ちは国鉄以外を考えていないようで、一日夜の話し合いでも杉本の気持ちは動きそうもない。

杉本選手の話「時間がないので、そう突っ込んだ話ができなかったが、僕の気持ちにかわりはない。母にも上京してもらって話し合いたい。そうすれば僕の気持ちをわかってもらえると思う」

父親・慶男氏の話「公孝の国鉄を希望する気持ちは相当強い。私としては仕事の関係から広島をすすめている。家内も広島以外のチームへはいるなら親子の縁を切るとまでいっている。国鉄へはいっては広島でゲームをやるようなとき気まずいことになりはしないかと心配だ。だから国鉄にはいるのならいっそのことパ・リーグの大毎か阪急を選んでもらった方がいいが、どうも気乗りしないらしい。きょうはゲームの前日なので長時間話ができなかった。あすの夜また話し合う。リーグ戦が終るまでには結論にこぎつけたい。もちろん私は広島をすすめ、パ・リーグというのは第二案だ。もうプロの関係者と会う必要はない。あとは親子で話し合うだけだ」

立大の杉本選手が三十一日、本人は国鉄、父親は広島入りを主張、お互いに譲らぬことから親子げんか?にまで発展したという話を聞いて、大毎の片岡スカウトは「ひょっとすると幸運は大毎にころがりこむかもしれない」とほくそえんでいた。その理由は「私が中学から大学へいくときも、明治、法政から話があり、その板ばさみになって、結局縁もゆかりもない早大にいくことにきまった。いま杉本獲得に動いているのは広島、国鉄、大毎、阪急。阪急は在京球団という条件から問題にならない。とすると、広島、国鉄の板ばさみになった杉本君はパ・リーグの大毎に走るというケースがありうるからね」ということだった。果たして大毎が漁夫の利をえるかどうか知らないが、片岡スカウトは果報は寝てまてといわんばかりに球団事務所でのんびりとテレビをみていた。

立大の杉本選手が国鉄入りの意思を明らかにしたが、同選手の獲得に動いていた阪急は案外のんき。というのは丸尾スカウトが岩国高を卒業するとき杉本をくどき、プロ入りに反対した両親から「大学を出ればノシをつけて阪急へ・・・」と口約束していたからだ。岡野代表は「本人がはっきりした理由があって東京にいきたいといえば仕方がない」とあきらめ顔だったが・・・。

かねて国鉄入りの希望をもらしていた立大の杉本公孝三塁手は、広島入りをすすめていた父親慶男さんとの意見のくいちがいから去就が注目されていたが、国鉄球団は七日「うちにはいることに内定した」と語った。発表は九日午後三時東京丸の内の同球団事務所で行われる。

北原代表の話「杉本君はうちにはいることになった。いろいろと心配したが、こちらの気持ちもよくわかってくれ、終始志をかえなかったのはりっぱというほかはない。内野がこれでさらにひきしまることになる」

杉本選手の話「入団する球団から早慶戦終了の翌日発表してもらう。父は岩国に帰ったが、両親の方へは電話で発表がすんだことを連絡するだけでいいことになっている」
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佐藤道郎

2018-01-19 05:14:54 | 日記
1971年

パの新人王佐藤道郎投手は歳男にふさわしい猪武者。クソ度胸、思いきったピッチングはさっそうたるものがあった。野村監督も絶賛してやまぬ「二位に進出できたのは、佐藤の力がものをいった。あいつの十八勝は、三十勝近い値うちがあった、新生南海、二年目も投手陣は佐藤が中心や」両リーグ一の五五試合に登板一四四2/3を投げて十八勝六敗防御率はパ第一位は2.05。交代終了(リリーフして最後まで投げ切ること)四七試合の日本新記録をつくり、セーブ・ポイント(勝ち試合にリリーフして最後まで投げ切ること)もと、抜群の働きだった。新人王の満票も当然だった。そのうえ、エピソードも猪武者らしかった。「先発、完投したい」と、シーズン中にダダをこねる、野村監督を困らせたこともあった。先発はわずか三試合。もっぱらリリーフの切り札としてマウンドに送り出されたのが不満だったが、それもいまはプロ意識にめざめて不満はない。佐藤投手は、「リリーフか先発かは、監督やコーチが決めることで、自分としては先発しろいえばいってもいいし、リリーフでも投げ切れるように力をつけたい」と、二年目の決意をのべる。佐藤をどういうふうに使うか、野村監督も、はっきりした発言はしていなかったが、いまの投手陣から考えると、やはりリリーフとしての登板が多そうだ。ただ心配なのは、一年目と同じようなピッチングがはたしてできるだろうかという点。これまで数多くの選手が二年目のジンクスに泣かされてきた。「佐藤にとっても、二年目は苦しくなると思う。ピッチングを研究されてきたし、一年目のようにラクには投げられないだろう」(古谷ピッチングコーチ)それは、佐藤も充分かくごしているようだ。「一年目はスライダーと直球だけだった。二年目はシュートを完全にマスターしたい。二十勝ラインに到達できるかどうかはコントロールのよいシュートを自分のものにできるかどうかで決まると思う。新人王の名にはずかしくないピッチングで、打倒ロッテ、優勝ですよ」
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スミス

