若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

ゆるリバタリアン・蛭子さん

2020年10月26日 | 政治
どうもこんばんは、若年寄です。

今日のお題は、私が好きなタレントの一人、蛭子さんのお話。

「蛭子さん」が語る認知症との闘い 襲い来る幻視、麻雀をやめた後悔、奥さんへの感謝(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース

認知症であることを公表した蛭子さんのインタビュー記事。
基本的には意識がハッキリしていて会話も成立するけれど、ときどき、場所や持ち物の把握ができなくなったり幻視が見えたりといった、まだら模様な状態のようです。
そんな蛭子さんに対し、マネージャーが上手くスケジュール調整しつつキャラクターを活かしながら仕事を入れています。時間帯によって認知機能の良し悪しの波があって、マネージャーが状態を把握しつつ本人のしたい仕事、できる事を組み込むことで、蛭子さんの収入や生活が支えられています。そんな蛭子さんとマネージャーを交えたインタビューからは、高齢社会の一面を垣間見ることができます。

ぜひ記事全文をご覧ください。

【蛭子さんと麻雀】

さて。

おトボケ(キャラ?)な蛭子さんですが、彼にはもう一つの側面があります。

「ラーメン大好き小池さん」ならぬ「マージャン大好き蛭子さん」です。
自他ともに認める麻雀好き。

蛭子さんは記事中で、
麻雀に行く回数が減ったから認知症が進んだんじゃないか
そうですね、麻雀は好きですよ、本当に。回数が減ったのは世間体の悪さかな。麻雀をしている時は脳を使うから認知症予防にもなるはず。そういうことはやっぱり大事ですよ。
と述べていますが、これは蛭子さん一人が突飛な事を言っているわけではありません。蛭子さんと同じ発想で、認知症予防の観点から麻雀を取り入れている介護事業所も増えています。

麻雀の卓を囲みながら、雑談をしつつも手牌に目を配り、捨て牌に目を配り、他者の動向に気を配り、残り枚数や点数を数える、これが麻雀です。非常に頭を使います。頭にしろ筋肉にしろ、使わなければ衰えます。
「麻雀をする機会が減った事と認知症が進行した事とは繋がりがある」
と蛭子さんが思うのも無理ありません。

認知症予防の効果が期待される麻雀ですが、ネガティブな面もあります。
麻雀に伴うギャンブルという側面です。

蛭子さんは過去に賭け麻雀で現行犯逮捕され、罰金刑となったのみならず、仕事を失い収入が激減するという大変大きな社会的制裁を受けています。
蛭子さんへの扱いと対照的なのが、黒川弘務氏のケースです。蛭子さんと黒川氏とでは、現行犯逮捕かどうか、レートがテンリャンピンかテンピンかという違いはあれど、同じ事をしていて片方は刑罰を受け収入も激減、もう片方は不起訴・訓告のみ・退職金支給と、雲泥の差があります。

蛭子さんは
俺は麻雀の連載もやってたので理屈ばかり言って抵抗してたんですよ、警察に対して。「麻雀は頭に良いはずだ」とか、警察の考え方とは、全く逆の方向のことをどんどん言ってたら、ダメでした(笑)
と、警察に立てつきました。片や黒川弘務氏は、警察の身内である検察の上層部。蛭子さんと黒川弘務氏の取り扱いの差は、社会的秩序(という名の官僚機構の面子)なんでしょう。

【賭博罪の必要性は?】

賭博罪は、社会的法益に対する罪であると説明されます。
賭け麻雀で言えば、麻雀に参加しているプレイヤーが勝ち負けに応じてお金を払っても、参加者個人の権利侵害は生じません。その場のレートに同意して参加しているのですから。このため、個人の権利侵害ではなく、公序良俗という社会的な価値観を侵害しているという点を根拠に処罰しています。個人的法益に対する罪ではなく社会的法益に対する罪、具体的には「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損い、国民経済の影響を及ぼす」からギャンブルは悪い、だから処罰するんだ、という理屈です。

・・・蛭子さんがたまたま雀荘で賭け麻雀をしたのと、検察上層部の人が新聞記者と日常的に賭け麻雀をしていたのと、どちらが公序良俗に反しているでしょうか。さらには、蛭子-黒川問題から浮かび上がった、賭博罪を適用する対象者や摘発する場面に関する基準の曖昧さから「恣意的な運用がされているのではないか?」という疑いを招いた事の方が、よっぽど公の秩序に対する信用を揺るがしたんじゃないんですか?

