想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

黒き心なくして

2012-12-20 09:30:02 | Weblog
丹き(あかき)心をもちて、清く潔く斎り慎み
と続く一文。「倭姫命世記」(旧事本紀)
黒きと宛ててきたなきと訓む。
続きは‥‥
左の物を右に映さず、右の物を左に移さずして
左を左とし、右を右とし、左に帰り、
右に廻る事も万事違う事なくして大神に仕え奉れ
元を元とし 本を本とする故なり。

雪が激しく降りつける夜道を走って家へ急いでいる時
この、左を左とし右を右とし‥が脳裏に浮かぶ。
雪が必ず降ってくる。
春は廻るけれども、この寒い季節を経なければ来ない。
冬は用(まどき)という時の働きだ。
ゆるがせになっていたものを調整する時を与えられて
元へ正して春に備える時だ。



わたしは私はという言葉を極力使わないように注意
しながら文を書くよう努めてきた。
うっかりするとすぐに「私は」から始まるのだ。
「私は」から「思う」と結ぶ。それは普通に書かれた
文章によくあることだが、なぜそうしないように努める
のか。

うっかりするとそうなるというのは常に誰にも「私」
が在るからだ。私を以て生きている。
それが人のサガ、そう考えるのも普通のことだろうが、
その「私」は黒き心を生んで行く元でもある。
私に限ってと思うなら、すでに少し黒い点々に侵さた
証拠だ。
わたしは私はと書かなくてもわたしの気持ちはそこに
表れることがよくわかった。
振り返ってそこの「私」が散見する文章を見つけた時
恥ずかしい。

「私は」と書いても恥ずかしくない人になろう、とは
思わない。人とは油断するとすぐに間違う。
私に限ってそういうおっちょこちょいだとしても、
「私は」から遠く遠く離れたところに生きたいと願う。

「私は」が無い世界で、わたしはつかのましあわせを
感じる。
嬉々とし、嬉々としたあまり我に返ってしまった。
そういうことが度々なのだ。
あ~、と残念がる我を残して。

この世が朽ち果てた時、人はどこへ帰るのだろうか。
この世の証が、その肉体だと思う者は灰と化すと言う。
その灰はどこへ葬られるのか。
葬られた土の中で、「私」は終わっているのだろうか。













コメント
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