昨日の訪問者数が27で閲覧数が599って・・・ボー( ▽ )・・・
なんかおとつい位からびっくりするような数字が並んでるんですよ^^;
今まで閲覧数がこんなに跳ね上がったことがないんですけどね?
読んでくれてはる誰かさんが前のを戻しながら見てくれてはるんですか?ウリウリ(* ̄ー)σ
そうならなにげに嬉しいんだけど(〃ー〃)フフフ
と気をよくしたところで
私の料理好きってどうやら祖母の影響なんですよ(=v=)ムフフ♪
母方の祖母なんですけど、とても優しい人でよく可愛がってもらいました。
92才で他界しましたから長生きですよね。
生まれた家は割に裕福だったそうですが、家業がうまくいかなくなって
髪結いに奉公に出たそうです。
明治時代でしたから殆ど日本髪ですけど、かなり腕がよかったらしくて
母が子供時代の頃にはとっくに仕事は辞めていましたけれど
日本髪の講師で時々美容学校にも呼ばれていたそうです。
さすがにいつも髪型はきれいにしていましたねえ。
祖母の鏡台には面白い形の櫛が入っていて、祖母の家に行っては
よく引き出しを開けてそれを見ていた記憶があります。
まあつまり祖母は器用だったと思います。
母が言うには昭和の初めには珍しかった洋食のレシピを本や新聞で読んでは
大学ノートに書いては作っていたとか。
そのノートは残念ながら太平洋戦争の神戸の空襲で焼けたそうですが^^;
人柄がよくてお話好きで優しいとなれば人が寄りつかない訳がないですよね。
誰とでもすぐに友達になれる才能がありましたねえ。
その割には私はかなり寡黙で人当たりが悪い(,,・x・)つ オヨ?
そっちは妹の方に遺伝したような・・・
まあそんなで人がしょっちゅう出入りする家で、よく料理を作っては出してました。
私が記憶する祖母の家の食卓にはいつも人が居たような感じがあります。
四角い座卓と丸いちゃぶ台をくっつけてその上にどっと皿が並んでいるのは
本当に壮観でしたよ。
戦争が終わって10年ほどなので、そんなに物が沢山ある訳ではありません。
煮物や刺身、焼き魚などが並んでいましたっけね。
子供の舌にも美味しかったのが残っています。
確か大皿には盛ってなかったと思いますよ。
各自にきちんと取り分けて整然と食器が並んでいましたっけ。
なぜ大皿では無かったというと、簡単です。物がなかったんですもん。
欲しいだけ食べられる時代ではありませんでしたよ。
私が好きなのはとろろと魚の目玉(*ノ∀`)ペチ
なんであんな物が好きだったのか(>▽<;; アセアセ
なんだか嬉々として食べてたような( ̄▼ ̄|||)
とろろは口がかゆくても食べてましたねえ。
私が好物なのでこれは孫の特権!
孫のためにと私が行くとよく作ってくれましたっけ。
もちろんお手伝いは当たり前~♪私はよい子ちゃんでしたからね。
祖母がすり鉢で摺り流して私はすり鉢を固定する役目です。
これは私の父もなぜか参加していたのを覚えています。
忙しい父がそんなに頻繁に祖母の家に行ったとも思えないんだけれど??
あぐらをかいた足の間にすり鉢を入れてゴリゴリしていたのを
見ていたような・・・だってその時には私は固定する役を降ろされましたし。
空襲で焼け出されて急ごしらえで建てられた、市電の線路沿いの家でしたよ。
祖母の家は歯科医で隣の同じ棟の家は獣医だったと思います。
待合室の隣に2畳ほどの畳があって引き戸の向こうに1メートルもない板間、
すぐ土間になっていてそこにブリキの流しとたった1口のガスコンロ。
これが台所でしたよ。
そんなところでよくまああの料理の数でしょう!