そもそも、賭博罪における「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損い、国民経済の影響を及ぼす」という価値観は、政府の強制力を発動する理由として相応しいものなのでしょうか。公営ギャンブルやパチンコといった「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損なう」ものが氾濫している中で、賭け麻雀を違法とする賭博罪を維持する合理性がどれほどあるのでしょうか。

私は、賭博罪をはじめとする社会的法益に関する罪全般について、「当事者が同意して実施している行為を政府が禁止し罰する必要性があるのだろうか」という疑問を抱いています。

蛭子さんの
そんなに悪いことじゃないのになぁ、って思いますけど、でも、捕まるものは捕まるわけですから、しょうがないですね
というぼやきに、私は親近感を持っています。

そんなに悪いことじゃないのになぁ。

【蛭子さんのコロナ禍観】

さてさて。

蛭子さんは、新型コロナで騒がしい世間を眺めて、こうぼやきます。
コロナはめんどくさいなって思いますね。怖いってこともあるけど、なんでこんなに人が騒ぐのか。これに関してはよくわかんないな。

蛭子さんは著書『ひとりぼっちを笑うな』からも窺えるように、デモや政治運動が嫌いで、人に干渉せず、人から干渉されるのを避けようとするタイプの人です。

そんな彼から見れば、新型コロナを理由に政府が国民に対し新しい生活様式を示し、マスコミが声高に自粛営業の積極的実施を叫び、相互監視を強める中から自粛警察が発生し、国民の側からロックダウン等の政府の強制的な措置を求める様子は、「なんでこんなに騒ぐのか」と奇異に映るのでしょう。

蛭子さんは、個人の自由を尊重する人です。そして、政府がルールを定める事自体は仕方ないとしても、取り締まるのか取り締まらないのか曖昧で恣意的なルールを嫌います。


ひとりぼっちを笑うな』130頁
======【引用ここから】======
ルールは、”はっきりしたもの”、そして"現実に即したもの"であってほしいという願望があります。そう考えると、この日本という国には、ひどく曖昧なルールが多い気がしてなりません。
 たとえば、クルマやバイクのスピード違反。制限速度が60キロの道路を60キロで走っている人なんて、ほとんどいないですよね?みんな10キロくらいオーバーしているんじゃないかなあ。もし、みんなが60キロで走っていたら、どの道路も大渋滞ですよ。だからこれは、現実に即したルールだとは思えない。普通の道路でも、見通しのいいところだったら、70キロくらいでいいと思うんですよね。その代わり、全員にそのルールをしっかり守らせる。「道が空いていたから」とか「誰も見てなかったから」という言い訳はもちろん一切なしです。
 あとは、ソープランドもそう。売春防止法があるにもかかわらず、売春は依然として存在しているし、ソープランドも繁華街で普通に営業しています。"自由恋愛"という大義名分を理由にして、法律があるのにそれをかいくぐるように公然と営業している。つまり、それって社会的にも黙認されているわけですよね(僕の所属事務所がある渋谷なんて交番の後ろがソープランドなんていう場所すらあるくらいです)。人間の欲望というものがあって、需要と供給が成立している。大昔のように、無理矢理ソープで働かされているような人なんて、ほとんどいないですよ。だから、これもあまり現実に即したルールとは思えない。
 そして、やっぱりギャンブル。一応、「公営競技」という名のもとに、競馬、競輪、競艇、オートレースは認められていますが、パチンコや麻雀はグレーゾーンです。
 そうやってみんなが好んでやっているようなことに関しては、もう一回ルールをちゃんと見直してほしいというのが、僕の切なる願い。グレーゾーンが多いのはダメ。白黒はっきりつけて欲しいんです。
 そうでないと、どこか不安で自由に遊べないじゃないですか。”大人の遊び”みたいなものを、胸を張って自由にやらせてくれないところに、どうも僕は、日本の法律の矛盾を感じるんですよね。

======【引用ここまで】======

そんな蛭子さんにとって、何をして良くて何をしたらダメなのかがハッキリしない新型コロナ自粛要請は、苦手なんじゃないかなと思います。
東日本大震災の時に「絆」が強調された世情に違和感を感じていたのと、似たような感覚を抱いています。

ひとりぼっちを笑うな』18頁
======【引用ここから】======
あくまでもその人それぞれがやれることをすればよいのであって、「絆」や「がんばろう」というような言葉を、むやみやたらに強調しなくてもいいのではないかと考えているんです。あくまでも人は自由だから、絆の外にいる人、がんばらない人がいてもいいし、それを「間違った考えをするな!間違ったことをするな!」「それでもお前は日本人か!」「人でなし!」と説教や強要をするのは好ましくない。
======【引用ここまで】======

うん、蛭子さんが親戚のおじさんと言われても全然違和感ありません(笑)


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