若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

枝野演説にツッコミ入れて疲れた件 ~ 長いよ、長すぎるよ ~

2018年08月25日 | 政治
立憲民主党の枝野氏が国会で行った2時間43分の演説。

世間で反響があり、解説付きで書籍化されたそうだ。金を払って読むよりも、国会での発言なのだから会議録をタダで読む方がスマートだと思う。

ということで、会議録を読んでみた中で気になったものを取り上げてみよう。

枝野演説では不信任決議案を提出した理由を七つ挙げている。

【①労働問題 身分制を肯定する枝野演説】


高度プロフェッショナル制度批判を展開する枝野氏。

○第196回国会 本会議 第45号(平成30年7月20日(金曜日))
======【引用ここから】======
 そもそも、近代労働法制というのはどこから始まったのか。それは、一日八時間労働が原則であるという、その原則を法定し、しっかりと守らせる、これこそが、労働法制の世界における、近代社会としての大前提であります。
 高度プロフェッショナル制度は、さまざまな言い方をしていますが、この近代国家においては大前提である、労働者の労働時間はしっかりと把握、管理し、一日八時間労働が原則である、八時間を労働に、八時間を睡眠に、そして残り八時間をそれぞれの自由な時間に、これこそが人間らしく生きるための最低限のベースであるというのが近代社会の大前提である、この制度の外側に置く労働者をつくるというのが、この高度プロフェッショナル制度の本質であります。結果的に長時間労働させ放題になる。
 我々は当初残業ゼロ法案と言っておりましたが、もっとわかりやすく言えば、定額働かせ放題の制度である。

======【引用ここまで】======

枝野演説では、労働時間に主軸を置いた労働管理を提唱している。
労働者を時間で管理し、残業代を支払うことに妥当性があるのは次のような場合だ。

======
 工場のラインで部品が流れてくる。
 1時間で30個の組み立てができる。
 納期に間に合わせるため、使用者が従業員を2時間残業で作業させた。

======

使用者は、従業員を2時間残業させて製品60個分を販売することができるようになった。使用者が労働者に残業代を支払う。
この結論に異論を投げかける人はいないだろう。労働時間と成果が連動していると推定できる場合は、労働者を労働時間で管理し残業代を払うことに合理性がある。

この考え方は、産業革命後、枝野氏のいう近代労働法制が始まった頃の工場労働者を念頭に編み出されたものだと思う。

では次の場合はどうだろうか。

======
 使用者が今日中と指定して書類作成を二人の事務員に頼んだ。
 Aさんは定時までに書類を仕上げた。
 Bさんは定時まで漫然と過ごし、その後2時間かけて仕上げた。

======

労働時間での管理を軸とする枝野理論では、Aさんには残業代が支払われないが、Bさんには残業代が支払われることになる。
この結論に対し首を傾げる人は多いと思う。

ここで、職能給・身分保障・年功序列の賃金体系により、AさんよりもBさんの方が時間単価が高かった場合、矛盾はさらに大きくなる。Aさんとしては
「自分より仕事が遅いのに基本給の高いBさんが、同じ仕事内容なのに追加で残業代貰うなんておかしくないか」
と不満を感じるはずだ。

これが常態化すると、Aさんも稼ぎを増やそうと考えBさんに倣って定時後に書類を仕上げるようになる。そして、残業時間の申請が増えてくると、使用者は基本給減額・残業代増額の給与体系に切り替えたり、残業代に天井を設けたりすることで人件費総額の帳尻を合わせようとする。

このように、労働の成果と労働時間との間の関連性が希薄になっていくと、時間管理による残業代の支給を合理的に説明することは難しくなる。残業代が出るならダラダラやった者勝ちになり、生産性が低下する。だからこそ欧米では、労働管理を時間中心に行い労働時間と賃金を連動させる近代労働法制から一歩進め、職務内容や成果に応じて賃金を定める職務給に切り替えてきた。いわゆる「同一労働同一賃金」である。
枝野演説の中で
「近代労働法制というのは~」
「近代社会の大前提~」
「近代国家においては~」
と言えば言うほど、
「お前の頭は産業革命直後で止まっているのか」
と突っ込みたくなる。