どんなに時間をかけていたか今思ったらくらくらっとしますねえ・・・
なんかおとつい位からびっくりするような数字が並んでるんですよ^^;
今まで閲覧数がこんなに跳ね上がったことがないんですけどね?
読んでくれてはる誰かさんが前のを戻しながら見てくれてはるんですか?ウリウリ(* ̄ー)σ
そうならなにげに嬉しいんだけど(〃ー〃)フフフ
と気をよくしたところで
私の料理好きってどうやら祖母の影響なんですよ(=v=)ムフフ♪
母方の祖母なんですけど、とても優しい人でよく可愛がってもらいました。
92才で他界しましたから長生きですよね。
生まれた家は割に裕福だったそうですが、家業がうまくいかなくなって
髪結いに奉公に出たそうです。
明治時代でしたから殆ど日本髪ですけど、かなり腕がよかったらしくて
母が子供時代の頃にはとっくに仕事は辞めていましたけれど
日本髪の講師で時々美容学校にも呼ばれていたそうです。
さすがにいつも髪型はきれいにしていましたねえ。
祖母の鏡台には面白い形の櫛が入っていて、祖母の家に行っては
よく引き出しを開けてそれを見ていた記憶があります。
まあつまり祖母は器用だったと思います。
母が言うには昭和の初めには珍しかった洋食のレシピを本や新聞で読んでは
大学ノートに書いては作っていたとか。
そのノートは残念ながら太平洋戦争の神戸の空襲で焼けたそうですが^^;
人柄がよくてお話好きで優しいとなれば人が寄りつかない訳がないですよね。
誰とでもすぐに友達になれる才能がありましたねえ。
その割には私はかなり寡黙で人当たりが悪い(,,・x・)つ オヨ?
そっちは妹の方に遺伝したような・・・
まあそんなで人がしょっちゅう出入りする家で、よく料理を作っては出してました。
私が記憶する祖母の家の食卓にはいつも人が居たような感じがあります。
四角い座卓と丸いちゃぶ台をくっつけてその上にどっと皿が並んでいるのは
本当に壮観でしたよ。
戦争が終わって10年ほどなので、そんなに物が沢山ある訳ではありません。
煮物や刺身、焼き魚などが並んでいましたっけね。
子供の舌にも美味しかったのが残っています。
確か大皿には盛ってなかったと思いますよ。
各自にきちんと取り分けて整然と食器が並んでいましたっけ。
なぜ大皿では無かったというと、簡単です。物がなかったんですもん。
欲しいだけ食べられる時代ではありませんでしたよ。
私が好きなのはとろろと魚の目玉(*ノ∀`)ペチ
なんであんな物が好きだったのか(>▽<;; アセアセ
なんだか嬉々として食べてたような( ̄▼ ̄|||)
とろろは口がかゆくても食べてましたねえ。
私が好物なのでこれは孫の特権!
孫のためにと私が行くとよく作ってくれましたっけ。
もちろんお手伝いは当たり前~♪私はよい子ちゃんでしたからね。
祖母がすり鉢で摺り流して私はすり鉢を固定する役目です。
これは私の父もなぜか参加していたのを覚えています。
忙しい父がそんなに頻繁に祖母の家に行ったとも思えないんだけれど??
あぐらをかいた足の間にすり鉢を入れてゴリゴリしていたのを
見ていたような・・・だってその時には私は固定する役を降ろされましたし。
空襲で焼け出されて急ごしらえで建てられた、市電の線路沿いの家でしたよ。
祖母の家は歯科医で隣の同じ棟の家は獣医だったと思います。
待合室の隣に2畳ほどの畳があって引き戸の向こうに1メートルもない板間、
すぐ土間になっていてそこにブリキの流しとたった1口のガスコンロ。
これが台所でしたよ。
そんなところでよくまああの料理の数でしょう!
どんなに時間をかけていたか今思ったらくらくらっとしますねえ・・・