2018-01-18 00:52:53 | 日記
1972年

右手の先発メンバー表をヒラヒラさせながら、上田ヘッド・コーチは「スミスや、スミスや」とまるでオニの首でもとったようにベンチにとんで帰ってきた。これなら勝てるという感じが、その動作にあふれている。その直後に約十分間のミーティングが行われたが、西本監督はただ一言。こういっただけだった。「どんなピッチングをやるかわからん。しかし相手(南海)は二位やからここらでたたいてやろうやないか」先発を江本とにらんで福本、ソレール、加藤と左打者を並べたこのオーダー。野村監督は逆にその裏をかいたのかもしれない。だが「なんや、スミスじゃ遊びやないか。意表をつかれた気持ちはまるでなかったな」(福本)という阪急ベンチのリラックス・ムードまでは計算していなかったようだ。福本四球、ソレール死球、加藤三振、長池四球と打者四人に3四死球というみじめな内容。たった十八球投げただけで一塁ベースに小さくなって戻っていくスミスの先発はいろんな疑問を残す結果になった。「テスト・ケースだった。どれだけやれるかを見たかったんや」という野村監督。しかし阪急を2・5ゲーム差で迫っていることを知らないはずはなかろう。ここで一気にたたけば、1・5ゲーム差。チームをグッと上昇ムードにのせられたはずだ。西本監督の疑問もここからはじまる。「首位攻防戦のしょっぱな。この一番大事な試合に、スミスを先発させるとはな。それなりの確信があったんやろうか。それともあとの投手が信頼できなかったのやろうか」そして、もう一つ首をかしげるのは一死一、二塁、長池のところでなおもスミスに続投させたことだ。長池も「ノムさん(野村)もブルペンを見て相当考えていたようや。だからぼくはてっきり江本がくると思っていた」という。その長池に四球を出してますます傷口は広がっていった。試合開始一時間前まで先発予定だった江本は、このあとにリリーフして打たれている。なにも左打者恐怖症にかかっているわけではない。今シーズン阪急戦に二試合に登板して福本、ソレール、加藤には二十三打数で五安打だけ。「右より左の方が投げやすい」という自信をもっていたほどだ。しかしピンチでのリリーフを苦手にしている。「ウチは勝たしてもらったんやからぜいたくはいえない。しらけた?勝つのにしらけるもなにもあるかいな」と笑う西本監督。大リーグで二十九試合登板。2勝4敗、防御率3.05というスミスの成績は八年前の話で、前日は大阪球場で三十球ほどのピッチングしかしていない。「肩が堅くなって、コントロールがもうひとつだった。大リーグで先発したかどうかは覚えていない」とマウンドでニヤニヤと白い歯を出していたが、たった十八球のKOではいいわけもできないだろう。五月三日の対ロッテ戦四回戦(東京)では六回無死からリリーフしてアルトマンに初球を右前安打されている。左打者用の投手なら、昨年阪急から2勝(2敗)をかせぎ、中八日休養の村上雅もいたのに・・・。

「右打者が並んできても、一イニング投げさすつもりだった。そのへんの理由はいえない」と口をとざす野村監督。スミスの3四死球で歯車が狂い、あとは五投手で13四死球のパ・リーグ・タイ記録までつくってしまった。奇襲作戦が完全に裏目となって、阪急と南海のゲーム差は3・5と広がった。
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スミス