枝野演説では「労働時間管理を取っ払ってはダメだ」というのみで、正規雇用の職能給(≒身分給)と若手へのしわ寄せ、雇用と社会保険の抱き合わせ、解雇規制から生じる中途採用の抑制等、現行の労働法制から生じる諸問題に触れていない。過労死の背景にある日本型雇用への批判が見られない。

正社員を一度雇うと容易に解雇できないため、一時的な作業量の増加を正社員の増員で対応するのは難しい。仮に高度プロフェッショナル制度を今から廃止できたとしても、現在横行しているサービス残業はなくならないだろう。正社員の身分保障を維持しつつ業務量の増加に対応するためには、正社員に残業をさせるか、非正規雇用で増加分の作業をカバーするかの選択肢しかない。枝野理論では正社員と非正規雇用の身分格差は解消されないし、サービス残業も減らない。

職能給(≒身分給)にまつわる不都合を放置したまま勤務時間による労働管理を肯定する枝野理論は、むしろ過労死の温床だ。解雇規制を撤廃し、契約を当事者間の意思に委ねて「この業務を○○円で引き受けます」といった職務給体系に切り替えていくことが過労死問題を解決する糸口だと思うのだが、枝野演説からはそうした発想が全く見えてこない。

高度プロフェッショナル制度は解雇規制について何ら踏み込んでいないので、労働にまつわる諸問題の解決には寄与しないだろう。しかし、高度プロフェッショナル制度を批判しても問題は解決しない。
むしろ、批判が嵩じて

======【引用ここから】======
この制度が形式的に当分続く間も、我々はさまざまな皆さんと連携をしながら、実際にこの制度を導入する企業が生じないように厳しくウオッチをし、もしそうしたものが見つかった場合には国会内外で厳しく指摘をしていく、そのための監視活動を全力を挙げて取り組んでいくことをこの場で申し上げたいと思っています。
======【引用ここまで】======

と監視社会の招来に全力を挙げる方が危険だ。

【②ギャンブル問題と保守思想】


枝野演説では、次にカジノ法案批判へと移る。

======【引用ここから】======
 七世紀末、我が国は持統天皇の時代ですが、すごろく禁止令が発令されました。以来、我が国は、千年を超える期間、賭博は違法であるという法制度のもとで歴史と伝統を積み重ねてきました。例外は、公営ギャンブルという、財源確保のためにやむなく行われた非営利目的の特別なものだけであります。
 カジノの収益で経済成長を目指す。そもそも、千年以上にわたって違法とされてきたものを使って利益を上げて、そして経済を成長させる、そのこと自体がみっともない政策ではないですか。
 持統天皇以来の歴史を一顧だにもせず、こんなばかげた制度を強行する人たちに、保守と名乗ってほしくはありません。

======【引用ここまで】======

「公営ギャンブルで財源確保をする、そのこと自体がみっともない政策ではないですか。持統天皇以来、賭博を違法としてきた歴史があるのに、国・地方公共団体が胴元になる公営ギャンブルというばかげた制度を容認する枝野氏に、保守を語ってほしくありません。」

・・・というブーメランが成立する。
そんな皮肉はさておき。

日本の長い歴史の中で、時の政府はギャンブルを表向き禁止してきた。
しかし、天武天皇がハマり、白河法皇が「サイコロの目が思うようにならない」と嘆き、岩倉具視が屋敷でテラ銭を取るエピソードが大河ドラマで紹介される等、日本の歴史上ギャンブルを根絶できたためしは無いといっていい。

みんなギャンブル大好きなのだ。

津々浦々の駅前や幹線道路沿いにパチンコ屋が並び、47都道府県のうち公営ギャンブルが無いのは長野と沖縄だけという現状で、
「カジノ法案はギャンブル依存症を増やす」
とかピンボケも甚だしい。
これだけギャンブルに溢れた日本で生活していれば、依存症になる人はとっくの昔になっている。

