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「かくありたし。かっこいい」というツイートに
曵かれて映画を観に行った。
東京渋谷の雑踏を抜け、路面店をいくつも通り越して
UPLINK (シアター)に辿りついた。
「美が私たちの決断をいっそう強めたのだろう/
足立正生」前衛的映画監督を撮ったドキュメンタリー
のシリーズ第1弾として「足立正生」を取り上げていた。
同時にUPLINK では足立正生の特集企画をやっていた。
胸の底のほうに沈んでいたものが起きあがって、くるくる
と回り踊り始め、たちまち血行が良くなっていった。
政治的前衛はつまりは左翼、極左、革命という意味だと
思っていいだろう。
すべては終わり飼いならされた大人しい羊のような時代
にモノ思う年頃になり、退屈で、世の中の嘘がキライ、
アレもコレもマチガッテル、沸々とした思いを向ける先も
なかった。私は父親の話と書物から革命の2文字を密かに
意識しながら成長した。
しょせん憧れにすぎない「革命」だったのだが。
フォロワーさんがなぜ「かくありたし」と言ったのか、
「かっこいい」とつぶやいたのか、すぐにわかった。
映画の内容はここで書きようもなくて、なぜならば
それは「観念的」とフォロワーさんが言っていた通りで
あった。
頭の中にイメージを積み重ねながら言葉を丁寧に慎重に
理解しながら観るフィルムだったのだ。
わかりやすい平板なドキュメンタリーもあるが、これは
「美が私たちの決断をいっそう‥」をシリーズのタイトルに
持ってきたというところからすでに始まっている実験で
ある。フィルムに何をどう焼き付け伝えるか、映画の手法
をつきつめた作品である。解説をしようがない。
観て感性で受け止める映像、カメラを感性に直結させた作品
と言ったらいいだろうか。足立正生という存在もまた感性の
人である。
芸術=感性なのであるが、芸術と呼べないシロモノが溢れる
昨今に感性という言葉がどれほどの意味を持つか疑わしいが
見えないものを感じ取る力、美を瞬間に捉える力と言えば
いいだろうか。醜に抵抗する力でもあるだろう。
即物的思考しかしないなら理解不能、まあ、理解される必要
もないということだ。
そして、足立正生という人の言葉の一つ一つをよく理解
している作り手(監督)が、それをなぞるのではなく自らの
意志をもって新たに創作(抽出)した足立正生を映しだして
いた。
革命が目的ではなく生きることが目的、生きるとは衝動で
ある。衝動を後押しするのは美、美は命の瞬間である。
まあ、そういうことをさらりと足立さんは語っていたように
受け止めたが、肉体と魂を一体化させるとそうならざるを
えないわけだ。ああ、そうそう、と頷きながら涙が溢れた。
前衛や左翼にありがちな理屈や理論武装などから遠く
隔たった世界観だ。
胸の奥深くに刻み込まれる言葉は「気」や気配となって
注意深くないと消えてしまう。それが映像に焼き付けられて
いた。
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で、猫の神様って何のことかといえば、本のタイトル。
初日に足立正生とトークショーをやった東良美季さんの
著書である。
東良さんの足立さんへのインタビュー記事が面白く、
ナニモノ?と調べていくうちに文庫化されていた
「猫の神様」に遭遇した。
表紙の、ごろんちょしている猫がうちの縁側住いの
ブチャと江戸を足したようなおかしな顔で(シツレイ)、
おまけに仰向けになって真っ白なお腹を見せているもんだから
ついさわりたくなって注文した。
後日、猫の神様はfacebookやブログで有名な存在だと、
知るに至ったが、最初は「かくありたし、かっこいい」で
始まり、猫との愛しい日々を綴った本に出会った。
選挙前の修羅の日々にほとほと嫌気がさしていた時に偶然、
手の中に良薬がころがりこんできたような二重のヨロコビで
あった。