2018-01-17 23:49:20 | 日記
1972年

南海のウィリー・スミス外野手(33)が三日、東京球場で行われたロッテ戦にワン・ポイント・リリーフで初めて登板した。左打者アルトマン封じ策で野村監督がうった思い切ったさい配だが、こんごも左打者にスミスをワン・ポイント・リリーフで使う方針だ。

スミスをレフトから呼んでアルトマンを押えニヤリと笑う。スミスも笑ってレフトへ帰っていくー。このシーンがロッテに勝つ一番手っとり早いやり方だと野村監督は思った。スミスは開幕前からピッチングをつづけていた。「お前はアルトマンを押えるんだよ」といい渡したのはもう一週間も前のこと。投げていた佐藤道は昨年、大阪球場でアルトマンにバック・スクリーンに打ち込まれている。野村監督の頭の中からその手痛い一撃がはなれない。「ミチ(佐藤道)アルトマンのときはレフトやで」と救援する前にいい渡している。「避難させられてチクショウと思ったかって?そんな余裕はなかったな。レフトにフライがとんでくるな、と思っただけですよ」苦々しい表情でベンチを出てきた野村監督。「外にはずせというたんや。なのに真ん中に投げてきよった」西岡が有藤に打たれた、たった一球ですべては終わり。だが、スミスについては決して悲観していない。「オレが間違っていた。アルトマンは初球は打ってこないと思うたんや。ど真ん中の球やった」右前に打たれたことについてもちっともこだわってない。「ストライクがこないのではないかと心配したが、見事なストライクがきたやないか。大したもんや。これからもワン・ポイントでどんどん使っていく」とキッパリいった。大リーグでは、エンゼルスで2勝4敗。もう八年近くも前のことだが、救援投手としての実績を持っている。左腕投手は村上雅一人だけ。その村上はまだ本調子でなく苦しいチーム事情だ。江藤、ロペスが抜けたといっても、まだまだロッテ打線はこわい。とくにせまい東京球場でのホームラン。中でもアルトマンの一発には神経をとがらせている。スミスも重い責任を負わされていることはよく理解している。「外側へ投げるつもりだったのに、甘かった。もう少し投げてみたかった。一球投げただけだが、これからの自信にはなった。ワン・ポイントは、去年の3Aのシラキュースで何度もやっている。あとは外野手から投手への頭の切り替えだけだ」という。ロッテ・大沢監督はこの場面を面白い野球の演出としか考えていない。「面白い野球もけっこう。でも、打たれちゃなあ」野村監督には面白い野球をやる余裕はない。ただ、勝つ野球だけを目ざしている。
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大橋勲

2018-01-17 20:24:47 | 日記
1966年

甲子園の全国高校野球大会にはいつも県予選の決勝戦で高知商に負け、出場できなかった。しかし、土佐高の看板選手として高校を卒業するとき阪急、近鉄から誘いがあった。父親のすすめで慶大に進学。明大の辻(現阪神)、立大の岡本(現産経)とならび、六大学の捕手三羽ガラスとなり神宮をわかせた。入団後は森の控えだったが、昨シーズンは30試合に出場して徐々に頭角をあらわしてきた。「坊ちゃんタイプでプロの世界には珍しいくらいの引っこみ思案」といわれているが、ことしはガメツイ野球をするそうだ。ひとツブだねの敬太郎君(1つ)の写真を肌身はなさず持っている。背番号7のユニホームをつけた敬太郎君をみながらパパのはファイトを燃やすそうだ。「昨年、自由契約になるかもしれないので、息子にユニホームを着せ記念写真をとっておいた。でもことしのシーズン・オフぐらいの成績を残したい」80試合ぐらい出場したいというのが念願だそうだ。
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皆木敏夫

2018-01-17 20:16:00 | 日記
1969年

映画俳優を思わせるほどの美男子。巨人で東京生まれは、荒川コーチ、王とこの皆木だけ。江戸っ子にはめずらしく、無口でおとなしい。昨年、シーズン初めに一軍のバッティング投手として投げこんだおかげで、後半球に力強さがでてきた。「内野手に代われといわれないように努力します」と一生懸命である。
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