ギャンブルをやっている本人はやりたくてやっている。
ギャンブルを規制しても根絶できたためしがない。
公営ギャンブルとパチンコの業態だけが許され不正な利権が生じる一方、その他のギャンブルは違法であるが故に地下に潜り暴力団の資金源となる。

いっそのことギャンブルを全面解禁した方が良いのではないか。
ギャンブルするかしないかは、各個人の道徳心、自制心に委ねるべきではないか。

カジノ法案は要らない。しかし同時に賭博罪をはじめとするギャンブル規制も要らない。

枝野演説は、
「日本政府は、僕が良いと考える規制は強化すべきである。また、1500年以上の歴史の中で僕が良いと思った伝統も残すべきであるが、人権意識や男女平等、労働法制といった欧米輸入の150年程度の思想であっても僕が良いと考えるものは採用すべきである。」
というわがままでしかない。
人間とは不完全な存在であるという謙虚な人間観」に基づく「保守の本質」から遠くかけ離れている。

「人間とは不完全な存在であるという謙虚な人間観」という保守思想のあり方に立脚するのであれば、中央政府が作成した特定の制度を全国一律に適用することに対し懐疑的であるはずだ。規制を立案した政府当局の担当者もまた不完全な人間である。その立案者の不完全さを1億2千万人に当てはめたら1000万人くらいに対し予想しなかった不利益をもたらしてしまうかもしれないと考えた時、保守思想に立脚する者であれば慎重になるはずだ。

だから、保守思想に立脚する者は小さな政府の考え方と親和的である。政府が全国一律に適用する制度、規制は極力少なくし、地方自治体、地域、団体、個人がそれぞれのレベルで不完全ながらも各自で試行錯誤を繰り返していった方が、失敗した時の傷が小さくて済む。個人や小さな集団で取り組んだ試行錯誤が少しずつ世の中を良くしていくのであって、中央政府が1億2千万人にいきなり特定の制度を当てはめて実験するなんて思い上がりも甚だしい。不完全な個人が試行錯誤して失敗しても1人の失敗で済むが、不完全な中央政府当局の担当者が失敗すると1億2千万人の生活が脅かされる。

【③金融緩和自体は肯定してしまう枝野演説】


保守思想とかけ離れた典型例が、1億2千万人を巻き込んだ金融緩和と財政出動による「アベノミクス」なはずだが・・・

======【引用ここから】======
 あえて申し上げますが、徹底した金融緩和、円安を目的としていたとは言えないにしても、そのことによる円安。財政出動。確かに、かつては正しい経済刺激策だったと私は思います。今回も、輸出企業の収益増など、一定の部分的な成果は上がっていることを認めます。
 しかし、先ほど申しましたとおり、そもそも、こうした手法が通用するこの百五十年間の状況と、我が国の置かれている状況が、根本的に変化をしているのではないか、そのことが問われているのではないでしょうか。だから、本来効果が上がるはずの金融緩和をとことんアクセルを踏み、財政出動にとことんアクセルを踏んでも、個人消費や実質賃金という、国民生活をよりよくするという経済政策の本来の目的にはつながらないところでとまっているのではないでしょうか。

======【引用ここまで】======

言っていることがサッパリ分からない。
金融緩和と財政出動が正しい経済刺激策だった?
本来効果が上がるはずの金融緩和」??
そんなわけがない。

金融緩和こそが、少し先のバブルとその後の長い不況の原因。金融緩和が要らざる景気の波を生じさせ、資源の浪費を招いて国民生活が貧困化し、長い調整期間の中で苦しむことになる。

また、景気刺激を目的とした財政出動は支出の規模の大きさを念頭に置いたものになりがちであり、そのため非効率な支出を招く。少々の無駄であっても目をつぶってしまう傾向にある。
財政出動した直後は事業の関係者の財布は潤うが、その瞬間だけである。1周して終わりである。財政出動によって出来上がった制度やインフラが支出額を上回る有用なものでなければ、長期的には人々の生活は貧しくなる。穴を掘って埋めることを繰り返せば、その労力が失われた分だけ人々の生活水準は下がる。

金融緩和と中央政府による財政出動は否応無しに全国民を巻き込んでしまう。
保守思想の謙虚さ、慎重さに立脚するのであれば、口が裂けても
かつては正しい経済刺激策だったと私は思います
なんてことは言えないはずだ。

アベノミクスをはじめ今まで行われてきた様々な金融緩和と財政出動による景気刺激策は、瞬間的な好況と長引く不況の原因であり、1億2千万人を巻き込んだギャンブルである。だからこそアベノミクスはダメなのだ。
にもかかわらず、「かつては」という注意書きが付いているとは言え「正しい経済刺激策だった」と肯定してしまったのは非常に残念である。

結局のところ、枝野演説は
「安倍政権のやった金融緩和と財政出動はダメだった。僕の考える方法で金融緩和と財政出動で経済刺激策をやれば上手くいく」
と言いたいだけである。不完全な人間の立案を全国民に適用するという観点では安倍政権も立憲民主党も同じ穴の狢であり、保守思想からは程遠い。

アベノミクスは予定した経路で経済の好転を実現することはできなかった。同じように、立憲民主党が政権をとったとしても枝野演説で示す経路での経済の好転はしないだろう。立案するのが人間である以上は、その人間が持つ不完全さから逃れることはできない。だからこそ、単一の政策に1億2千万人を巻き込むことに慎重でなければならない。

======【引用ここから】======
 あえてつけ加えれば、労働法制などを、むしろ規制を強化することによって、働いた賃金に応じて、所得を得る、そうしたことがすきっと回っていく社会をつくっていかなければなりません。
 例えば、我が国では、トラック運送などに携わるドライバーの方が大変な人手不足です。低賃金で人手不足です。後で申し上げる介護や保育の皆さんと同様です。おかしいんです。先ほど申しました、価格は需要と供給のバランスで決まるんです。それが、資本主義社会であるならば大原則です。人手不足であるのに低賃金というのは、マーケットがどこかでゆがんでいるからです。そのゆがみを正すのは政治の役割です。

======【引用ここまで】======

ここでも、枝野理論が保守思想とは程遠いことが見えてくる。
なーにが「私こそが保守本流である」だ。

不完全な政府当局の担当者が立案した労働法制。
担当者が場当たり的に制度改正を立案し、国会議員がこれを追認するということを繰り返してきた結果、雇用の流動性は著しく低下。正社員の身分保護を過剰にした反動で雇用の調整弁として利用してきた非正規雇用との格差が拡大。とりあえず正社員になれた者は辞めて非正規になることを恐れ、会社からの無理な指示であっても断れなくなる。労働法制がロスジェネ問題やブラック企業、過労死を生んでいる。

また、運送や介護、保育といった業界は、強固な参入規制や価格統制等の諸規制を受けている。
政治によって単価設定がされ、
政治によって従事者数が決められ、
政治によって勤務内容が決められ、
政治によって施設面積が決められ、
政治によって業界全体がゆがみにゆがんでいる。
これらの業界では、結果として従事する労働者の賃金にしわ寄せがいっている。

政治でゆがみを正すんじゃない。
政治が、中央政府による一律の規制が、市場経済のあり方をゆがめてきた。
それなのに「むしろ規制を強化する」なんて狂気の沙汰である。規制当局の担当者の立案を全国民に押し付けるという恐れ知らずの姿勢は、謙虚さをモットーとする保守思想とは相容れない。

もし政治に役割があるとすれば、
「どの規制から外していこうか」
という順番を議論することくらいだ。
外していく過程が利権化する可能性があるし、規制によって利益を得ていた層は抵抗するだろう。それでも、一つずつ規制を外していかなければ市場経済のゆがみは未来永劫是正されることはない。

【④モリカケ問題と行政への過信】


この
「どの規制から外していこうか」
を議論の俎上に載せたとたんに、既得権益層が抵抗して大騒ぎになった事例がある。
獣医学部新設問題である。
50年にわたり新設を一度も認めなかったという行政のゆがみを、枝野演説ではどう取り扱うか見てみよう。

======【引用ここから】======
 国家戦略特区に至るプロセス、獣医学部の設置認可に至るプロセス、まさに行政の中立性、公平性を損ないかねない疑惑であります。これに全く真摯に対応していないどころか、真実に目を向けぬ姿勢がもはや明確であります。
======【引用ここまで】======

枝野演説ではモリカケ問題を長々と論じているが、その中で

「法律ではなく文科省の告示によって獣医学部の新設が禁止されていた」
「獣医師会の働きかけによってこの文科省告示が長らく維持されていた」

という行政の根本的なゆがみに触れている個所は全くない。

獣医師会はその会報の中で、文科省や農水省に影響力のある国会議員に対し
「獣医学部の新設を認めるな」
「新設を認めるとしてもせめて1校で」
と要請活動を繰り返した事や、その中で「石破4条件」を勝ち取った旨を会員に報告している。

こうした既得権益層の側面を論じることなく、規制緩和を求める側の瑕疵のみをあげつらう枝野演説には賛同できない。

ところで、中央官庁の役人や国会議員に対し個人や企業、団体、自治体が陳情・要望活動を行うということは広く一般的に行われている。官邸に対しても同様である。

○安倍晋三内閣総理大臣を表敬訪問しました - 日本税理士政治連盟
======【引用ここから】======
日税政は12月24日、日税連の神津会長とともに、首相官邸において安倍晋三内閣総理大臣を表敬訪問しました。
 当日は日税政から小島忠男会長、内藤信子政策委員長、中川常彦副幹事長が、日税連から神津信一会長、日出雄平副会長、和田榮一専務理事が同行し、税制改正建議を始めとした日税政の活動についての理解を求めました。

======【引用ここまで】======

○平成24年11月22日 那覇空港拡張整備促進連盟による要請 | 平成24年 | 総理の一日 | 総理大臣 | 首相官邸ホームページ
======【引用ここから】======
 平成24年11月22日、野田総理は総理大臣官邸で、那覇空港拡張整備促進連盟による要請を受けました。
======【引用ここまで】======

広報ほこた2015(H27) 7月号
======【引用ここから】======
 6月11日、全国有数の生産額を誇る「鉾田メロン」のPR、ラムサール条約湿地に登録された汽水湖「涸沼」を活用した積極的な観光客誘致活動のため、安倍首相及び林農林水産大臣を表敬訪問しました。
======【引用ここまで】======

こうした要望活動の後で、要望に沿った形で制度改正、事業実施、補助金採択や許認可が行われた場合、すべて「首相の意向により行政がゆがめられた」と言うのだろうか。
陳情をうけて、首相が「さっきの陳情はいい内容だったから、改めて党や関係省庁で議論できないかな」といった話を所管大臣や党役員、周囲の補佐官とかに伝えたとして、それが果たしてここまで問題視することだろうか。
(何らかの形で首相から周囲にこうした声かけがされることを期待して、皆こぞって官邸詣をしているんじゃないの?)

この過程で
「○○連盟の関係者から首相に対し100万円が渡された」
みたいなことになれば話は別だが、そうした金品授受の形跡が今のところないにも関わらず「これらだけでも内閣が三回ぐらい吹っ飛んでもおかしくない」というのは大げさである。
(生活保護申請に○○党の地方議員が同行して口利きをし、審査を早く終わらせ支給開始にこぎつけた後、○○党員に勧誘して保護費から党費を徴収し機関紙購読をさせる方がよほど問題だ。)

さて。

こうした話は枝葉末節。
モリカケ騒動の根本原因は、憲法が守られていないことにある。

======
日本国憲法
第八十九条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

======

私学の設立運営に対して予算を支出することによって、大学は文科省の顔色を窺うようになった。文科省から多くの大学が天下りを受け入れる等、私学の独立性が失われている。モリカケ騒動にしろ、前川前次官の天下り斡旋にしろ、補助金採択と裏口入学のバーターにしろ、全て税金で学校設立や運営に対し補助、助成をしているところに原因がある。

「私学助成は必要だから合憲として解釈しよう」という考え方が横行しているが、立憲主義に照らして公権力の活動を抑制しようとするなら、私学助成は違憲として禁止すべきだし、せめてもっと抑制的に運用されるべきではないか。

立憲民主党が立憲主義を掲げるのなら、ぜひ、憲法89条の理念に立ち返り、私学助成や研究ブランディング事業といった文科省管轄の補助金の類を全廃し、文科省の廃止を主張してほしい。そうして初めて、学問の独立は達成される。

補助金あるところに不正受給あり。
「私学への助成は必要である。文科省の告示による規制や担当者による審査といった裁量的判断も必要である。公務員はこれを公平に運用できるはずだ」
というのは妄想である。
裁量的判断にゆだねると公務員は不正をはたらく。不正にまで至らなくとも、行政の手続きは煩雑であり、支出内容は非効率である・・・という前提に立ち、各省庁が所管する裁量的な補助メニューを減らしていくことが、再発防止への唯一の道だ。

枝野演説には
行政の中立性、公平さに対する信頼が、急激、著しく、今、劣化をしています。
とある。
今になって劣化したのか、昔から劣化していたのかの評価は分かれるが、今の時点で劣化しているという判断は私も同感である。劣化している行政組織に補助金を出す権限を認めるのは「盗人に追い銭」である。

======【引用ここから】======
多くの一般の国民の皆さんの国民生活だって、役所から来る公文書は正しいものだという前提でほとんどの国民の皆さんは暮らしています。役所から、例えば納税の通知書が来れば、自分で一々計算し直してみて、自分の税額が合っているかどうかなんて調べる人は余りいません。役所からあなたの年金額は幾らですという通知が来れば、年金何とか便というのをつくって過去の支払いの実績がチェックできるようにはなっていますが、毎回毎回きちっとチェックする人はそういらっしゃいません。
 役所は、そうはいったって、役所のつくる文書は正しいんだという信頼関係のもとに社会というのは成り立っています。この公文書改ざんを、このままで、臭い物にふたをしてしまったのでは、この社会全体の公文書に対する信頼が揺らいだ状況を放置するということにほかなりません。これも、社会そのものを壊してしまうことにつながっていくと私は強く危惧をしているところであります。

======【引用ここまで】======

政府は間違っている。
不信感のもとに政府を規制しているのが憲法である。
そういう不信感の中で成り立つ社会の方が、よほど健全である。

「役所は正しい、役所から来る公文書は正しい、役所に頼んだらどうにかしてくれる」
政府信仰とも呼べるような過剰な信頼が役所依存を生み、役所にきめ細かい行き届いた制度を求め、結果として制度は複雑になった。
制度改正を繰り返して複雑化した税、福祉、社会保険。この各分野において、公文書を発行する担当者の中で制度全般を把握できている公務員はごく少数だと思う。公務員は間違える存在だという前提に立った方が安全である。

【⑤民主主義 ~ みんなで一つのことを決める必要性を問え ~】


次に、枝野演説の話題は民主主義に移る。

======【引用ここから】======
仲間内で御飯を食べに行こう、すしにしようか肉にしようか。意見が分かれたら多数決で物を決める、みんながそう言っているから、じゃ、きょうはそうしようというのはわかります。しかし、例えば、その中に足が不自由で車椅子の方がいらっしゃれば、ほかの皆さんが、あの店がうまいからここにしようとみんな思っていたとしても、車椅子の方ではなかなか入れない、バリアフリーになっていない店は除いて、その中でみんなの多数意見はどこだろうかと聞くのは当たり前じゃないですか。
======【引用ここまで】======

例えば、車椅子利用のAさんがいて、
「今回はAさんの昇進祝いでご飯に行こう」
という集いだったら、集いの参加者が選択肢からバリアフリーになっていない店を除くだろう。
しかし、ただ単に
「美味いものを食べに行こう。最近できた寿司屋が美味いんだよね」
という声かけだったとして、その寿司屋がバリアフリーになっていなかったとしても問題ない。
車椅子利用のAさんや生魚がダメなBさんは参加を強制されていないのだから。

枝野氏をはじめ民主主義の信奉者は
「その事をみんなで決めないといけませんか?強制参加ですか?」
というところを雑に考える。
強制参加を前提に、安易に
「さぁみんなで決めよう」
と考える。

みんなで行かないといけないから、話し合ったうえで多数決に問わなければならなくなる。
10人でご飯に行くことを強制された場面で、魚を食べたいAさんと生魚がダメで牛肉を食べたいBさんがいるとして、参加者がそれぞれ意見を述べて熟議を重ねる中で
「牛肉は胃がもたれるからなぁ」
「魚がダメな人は、玉子やカッパ巻きを食べたらいいじゃない」
といった声が多く、採決の結果7:3で寿司屋になったとする。
この時、Bさんは納得するだろうか。
「私の意見が全く反映されてないし、そもそも強制参加なのがおかしい」
と感じるのではないか。納得とはほど遠い。

======【引用ここから】======
 なぜ、民主主義において多数決という手段が使われるのか。それは、多数の言っていることが正しいからではありません。熟議を繰り返した結果として、多数の意見であるならば、少数の意見の人たちも納得するからです。多数決というのは、少数意見の人たちも納得するための手段として多数決が使われるんです。少数意見を納得させようという意思もない多数決は、多数決の濫用です。
======【引用ここまで】======

上記のとおり、私は枝野演説の内容やその背景にある考え方に賛同できない点が多い。もし立憲民主党が多数派となって政権をとったとして、おそらく私は立憲民主党政府の定めた法律や制度に納得できないだろう。

熟議を繰り返したら反対する少数派も納得してくれるはず、というのは安易な考え方だ。人は考え方をそう簡単には変えることができない。考え方の背景にはその人の生き方や哲学がある。どういった考え方、生き方、哲学を持つかは個人の自由だが、民主主義はこの自由な領域に踏み込んできて
「熟議を尽くした。少数派のお前も納得しろ。熟議の末のルールなんだから黙って従え」
と迫ってくる。民主主義と自由主義が対立する場面は決して少なくない。

人は簡単には納得しない。納得させようとする意思があって納得させようと努力しても、絶対に納得しない人は残る。民主主義という「みんなで何か一つのことを決めよう」というまな板に議題が載せられた瞬間、多数派と少数派に分かれ、さらに絶対に納得できない人が出てきて、最後は民主主義の名の下に少数派の意思は蹂躙される。

だからこそ、民主主義のまな板に載せることは極力避けなければならない。個人の判断や当事者間の契約に委ねるべきである。個人の生活のさまざまな場面に法律や行政が散々介入しているのに、新たな法律や制度をもって介入する場面を増やそうというのは、民主主義の濫用である。民主主義は必ずしも正義ではない。

【⑥立憲民主党は立憲主義を殺した】


長くなってきたので、この項目で最後。

======【引用ここから】======
 ここは余り長く繰り返しませんが、集団的自衛権は憲法違反である。誰が言ったわけでもありません、歴代自民党政権が積み重ねてきた憲法の解釈を一方的に変える。憲法という、どんな数を持っていてもこういう理不尽なことをやってはいけませんよと決めているルールを、憲法改正の手続もとらずに、勝手に無視して集団的自衛権の一部行使容認を進めた。まさに立憲主義も立憲民主主義もわきまえない姿勢である。
======【引用ここまで】======

現在の自民党政権が変えたのは、憲法ではない。
「歴代自民党政権が積み重ねてきた憲法の解釈」である。
「その解釈は憲法に違反している、逸脱している」と批判するなら分かるが、「自民党政権が自民党政権の憲法解釈を憲法改正の手続もとらずに変えるのはけしからん」という批判は意味が分からない。

======【引用ここから】======
 集団的自衛権の行使については議論があります。しかし、自衛隊の存在が憲法違反でないことは、既に明確であり、定着をしています。安倍総理は、憲法違反かもしれないと思いながら自衛隊を指揮していらっしゃるんですか。憲法違反かもしれないと思いながら予算を計上しているんですか。私も含め、自衛隊予算を含む予算に賛成したことのある者は、自衛隊は合憲であるとの前提に立たなければ論理矛盾になります。
 確かに、私が子供のころは、自衛隊は憲法違反であるという意見も少なからず存在をしていたことを知っていますが、そして、ある時期までは、国会における野党第一党が自衛隊違憲論に立っていたのも知っていますが、念のため申し上げますが、野党第一党である立憲民主党は、自衛隊は合憲であるという明確な立場に立っております。

======【引用ここまで】======

集団的自衛権で揉めた際、立憲民主党(当時は民主党だっけ?)は、
「憲法学者の多数が、集団的自衛権は違憲だと言っている!」
と主張していた。

ただ、その憲法学者の判断は・・・

○朝日新聞 憲法学者の「自衛隊の合憲性」アンケート回答、紙面化せず 日本報道検証機構, 2015年7月23日
======【引用ここから】======
安全保障関連法案の合憲性をめぐり、朝日新聞は7月11日付朝刊1面で「憲法学者122人回答 『違憲』104人『合憲』2人」と見出しをつけ、独自に実施した憲法学者へのアンケートの結果を報じた。回答者の大半が安保法案について違憲か違憲の可能性があると答えたことを中心に伝える一方、「自衛隊の存在は憲法違反か」という問いに回答者の6割超の77人が違憲もしくは違憲の可能性があると答えたことを紙面版記事に載せていなかったことが、わかった。
======【引用ここまで】======

「自衛隊がそもそも違憲。だから集団的自衛権なんてもってのほか」
という考え方の憲法学者が6割以上いるのだ。
枝野氏が子供の頃の話ではない。つい数年前の話である。

憲法9条ができた後しばらくは戦力と呼べるようなものはなかった。
ところが国際情勢が変化する中で自衛隊が誕生した。
確かに必要だっただろう。
しかし、どれだけ必要だったとしても、当時の国会における多数派が承認したとしても、自衛隊の存在は憲法の文言に反している。少なくとも憲法学者の6割はそう考えている。違反した状態が長く続いているに過ぎない。

憲法は「どんな数を持っていてもこういう理不尽なことをやってはいけませんよと決めているルール」である。
演説でそう主張する自称・立憲主義者の国会議員が、同じ演説の中で
自衛隊の存在が憲法違反でないことは、既に明確であり、定着をしています
と言ってしまったのだ。
「憲法の文言には政府に対する現実的な拘束力がない、定着してしまえばそれで良い」
と言ってしまったようなものだ。
この立憲民主党代表の演説によって、立憲主義は死んだ。私はそう思う。

もし、このダラダラと長い演説の中で、枝野氏が
「私は過去に自衛隊予算に賛成したことがあります。内閣の一員として自衛隊を指揮する側に居たこともあります。その私が主張するのは矛盾かもしれませんが、本当に憲法9条に自衛隊が違反していないと言い切れるでしょうか。改めて立憲主義の重要性を考えた時に、今の自衛隊のあり方、規模、装備、活動範囲、そういったものを憲法の文言に照らしてその上限を厳格に規定し直し、現行の自衛隊を廃止、もしくはその上限をはみ出た部分を削減することが必要ではないでしょうか。」
くらいのことを言ってくれたら、立憲主義者として評価できたのに。

自衛隊は合憲、個別的自衛権も合憲、でも集団的自衛権は違憲という見解について、整合性のとれた説明を見たことがない。枝野演説にあるように「定着しているから自衛隊は合憲」がまかりとおるなら、「集団的自衛権も定着しているから合憲」もOKになる。




演説では大きく7項目が挙げられていたが、ここでおしまい。

以上、枝野演説をざっと眺めてみたが、2時間43分の分量はまあ長い。
これを全文テキスト起こしした人や、現場で聞いてた人は大変だっただろう。
この長さに呆れてしまった人も多いのではないか。
コメント (1)
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